「ほとけ」とは?

https://haruaki.shunjusha.co.jp/posts/5444 【「ほとけ」とは何かから読み解く仏教の本質/正木晃『「ほとけ」論――仏の変容から読み解く仏教』】より

「仏」は日本では死者を意味し、古代インドでは仏教以外の聖者を意味したように、釈迦だけを指す言葉ではありません。仏はその時代、その地域で多様に変化していったのです。その展開から仏教を論じた『「ほとけ」論――仏の変容から読み解く仏教』(正木晃著)の「はじめに」から、仏がどれほど多様性あふれる概念であるかの解説を見てみたいと思います。

はじめに

仏教は、読んで字のごとく、「仏」の教えです。

 「仏」は仏陀の略称です。仏陀は、古代インドで使われていたパーリ語やサンスクリットで「修行を完成した者」や「目覚めた人」を意味する「ブッダ」を、漢字で音写した言葉です。

 ちなみに、「ブッダ」は、浮屠(ふと)や浮図(ふと)とも音写されました。日本語の「仏=ほとけ」は、仏教が朝鮮半島を経由して伝えられたとき、「ふと」という発音が少し変化して「ほと」になり、さらに「(専門)家」あるいは「気」を意味する接尾辞の「け」が付加されて、「ほとけ」になったと推測されています。

 仏教で「仏」というとき、それはまず、歴史に実在し、仏教の開祖となった人物、すなわちゴータマ・シッダッタとかガウタマ・シッダールタという俗名をもち、釈迦牟尼とか釈尊などと尊称されてきた人物を指しています。

 しかし、「仏」と呼ばれてきた存在は、なにも彼だけに限りません。初期仏教をわりあい忠実に継承してきたとされるテーラワーダ仏教ですら、釈迦牟尼を含めると二五もの過去仏が設定されています。日本仏教では、阿弥陀仏、薬師仏、盧遮那仏、弥勒仏、大日如来など、複数の名があがります。また、釈迦牟尼と称していても、『法華経』に登場する釈迦牟尼は永遠の寿命の持ち主であり、もはや人間とはとても思えません。

 さらに、興味深い事実があります。「ブッダ」という呼称は、仏教が誕生するずっと前から使われていたのです。バラモン教の聖典『ウパニシャッド』には、「ブッダ」と呼ばれた「哲人」たちが登場します。そして、彼らと仏教の開祖とのあいだには、共通する要素が、少なからず見出せるのです。ジャイナ教やヒンドゥー教との関係も、無視できません。

 このように、「仏=ほとけ」は、長い歴史の過程で、多種多様な展開を遂げてきました。本書は、「仏=ほとけ」を手掛かりとして、仏教とは何か、仏教の本質はどこにあるのか、を探究していきます。

 全体は九章から構成されています。『ヴェーダ』や『ウパニシャッド』から始まって、六人の全知者たち(六師外道)、ゴータマ・ブッダの実像と悟り体験、部派仏教、大乗仏教、密教とつづき、最終章では日本仏教の仏を論じています。


https://book.asahi.com/jinbun/article/14496876 【仏とは何者か、どこにいるのか。その変容から読み解く仏教 『「ほとけ」論』】より

 仏(ほとけ、ブッダ)は何も釈迦だけではありません。古代インドでは仏教以外の聖人を意味し、日本では死者を意味したりするように、また仏教の中でも、阿弥陀仏や毘盧遮那仏など多くの仏が説かれるように、仏教の中心となる概念ではありますが、ひじょうに多様性に富んでいます。この時代・地域で変容してきた仏の展開を追うことで仏教の本質に迫る『「ほとけ」論』(正木晃著)から、その一端を紹介したいと思います。

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ウパニシャッドのブッダ

 ブッダとは、「修行を完成した者」や「目覚めた人」を意味します。今でこそ、ブッダというと、仏教の開祖ゴータマ・ブッダのことを指すことが多いわけですが、何も仏教だけには限らないのです。実際に、仏教以前のウパニシャッドの段階で「ブッダ」という呼称が使われています。

 紀元前1500年頃にインドに進出してきたアーリヤ人はさまざまな祭祀をおこないましたが、そこで唱える讃歌を集めたものが『リグ・ヴェーダ』です。そこから世界の成り立ちなどの思索が深まってできた哲学書がウパニシャッドです。

 ウパニシャッドにはヤージュニャヴァルキヤなどの哲人が登場しますが、彼らは修行を完成した者として「ブッダ」と呼ばれていました。

ウパニシャッドの「哲人」たちについて、ぜひとも知っておくべきことがあります。……ウッダーラカ・アールニもヤージュニャヴァルキヤも、修行を完成した者として、「ブッダ」と呼ばれているのです(中村元『原始仏教の成立』春秋社 四〇〇頁)。仏教の開祖としてわたしたちが知っている「ブッダ」、すなわちゴータマ・ブッダが出現するはるか前から、「ブッダ」はいたのです。

『「ほとけ」論』14頁

 このように、「ブッダ」はインドでは仏教以前から存在していたわけです。

 本書は、『ヴェーダ』『ウパニシャッド』から始まって、釈迦と同時代の六人の全知者たち、ゴータマ・ブッダの実像と悟り体験、部派仏教、大乗仏教、密教、日本仏教の順に「仏」を見ていきます。「ブッダ」がゴータマ・ブッダを指すようになり、その後、仏教の中でも、釈迦以前の過去仏、阿弥陀仏や薬師仏などの他土仏(私たちの存在する世界以外の国土の仏)と拡大していき、密教では究極の法身仏へと展開していきます。

日本仏教の「ほとけ」

 「ブッダ」は中国に伝えられると「浮屠」「浮図」(ふと)と音写され、朝鮮半島を経由して日本に伝えられたとき、「ふと」が変化した「ほと」に、「(専門)家」や「気」を意味する接尾辞の「け」が付け加えられて、「ほとけ」になったと推測されています。

 日本人が「ぶつ」ではなく、「ほとけ」というとき、まっさきに何を思い浮かべるでしょうか。熱心な仏教徒でなければ、亡くなった人のことだと思うのが一般的ではないでしょうか。「仏さまに祈る」ことは、お寺での祈願以外にも、お仏壇の前で亡くなった方の安寧を祈ることを意味したりします。

 この点について、本書では、日本人は「仏」を、①如来(ブッダ・阿弥陀様・大日如来・・・菩薩)、②死者あるいは祖霊・先祖霊・死体、③仏の力によって成仏した死者・祖霊、の三種類で考えてきたという佐々木宏幹氏の説を紹介しています。

 このように、日本では「ほとけ」の表す範囲はひじょうに広いわけです。聖人を意味したインドと比べると、死者全般にまで及ぶブッダ解釈は、本覚思想と並んで仏教の日本的変容を代表するものといえるでしょう。

 本書では最後に、死の直前に、亡くなった親や親族、友人が訪れる、特別な風景を見るという「お迎え」の現象をとりあげ、アンケートの回答に阿弥陀仏や浄土などの仏教要素がないことから、次のようにまとめ、現在の日本仏教の問題点を提示しています。

この点に関して注目すべきは、すでに言及した佐々木宏幹の以下の見解です。「本尊も「ほとけ(仏)」、先祖も「ほとけ(先祖霊)」であるなら、人々は教理としての「ほとけ(仏)」よりも身内としての「ほとけ(先祖霊)」に惹かれるのが自然であろう」(『仏力』、三九頁)。じつは、「現代の看取りにおける〈お迎え〉体験の語り―在宅ホスピス遺族アンケートから―」でも、「『ほとけ』観念における『仏』と『霊』との重層化という佐々木宏幹の議論に通じる」との指摘が、註釈に見られます。

 近代仏教学は、仏教から「霊」を排除せよ、と主張してきました。しかし、死の現場では、それは所詮、空虚な理屈にすぎなかったのではないでしょうか。そう思わざるをえない現実が、いまわたしたちの眼の前にあります。

そして、日本人にとって、とりわけ現代の日本人にとって、「仏=ブッダ」とは果たして何なのか、という根元的な問いが、突きつけられているのです。

『「ほとけ」論』575頁

この本を書いた人

正木 晃(まさき・あきら)

1953年、神奈川県生まれ。筑波大学大学院博士課程修了。専門は宗教学(日本・チベット密教)。特に修行における心身変容や図像表現を研究。主著に『「空」論――空から読み解く仏教』『現代日本語訳 法華経』『カラーリング・マンダラ』(いずれも春秋社)、『密教』(講談社)、『マンダラを生きる』(KADOKAWA[角川文庫])、訳書に『マンダラ塗り絵』『世界のマンダラ塗り絵100』(ともに春秋社)など、多数の著書がある。


https://www.engakuji.or.jp/blog/35905/ 【「ほとけ」とは?】より

とあるセミナーで、高楠順次郎先生の言葉を紹介しました。

何年か前に、武蔵野大学に講演に行った折に、大学の入り口のところに高楠順次郎先生の言葉が掲げられていたのでした。

それは「人間の尊さは可能性の広大無辺なることである。その尊さを発揮した完全位が仏である」という言葉でした。感動してその場で書き写してきたのでした。

仏とは「無限の可能性」であるというのであります。大乗仏教ではみんな本来仏であると説きます。みんな誰しも「無限の可能性」を本来持っているのです。

そんな話をしたところ、参加者の方から、

「『仏とは広大無辺な可能性を完全に発揮した人』という説明がありましたが、従来、亡くなった人のことを「仏さん」と言います。この違いをご教授ください。」

という質問をいただきました。

なるほど、たしかに一般の方にとってみれば「ほとけ」というと亡くなった人のことを思います。刑事ドラマでも殺人現場に刑事が到着すると、「ほとけの身元は?」などと聞いているものです。

「ほとけ」の本来の意味とは何か、そしてなぜ亡くなった人のことを「ほとけ」というようになったのか、いろいろ調べてみました。すると知らなかったこともたくさんあって、勉強になりました。まず「ほとけ」を『広辞苑』で調べてみると、

①〔仏〕

㋐悟りを得た者。仏陀。 ㋑釈迦牟尼仏。 ②仏像。また、仏の名号。 ③仏法。 ④死者またはその霊。 ⑤仏事を営むこと。 ⑥ほとけのように慈悲心の厚い人。転じて、お人よし。

⑦大切に思う人。という七つの意味が出てきます。

やはり一番には悟りを開いた人、仏陀であり、お釈迦さまであります。死者という意味は四番目に出ています。

更に岩波書店の『仏教辞典』で「ほとけ」を調べてみますと、「<仏(ぶつ)>の訓読語」とあります。「仏(ぶつ」を調べてみると「<ブッダ>すなわち<目覚めた人><真理を悟った人(覚者)>の意をあらわすサンスクリット語に対応する音写。

古くは<浮図(ふと)><浮屠>とも音写され、後には<仏陀>などと音写された。

ほとけ。もとはインド一般に、真理をさとった聖者を意味していた。

仏教の歴史においては仏教の開祖シャーキヤムニ(釈迦牟尼、釈尊)をさすが、教理上は、悟りの普遍性の故に、広く修行者によって達成可能な目標とされる(とくに大乗仏教)。」

と解説されています。

「ほとけ」とは真理を悟った人なのであります。

この「ぶつ」がどうして「ほとけ」となったのか、これには諸説あるようなのです。

まず岩波の『仏教辞典』には、

「その語源については、中国で古く仏(buddha)が<浮屠(ふと)><浮図>と音写され(『後漢書』楚王伝、桓帝紀)、それに<その道の人>を意味する<家(け)>、または性質・気配を意味する接尾語<け>がついて成ったという説」が紹介されています。

「ぶつ」は「ふと」に、そしてそれに「け」がついて、「ふとけ」「ほとけ」となったという説であります。

次に『仏教辞典』には、

「<ほとほりけ>(熱気)からきたもので、仏教が日本に伝来したときたまたま熱病が流行したためにこのように呼ばれたとする説」が書かれています。この説は全く存じ上げませんでした。

それから更に

「<ほどけ>(解)からきたもので、仏とは煩悩を解き放った存在であるというところからこう呼んだとする説がある」というのです。

「ほとけとは、ほどけることだ」というのはよく聞かれる話であります。

解脱とは、ほどけることでもあるので意味も通じているのです。

『仏教辞典』には、「いずれも推測の域を脱しない」と書かれていますので、たしかなことは分からないようです。

『広辞苑』にも「ほとけ」の語源については、

「ブツ(仏)の転「ほと」に「け」を付した形、また、「浮屠ふと家」「熱気ほとおりけ」「缶ほとぎ」など、語源に諸説がある」と記されています。

それから「仏の意味で<ほとけ>という和語を使った最初の例としては、753年(天平勝宝5)の薬師寺仏足石歌「釈迦(さか)の御足跡(みあと)石(いは)に写し置き敬(うやま)ひて後(のち)の保止気(ほとけ)に譲りまつらむ捧げまうさむ」が挙げられる」のだそうです。

ずいぶんと古い時代から「ほとけ」という言葉が使われていたことが分かります。

それから、問題となるのが死者をほとけと呼ぶようになったことについてですが、『仏教辞典』には、「一方、<ほとけ>が死者の意味に使われるようになったことについては、中世以降死者を祭る器として<(ほとき)>が用いられ、それが死者を呼ぶ名ともなったという説がある。」のだそうです。こういう説も存じ上げませんでした。死者を祭る器「ほとき」から転じたというのです。

更に『仏教辞典』には、

「しかし、日本では人間そのまま神であり(人神(ひとがみ))、仏教が伝来した当初は仏も神の一種とみなされた(蕃神(となりぐにのかみ))ことから推して、人間そのまま仏とされ、ひいては先祖ないし死者を仏(ぶつ)の意味で<ほとけ>と呼んだとも考えられる」と解説されています。人はみな仏であるから、先祖も死者もほとけだというのです。これは死者に限定されたことではありません。

それから更に興味深いことには、『仏教辞典』に、

「なおキリスト教伝来時には、創造主のデウス(Deus、天主)とその下生または子とされたイエス‐キリストを仏といい、その教えを仏法と称した。また仏キ習合的理解から、信者が死んでパライゾ(paraso、天国)に行くことを「仏になる」とも言った。」とかかれているのです。

イエスさまのことを「ほとけ」と呼んでいた時期もあったというのです。

ほとけになるという「成仏」はどういう意味かというと、『広辞苑』には、

①〔仏〕煩悩を断じて悟りを開くこと。仏になること。

②(死ぬと直ちに仏になると考えられたことから)死ぬことという二つの意味が記されています。

『仏教辞典』には、

「仏・ブッダとなること、悟りをひらくこと。

仏教でいうところの真理(伝統的に<法)>と呼ばれる)に目覚めること」という解説があります。

「初期仏典・部派文献では、成仏は実際上、釈尊一人に限定されるのに対し、大乗仏典では、広く衆生一般にも成仏の可能性を認めるという相違がある」と書かれています。

大乗仏教では、みんな仏になれると説いたのです。

そこから、仏になれるということは、仏になる種がこころに宿っていると説くようになりました。

それは、みんな仏の心を持っているのだということです。

そして更に、お互いの心が仏であると説くようになったのが禅の教えなのであります。

「ほとけ」という言葉、実にいろんな変遷があって今日使われているのです。

亡くなった人のことを「ほとけ」というのも中世以来のことですから、かなりの伝統のある使い方なのであります。

しかし本来の「真理に目覚めた人」という意味を忘れてはなりません。

https://www.youtube.com/watch?v=g_4hss2jYbc

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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