https://suirin.com/chokkankoyama202207/ 【本当の自分との交流 直観で感じた水輪の自然】より
自然はなぜ人を癒すのか 水輪の土地について思うこと
文章:小山明広
意識と直観
この記事は私が水輪を訪問したときの感想をまとめたものです。一つ風変わりな点があるとすれば、タイトルにある「直観で観じた」という点でしょうか。そこで本題に入る前に少しだけ「意識と直観」についてお話しします。
まず意識ですが、人間にはいくつの意識があると思いますか。潜在意識と顕在意識、この二つが頭に浮かぶでしょう。実はもう一つ、本質意識という3つ目の意識があるのです。
簡単にそれぞれの役割をまとめてみます。
1.潜在意識:肉体を維持管理する働き
2.顕在意識:感じる、思う、考え判断するという働き
3.本質意識:自分自身の進化・成長に向かって進もうとする働き
1と2は何となく理解できると思います。3は聞いたことがないかもしれませんが、「魂・霊・真我」といった言葉から連想されるニュアンスに近いものです。
これら3つの意識は独立して働いているだけでなく、相互に交流もしています。顕在意識からみると潜在意識からの声は「五感」という感覚として。本質意識とは「直観」という感覚として感じられるものです。
直観は人により多少の感じ方の違いがあるでしょうが、多くの場合「何となく」「ふと思う」「そんな気がする」といったあいまいな感覚です。私の場合は何か言葉が浮かんでくることが多いようです。
あいまいな感覚だということもあり、多くの人は直観をあまり意識することがない、注意を向けることがないかもしれません。この直観、実はとても大切にしなくてはならない感覚なのです。それ自体とても奥深いテーマなのでここでは触れません。
以下、主にこの直観で感じた水輪の自然についてお話します。なお、顕在意識が五感として感じることを「感じる」、顕在意識が直観として感じることを「観じる」と漢字を使い分けています。
私の観じた水輪の自然
2022年5月28日~29日に「いのちの懇談会」という企画があり、初めて水輪を訪問しました。実は水輪という場所の存在は10年以上前から知っていたのですが、そのときは長野は遠いと思い訪問することもなく、存在も忘れていました。そして今回、偶然にも会の主催者からお誘いいただき、「あの水輪か、今回訪問するチャンスを与えられたことには何か意味があるかもしれない」と観じ、特に費用、スケジュールなど詳しい内容を確認することもなく参加した次第です。
今回の「いのちの懇談会」の目的はまず塩澤夫妻のお話を伺い、そこに参加者の発言も交じり、皆で「いのちとは」というテーマを学ぶということでした。それが一番の目的でしたが、個人的にはもう一つ「いまこのタイミングで水輪を訪れる意味は何だろうか、何か観じるべきことがあるのか」というテーマを意識して参加しました。
現地でしばらく過ごしているうちに、「これは直観的なものかもしれない」という感じで浮かんできたキーワードは「深さ・奥行き」でした。これは自然の豊かさといってもいいでしょう。
まず目に飛び込んでくるのは「緑」。それは平坦でも単調でもない。1本の木だけを眺めていても、1枚1枚の葉の緑は異なり、それが風を受けて揺らぎ、光を受けて影を作り濃淡を生み出す。一瞬一瞬、同じ緑はないのです。そのような木々が草花が広大な土地に無数にあるのです。「緑」の空間は同時に奥行・深さの世界でもあったのです。
顔を上げれば、今度は広々とした「青」の空間が広がり、地上とのコントラストを生み出している。視線を遠方に向ければ、それぞれ表情の異なる山々が連なる。ここでも目の前の木々の緑と遠方の山々の緑、奥行・深さがあるのです。
同じことが、耳に入ってくる鳥のさえずり、虫の声、鼻から感じる草の香りや土の匂い、肌で感じる風の動きなど、五感すべてに言えるのです。奥行とは深さであり、豊かさです。
一方で都会はどうなのでしょう。特に都心部とよばれるような場所。緑は少しありますが水輪で感じる緑の生き生きとした感じがありません。最近は昆虫もあまり姿を見かけなくなりました。人間が人工的に「都心にも緑のオアシスを」と思って作った公園では、少しはホッとする感はありますが、でも深さがないのです。
普通に街を歩いて目に入るのはほとんどがコンクリートの壁で、単調で平坦な世界です。水輪の土地のただ1本の木が見せてくれる表情にも及ばない気がします。耳に聞こえてくるのも車の音に空調の音、同じメッセージを繰り返し流しているスピーカーの音、書き出したらきりがありません。
ふと思いました。「このように奥行きのない環境(都会)に住み、仕事をベースにした単調なサイクルを繰り返す日々を過ごすのはまずいのではないか。心が感受性を失い、病んでくるのではないか」と。
自然に対するこのような受け取り方はもし私が10年前に水輪を訪れていたらできなかったと思います。多分どこかの温泉地やリゾート地でゆったりくつろぎ、気分をリフレッシュさせてまた都会に戻る、そして、次の旅行のプランに思いをはせる、そういう感じで終わったはずです。それも大事、貴重な時間の過ごし方ではありますが、満足しているのは顕在意識の自分だけかもしれません。
自然はなぜ人を癒すのか
「ホッとする」「来たというより帰ってきた感じ」「もっと長く滞在したい」「また来たい」。水輪を訪れるほとんどの方は似たような感想を持つようです。これはなぜでしょうか。豊かな自然の中で過ごすことにはどのような意味があるのでしょうか。なぜ自然は人を癒してくれるのでしょうか。なぜ自然が必要で、自然を大切にしなくてはならないのか。
「水・空気・食物、すべて自然から与えられているもの、それなくしては生きていけない、だから自然を大切にしよう」、その通りで間違いではありませんが、それはまだ頭で考えている理屈のレベルです。いろいろな説明の仕方・考え方があると思いますが、私はシンプルに「人間はもともと自然の中から生まれ育った存在だから」と考えます。決してコンクリートジャングルが生まれ故郷ではないはずです。
共振という現象をご存じでしょうか。学生時代、理科の授業で「波の性質」として勉強したかもしれません。
2つの同じ音叉を用意して、一方の音叉を叩いてポーンと音を出す。すると(叩いていない)もう一本の音叉も鳴り出す。これが共振です。音波という波動エネルギーが2本の音叉の間を伝わる現象です。同じことが自然と人間の間にも生じているのです。
人の手があまり加わっていない、無垢な自然、そこには純粋な自然のエネルギーがあります。それ自体を私たちは感知できませんが、代わりにその純粋さを受け継いで生まれた鉱物、植物、動物がいます。同じように人間もこの自然の中から生まれてきた存在です。私たちの肉体を構成している要素(元素)は、姿・形こそ異なりますが、それらの存在と同じなのです。みんな仲間、家族ともいえます。だから共振するのです。
あなたが自然の奥深い場所にしばらくいるとします。周囲の自然、植物も動物もそれぞれの波動を周囲に発振しています。これらの存在の発する波動はとても調和したパワフルな波動です。人間の発する波動は多くの場合、自我や欲という不純なものが混ざってしまい波動の形としては歪んでしまっています。
時間の経過とともに少しずつあなたの肉体を構成している細胞もこの調和した波動と共振し始めます。そして、五感を通じて入ってくる波動も顕在意識はそれを心地よいものとして受け入れます。こうして肉体も顕在意識も自然の調和した波動と共振し、あなたの歪んだ波動は次第に正常な波動に修復され、パワフルなエネルギーも流れ込んできます。結果として、体は元気を取り戻し心はリラックスしてくる、これが癒しなのです。
つまり、癒しとはあなたが自然の調和した波動と共振した結果なのです。これを顕在意識の感覚としては「ホッとする」「来たというより帰ってきた感じ」「もっと長く滞在したい」「また来たい」と感じているのです。犬や猫などのペットに触れ合うと癒される、ホッとするのも同じことです。
ただ、この癒しも素晴らしいのですが、まだまだ五感で感じるレベルの表面的な満足感ではないでしょうか。これだけではもったいないと思います。たとえ感知することはできなくても、あなたはもっと深いレベルで自然と交流しているのです。
癒しより深く
さて、あなたは自然に癒され本来のあなたに戻り、また普段の生活に戻っていきます。残念なことにしばらくすると、日常の喧騒にのまれて、あなたの発する波動が再び歪んできてしまうのです。そして自然が恋しくなってくる。そんな感じではないでしょうか。せっかく癒されて帰ってきたのに残念、もったいないですね。
癒される→疲れる→癒される→疲れる、このサイクルをずっと繰り返してもいいのですが、それ以外にも自然の懐に抱かれてる間にもっと大きなお土産を探し出して持って帰るという方法もあるのです。こちらの方が癒しの効果の持続力は高いと思います。それは、直観を通じて本質意識との交流を図るというアプローチなのです。
肉体・細胞レベルでの共振、顕在意識レベルでの共振が起きて、あと一つ残っているのが本質意識レベルでの共振です。自然は自分の本当の意味での生まれ故郷なのですから、当然、本質意識も周囲の自然の中にあるさまざまな「いのち」と活発に交流し始めるのです。
周囲の「いのち」と本質意識がどのような会話をしているかは直接的にはわかりません。しかし、その中で本質意識が顕在意識にも伝えたい、ぜひ肉体を使って体験してほしいと判断したことは直観のメッセージという形で投げかけています。幸いなことに自然の中で顕在意識もリラックスしているので本質意識と交流しやすい状態にあります。
そこで顕在意識が何かに気づいた(直観を受け取るという意味)とします。つまり、本質意識と交流できたということですね。このとき何かを「ふと思い浮かぶ」ということだけでなく、エネルギーを受け取るという面もあるのです。
人間は水と食物だけでこの肉体を維持しているわけではありません。もっと大量のエネルギーが本質意識から注ぎ込まれているのです。ですから、2つの意識の交流が活発になることによって直観として情報を受け取るだけでなく、エネルギーのバランスも回復し肉体も精神も元気になるのです。これが「癒しより深く」ということです。人間がなぜ自然を大切にしなければならないのか。そこが生まれ故郷だからです。
人間が故郷である自然から離れて人工的なものに囲まれて生きていると、意識が歪んできてしまうのです。自我と欲が拡大し顕在意識が歪み、本質意識の声を聞き取る感性が失われてしまうのです。2つの意識のエネルギーの流れのバランスも崩れてくるのです。
これは人類にとってはこれから起こると予想される食糧危機より深刻な問題かもしれません。始めに意識があって、意識が形=未来を創造するのです。その意識が歪んでしまえば人類は未来に向かって進化・成長するのではなく退化していくことになるからです。
水輪の土地について思うこと
この水輪の土地・自然について思ったことをお話しします。これは直観ということではなく、実際にこの土地を訪れてみて感じた印象をベースにした私なりの洞察にすぎないことをお断りしておきます。
みどりさんの著書「早穂理。ひとしずくの愛」の中に「『ここに早穂理庵をつくるの』と、唐突に宣言した」という一節があります。なぜあのような言葉が出てきたのか。おそらく水輪の土地自体に特別な役割があるからだと思うのです。それは「人の意識に変革を起こすこと」であり、今の人類にどうしても必要なこと、私はそう思います。
水輪の土地、自然の意識は自らの役割を現実化する、その手伝いをしてくれる人を待っていたのではないか。それが塩澤ご夫妻だったのでしょう。お二人はただ「ここで三人、ひっそりと暮らしていこう」と思っただけだった。それがここまで発展し多くの人が集う聖地のような場所になった。私には何か目に見えない意思が働いているように思えるのです。その意味ではすべて必然です。
以上が直観で観じた水輪の自然です。
あなたが今度水輪を訪れる機会があれば、たとえ仲間と行くとしても一人静かに過ごす時間を作ってみてはいかがでしょうか。そして自然と交流しているあなたの本質意識を観じてみる。
もし絵を描く趣味をお持ちなら、道具だけ持って心を空っぽにして散歩してみる。自分はただの道具であり、すべて本質意識に委ねてみる。そして、ふと目に止まった植物をスケッチする。いつものあなたのように細部まできっちりと写実的に描くというよりは、筆が勝手に動くままにしておく。そうするとこれまでのあなたの絵とは少し趣の異なる絵が描かれるかもしれません。もちろん、絵でなくてもかまいません。あなたの好きなこと、得意なことでチャレンジしてみてください。
著者:小山明広プロフィール
1962年東京生まれ 早稲田大学商学部卒 卒業後、印刷業界でソフトウェア関連の仕事に従事し、現在は経理職 合気道3段 現在の趣味はピアノと二胡
「人はどう生きるべきか」は若い頃より関心のあったテーマでしたが、
特定の師についたり、会に属して学ぶということはなく、一人でコツコツと探求を重ねてきました。
その中で大きな影響を受けたのは ジョージ・アダムスキー、足立育朗、マクドナルド・ベイン。
https://plaza.rakuten.co.jp/hikenohiroba/diary/202006080000/ 【俳諧の本質的概論【3】寺田寅彦】より
常に俳諧に親しんでその潜在意識的連想の活動に慣らされたものから見ると、たとえば定家ていかや西行さいぎょうの短歌の多数のものによって刺激される連想はあまりに顕在的であり、訴え方があらわであり過ぎるような気がするのをいかんともすることができない。斎藤茂吉さいとうもきち氏の「赤光しゃっこう」の歌がわれわれを喜ばせたのはその歌の潜在的暗示に富むためであった。
潜在的であるゆえにまた俳諧の無心所着的むしんしょじゃくてきな取り合わせ方は夢の現象における物象の取り合わせに類似する。夢の推移は顕在的には不可能であるが、心理分析によってこれを潜在意識の言葉に翻訳するとそれが必然的な推移であって、しかもその推移がその夢の作者の胸裏の秘密のある一面の「流行の姿」を物語ることになるのである。ここにも「虚実の出入」があるといわれる。
夢には色彩が無いという説がある。その当否は別として、この事と「他門の句は彩色のごとし。わが門の句は墨絵のごとくすべし。おりにふれては彩色の無きにしもあらず。心他門にかわりてさびしおりを第一とす」というのと対照してみると無限の興趣がある。夢でも俳諧でも墨絵でも表面に置かれたものは暗示のための象徴であって油絵の写生像とは別物なのである。色彩は余分の刺激によって象徴としての暗示の能力を助長するよりはむしろ減殺する場合が多いであろう。
それはとにかく材料の選択と取り合わせだけではまだ発句はできない。これをいかに十七字の容器に盛り合わせるかが次の問題である。この点においても芭蕉一門の俳句は実に行くところまでいったん行き着いているように思われる。材料は割合に平凡でも生け方で花が生動するように少しの言葉のはたらきで句は俄然がぜんとして躍動する。たとえば江上の杜鵑ほととぎすというありふれた取り合わせでも、その句をはたらかせるために芭蕉が再三の推敲すいこう洗練を重ねたことが伝えられている。この有名な句でもこれを「白露江はくろえに横たわり水光すいこう天に接す」というシナ人の文句と比べると俳諧というものの要訣ようけつが明瞭めいりょうに指摘される。芭蕉は白露と水光との饒舌じょうぜつを惜しげなく切り取って、そのかわりに姿の見えぬ時鳥ほととぎすの声を置き換えた。これは俳諧がカッティングの芸術であり、モンタージュの芸術であることを物語る手近な一例に過ぎない。
俳諧は截断せつだんの芸術であることは生花の芸術と同様である。また岡倉おかくら氏が「茶の本」の中に「茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わす事をはばかるようなものをほのめかす術である」と言っているのも同じことで、畢竟ひっきょうは前記の風雅の道に立った暗示芸術の一つの相である。「言いおおせて何かある」「五六分の句はいつまでも聞きあかず」「七八分ぐらいに言い詰めてはけやけし」「句にのこすがゆえに面影に立つ」等いずれも同様である。このような截断せつだん節約は詩形の短いという根本的な規約から生ずる結果であるが、同時にまた詩形の短さを要する原因ともなるのである。
同じ二つのものを句上に排列する前後によって句は別物になる。これは初心の句作者も知るところである。てにはただ一字の差で連歌と俳諧の差別を生じ、不易だけの句に流行の姿を生ずる。これらは例証するまでもないことである。
てにはは日本語に特有なものである。「わが国はてには第一の国」である。西洋の言語学者らはだれもこのおそるべき利器の威力を知らない。短歌でもそうであるが、俳句においてこの利器はいっそうその巧妙な機能を発揮する。てにはは器械のギアーでありベアリングである。これあってはじめて運転が可能になる。表面上てにはなしの句はあっても、それは例外であって、それでも影にかくれたてにはをもっているとも見られるであろう。
てにはに連関して考うべきことは切れ字の問題である。これは連歌時代からすでに発句がそれ自身に完結し閉鎖した形式を備えるべきものと考えられた結果起こった要求に応ずるための規定である。閉鎖してさえいれば四十八字皆切れ字であり、閉鎖していなければ「や」でも「かな」でも切れ字ではない。閉鎖するとは何を意味するか。これはむつかしい問題であるが、私見によると、二つの対象が対立して、それが総合的に一つの全体を完了する、いわば弁証法的とでも言われる形式を備えるのが「切れる」の意味であるらしく思われる。少なくもこれが自分の現在の作業仮説である。「や」はその上にあるものと下に来るものとを対立させるための障壁である。句を読むものが舌頭に千転する間にこの障壁が消えて二つのものが一つになりいわゆる陪音が鳴り響く。「かな」は詠嘆の意を含む終止符であるから普通の意味でも切れる切れ字には相違ないが、また一方では、もう一度繰り返して初五字を呼び出す力をもっている。そういう意味で終わりの五字と最初の五または五七とを対立させる機能をもっており、従って「や」と同等である。実際「や」と「かな」とは本来の意味においてもたいした相違はないのである。
この作業仮説に従えば「唐崎からさきの松は花よりおぼろにて」も、松と花との対立融合によって立派に完結しているので、この上に「かな」留めにしては言いおおせ言い過ぎになってなんの余情もなくなり高圧的命令的独断的な命題になるのであろう。「にて」はこの場合総合の過程を読者に譲ることによって俳諧の要訣ようけつを悉つくしているであろう。
発句は完結することが必要であるが連俳の平句は完結しないことが必要である。なんとなれば前句と付け句と合わせてはじめて一つの完結した心像を作ることが付け句の妙味であるからである。
連句は言わば潜在意識的象徴によって語られた詩の連鎖であって、ポオや仏国象徴派詩人の考えをいっそう徹底させたものとも見られないことはない。また一方では夢の世界を描いたようないわゆる絶対映画「アンダルーシアの犬」のごときものとも類似したものである。また連句は音をもってする代わりに象徴をもって編まれた音楽である。実際連句一巻の形式はソナタのごとき音楽形式とかなりまで類似した諸点をもつのである。連句が全体を通じて物語的な筋をもたないから連句は低級なものであると考えるのは、表題音楽が高級で、ソナタ、シンフォニーが低級であるというのと同様である。連句は音楽よりも次元的に数等複雑な音楽的構成から成立している。音と音との協和不協和よりも前句と付け句との関係は複雑である。各句にすでに旋律があり和音かおんがあり二句のそれらの中に含まれる心像相互間の対位法的関係がある。連歌に始まり俳諧に定まった式目のいろいろの規則は和声学上の規則と類似したもので、陪音の調和問題から付け心の不即不離の要求が生じ、楽章としての運動の変化を求めるために打ち越しが顧慮され去さり嫌きらい差合さしあいの法式が定められ、人情の句の継続が戒められる。放逸乱雑を引きしめるために月花の座や季題のテーマが繰り返される。そうして懐紙のページによって序破急の構成がおのずから定まり、一巻が渾然こんぜんとした一楽曲を形成するのである。
発句は百韻五十韻歌仙かせんの圧縮されたものであり、発句の展開されたものが三つ物となり表合おもてあわせとなり歌仙百韻となるのである。発句の主題は言葉の意味の上からは物語的には発展されないが、連想活動の勢力としてはどこまでも展開されて行く。また発句から脇わきと第三句に至るまでを一つの運動の主題と見ることもでき、表六句をそう見ることもできる。すなわち三句に百韻千句のはたらきがあり、表の内に一巻の姿をこめることもできるのである。
連俳の特色はそれが多数の作者の共同制作となりうることである。漢詩の連句もそうであるがこれはむしろ多数が合して一人となるのが理想であるらしく見える。しかし俳諧連句では、いろいろの個性が交響楽を織り出すところに妙味がある。七部集の連句がおもしろいのは、それぞれ特色を異にした名手が参加している上に、一代の名匠が指揮棒をふるっているためである。蕪村ぶそん七部集が艶麗えんれい豪華なようで全体としてなんとなく単調でさびしいのは、吹奏楽器の音色の変化に乏しいためと思われる。芭蕉の名匠であったゆえんは極端から極端までちがった個性の特長を正当に認識して活躍させた点にあるので、統率者の死後これらが四散しけんかを始めたのはやはり個性のはなはだしい相違から来るのである。
この共同制作が可能であり、また共同によって始めて良いものができるという事は、前に言った「発句は読者を共同作者とする」という事と密接につながっていることはもちろんである。俳句を理解するかしないかということは結局、その句の脇わきの世界を持ち合わせているかいないかによるのである。
共同作者らの唱和応答の間に、消極的には謙譲礼節があり、積極的には相互扶助の美徳が現われないと、一句一句の興味はあっても一巻の妙趣は失われる。この事を考慮に加えずして連俳を評し味わうことは不可能である。真正面から受ける「有心」の付け句がだいじであれば軽い「会釈」や「にげ句」はさらに必要である。前者は初心にできても、後者は老巧なものでなければできない重い役割であろう。
鑑賞の対象として見た連俳のおもしろみの一つは一巻の中に現われたその時代世相の反映である。蕉門の付け合いには「時宜」ということを尊んだらしい。その当時の環境に自然な流行の姿をえらんだ句の点綴てんてつさるることを望んだのである。また作者自身の境界にない句を戒められたようである。しかしこういうことがないまでも、連句は時代の空気を呼吸する種々な作者の種々な世界の複合体である以上、その作物の上には個人の作品よりもずっと濃厚な時代の影の映るのは当然のことである。そういう意味から言って現代の俳諧に元禄時代げんろくじだいのような句ばかり作ろうとするのは愚かなことであろう。
連句の変化を豊富にし、抑揚を自在にし、序破急の構成を可能ならしむるために神祇じんぎ釈教恋無常が適当に配布される。そうして「雑ぞうの句」が季題の句と同等もしくは以上に活躍する。季題の句が弦楽器であれば、雑の句はいろいろの管楽器ないし打楽器のようなものである。連俳を交響楽たらしむるのは実に雑の句の活動によるのである。その中でも古来最も重要なものとされているのは恋の句であり、これがなければ一巻をなさぬとされている。
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