日没の聖地

https://crea.bunshun.jp/articles/-/29169 【神話の舞台となった日没の聖地【出雲】で

神々ゆかりのサンセットの名所を巡る】より

稲佐の浜で迎えるサンセット。出雲の神在月には、八百万の神々がこの浜に上陸します。©公益社団法人 島根県観光連盟

 1日の終わりを飾るサンセットは、毎日繰り返されることだとわかっていても、感動を呼びます。日々の暮らしの中でも日没時は、ふと足を止めて見入ってしまうことも。

 そんなサンセット、ここ出雲では古来より神聖視される、特別なものなのです。

「ばんじまして」

 これは、出雲ならではの方言で、「こんにちは」と「こんばんは」の間の、夕暮れに交わされる挨拶です。ひとつの言葉が生まれるほど、この地では日没が特別であることがうかがわれます。

 古来、政権を担っていた大和は北西に位置する出雲を、「日が沈む海の彼方の異界につながる地」として、日没の聖地とみなしていました。

 日が沈む方角のみならず、『古事記』や『日本書紀』に記されている“国譲り(くにゆずり)の神話”からも、出雲は“日が沈んでいく異界”と“地上世界”のつなぎ目だったようです。

 国譲りの神話の舞台となったのは、出雲の稲佐の浜。

稲佐の浜の弁天島。かつては沖にあったけれど、潮流の変化により徒歩で近づけるように。

稲佐の浜の弁天島。かつては沖にあったけれど、潮流の変化により徒歩で近づけるように。

 日本海に面した約13.5キロ続く浜で、「日本の渚100選」にも選ばれています。“国譲りの神話”において、神々たちのやりとりが行われたのは、稲佐の浜のうち、ちょうど出雲大社から見て西に位置する弁天島あたりでした。

 天上にいる天照大神(あまてらすおおみかみ)は、大国主大神(おおくにぬしのみこと)が立派に造り上げた出雲国を見下ろし、ふと思いつきます。「自分の子孫に継がせたい」と。

 天照大神は、その意図を伝えるために建御雷神(たけみかづちのかみ)を使者として地上へ送りました。そして大国主大神に直談判したのが、稲佐の浜でした。

 紆余曲折がありましたが、大国主大神は天照大神が暮らす天上の社と同等の規模である、社(出雲大社)の建立を条件として、出雲国を譲ることに合意。

 そして大国主大神は出雲大社(『日本書紀』では、夕日にちなんで「天日隅宮」と記述)を手に入れ、目には見えない世界を司ることになりました。

 こうして地上とは違う世界をまとめる立場となった大国主大神。

 旧暦10月10日には八百万の神々を招集して、会議(神議り<かむはかり>)を行い、男女関係や収穫量など、あらゆる“縁結び”について話し合います。

 この会議のために全国の神が上陸するのが、稲佐の浜。神々を迎える日には、厳粛な神事“神迎祭”が執り行われます。

稲佐の浜の砂は、あることをすることで、“お清めの砂”に変わる

出雲大社の北に位置する素鵞社。少しわかりづらい場所にあります。

 ちなみに、稲佐の浜の砂は、あることをすることで、“お清めの砂”に変わります。

 稲佐の浜の砂を浜辺からいただき、出雲大社の北側にある須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る素鵞社(そがのやしろ)の床下の砂と交換。

 すると地鎮祭にも使われる、邪気を払う力をもつ神の砂を持ち帰ることができるのです。建物の四隅などに置くことで、厄払いにもなるそうです。

稲佐の浜の砂と交換。持ち帰れば、建物や畑を清め、厄除けに。

稲佐の浜の砂と交換。持ち帰れば、建物や畑を清め、厄除けに。

 稲佐の浜から北へ約8キロ、日御碕(ひのみさき)も日本海に夕陽が沈むサンセットの名所です。

 そしてここには日没にちなんだ「日沉宮(ひしずみのみや)」が、日御碕神社に祀られています。

天照大神を祀る「日沉宮」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る「神の宮」からなる日御碕神社。

天照大神を祀る「日沉宮」と、須佐之男命(すさのおのみこと)を祀る「神の宮」からなる日御碕神社。

 日沉宮は、天照大神を祀る社です。天照大神といえば、日の出の太陽の象徴とされますが、ここ出雲では日の入りの太陽の象徴。

 江戸時代には、日沉宮は日が沈む聖地に建つ宮として、崇められていたそうです。

 そして江戸時代後期の『出雲神社巡拝記』によると、人々は伊勢で日の出、出雲で日の入りを拝めば安泰、と信じられていたそうです。

日御碕神社の前の穏やかな港。

かつて日沉宮があった、日置島。鳥居が見えます。

 ちなみに、天暦2年(948年)まで日沉宮があった日御碕神社の西に浮かぶ日置島(経島<ふみしま>)では、毎年8月7日に夕陽の祭“神幸神事”も催されています。

先人たちもこの夕日を前に幸福を願ったにちがいないと実感

日御碕灯台は「世界各国の歴史的に特に重要な灯台100選」に選出され、日本一の高さを誇ります。©公益社団法人 島根県観光連盟

上ることができる国内16基の灯台のひとつ、日御碕灯台。

 明治時代に建てられた日御碕灯台のふもとで、サンセットを迎えました。小高い丘の上で、日本海を見渡せる場所です。

日御碕灯台の前から望むサンセット。幸福を願う先人たちの気持ちとシンクロするひとときです。©石橋優太

 夕陽はゆっくりと傾き、水平線近くになると、足早に落ちていくように感じます。やがて穏やかな日本海の裏側へ沈んでいきました。

 先人たちは、この風景を前に幸福を願ったのだと思うと、感動もひとしおです。


https://japanesesymbolsofpresence.com/jp/jp_index.html 【神話と象徴】より

神道のシンボル、正方形、円、三角形

円、正方形、三角形と太陽、月や星(D. ストルシアス·

フォン·シュトルツェンベルク作、フランクフルト、1624年)

このウェブサイトは、日本文化における「プレゼンス」 の象徴について紹介することを目的としている。「プレゼンス」 とは人間が常に持っていると思われる、けれども実は欠けている自己意識の状態である。人間の日常生活は夢のようなものである。 

生命の現象は「夢」、「幻想」、「気泡」、または「影」 のようなものである。または「露の滴」、や「雷の点滅」のようなものである。生命の現象はこのようにみなされるべきである。-- 般若経

自己意識の状態とそれに到達する道は、世界のすべての秘教的伝統によって作られた多くの芸術作品、神話、象徴、経典の対象ですある。 それらを制作された人々が世界から消えてしまい、秘教的な伝統が宗教に発達することにつれて、これらの作品の内的な意味が失われる。なぜならば、真の自己を指す象徴を理解するためには、識別する能力と真の自己を知る必要がある。

優れた医者が、他人には雑草しか見えないような道端を見れば、そこに育つ草木が医薬に見える。宝石を知る人なら、他人には岩や石しか見えない場所に宝石を見る… ある文章の背景が顕教的であるか、密教的であるかは、読者の識別力に左右される。それはその文の音や文字が問題なのではない。 -- 空海

仏陀の経典には無数の隠喩が隠されている。死すべき運命の人間には浅はかな心しかないために、何一つ深いものを理解することはありません。-- 達磨、中国禅宗の開祖

新しい秘教的な伝統または意識的なスクールが現れると、その参入者の意識を高める以外の課題は神話や経典の内的な意味を復元することである。

宮本武蔵、侍、作家や画家

本来の霊感が模倣にすり替わった際に起こる、文字通りの理解と象徴的な理解の混同は、既成の宗教に特有の問題である。このため、経典における象徴的な意味の啓示や、神話から心理学知識への復元は、禅の本来の教えがもつ特質の一つである。意味のこのような内面化は、あらゆる芸術における禅的な表現への鍵である。

-- 沢庵禅師

秘教は時の流れとともに必然的に沈下、退化し、それによって秘教を推進する力に絶え間なく新しい生命を吹き込み、新たに定義しなおす必要が生じてくるのである。-- アレックス・ホーン (20世紀の第四の道の師匠)

このウェブサイトは、日本の文化における日本の象徴、神話、聖書、祭りや習慣を「人間に可能な進化の心理学」に復元することを目的としている。 「人間に可能な進化の心理学」は、人間が自分の人生を費やす睡眠の状態 から神聖になるプレゼンスの状態に目覚めることを意味する。 言い換えれば、人間の意識の進化または発展、または真の自己の目覚めを意味する。

眠ってまま生き、あらゆつことを眠ったまま行い、しかも、眠っているという自覚すらないということに気づいたとき、人は初めて人間生活全般に見られるいっさいの愚かさや矛盾を理解する。--ウスペンスキー(20世紀の第四の道の教師『人間に可能な進化の心理学』

人面に第三の眼、体に6つの眼を持つ神話的な動物 (東京、五百羅漢寺)

有翼のナシアン/アポロの聖所、紀元前約560年

ギリシア、デルフィ博物館)

神話と象徴は意識的スクールが残した遺産の一部である。神話と象徴を理解するために、これらを新しい方法で見る必要がある。日常的な状況に対処したり、複雑な問題を解決する際に知性は有用であり、また必要でもある。しかしスピリチュアルな問題については不十分である。プレゼンスの意識状態を経験して、高次の自己が目覚めているとき、人は言葉を介さずに意味を直接に知覚する。

神話や象徴の目的は、人間の高次センターに達することで、知性には理解しえない概念を、誤った解釈の可能性を排除した形で伝えることにある。-- G. I. グルジェフ(20世紀第四の道の神秘思想家)

象徴の理解は高次の機能にのみ可能である。論理的な思考方法など、通常の機能を使って象徴の理解に取り組んだ場合、常にある種の当惑、さらには欲求不満すら感じることだろう。-- ロドニー・コリン(20世紀第四の道の神秘思想家)

上記の「通常の機能」とは、低次の自己による4つの低次の機能または低次のセンター を指している。「高次の機能」とは高次の自己が有する機能を指している。神話、象徴、および儀式には、高次の自己を覚醒させる道についての知識が内包されているのである。それらの内的な意味が次第に失われるにしたがい、宗教が発展することになる。宗教においては、その外的な意味だけが実践され、意識的なスクールは存在しなくなるのである。何世紀にもわたる時の経過とともに、一部の象徴と儀式は宗教が発展した土壌となった文化にも入り込んでいく。そしてひとたび内的な意味が理解されなくなると、高次の自己の覚醒についての新たな教えが発生するが、この教えも新たな神話と象徴を有する新たな宗教へと次第に発展してゆくのである。しかし、その「内的な意味」は常に同一である。

「すべての宗教は一つである」と描いてある

ウィリアム・ブレイクの絵

道教、仏教と儒教は三教であるかもしれないが、道は最終的に一つなのでしょうか?-- 「悟真篇」の前書き、張伯端(12世紀の道士)

神を達成している人に求めなさい、皆が同じ言葉を話す。すべての聖人たちの思いは一つである。道の途中の人々は多様な道を辿る。すべての悟りを開いた人は一つのメッセージを残し、旅の途中の人々に限って多様な意見を持っている。-- ダード(16世紀のインドの聖者)

階層構造は一つであり、すべての宗教の秘教的な側面は、それによって開始された。 私たちの時代のウスペンスキーとグルジェフを介して始動した偉大な実験もそうであるように。-- ロドニー・コリン(20世紀第四の道の神秘思想家)

あらゆる宗教、あらゆる歌、一つの曲。

その違いはただ幻想と虚栄である。

日の光は、この壁とその壁では少し違って見えて、

またほかの壁では全く違って見える。

しかし、それはやはり同じ一つの光である。

-- ルーミー (13世紀、スーフィーのマスター、神秘詩人)

このウェブサイトではまた他の秘教的な伝統からの象徴の例を数多く示している。これらの象徴の例には、日本における秘教伝統で見うけられる象徴と同一の「内的な意味」が秘められているのである。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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