https://www.sc.niigata-u.ac.jp/sc/sadomarine/marinelife/amefurashi.html 【アメフラシ】より
海産の軟体動物で、小さな薄い貝殻を体内に持っています。海藻を食べて大きくなり、産卵期である初夏になると佐渡では20センチを超えるような大型の個体が見られます。手に乗せて遊んだり、紫色の汁を出させたり、実習の人気者です。佐渡では春から初夏に水深の浅い岩場で見つかります。
いじめると、雨が降る?
アメフラシは攻撃されると魚が嫌がる紫色の液を出します。
この紫色の液が雨雲に見えるため「雨降らし」と呼ばれるようになったという説や、いじめると雨が降るため雨降らしと呼ばれるようになったという説があります。
左のイラスト(作者:西山真樹)。右の写真(撮影者:安房田智司)
https://www.youtube.com/watch?v=Mih4D3wQuAw
http://www.shiodadaira-minwaken.net/posts/activity21.html 【12月の民話学習】より
「ジプシーの昔話『なんでも見える鏡』」(フィツォフスキ:再話 内田 莉莎子:訳 スズキ コージ:画 福音館書店)
【学習内容のまとめ】
グリム童話「あめふらし」と同じ内容だが、グリムの王女は男に助けてもらい好かれるだけの存在であるのに対し、『なんでも見える鏡』の王女は自らジプシーに恋をし自立していく点で異なっている。グリムの時代のヨーロッパの生活・考え方が女性は男性に従属するものとしての扱いを受けていたのに対し、ジプシーの生活様式・文化においては女性自身が役割をもって生活していたことの反映である。
『なんでも見える鏡』でジプシーを助けるのは、1銀色の魚・2若ワシ・3アリの王さまの3回。昔ばなしのセオリーどおりであるが、同時に、1単体の水中生物・2複数の空中生物・3群れの地中生物へと、数量と生息域を発展させる。また、1から2では身近なところから遠くの場所に視座を移すが、2から3では王女のすぐ近くへと視点が大転換される。
1は存在そのものに過ぎず、2あることで比較・特色・葛藤が生まれ、3は新しい価値を生み質の違うものが創造される。昔ばなしの3回の繰り返しも、この法則に則っている。
『桃太郎』の援助者となる1犬・2猿・3雉についても、「忠誠・知恵・勇気」の象徴とする固定観念ではなく、1身近な動物から2野生動物、さらに3空中のそれへと展開し2から3の場面で決定的飛躍がある。神話『大国主』の根の国の出来事も同様であり、スサノオの持ち込む難題 1蛇の室・2蜈蚣と蜂の室・3火の海となる野原に射込んだ鳴鏑の3回は、1・2の室から3の野外へと転換され、スセリビメが援助者となっている。
鏡は助けるもの、帽子の飾りはジプシーの象徴であることにも着目しておきたい。
https://www.yges.ed.jp/col-1808.html 【真実を映しだす鏡】より
『グリム童話』に採録されているドイツの民話「白雪姫」(Schneewittchen)に、魔法の鏡が登場します。それは、白雪姫の継母(もともとは実母だったらしい)である王妃がもちこんだ不思議な鏡で、王妃の問いかけに対し、かならず真実を答えます。
「世界でいちばん美しい人はだれ?」「それは、王妃、あなたです」というように。
「鏡」は、私たちになじみのもので、だれでも、一日に何回か、見ているはずです。ラテン語にさかのぼっていえば、それは「スペクルム」(speculum)と呼ばれていました。もともと「見る」「考える」を意味する「スペクターレ」という動詞から生まれた言葉です。英語の「スペクタクル」(光景・見世物)は、このラテン語に由来する言葉です。
その使われ方は、なかなか面白く、たとえば、紀元前1世紀ころのローマの哲学者、キケロは、子どもを「自然の鏡」(speculum naturae)と呼んでいます。キケロにとって、子どもは、世俗的なことを超越し、人の本来性としての「自然」を映しだすものでした。
大きく時代を下りますが、19世紀に、ドイツの哲学者、ニーチェは、キケロのいう「鏡」を「自分の真実」を映しだすものと、とらえなおしました。彼の書いた『ツァラトゥストラはこう言った』という本のなかで、主人公のツァラトゥストラは、鏡をもった幼い子どもから、「この鏡で自分を見て」と言われる夢を見ます。そして、鏡を見ると、そこには「悪魔的に歪んだ嘲りの顔」が映っていて、ツァラトゥストラは愕然とします。
その鏡に映っていた自分は、他の人から見たときの自分の姿でした。ツァラトゥストラは、ニーチェがイエスをモデルにして描いた近代版のメシア(救世主)ですが、その姿は、高い志しとは裏腹に、とても神々しいといえるものではなかったのです。
真実を映しだす鏡は、いわば「無垢」なる子どもを暗示しています。あどけない子どもの笑顔を見ていると、自分は、どうしてこんなつまらないことにいらだっているんだろう、と想ってしまいます。もしも、子どもの笑顔を見ても、自分を振りかえることができないなら、かなりまずい状態かもしれません。真実が見えなくなっているのですから。
http://www.grimm-tv.jp/special/marchen.html 【「グリム童話」とは】より
ヤーコプとヴィルヘルムのグリム兄弟が編纂したドイツのメルヘン集で、第1版は1812年のクリスマスに発行された。正式なタイトルは『子供たちと家庭の童話』で、86篇の童話が収められている。その後いくつかの話を加えたり入れ替えたりしつつ、兄弟の生前に7版まで改訂版が出版された。初版が他の童話と大きく違うのは、他の童話が採取した民話を脚色し、長編化して物語として仕立てているのに対し、彼らが聞き及んだ民話をなるべくそのままの形で掲載したことである。しかし口承の民話は話が途切れていたり、子供には向かない内容が含まれていたり、残酷性や性的な描写も多く、また登場人物も粗野な言葉使いだったりということで批判が相次いだ。そこで第2版以降は、古くから語り継がれてきた物語を聞き取り、さらに彼らの手を加えた上で出版されている。それは当時の宗教的なこと(キリスト教)や、上流階級の価値観に合わせて、残酷性や不道徳性を削除したり、修正したりしているのである。
例えば「童話」なのに母親が子供に読み聞かせるには余りにも不適切と指摘されたことで、「ヘンゼルとグレーテル」「白雪姫」などでは子供を虐待する実母は継母に変えられた。「青ひげ」の初版は、隠し部屋には歴代の妻が吊り下げられ、床が血の海であり、その他数々の残虐描写が記述されていた。また「ラプンツェル」では塔上の囚われの美少女と彼女に出逢った王子との逢瀬から性的な描写が削除されたりしている。「シンデレラ」で王子と結婚したい二人の姉娘たちは母親に命令されて靴に入るサイズの足にするため、爪先やかかとを切り落とす。「白雪姫」の母親は鉄の靴をはかされて拷問を受ける。その他にも多くの物語で衝撃的な内容が存在し、その部分は削除せざるを得なかった。
昨今はグリム童話の新たな解釈も盛んで、多くのグリム童話が読み解かれ、研究されている。「ヘンゼルとグレーテル」で描かれる飢饉や子捨てを当時の社会情勢で考えたり、「ブレーメンの音楽隊」はリストラされた者たちの集団として捉える、また「赤ずきん」では赤ずきんと狼をドイツ人とユダヤ人になぞらえるなど、グリム童話をヨーロッパの歴史的背景で分析したもの、「白雪姫」「シンデレラ」に代表される母娘関係や家族関係などを精神世界から分析したもの等、様々な研究がなされているが、なかでもやはり「グリム童話の残酷性」に焦点を当てた解説書が多く出版され、人気を呼んでいる。残酷性のある物語には妊娠や近親相姦など性的な要素も多く含まれ、「青ひげ」では旅に出てばかりの夫は留守中の浮気を疑い妻に貞操帯をつけていたとか、「赤ずきん」は実は少女が処女を捧げる話ではないか、とか内外の研究家の間では様々な意見が出されているのも興味深い。
また、グリム兄弟が聞き書きした物語の出所については、兄弟がドイツ中を廻って物語や民話を採取したというわけではなく、ある女性の存在が明らかにされている。兄弟は取材源を明らかにしなかったが没後、ヴィルヘルムの息子が取材源のメモを公表し、それによると「マリーおばさん」という人物がいたことが明らかになっている。その後グリム研究家レレケによりこの「マリーおばさん」はヘッセンの高官、ハッセンプフルーク家の令嬢マリーのことであるということが判明した。上流社会の女性たちは下働きの女性たちから物語を聞き、それをグリム兄弟に提供していたことがこれまでの調査で判明している。
http://nanakusanome.cocolog-nifty.com/blog/2017/02/post-69dc.html 【残酷なものに童話も・・・俳句から・・】より
残酷なものに童話も水仙花 泰子
この句は水仙花が季語になっているので、誰もがギリシャ神話の「ナルキッソス」を連想します。泰子さんもそこを考えたのでしょう。残酷なものは我々の現実の生活の場ばかりでなく、遠い昔から語り継がれた神話や民話、童話、童謡に溢れています。
ところで、確か二十年ほど前、「本当は恐ろしいグリム童話」が刊行されました。よく知っている童話を、「怖い」という視点で読み解いていて、大きなブームになりました。それから童話や童謡なども「怖い」という視点で読み解く人が出ました。
それにしても残酷で怖い話が、世の中lから抹消されずに、親から子へと広く受け継がれているのは何故でしょう。それは、話の中に、なにがしか生き方について考えさせる力があるからでしょう。ナルキッソスの話にしても、「自己愛に陥らなければ長生き出来ただろうに」と言えるでしょう。
実際、私達は子どもの頃、親から、怖い話や地獄に堕ちるという類の話を聞いて育ちました。話の後では「だから、そんなことをしてはいけません」とか「よかったね」という一言が付け加わっていたように思います。
横道に逸れますが、小さい頃、父は添い寝をしてよく話をしてくれました。後から思えば、大概は「蜘蛛の糸」や「杜子春」などの話でした。中に「梅干しの種を、畳の隙間に捨てたので、夜、種が踊り出した」と言うのがありました。その頃でも梅干しは、子供にとっておやつではありませんから、食べた後の種を畳の隙間に隠す必要はなかったのです。あの話は何であったのだろうとふと思い出すことがあります。ただ単に話の種に困って話したのか?
話を戻せば、やはりその頃に出版された河合隼雄の「昔話の深層」が好きでした。怖いぞ怖いぞと言うばかりでなく心理学的に読み解いているところが好きでした。
余談ですが、昨年「宗教を物語でほどく」アンデルセンから遠藤周作へ(島薗進著)が刊行され、読みました。読み解かれた物語は「100万回いきたねこ」「人形姫」「軽いお姫様」「なめとこ山の熊」「新約聖書」の「放蕩息子」、「法華経」の「長者窮子のたとえ」、「水の子陸の子のためのおとぎばなし」「イワン・イリッチの死」「きりこについて」・・・などなどで、そこから、「宗教は物語のなかにある」、「「死」を超える」、「「弱さ」と向き合う」、「「悪」に向き合う」、「「苦難」を受けとめる」、のテーマで考察されていました。終章は「重なり合う宗教と物語」・・・です。
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