カモメのジョナサン

https://www.nomura.co.jp/wp/kcba/bk002/ 【ベストセラーをもう一度(第2回) リチャード・バック『かもめのジョナサン』】より

かつて時代を彩ったベストセラーのページを、あらためてめくってみる――。そこで出会うのは、懐かしい思い出か、それとも……。まずは、60年代生まれの作家/書評家・印南敦史(いんなみ あつし)さんが語る2度目の読後感に耳を傾けてみましょう。

第2回でとりあげる作品は、アメリカの飛行家/作家であるリチャード・バックが1970年に発表した『かもめのジョナサン』(1974年日本語訳発行)。

「餌をとる」という目的のために飛ぶのではなく、ただひたすらに飛ぶことそれ自体を追求し飛行技術を磨き続けた「異端」のかもめ、ジョナサンを主人公とする小説作品です。

当時の自分には「まだ早かった」作品を読みなおしてみる

1970年にアメリカで出版されたリチャード・バックによる『かもめのジョナサン』の日本語版が発行され、爆発的なヒットとなったのは1974年のことだ。

私は当時12歳だったが、小学生でも知っている有名作家の五木寛之が「創訳(創作翻訳)」を手がけたその本が、日常的に出入りしていた近所の中規模書店にずらりと並んでいた光景は、いまでもはっきり記憶に残っている。

表紙は写真集のようにおしゃれだったし、なにより多くの大人たちが飛びついていたのだ。だから読まなければいけないような気がして(でないと乗り遅れるような気がして)、店頭で手にとってみた。

ところが残念ながら、小学生にはやや理解しづらかった。写真が多くて文字は少なく、しかも書かれていたことは詩のようでもあり、散文のようでもあり、端的にいえば実態が見えなかったのだ。

つまり、あの時点での自分には「まだ早かった」のだろう。そのため初版から44年後の2014年に、ずっと封印されていた第4部が公開され、「完全版」としてふたたび世に出たときにさえ、さして興味は惹かれなかった。

読みなおしてみようと思い立ったのは本当につい最近で、知人と1970年代の文学作品について話したことがきっかけだった。

「あのころ、こんなのが流行ったよね」というような他愛もない会話の筆頭に、『かもめのジョナサン』が登場したのである。

そしてそのとき、「あれはいったい、どのような作品だったのだろう? なぜ、あれほど話題になったのだろう?」と純粋な疑問が湧き、当時さんざん見慣れた表紙と、数十年ぶりに対面したというわけだ。

「個」をつらぬき続けた主人公の姿から見えてくること

本作はかもめの、ジョナサン・リヴィングストンを主人公とした物語である。

ジョナサンは、なんの迷いもなくただ餌をとるだけの生き方に満足できないかもめだった。母親から「かもめらしく生きろ」と言われても、飛行技術の向上にしか関心が持てない。

かくして、努力と工夫により卓越した飛行能力を身につけるのだが、この時点でジョナサンがかなりの変わり者であることがわかる。

彼は、自身以上の飛行技術を持つ2羽の輝くかもめに導かれ、さらに高次の世界へ向かう。彼と同じく飛行に取り憑かれたかもめたちが暮らすその世界ではより高度な飛行技術を学び、チャンという名の老いたかもめからは究極の「瞬間移動」を学び取る。

そうした経緯を経たジョナサンは、その時点でさらに上の世界を目指すことをやめ、かつていた世界に戻る。自分と同じようなかもめを見つけ、教育しようと決めたからだ。

ところが弟子の数は増えていったものの、卓越した能力を持つ彼を悪魔呼ばわりし、敵視するかもめも数多く現れることになる。だが、そんななかで弟子たちが力をつけていくと、ジョナサンは姿を消すことになる。

よくも悪くも目立つ存在であった彼は、その段階で偶像化したともいえよう。

1972年の時点で明らかにされた第3部は、こうして幕を閉じる。前述したように2014年になって第4部が加えられるわけだが、そこで明らかになることを書いてしまっては読む楽しみが半減してしまう。だから、ここでは黙っておくことにしよう。

とはいえ第3部まで読んだだけでも、この作品が1970年代に支持された理由は多少なりともわかるはずだ。当時のアメリカのヒッピー文化の内部で支持され、数年を経て大ヒットしたというが、たしかに根底には、禅の影響があるように思えるからだ(ヒッピー文化は仏教や東洋思想に大きな影響を受けていた)。

しかし、この作品からは、そうした捉え方とはまた違った次元の価値を見出すこともできる。それは、ジョナサンの立ち位置だ。

大多数が「かもめらしい生き方」に疑問を感じることなく、集団の一員として生きるなか、ジョナサンだけが飛行に執着し、技術の習得に集中し続ける。

いわば、団体行動からは距離を置き、「個」であり続けたのだ。しかし当然のことながら、団体行動を前提とした集団において個を貫けば、それは軋轢につながっていく。だからジョナサンも孤立し、それでも我が道を進み続けた。

それが個の確立、ひいては偶像化につながっていくわけだが、いうまでもなくこの図式は人間社会にもぴったりとあてはまる。たとえば、かもめの群れを企業と考えればわかりやすいだろう。

どんな集団のなかにも、集団行動が苦手な人がいるものだ。というよりも、心のなかでは絶対的多数の人が「自分は集団が苦手だ」と考えているといっても過言ではないかもしれない。

とはいえ、働くこと自体は生き甲斐でもあった。だからこそ、つまり生き甲斐を守るため、多くの人は苦手なものも我慢しながら会社へ向かっていたのではないだろうか。

そんな状況下、“自分にはできないこと”をしてみせてくれたのがジョナサンだった。好むと好まざるとにかかわらず周囲を意識しなければ生きていけないからこそ、自分の意思を最優先して飛行訓練に集中するジョナサンに、多くの読者が我が身を投影させていたのだ。

現代にも通用する本作の価値とは

そう考えると、我が国における『かもめのジョナサン』現象が高度経済成長期の終わりとリンクしたことに、単なる偶然を超えたなにかを感じることもできる。いわば、あの時代だからこそ訴えかけたなにかがこの作品にはあったのだ。

ちなみに当時の社会について思い出すのは、漠然とした閉塞感、終末感だ。『かもめのジョナサン』が我々の前に登場する前年の1973年を言い表すキーワードは「不景気」であり、オイルショックの影響でトイレットペーパーを買い漁るという主婦たちの不可解な行動に気味の悪さを感じていたのである。

また、同じ年に話題となった『ノストラダムスの大予言』も、子どもたちを絶望の淵まで追い込んだ(私も、1999年に37歳で死ぬのかもしれないと思っていた)。

だから、その翌年も、人々は相変わらず“漠然とした閉塞感”を肌で感じつつ、でも、それを“なかったこと”であるように考えていた。

そんななか、『かもめのジョナサン』が現れた。アメリカでのヒットから数年遅れて登場したわけだから、日本での受け止められかたを現地のそれと比較することはできないだろう。

また、それ以前に(当時の私がそうだったように)「流行ってるらしいから」という単純な理由で興味を示した人も多いはずだ。

だが、そうした事情を差し置いても、1974年の日本で『かもめのジョナサン』が出版され、支持されたことには相応の意味があると感じるのである。

おそらくそれはこの作品が、多くの人々の内部にあった“漠然とした閉塞感・終末感”を一時でも忘れることのできる媒体として機能してくれたからだ。

ヒッピーたちを魅了した宗教的な意味がどうであれ、高度経済成長期の終わりにあった日本を生きる我々にとっては、なにか別の意味を持ったのではないかということだ。

ところで先ほど、時代の閉塞感と本作との接点について触れた。もしもその考え方が当たっているのだとしたら、それは同様の閉塞感を持つ現代にも通用するのではないだろうか?

だとすれば、いまこの作品を読み返すことにも相応の価値があるだろう。集団から離れて個を貫くジョナサンの姿が、そうした閉塞感を忘れ、残りの人生を好きなように生きていくための勇気を与えてくれるかもしれないからだ。

【作品インフォメーション】

リチャード・バック『かもめのジョナサン』

1970年にアメリカで出版。1974年、新潮社から五木寛之の訳による日本語訳が発行され、のち文庫化。2014年に封印されていた第4部を含めた「完成版」が発行。

評者プロフィール

印南 敦史(いんなみ あつし)

1962年、東京生まれ。作家、書評家、音楽評論家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。最新刊は『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)。他にも、ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)など著作多数。書評家として数々のサイトに寄稿。


Facebook新田 修功さん投稿記事  生きたいように生きる……⁉️🙋‍♂️💕🏃‍♀️

おはようございます🤗💕

賢者の一言 リチャード・バック

すべてのカモメにとって、重要なのは飛ぶことではなく、食べることだった。

だが、この風変わりなカモメ、ジョナサン・リヴィングストンにとって重要なのは、食べることよりも飛ぶことそれ自体だったのだ。

かもめのジョナサン より

………………………………✨✨✨

この賢いカモメは、食べること(生活の為に働く)よりも、生きること自体(生を謳歌する)の方が重要だと言っています。

最近、とくに若い人たちの中で田舎暮らし(農業しながら出来るだけ自給自足)を選ぶ人たちが多いようです。

また、ネット環境が進むにつれて好きなことを仕事にする人も増えているようです。

「生きたいように生きる」

ジョナサンのような人たちが世界を変えていくのかもしれませんね🙆‍♂️🌍💕

今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕


Facebook河野 修一さん投稿記事

【あなたはいつもベストを尽くしている!】

大好きな本の一つ、リチャード・バックの「カモメのジョナサン」の一節に、『最も高いところを飛ぶカモメが、最も遠くを見通せる』という意味深い言葉があります。

僕たちは一人一人が、「空飛ぶカモメ」です。そしてそのときに飛んでいる高さで、見える光景はそれぞれ異なってきます。

「高さ」とは、自分の「意識のレベル」のことです。

普段、僕たちは、みんなが同じ世界に住み、同じ体験をしているように感じています。

ですが、「見えている光景(体験)は一人一人違っている!」のです。

レベルというと差別語に聞こえるかもしれませんが、ここでいう「意識レベル」とは、「優劣」や「正邪」ではなく、飛んでいる高さが違うというだけのことです。

今生での各自の魂のテーマが異なるので、飛行高度も違いますが、最終的には、全員が同じゴールを目指しているのでしょう。

僕は基本的にはすべての人が、「いまいる場所でベストを尽くしている」と思っています。

ここで言うベストとは、「完璧」な自分を意味していません。「いまできない愛の表現」を含めてベストです。

「みんなが、いまの意識でできないことも含めて、ベストを尽くしている」ということが分かれば、他人の「気になる言動」にも、もっと優しくなれるでしょう。

その人も、いまの自分も、きっとベストを尽くしています。

人はいまの自分を否定しては、どこにも進むことができません。ブレーキとアクセルを同時に踏んだら疲れるだけです。

そういう意味では、自分にもっと優しく接してあげたいですね。

弱さも欠点も、いやらしさも、野心も含めた、いまの自分を丸ごと「肯定」した上で、より高みを目指すのです!

こんな気づきが僕のタッチとヒーリングの質を変えてきました。

いまのありのままの自分と、ありのままの他人に、「YES!」「OK!」を。^^

  【病ではなく人生を癒す】

「癒し」って、どこから始まるんだろう?それは、やり方ではなく「あり方」の変化から始まると僕は思っている。そしてあり方のチェンジは「気づき」から始まる。

「気づき」とは、自分の意識の視点がジャンプすること。「視座」が変わることだ。より高い意識の光の下で、自分の状況を把握できるようになることだ。

壁が透明なエレベーターに乗っている自分の姿を想像してみてほしい。地上1階で見る光景と30階で見える光景は全く違ってくる。

1階にいるときには、自分が直接的に、直線的にアプローチしたいと思っていた大きな障害物や問題があったとする。

でも30階ではそれはとても小さく見えるだろう。さらに「全体の流れ」や「全体と部分との関係性」が把握できるから、障害物や問題と思えることもしぜんに解決に向かうことが分かったりする。

いやそれどころか「障害」や「問題」ですらないとわかったりする。

気づきを重ねて視座が高くなるほど、自分の観念や思い込みの枠が外れる。すると逆に自分の世界観や生命観は広く深くなっていく。

「生命観が広がる」ということは、同時に自分の生命エネルギーを活かす「可能性の場」が広がるということでもある。

だからある意味、『生命力とはその人の気づきの合計』だ。人はその拡がった範囲で、現実を、健康を、癒しを創造できるようになる。

では気づきはどんな時にやって来るだろう?「気づき」は体と心がオープンになっているときに、また「瞑想的」になっているときに多くやって来る。

それとは反対に、思考(頭)が不安や心配にまみれ、義務感、責任感等が優先になっているときは、気づきや、インスピレーションは得にくいだろう。

だからそんな時こそ、敢えて日常の雑事を傍に置き、自然の中に入っていくことには意味があるのだ。

波打ち際や森の中を歩いたり、川や滝の流れや音にじっと耳を澄ましたり、そんなふうにネイチャーの周波数に自分の心の周波数を合わせた時に、気づきはたくさんやってくる。

だから大病を患ったときこそ、自然の中に入っていく必要がある。気づきが生じたらその人はもう前と同じ人ではない。体内で生命エネルギーの流れが変わり始める。

癒すべきは病ではなく人生なのかもしれない。そして「人生丸ごと」の癒しは自然の中でこそ促進される。

必要なのは、あり方の変化であり、人生全体を見通す視座、気づき、認識の変化なのだ。

あり方が変わらない限り、やり方(治療法、健康法)をどれだけ変えたところで、結果はそれなりになるだろう。

『最も高いところを飛ぶカモメが、最も遠くを見通せる』カモメのジョナサン


Facebook今野 華都子さん投稿記事《今日のメッセージ》

「生き延びる為に群れる者と 自分らしく生きるために群れない者がいる

小さいうちは群に育ててもらう事も必要です。

でも、胸騒ぎの時が来たら1人でも飛び立つ勇気も必要です。」by華都子

そんなとき覚えていてほしい。カモメのジョナサンのことばを。

悪いことが起こるのは、われわれの身にふりかかる最悪の事態ではない。

最悪の事態は、「何も起こらないこと」である。

ではまたね~~*\(^o^)/*


Facebook大西 淳さん投稿記事

昨日の原初舞踏の稽古の帰り、あまりに眠くて道の駅で仮眠した時に書いたもの。蛇とカモメと猫が出てきます。(^^)

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「垂直性を希求する蛇」

昨日の原初舞踏の稽古の後、あまりにも眠くて不思議なくらいだった。それで、途中の道の駅に車を止めて、そこで仮眠することにしたのだけれど、思いの外よく眠ってしまったようで、目が覚めた時には東の空が白み始めていた。朝靄のかかった田園地帯の夜明けの風景はとてもきれいだった。

明るくなってから周囲を見渡してみて思ったのは、このあたりは昔は湿地帯だったんだろうということ。昨日の稽古のテーマが「蛇」だったので、この場所で一晩眠ることには意味があったような気がした。

昨日の稽古は、ある意味とても原初的で本質的で、古い古い記憶にアクセスしたような気がした。垂直性を希求する蛇のトライアンドエラーの記憶とでも言おうか。

カモメのジョナサンが普通のカモメの群れから飛び出し、スピードを追い求めたのもある種の垂直性への希求だったんだということに思い至る。

後のシェアで、蛇は仰向けに寝ないはずという人がたくさんいて驚いた。僕は何の違和感もなく、仰向けに寝た蛇だからこそ得られる視点と筋肉の動きが新鮮で面白かった。

その蛇が垂直性を求めたのは必然で、鎌首を持ち上げるように立つ蛇は、ある意味翼を畳んで垂直に空を突き抜けたジョナサンのようだと思ったのだ。

蛇は地を這い、カモメは低空をゆっくり飛ぶというのは、たぶん社会的には正しいことなのだろう。しかしごく稀に、仰向けに寝たり、背面飛行したり、垂直性を希求するものが現れ、場合によっては危険な存在として忌避されてきた。しかし、それでもなお垂直を求めることが踊るということの本質なのだろう。

垂直に突き抜けた時に人は狂う。そこに虚の次元があり、マイナスの価値があり、だからこそ本当の自由を得るということだ。それは理想的な老い、死にも通じることなのだろう。そしてその行程もまた差異と反復なのだ。往還するからこそその経験値は層となり強度となり、それこそが大地の発見に他ならない。

大地なくして人は生きることはできない。それは文字通りの土地ということだけではなく、自分自身が生きる根拠というようなものだ。

蛇が鎌首を持ち上げるために要した努力は、垂直性へのあくなき希求があったからこそで、彼はジャイロのような機能をも手に入れて、絶妙のバランスで立つことができるようになったわけだ。まさに踊りっぽいではないか。

そういえば、夢を見たんだった。

僕は道の脇に空いた穴を上から長いスコップのようなもので整えていた。そして穴の中に足場を確保してからその中に降りていき、さらに中に落ちている石やら木っ端やら瓦礫のようなものを整理して、穴の中で動けるスペースを広げようとしていた。

中はかなり広大で、どこまで続くかはわからないくらいに広い。上の方から、何バカなことやってるのという声も聞こえたけれど、一緒に穴に降りてくる人もいて、外の声は気にしないでいいなと思ったという夢。

目覚めて、車から降りたら、きれいな朝焼けの中、車の周りに猫が3匹寝ていた。どうやら、猫に囲まれながら僕は眠っていたようで、この大地がとても愛おしく感じられた。

さて、そろそろ家に帰ろう。


Facebook原 泰久さん投稿記事 わが心の『カモメのジョナサン』

生きることは食べることなどではない 飛ぶことだ 風になることだ

急降下、宙返り、きりもみ、全速力飛ぶことのよろこびへ 光りかがやく空の果てまで飛ぶ

一羽のかもめ・ジョナサン 社会から追放された一羽のかもめ 強い意志と静かな勇気をもって スピードの限界に挑戦したかもめ ふうっと息を吐き、この物語の頁を閉じた。

お前の心にまだジョナサンは棲んでいるか。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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