神杉の香の吹き入るや堂涼し

https://www.haijinkyokai.jp/reading/post_64.html 【俳句の庭/第64回 私の登山歴 能村研三】より

 私の登山歴は決して多くはないが、中学、高校、大学時代に富士山に三回登ったことがあり、さらには浅間山、立山、三原山、阿蘇山など数えられるほどの経験で、登山家から見れば笑われてしまうような登山歴である。しかも俳句を作るようになってからは、吟行会のハイキング的なものを除いては登山らしき山登りはしていない。

 今から思うと、山岳俳句を志すというまではいかないものの、もう少し山登りの経験を俳句にしていればよかったと後悔している。

 先師登四郎も本格的に登山に取り組んだとは言い難いものの、健脚で私よりは山登りを得意としていたようだ。

 句集『合掌部落』の時代には、姉萌子と連れ立って立山に登っている。

  霧をゆき父子同紺の登山帽 霧裂きてぎくりと峙ちし一の壁

 さらには、昭和三十三年四十七歳の時に鳥取県の伯耆大山に登っている。

  孤独登山者に巌裏ほそき滝一条  日の色の霧が霧追ふ行者谷

 昭和五十三年には大学時代の同級生と八甲田山に登っている。

  八甲田連峯秋色未だし西つ方   榧の木平はしりの紅のななかまど

 私に俳句のてほどきをしていただいた福永耕二先生は文学青年とおもいきや大変な登山家であった。市川学園時代、文芸部の顧問も務めながらも山岳部の顧問も務められ、生徒たちを引き連れて北アルプス縦走を何度も試みられている。

 第一回目の「沖」の勉強会は那須で行われたが、私は二十代で、この時も夜遅くまで酒を飲んでいたにもかかわらず、まだ夜が明けきらないうちから私たちを引き連れて山登りをして、その健脚ぶりに驚かされたことがあった。

 私は三十代になってから富士登山に挑戦したことがあるが、この時は悪天候に遭い途中下山を余儀なくされた。

  荒天に小屋の夏炉の奥湿り   無念とも勇気とも中途下山せり

 最近は歩くのも以前より遅くなったが、歩けるうちに時間をかけても富士山に登ってみたいと思うようになった。


https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12852719895.html 【広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第56回】白川郷と能村登四郎】より

広渡敬雄とゆく全国・俳枕の旅【第56回】白川郷と能村登四郎 2022/12/25

白川郷(白川村)は岐阜県の最北部の白山連峰の直下を流れる庄川沿いの十幾つの集落からなる。昭和20年代からの電源開発で多くの合掌集落が湖底に沈んだが、荻町地区には合掌造りの民家が百棟以上残る。平成7(1995)年ユネスコ世界遺産に登録され、内外の観光客で賑う。

白川郷

★暁紅に露の藁屋根合掌す 能村登四郎

 〜昭和30年作。「角川」昭和30年10月号に、澤木欣一「能登鹽田」と共に掲載された。「社会性俳句」の代表とみなされ、一躍俳壇の寵児となった35句の一句。同時作の〈白川村夕霧すでに湖底めく〉〈優曇華や寂と組まれし父祖の梁〉〈訥々とたゞ露けさの飛騨言葉〉も知られる。句集『合掌部落』に収録。第一句集『咀嚼音』で人間の生きる哀しみに眼を向け、己と家族の日常や教師としての生活をテーマにしたため、余りに「個」に執着しすぎたと反省、視野を拡げ俳句に社会性を盛り込むべきと、御母衣ダムに埋没する白川村を訪ねての作。「朝露にびっしょり濡れて森を抜けると、眼の前に三階造りの藁葺き屋根の民家が立っていた。朝の炊煙がほのぼのと洩れていた。私は殆ど戦慄に近い感動で立ちつくした」と自註にあり、平成5年、当地に句碑が建立された。

★粟大事むしろを深く合はせ干す 橋本鶏二

★円座より見上げ火天(ほあま)の煤埃 伊藤白潮

★合掌建つなぐ乏しき冬菜畑 加藤岳雄

★白川郷雪の紅葉となりにけり 下本 愛

★合掌家捻苧(ねそ)の締まりも秋の声 細川洋子

★湿りたる灰なだめつつ夏炉焚く 中根美保

「良い時に合掌部落の記録―村民の湖底の歎きーを俳句で誌しておいてくれた」(山本健吉)

「暁紅に合掌する構成に、季語の「露」も利いている」(林翔)

能村登四郎は、明治44(1911)年、東京都台東区谷中に生まれる。建築業の父は金沢生れ、母は生粋の江戸っ子であった。錦城中学頃より、文学、歌舞伎に関心を持ち、国学院大学高等師範部で折口信夫(釈迢空)の短歌同人誌「装填」の同人になった。卒業後の昭和13(1938)年、千葉県市川市の新設中学に奉職、翌年大学同窓の林翔も続いた。同15年結婚、「馬酔木」に投句し始めるも一、二句入選だった。御母衣ダム

昭和20年には空襲で妻の実家が被災、自身も召集を受け、拳母(現豊田市)に入隊した。終戦で復員後教員に戻り、俳句も本格的にやり直し、篠田悌二郎の指導で、林翔、藤田湘子、殿村菟絲子、馬場移公子と切磋琢磨した。3回の馬酔木巻頭で湘子と共に馬酔木新人賞、同30年、秋櫻子の序、波郷の跋の第一句集『咀嚼音』を刊行、翌31(1956)年、馬酔木賞に加え、現代俳句協会賞を金子兜太と共に受賞した。同36年、秋櫻子、波郷に応じ現代俳句協会を脱会し、俳人協会に入会し、その後「塔の会」も結成。同45年、第三句集『枯野の沖』を上梓し、「俳句」に「伝統俳句の享受者にとどまらず、明日への創造をなしうる真の継承者であり続ける」との趣旨の「わが俳論・伝統の流れの端に立って」を発表し、88名で「沖」を創刊主宰、意欲的に全国を巡った。同54(1979)年、讀賣俳壇選者となり、同56年の師秋櫻子逝去に伴い、「馬酔木」を脱会した。「角川俳句賞」選考委員も務め、同60年、句集『天上華』で蛇笏賞、平成5(1993)年には、句集『長嘯』で詩歌文学館賞を受賞し、同13(2001)年逝去。享年90歳。加賀強情の血を誇りとし、歌舞伎、絵画、能、茶等数多の素養に裏打ちされた「形なり」の大きな俳人で、「形」以上の句は出来ないと、句集毎に自己更新する作家だった。白川郷合掌家

「老いても俳句のエネルギーは衰えず、格調や即物具象の清冽さが横溢していた」(能村研三)

「表現者登四郎にとって、森羅万象、生きとし生けるもの、それが己れであっても、全て面白く、俯瞰して又接写して被写体となり俳句となって表れる。この世の全てが虚実皮膜の内に見透せた」(北川英子)

「新しい句集ごとに古い自分を脱ぎ捨てる、即ち自己更新に燃えた作家。師秋櫻子にない人間詠に加え、蕉風俳諧の根本理念「ほそみ」も言及すべきである」(中原道夫)

「登四郎の句は醒めた知性を保ち続け、孤独の意識を失うことはなく、その槍を胸中の広がる地に受けることになる」(高柳克弘)

★長靴に腰埋め野分の老教師『底本咀嚼音』     ★子にみやげなき秋の夜の肩ぐるま

★汗ばみて加賀強情の血ありけり『合掌部落』    ★霧をゆき父子同紺の登山帽

★火を焚くや枯野の沖を誰か過ぐ『枯野の沖』    ★敵手と食ふ血の厚肉と黒葡萄 

★春ひとり槍投げて槍に歩み寄る        ★曼珠沙華天のかぎりを青充たす『民話』

★白桃をすするや時も豊満に          ★手をつなぎくる湖の小春波『幻山水』

★睦みては拒み忘春の石十五『有為の山』

★魞挿して湖の憂色はじまれり『冬の音楽』

★ほたる火の冷たさをこそ火と言はめ『天上華』

★一雁の列をそれたる羽音かな「馬酔木」辞す

★朴散りし後妻が咲く天上華 妻逝去   ★身を裂いて咲く朝顔のありにけり『寒九』

★初あかりそのまま命あかりかな     ★瓜人先生羽化このかたの大霞 

★夏掛のみづいろといふ自愛かな『菊塵』 ★蠅叩くには手ごろなる俳誌あり

★今思へば皆遠火事のごとくなり    ★霜掃きし帚しばらくして倒る『長嘯』

★次の世は潮吹貝にでもなるか     ★甚平を着て今にして見ゆるもの

★長子次子稚くて逝けり浮いて来い『易水』 ★跳ぶ時の内股しろき蟇

★火取虫男の夢は瞑るまで     ★裏返るさびしさ海月くり返す『芒種』

★春潮の遠鳴る能登を母郷とす『羽化』   ★月明に我立つ他は帚草

★行春を死でしめくくる人ひとり(辞世)

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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