https://tibs.jp/20230410_7188/ 【仏教の宇宙観】より
インドで生まれた仏教には、インド人の宇宙観が取り入れられています。
世界の中心には、梵天や帝釈天などの神々や天人の住む須弥山(シュメール山)が高くそびえ(高さ100万km以上)、それを取り巻く九つの海に四つの大陸(四大洲)が浮かび、その一つの閻浮提(えんぶだい)が人間の住むところです。太陽と月もこの世界の中に含まれています。
この須弥山を中心とした世界(須弥山世界)を一つの世界と数え、それが千個集まったものが「小千世界」、それが千個集まったものが「中千世界」、その中千世界がされに千個集まったものを「大千世界」といいます。三つの千世界が階層構造になっていることから「三千大千世界」ともいいます。ここで、千という数は具体的な数ではなく、無数のものを表しています。世界が無数のものからなる多層構造になっているということを示しています。
この三千大千世界は、一人の仏様が教化できる範囲であって、「仏国土」とも呼ばれます。お経の中では、このような三千大千世界が、ガンジス川の砂の数ほどに存在すると述べられています。我々の想像を遙かに超える壮大なスケール感です。
このインド発の宇宙観は、現在の科学が示す宇宙の構造に驚くほど似ています。須弥山を中心とした世界が太陽を中心とした太陽系の規模だと考えると、太陽と同じような星が集まってできている「銀河」が小千世界ともいえます。我々の銀河(天の川銀河)には約二千億の恒星が存在しています。
この銀河が数百から数万個集まって存在しているものを「銀河団」といいます。これは中千世界にあたります。その銀河団がさらに大規模な構造をとって、「宇宙」が構成されています。この宇宙全体が三千大千世界にあたります。
三千大千世界にあたる宇宙が、他にも無数にあるということがあるのでしょうか?
現代の宇宙論では、我々の宇宙の他に無数の宇宙が存在し、今も次々と生まれ続けているという「マルチバース宇宙論」が提唱されています。この理論はまだ仮説の段階ですが、ガンジス川の砂の数ほどの三千大千世界が存在するという仏教の宇宙観には、我々の宇宙以外に無数に宇宙が存在するということも織り込まれているのでしょうか?
https://sougi-sousai.com/blog/%E5%AE%87%E5%AE%99%E3%81%AB%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%82%8F%E3%82%8B%E4%BB%8F%E6%95%99%E8%A9%B1/ 【宇宙にまつわる仏教話】より
1992年9月12日に毛利衛さんが日本人として初めてスペースシャトルに搭乗し、飛び立った記念日として宇宙の日が定められました。JAXAによる宇宙の日を記念して、全国の小中学生を対象とした作文絵画コンテストを開催しています。将来この中から未来の宇宙飛行士がでたりするのかもしれませんね。
宇宙と仏教何か関わりがあるのだろうか?と思う方もいらっしゃるかもしれませんが、実はお釈迦様の教えには宇宙に関するものもありまして、直径が太陽系程(太陽~海王星迄で約45億km)の円盤が3枚重なった上に、高さ130万kmの山が乗っており、これを一つの世界とし小世界(しょうせかい)と呼びます。
この小世界が1000個集まると小千世界、
小千世界が1000個集まると中千世界、
中千世界が1000個集まると大千世界と呼びます。
これらをまとめて三千大千世界(さんぜんたいせんせかい)と呼ぶのですが、その中心には大仏様がいらっしゃいます。お釈迦様は小世界(私達の太陽系)の人々を導く為に現れた仏様と言われています。改めて考えるとスケールの大きいお話ですね。
この小世界に関わる用語として現代でも使われている言葉で、特に有名なものが【有頂天(うちょうてん)】、【金輪際(こんりんざい)】の2つです。小世界の上に乗っている130万kmの山を「須弥山(しゅみせん)」と呼び、これを模した物がお寺の本堂の正面にある檀や仏壇の中にある「須弥壇(しゅみだん)」と呼ばれています。
この須弥山の頂上は神様の住む場所とされており、その一歩手前(言い換えれば悟りの一歩手前)、ほんの少し煩悩が残る世界を【有頂天】と呼ぶそうです。現代では「喜びで気分が舞い上がっている様子」、「あることに熱中し他を顧みない様子」という意味で使われています。
もう一つの【金輪際】についてですが、須弥山のすぐ下にある大きな円盤を「金輪」と呼び、これが小世界の大きさとほぼ同じとされていることから、物事の極限、ゆきつく所という意味を持ち、現代では「絶対に」、「断じて」、「どんな事があっても」という意味で使われています。
また近年では遺骨を収めたカプセルをロケットで宇宙に運び散骨する、そんな宇宙葬なるサービスがあるようです。世界では320名(日本人9名含む)のご遺骨が今も地球の周回軌道上で家族を見守っているとのことでした。
気になる金額はなんと!1gのご遺骨で95万円との事。
ちなみに現在の有人宇宙旅行は2500万円~とされています。ドラえもんが出てくる位、先の未来になると思いますが、いつか気軽に宇宙へお墓参りをする日も来るのでしょうか。
https://hotoke.ai/?id=9126 【仏は宇宙の創造についてどう考えているのか?】より
まず、相談者さんがこのような問いを持つのは素晴らしいことです。仏教においては、宇宙や自然界のことを「十方界」と呼び、その源である法則性を「如来蔵」としています。仏教における「如来蔵」は、宇宙・自然界の法則性についての教えや真理を指し、それに則って生きることが重要視されます。また、仏教では宇宙や自然界に感謝し、その恩恵に感謝することも大切に考えられます。
そして心理学の観点から言えば、宇宙や自然界に対する興味や質問は、人間の好奇心や探究心の表れとして捉えることができます。このような興味を持つことで、自分自身がより広い視野を持つことができ、自然界の法則や摂理についても理解を深めることができます。その結果、自分自身との繋がりや、自然との共生を深めることができます。
まとめると、仏教においては宇宙や自然界を「如来蔵」として、その法則性に敬意を払い、感謝することが大切だと教えています。また、心理学的には、宇宙や自然界に興味を持つことで、広い視野を持ち、自分自身や自然との繋がりを深めることができます。
最後に、具体的な行動としては、自然に触れることや、星空を見上げること、また仏教の教えを深めることがおすすめです。また、自然環境に配慮した生活を心がけ、感謝の気持ちを常に持って生活することが大切です。
https://genyu-sokyu.com/essay/20050331-bukkyou-ucyu-buturi-ucyu 【仏教宇宙 VS 物理宇宙 仏教宇宙が物理宇宙を包み込む】より
宇宙というと、ふつうはOuter Space、つまり地球外の空間を想像されるだろう。しかし初めにお断りしておきたいのは、ここでの宇宙とは空間だけでなく、時間をも含んだ概念であることだ。
「宇宙」という言葉が初めて現れるのは中国の紀元前二世紀、漢の時代の『淮南子(えなんじ)』の第十一巻「斎俗訓(せぞくくん)」である。曰(いわ)く、「往古今来、之を宙と謂(い)い、四方上下、之を宇と謂う」。つまり宇は空間、宙は時間の概念。しかもこの両者は、繋(つな)がりのあるものとして当初から熟語化して使われてきた。
ギリシア語起源の「Cosmos」でも英語の「Universe」・フランス語の「Univers」でも、空間のみに過ぎないことを考えあわせると、これは凄(すご)いことだ。じつは西洋では、ニュートン力学以後も、時間と空間はそれぞれ独立した変量とみなされてきた。アインシュタインが出るに及んで、ようやく両者が相互に関連しあっていることが提示されたのである。
仏教の想定した宇宙はバラモン教以来の「ブラフマン(梵・ぼん)」だが、これはもともと宇宙の神秘力とでも言うべきものだ。当然、時間も空間も含んでいる。ウパニシャッド哲学では盛んに「梵我一如(ぼんがいちにょ)」が説かれるが、同じ一つの原理が、宇宙をも我をもあらしめている、ということだろう。ここでは仏教の想定していた空間と時間の成り立ちについて考えてみたい。
まず空間のほうだが、最大の空間は三千大千世界。ちなみにこの「世界」も「世」が時間で「界」が空間の広がりを意味する。この大千世界の十億分の一が小千世界、さらにその千分の一が一小世界という。三千大千世界を詳述するとあまりにベラボーなので、ここではまず一小世界の輪郭をご説明するのだが、小世界ひとつの中にも須弥山の上空に七層の天界が想定されている。その中間にある他化(たけ)自在天までの距離が、およそ四千四百八十万キロ。天辺の大梵天界までは約三億六千万キロである。ちなみに太陽は、地球からおよそ一億五千万キロの距離にある。当然そこではそれなりの時間も意識されているわけだ。しかし逆に、どんな距離でも一瞬に、というテレポーテーションも仏典には描写されている。
ともあれ、この一小世界の千倍が小千世界だが、専門家の計算によるとこの直径は、二十五×十の四十五乗光年らしい。さらにその十億倍が大千世界だから、二十五×十の五十四乗光年ということになる。
銀河系は、直径およそ十万光年のレンズ型だとされる。宇宙は拡大し続けているとしても、おそらく現在の宇宙物理学が想定する以上の空間を、仏教は想定したのである。
小さいほうは「極微(ごくみ)」が最小である。現在の物理学では、素粒子を想定しているが、ほぼ同じ程度の存在と考えていいだろう。素粒子を構成するものは、幾種類かのクォーク、あるいは振動数の違う「超ヒモ」などと考えられているが、仏教ではギリシャと同様、地・水・火・風のはたらきの組み合わせと考えた。この四つの機能が縁によって合わさることで極微ができる。つまり極微以下は、物質ではなく機能と考えたわけだ。極微が七つ集まると「微塵(みじん)」になる。
「五輪塔」を見ればわかるように、仏教ではこの地水火風のほかに、一番上に「空」が載っている。これは地・水・火・風に分離したあとの状態だからエネルギーと考えてもいいが、現代物理学が最近直面している「モノ」から「コト」への流れを、うまく説明してくれる。量子論もいうように、超ミクロの世界は観測されて初めて粒子が現れ、観測しなければ波である確率が高いという。つまり観測される事態は、観測する人との間に起こる「コト」なのである。すべてがそれ自体で独立した実在ではありえないという「空」の思想は、量子論を先取りしていたことになる。
時間が相対的であることは、仏教は当然のことと考えていた。一応最短時間の「刹那(せつな)」は七十五分の一秒。最長の時間は「無量劫(ごう)数」だろうか。一劫とは、一辺が七キロもある大きな岩に天女が舞い降りてくる。その天女の羽衣で石が摩滅してなくなるまでの時間だというのだが、天女が降りてくるのは百年に一度とも三千年に一度とも云(い)われる。いずれにしてもその無量倍だから、永遠といってもいいだろう。
そうしたマクロからミクロまでを、刹那から無量劫数のスパンで考えたのが仏教だが、梵我一如ということは、無限の空間と無量の時間とが、私という存在に流れ込んでいるということだ。現代科学はそれを遺伝子によって説明するが、仏教では「蓮華(れんげ)」というものを想定した。『華厳経(けごんきょう)』によれば、蓮華というのは全ての命がそこから生まれてきたという水中の白い花だ。これはどう考えても細胞核、あるいは遺伝子だろう。一に一切が込められ、一切に一が実現する。それも『華厳経』の言葉だが、それは遺伝子だけでなく、ホログラフィーという記録再生技術まで説明してしまうのである。
ご存じの方も多いかと思うが、ホログラフィーとは、三次元の情報を二次元に記憶させ、それにレーザー光線を当てて再生する技術だ。この場合、記憶媒体の二次元平面を百分の一にしても千分の一にしても、うっすらとだが全体が映るのである。つまり、ある平面のここにはどの情報という、局在的な記憶のされ方ではなく、一点に全てが記憶された無数の点の集合がホログラフィーだ。最近では、脳の記憶にもそうした側面があるとされる。これによって、草葉の陰に誰かの記憶がまとまって存在する可能性もでてきたことになる。
仏教は、いつだって「全体性」への視線を持ちつづけてきた。「色」という部分を見るのにも、常に「空」という「全体性」の反映を見ようとしてきた。それは、ミクロにもマクロにも「宇宙」を感じてきたからに違いない。
「範囲を限定して分析してわかる」という近代科学の方法を用いずに、直観的にここまでの宇宙を想定した人間の底知れぬ能力を、私は心から畏怖(いふ)している。それは仏教の手柄ではなく、斉(ひと)しく人類のもつ叡智(えいち)の所産なのだと思う。
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