朴咲けり山ごとに棲む山の神

https://weekly-haiku.blogspot.com/2016/10/blog-post_24.html 【青春のかたみ 遺句集『散木』を頂点とした福永耕二論】より

大林桂

序 福永耕二とは誰か

福永耕二(1938-1980年)は「馬酔木」と「沖」を中心に活躍した俳人であり、生没年からも明らかなように、彼は夭折の俳人である。第一句集から遺句集までの作品群は、彼の句歴の履歴書であり、満四十二年で閉じられた彼の人生の証明書といってさしつかえないほどである。福永耕二といえば、

   新宿ははるかなる墓碑鳥渡る

の一句で有名であるように思う。しかし福永耕二がどのような俳人であったのかは知られていないように思うので、まずは耕二の経歴に触れておきたい。

福永耕二(本名)は、昭和13年(1938年)、鹿児島県川辺郡に生れる。高校在学中に石田波郷の俳句に感化されて作句を開始。「馬酔木」への投句を16歳で開始している。鹿児島大学理学部に入学後、20歳で「馬酔木」の巻頭を得る。約二年間の休詠を挟んで、昭和40年(1965年)、『咀嚼音』で俳人としての地位を固めていた能村登四郎の推薦により上京。登四郎と同じ高校に転勤し、結社本拠地でおおきく飛躍しはじめる。休詠からの復帰も、登四郎との出会いがきっかけであった。昭和45年(1970年)には登四郎の「沖」創刊とともに同誌の同人となり、この年の前年に「馬酔木」同人となっていた耕二は、「沖」創刊にさいして34歳で「馬酔木」編集長に着任。水原秋櫻子・能村登四郎両主宰からの眷顧を受けるに至る。後年対談のなかで登四郎は、当時まだまだ窮屈であった俳壇での「沖」創刊の苦労を語り、「『馬酔木』からは誰も連れていかなかった[……]、それがごたごたの一番の原因になりますからね。」(1)と回顧している。事実、耕二は「連れていかれ」などしていないし、耕二が例外的であったことが伺える。こうして登四郎と秋櫻子に両脇をがっしりとかためられた耕二は、昭和47年(1972年)に上梓された第一句集『鳥語』で、馬酔木賞と沖賞を同時受賞している。

こうして確固たる評価と立場を得た耕二であったが、第二句集『踏歌』が俳人協会新人賞を受賞した昭和55年(1980年)の年末、敗血病に心内膜炎を併発して急逝。満42歳の生涯を閉じることになる。

句集は現在、彼の俳論、随筆、紀行文等と共に一冊にまとめられ、ここには福永美智子夫人によって上梓された遺句集『散木』も収められている(2)。

こうして振り返ってきた生涯からは、福永耕二が卓越した俳人であったことが十分に伝わるだろう。しかしながらこれから福永耕二を論じてゆくにあたって、ある距離感を私は耕二との間に感じている。多少長たらしくなって(また理屈っぽくなって)恐縮ではあるが、本拙論全体の基調にもなるのでここで述べておく。

経歴を知り作品にいかに密に触れようとも、私は福永耕二本人に会ったことはない。ということは、私が知り得る福永耕二とは、あくまでも作品を介した彼であり、他人が評した彼であり、経歴上の彼であって、肉体をもたない「福永耕二」である。まず前置きしておきたいのは、私が論じられるのはこうした「福永耕二」に過ぎないということである。

こうして立ち現れてきた〈私にとっての「福永耕二」〉とは、あくまでも私の作品解釈に基づいた作者像である。そもそも現実の作者が作品への絶対的解釈を持っているわけではないし、作品は作品として作者から独立した側面をもっている。加えて、作者が福永耕二だからという理由で作品に価値が生ずるわけでもない。作品に忠実であるかぎり、現実の耕二と私にとっての耕二との間には埋められない間隙が生じてくるのである。つまり形式的には、私には〈現実の耕二〉と〈文芸上の耕二〉が居るわけである。

本拙論は、福永耕二論と並行して、「境涯俳句」についても考えていく。ややもすると、境涯俳句は独善的で作品としての硬度に足らないと思われるかもしれないし、作者を知らなければ境涯俳句はわからないと思われている(この点は、「座の文学」としての俳句の性格に関わる重大な問題領野に関わってくる)。しかしながら、私にとっての「福永耕二」がいるように、作者本人にはどうあがいても逢着し切れない側面があるし、その境涯が知れたところで、どだいそれは私とは違う境涯である。作者が知りたいのであれば自叙伝でも伝記でも読んだ方がよい。まずは境涯俳句を短詩型として、詩として見なければならない。そのためにも、まずは作者の二面性から、「境涯俳句で問われているのは誰の境涯か」という問題に応える必要があると考えている。

あるひとつの境涯俳句には、無論作者の境涯が底辺になくてはならない。今回の場合では、現実の耕二本人の境涯がその作品に顕われてくるわけである。だが実際に作品で顕わされる境涯とは、作者の個人的感慨に留まるのものではなく、定型によって圧縮され表現の彫琢を経た、一般性を含む境涯でなくてはならない。もし本当に境涯がごくごく個人的なものでしかないのなら、作品理解に極度の偏りが生ずるであろうし、作品を介した読み手の共感や作品の永続性は保障されないだろう。ある一人の境涯が作品として一般化されることで(つまりは言語として表現されることで)、境涯俳句は独我的側面を逃れて、作品が作者本人の手から離れるのである。私が先に触れた〈文芸上の耕二〉も、このような一般化に支えられた作者像なのである。すなわち、いたって私的な境涯から生まれた境涯俳句が、実は本人のみの境涯ではないという一見矛盾した事態が生じることで、境涯俳句は〈作者の私性〉と〈読者の私性〉との架け橋になっているのである。ここで境涯俳句の作者は、境涯を代弁する者であり、独善者ではない。

「境涯俳句で問われているのは誰の境涯か」という問題に本拙論での回答を与えるのであれば、それは〈文芸上の耕二〉であり、境涯の代弁者であり、それに共感する私にとっての耕二ということになる。つまり私が言いたいのは、耕二俳句の境涯性を耕二の境涯にのみに落とし込むことはせず、作家論としては現実の耕二ではなくむしろ作中主体としての耕二に眼を向けるということである。

こうした前提を踏まえて、本拙論は耕二俳句をその境涯性から洗ってゆき、遺句集を頂点として私にとっての福永耕二を供覧することにある。

幸いにも本拙論は「学生特集」の一枠で掲載されるものであり、学生として堂々と作品の鑑賞に臨んでゆける。耕二自身は、「僕は今後、もっと自分の青春の哀歓を詠もうと思う。たとえそれが暗く閉されたものであろうが、また軽薄と言われようが、僕が今詠まなくては詠む時は二度と還ってこないのである。そして、自分の青春を詠むことのできる自分の幸せに感謝したい」と述べている。読み手にあっても、これは変わらないだろう。要するに、今詠めるようにしか詠めないように、今読めるようにしか作品を読むことはできないように思われるのである。耕二俳句を象徴するもののひとつに「青春」があると思っているが、学生である私は、まわりからしてみればまだ「青春」のなかに居るのかもしれず、そんな私だからこそ書ける福永耕二論もあるだろう。

一 青春と家族

第一句集『鳥語』(昭和47年)の序文は水原秋櫻子が書いている。そこで秋櫻子は、「今の俳壇に亡き石田波郷君のような作者が早く現われゝばよいと思っていた私は、最近になって、案外福永耕二君がそれに近いのではないかと思うようになった。」と書き始めている。「石田波郷の後継者」という文句は、福永耕二の知名度に反してかなりセンセーショナルであろう。

耕二自身は波郷と直接の接点があったわけではないし、この発言を誰かが支持するわけでもないが、若き耕二の才能を感じさせるのは確かである。彼が夭折であったことは彼の文芸的足跡を少なからず埋もれさせてしまったのかもしれないが、『鳥語』は晩年期秋櫻子の高い期待に包まれたものであり、耕二が「馬酔木」編集長を任されていたことからもその期待は伺えよう。 

『鳥語』冒頭、

夕浜に糸満は帆をたたみけり

棕梠の花海に夕べの疲れあり

眼裏に椎鬱然とシャワー浴ぶ

水着きてはにかむ若さとり戻す

街坂に雁見て息をゆたかにす

といった句が並び、青年耕二の出発点がここにある。

耕二初期の俳句には南国らしい雄大さを背景にした作品があり、「夕浜に」と「棕梠の花」の二句は高校時代の成功作といえる。表現の大胆さに張り付く微かな哀愁は、秋櫻子由来の主情的格調の展開であり、油絵のような風光が息づいている。三句目・四句目、景が観念的で固まり切らないが、表現には青年の苦心と無垢な表情が見え隠れするようである。

秋風のどこかにいつも母の声

たとえ聞こえてくる声が母でなくても、人との繋がりを無条件に感じられる一時期があるのは幸いだと思っている。秋風が一点の憂いを引きずっているようでいて、作者の爽やかな人間観が伺える一句だと思う。

これら初期の青春俳句を超え出てゆくと、

三色菫黄ばかりが咲き憔悴す

靴の紐結ぶやそこに蝶生る

青天のどこか破れて鶴鳴けり

わが息に触れし綿虫行方もつ

枯芝に身を沈め血を温めゐし

ぐつすりと眠りて殖やす鰯雲

霜の菊見ゆる座にゐて怠れず

心弛むとき蚊柱の立ちにけり

などの佳句があり、これらには耕二の面目躍如たる句風がある。けっして独白ではなく、季語と作者の間に緊迫した関係性が構築されている。何気ない自然のなかで作者は自身の内観に眼を向けているのであり、自己との逢着に倦むことがなく、まだ青春から抜け切った感じはしない。「三色菫」の句では、空回りした思いが菫に託されているように思う。「青天」の句、後年の耕二に見られる幻想性の萌芽がここにある。唯美的でほのかに破綻を含んでいるが、決して表現は饒舌ではない。

このような句風を叙情といえばそこまでなのかもしれないが、私には作品に他人が見えてこないことにつよく引き込まれる。季語も作者の自己表現の域を出ておらず、幻想的な言語世界を拓いている。つまりは「公的世界」がここには無いのであり、季語という俳人の共有財産でさえ、耕二の世界では彼がひとり占めしているのである。「枯芝」の句、もし耕二が詩人ならば、沈んでゆく耕二とは作品を介してでしか出会えないと思うし、なんだか寂しさを覚える。最早季語が連絡通路として機能していないのである。

萍の裏はりつめし水一枚

花冷やうすき瞼を鶏も持つ

かたまつてゐて裸木の相触れず

飛べば即ち光塵と化す冬の蝿

ここではもう、耕二が一見して現れていない。外物託言に徹した写生句では、このようにして人が出てこないことがしばしばある。「季語を信用しろ」と私はよく言われるし、どこまでいっても俳句は季語と表裏一体なのだろう。だが逆に、季語を信用したからこそ、その季語を受け止めた作者の姿は揺るがしようがないはずである。自己との逢着を止めたように見えて、これらの句では耕二が見るように物を見なければならない。

花冷や履歴書に捺す磨滅印

旅人として花茣蓙の端に座す

水着買ふ母子その父離れをり

蒲公英や荒れても青き日本海

聖水盤塵うすく泛き晩夏なり

一句目は写生に熟れており、就職という生活の転機にありながら、風雅をしっかりと引き寄せている。秋櫻子は耕二の句を「緊張した調べをもち、難解性を含まぬ」と評している。やや説明口調になりながらも、ここに引いた句は読み手を選ばないだろう。物を捉えた鮮烈な切り口に惹かれてゆく。

耕二は教師である(科目は知らないが、おそらく理科系)。教師俳句というと、耕二を俳句に引き戻した能村登四郎を思い出させる。耕二自身は『咀嚼音』での登四郎の教師俳句は「教師の負の面ばかりが強調されすぎている」と評しており、「境涯に対する受身の詠出」だと言っている。たしかに、「長靴に腰埋め野分の老教師」や「汗の服脱ぐや教師を捨つるごと」には生活の快活さなど感じられない。では、耕二は朗らかな教師俳句を残しているのかといえば、

黒板にわが文字のこす夏休み

雪の詩に始まる学期待たれをり

遠足やつねの鞄の教師たち

教材の花の詩も了ふ散るさくら

彼も三十路鞦韆軽く漕ぎて去る

椎の花鉄棒下りし手のにほふ

といった句が並び、少ししょぼくれた教師だといえよう。生活に喘ぎながらも諷詠を忘れず、心身に素直によりそった等身大の教師である。一句目、生徒がすでに帰ってしずかな教室で、生徒であった自身を作者は思い出しているのかもしれない。長い夏休みを前に、いままでの自分を刻んでいるようである。四句目は波郷の「初蝶や吾が三十の袖袂」を意識して作ったのかもしれない。耕二は波郷をたびたび随筆で取り上げているし、その青春俳句に心奪われて彼は俳句に飛び込んだのである。

波郷といえば、彼は『咀嚼音』の跋文を書いている。波郷は登四郎に「波郷の句は生活の繰言だ」と言われたのをいたく気にしているようで、跋文も誉めたいのか貶したいのかよくわからない(生活詠の成り行きを慎重に見守っていたのは確かである)。なんにしても、登四郎の教師詠を「かなしい避けがたい一つの営みであるかのようだ」(3)と形容したのは、境涯俳句にも当てはまるように思えるのである。

境涯俳句と聞くと、加藤楸邨、中村草田男、石田波郷といった人間探求派ないし難解な句風の句を思い浮かべるように思う。しかし境涯俳句と一口にいったところで、多分に時代が産んだ用語のように思えるし、語としての射程が曖昧で、なにが境涯俳句であるのかさえ釈然としない。この点で、角川「俳句」昭和47年10月号に載せられた森田峠氏の論考(「写生派の立場から」)は、この難題に金言を与えてくれる。

森田氏は、世に言う境涯俳句作家、村上鬼城・富田独歩・石田波郷を指して、彼らが皆身体的・精神的障害にあったことを指摘し、「境涯俳句とは、だから、逆境にあることをあからさまに詠んだ句のことだろう。人はすべてそれぞれの境涯を生きているはずだという考え方からすると、そういうのは狭義の境涯俳句というものであり、一面的なものに過ぎない」と述べて、結論としては、「すべての人はめいめいに与えられた境涯を生きているはずだから、個人が作る単独の俳句である限りは、すべての俳句は広い意味での境涯俳句だと言える」と述べている。

これはヘタをすれば名称「境涯俳句」の無効宣言にもなる。芭蕉の「山路きて何やらゆかし菫草」であっても、「何やら」に折口信夫が〈しおり〉に収まりきらない主題を見て取ったように(4)、芭蕉が旅の途上で見出したものを思えば、これとて境涯俳句の一例である。視点を変えれば、いままで境涯俳句で括ってきた作品群が実は「逆境俳句」でしかなく、「負の面」や「受身の詠出」という表現も、逆境に偏った境涯性への批判だったのかもしれない。「俳句は姿勢だ」と力説する耕二にとって、生活詠は自然な帰結である。またその生活は、「他人を感動させるだけの自分の生き方があってその作品を支えていなければならない」、と耕二は言う。こうした句作態度を考えてみると、耕二は境涯俳句の申し子だと言われそうだが、それは境涯俳句のまた誤った受け取り方である。どのような生活であれ、生活のない人間などいない。これは言い換えれば、現実という地に足をつけて詠むということであって、実感のこもらない句を拵えないことだと思う。これはおおくの俳人が自覚せずともやっているはずであって、つまりは境涯俳句があるのではなく、俳句には境涯性があるということに尽きると思われる。

自己に徹する耕二と、家族を丁寧に思う耕二とが第一句集では入れ子状になっている。

冬めくや子が曳きあそぶ捨帚

子と二日会はねば乾く山葡萄

冬野より父を呼ぶ声憚らず

子に見せてひとの庭なる鯉幟

今年わが虹を見ざりし日記了ふ

冴返る父の手蹟のさようなら

母のまへ着て見す父の春袷

陽炎につまづく母を遺しけり

耕二俳句にあって、家族は緩衝材である。青春を内に秘めた耕二が見る自己以外の人間は、大半を家庭が占めている。「日々の生活に俳句を詠むということは、それが全体として人生を表現することである」と耕二が語るように、人生を満遍なく表白しようとする態度には、「負の面」に侵されない耕二俳句の姿を見ることができるように思う。二句目、子をおもう気持ちが安易な言葉に流されておらず、しっかりとした写実に結びついている。かと思えば、四句目で、今度は耕二が子になっている。なんらかの先入観で自身を単純化せずに、多面的なまま、生活・実感を第一にして詠んでいることがよくわかる。

二 熟成と生活

第二句集『踏歌』は生前刊行された最後の句集である。主に30代後半から40代の頭まで、第一句集での肩肘張った部分は大分ほぐされ、日常の探訪に向けて、耕二の安定した句風が現れてくる。

樗咲き空は深さをうしなひぬ

水澄むと息つめをらむ田螺らも

碧落を支へきれずに朴葉落つ

捉へむとせし綿虫の芯曇る

冬雀父とゐるとき子はしづか

父在らば図らむ一事朴咲けり

これらの句を第一句集から考えてみると、耕二には切字がほとんど見られないことに気がつく。上五から一息に、押出成形することで句に緩みを生じさせないのである。

だが、第一句集と第二句集では、同じ押出成形であってもその内実には変化がある。前者では素材を青春で包むようにして詠出していたのが、後者ではもっと現実的で、大人として振舞うべき耕二の姿がある。持ち前の幻想観はまだ顔を覗かせているが、「冬雀」の句のように、父喪失が同時に青春喪失として、耕二に人間としての変化をもたらしている。耕二の内観は「密室」として、徐々に作品の底辺に移って行く。

   浮寝鳥海風は息ながきかな

飯田龍太に絶賛された一句である。龍太曰く「一段と鮮度を加えた感じで眺められる」のであり、「健康な明るさを存分に持った句」だと評価している。だが、私はこれに素直に首肯できない。たしかにここには作者の安堵感が現れていて、主観は自然に溶け込んでいる。しかし、耕二俳句全体の流れでこの句を捉えるとき、この句は耕二の一里塚であると同時に、不気味なまでの静けさをまとっているのである。第一句集での青春俳句前後に見えた溌剌とした自己表現と比べて、この句はあまりにも物寂しい。私がまだ若輩の二十代だから、そう感じてしまうのかもしれない。

裏畑をたれか掘る音夏終る

北空のたちまち傷む雪卸

呂律まだ整はぬ子にリラ咲ける

流星のあと軋みあふ幾星座

ダムの壁粧ふ山の中に老ゆ

水澄めば水底のまたみつめらる

一句目、生活のわずかな変動を大胆に仕上げている。耕二に誰か知らない他人が出るのは珍しい。二句目では、耕二の幻想観が生活に結びつき始めている。五句目、老いているのが耕二なのか、長年の鎮座で古びるばかりのダムなのか、一読して判然としない。その両者だと言った方が適切だろうか。青年らしいみずみずしさはもう退いてしまい、耕二の自己表出があらたな形をとりつつあることがわかる。

耕二俳句の特徴的に、同語反復がある。

萍の三三ながれ五五つづく

父の日の父強ふ授業参観日

風荒れてたたかふ雀恋雀

葛を負ふみどりの山を負ふごとし

立ち竝び立ちしづまりし杉涼し

舞くらべして朴一葉栃一葉

第一句集でも見られ、「立泳ぎしては沖見る沖遠し」、「目守る子の目の高さにて西瓜切る」、「花茣蓙の花の暮色を座して待つ」、「さんまの味秋刀魚の歌と蘇り」、「罌粟の昼燃えつくすもの道に燃す」、「芝焼きて父を焼きたる火を想ふ」などがあるが、第二句集で特に散見される手法である。晩年まで好んで使い続けた手法なので、意識的に用いたことがわかる。他にも、登四郎の「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」や、秋櫻子の「琴責めの琴よこたへぬ初芝居」というように、「馬酔木」系列では一般的な手法として確立されているのかもしれない。句材を絞りこみ、そこに重層感を与える効果のある手法だとおもうが、安易に使えるものではなく、同語・同類語を重ねるだけの覚悟と省略の力量がためされる。

父の忌のことぶれ母の蓬餅

白魚の黒目二粒づつあはれ

公魚に鱗といふがあるあはれ

おとろへし母に百合薔薇花粉責め

父の忌といふに鰆を焼きゐたり

ここに挙げた五句は、第二句集ではもっとも怖い生活詠だとおもっている。というのも、題材はどれも重く映るのに対して、諧謔味が顔を覗かせているからである。諧謔というよりは、とぼけているようである。嫌になるような現実があるのに、それをもう当たり前のことのようにして、句の格調がジタバタしていない。ここではもう、青春であるとか、幻想であるとか、そういうものは締め出されており、自己は作品中の物であったり他人であったりしている。この落ち着きのある詠出が、「雲の峰おもひの丈を競ひけり」をもう本人の句だとは感じさせないのである。子供の様子なのかもしれないが、過ぎてしまった耕二本人の若さが集光機となり、あたかも本人のものであるようにして子の成長を記録しているのである。

波郷忌のすぎし寡黙の鵙や鵯

雪の森薄刃のごとき日が匂ふ

みほとけの一面に応へわらふ山

校正の朱を八方へ冴返る

雪につく双手双膝わが四十

大人としての生活に気構えはできているが、まだふっと哀感が入り混じった40歳の詠出である。もう死はすぐそこまで迫っており、作品全体がなめらかであり、速さがない。

三 死に向かって

遺句集『散木』には昭和54・55年の句が収められている。第二句集の上梓が昭和55年であるから(またこの年は耕二の没年でもあるから)、刊行の前年から死までの耕二がここにはいるわけでる。福永美智子夫人のあとがきによれば、上梓にあたって、中條明、渡辺千枝子、小野恵美子、朝倉和枝四氏による原稿の選定があり、堀口星眠氏による助力があったそうである。中條明氏は「鶴」同人で、休詠中の耕二を励ました人物でもある。

いままでの耕二俳句を象徴してきたのは、「青春」、「幻想」、「親」、「家族」、「教師」であり、このうち「青春」と「幻想」は、第二句集で耕二の内面に深く隠れ、生活詠では主に家族に眼が注がれてきた。だが最晩年で、耕二はまた自己に向き合っている。

きのふよりけふ冬麗の遷子の忌

春の服風をよろこぶ鰭あまた

口よりも指さびしくて桜餅

春愁や土捨てて土買ふことも

庭暮るるまで庭にゐて夏隣

母の日と知る燕麦の穂のひかり

菜種梅雨茫々と顔昏れにけり

朴植えて凡日を凡ならしめす

沈むまで梅雨白日や街のうへ

いままで見てきた耕二の要素が、しずかな生活の中で結集されていることが伺える。だが同時に、頭作りの詠出が目立つのも否めない。病床にあったのか、遺句集で耕二は家に居ることがおおい。庭木のひとつひとつにまで気を使い、まるで「身支度」しているように感じるのは読みすぎだろうか。

向日葵の焔噴きだす朝ぐもり

でふと現れた直感的・唯美的把握は、耕二初期の幻想観が外物に詰め込まれている。耕二の自己表出はもはや以前のような鮮烈さを含んでないが、若さを失わぬ最後の詠出が、ぐっと観念に落ち込みながらも、雪が降るような速さで展開されてゆく。

鳥籠に飼ふ仔うさぎや愛鳥日

谷ごとにおのれ愉しむ老鶯か

山蟻のあそぶに似たり働くは

くましでの落花踏むたび立竦む

若き恋緑陰領しゐたりけり

月光を弾きて鴨の来そめけり

紅葉踏むは蹂躙に似ていさぎよし

魴鮄のわれを見つめて煮られゐる

一句目から五句目まで、作者の思い入れや訴えの激しさに私はすこしうろたえてしまうものがあり、いかにも人生詠であり、観念での構築物である。だが「月光」の句で、耕二自身にも忘我の瞬間があるように思える。これらを諦念や宗教的安寧感に回収して語りたくはないが、作者が「死」を感じてしまっていることが、私には嫌でも伝わるのである。「魴鮄」の句は、果たして見つめているのは魴鮄なのか作者なのか。鏡のように、物が耕二に迫っている。

綿虫を見失ひたる眼の冥さ

綿虫は耕二が好む季語である。第一句集の「わが息に触れし綿虫行方もつ」、第二句集の「捉へむとせし綿虫の芯曇る」がそうである。遺句集にいたって、綿虫の生涯というとすこしおかしいが、季語を見つめる作者の縮図がその詠出から観察される。全句集を通して読んでいると、「ああ、死ぬのだな」とつい思ってしまい、辛くなる。

遺句集は、それまでの句集に比べて収録数が少なく、300句ほどしかない(数え間違いがなければ303句)。だがいままでの句を見てきたならば、この句集に耕二の結晶があることに気がつく。特に、

一行詩白南風に立つ燈台は

郭公に耳立てて子も少年期

かはたれの花の数減る夏椿

蟋蟀や夜はしづかに海の貌

といった作品群は、遺句集での白眉となってくる。燈台を一行詩に見立てるのは、耕二が生涯俳句に打ち込んできた証のように思えるし、最後「は」で句を開け放ったところにも表現の力強さが表れている。「郭公」の句は、耕二は子に向けた最後の詠出である。子の将来に込めた思いを、郭公が燦々と受け止めている。「蟋蟀」の句、ここでの貌は耕二の貌だと私は解釈したい。夜の閉ざされた空間にいる自身の貌など想像したこともないが、それが広大でつねに変化しつづける海だと形容されると、変に納得する気がする。

最後、耕二の病床句を一句取り上げる。

ぼろぼろの身を枯菊の見ゆる辺に

ゆったりとした最期であり、鑑賞をするまでもなく景が明らかなように思える。病んだ身の身体感覚が言葉として抽出されていれば、たとえ自身が病んでいなくても、そこに他者が開かれるのであり、思い遣りや倫理観も生ずるはずである。他人の作品には他者の生が繰り広げられているのである。

ここまで耕二俳句を読んできて、そのひとの作品を読めば読むほどに、その射程の深さに驚いてきた。第一句集から遺句集までを読み切ると、上質の中編小説を読みきったような読後感がある。再び福永耕二に脚光があたるのは難しいかもしれないが、なにも「新宿」の句のみが耕二ではないということ、また、境涯俳句の時代で耕二がどのような境涯を詠みあげたのか、これを伝えることができていれば幸いである。

今回の原稿依頼はここ一年程の人間交流による産物だが、福永耕二論を薦めてくださったとき、福永耕二との出会いから丁度一年の節目としてこの偶然にかたちを与える良い機会だと思えた。私のような若輩に筆をとる機会を与えてくださり、幹事の堀下翔氏と、「週刊俳句」の方々に感謝したい。

脚注

(1) 能村登四郎『能村登四郎 俳句文庫』、春陽堂書店、1992年、8頁。

(2) 水原春郎・能村登四郎監修『福永耕二 俳句・評論・随筆・紀行』、安楽城出版、1989年。

(3) 石田波郷『石田波郷読本』、角川学芸出版、2004年、313頁。

(4) 折口信夫「歌の円寂する時」『歌の話・歌の円寂する時 他一篇』、岩波書店、2009年、176頁以下参照。

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