http://haiku.g2.xrea.com/thesis.pdf 【古代東国の地域学的研究─ 関東における柿本人麻呂に関する事蹟 ─】
https://cannavi-japan.com/2021/04/09/history31/ 【【名前に麻?】歴史上の人物の名前に多い「 麻呂」は】より
「○○麻呂」は、近世以前の日本において、公家や貴族などの男子の幼名として付けらた名前です。牛若丸などの「○○丸」と語源は同じです。
【名前に麻?】歴史上の人物の名前に多い「 麻呂」はもともと、「排泄・排便をする」を意味する「まる・ばる」を語源とするという説が有力で、赤ちゃん用の便器のおまるも、同源です。かわいい幼子に、わざと汚い名前をつけ、魔物に魅入られないようにとの呪術的意味合いがあったとされています。子どもが幼くして亡くなることが多い時代における、親の愛情を感じます。
万葉歌人たち
万葉集は、奈良時代末期に成立したとされる、日本に現存する最古の和歌集です。全20巻、4500首以上の和歌が収められています。
柿本人麻呂、額田王などが代表的な歌人ですが、これらの皇族、貴族の他、農民や防人などあらゆる階層の人の歌が収められているのが特徴です。
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)
(阿騎野人麻呂公園の柿本人麻呂歌碑:著者撮影)
柿本人麻呂は、万葉集第一の歌人と言われています。長歌19首、短歌75首が収められています。後世、山部赤人とともに、歌聖と呼ばれ、平安時代になると、三十六歌仙の一人で、「人丸」と表記されることもあります。
東(ひんがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えて
かへり見すれば月かたぶきぬ (万葉集1-48)
石麻呂(いはまろ)
万葉集の成立についてはよくわかっていない部分もあるのですが、一人の編者によってまとめられたのではなく、巻によって編者が異なり、最終的に、大伴家持によってまとめられたと考えられています。
その家持の歌に、
石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食せ (万葉集16-3853)
歌は、「石麻呂という人に申し上げます。夏痩せにいいそうなので、鰻を取って食べてください」という意味です。
この歌は、痩せている石麻呂に家持が「夏なんだし、鰻食べろよ!」と心配して言っている友情の歌と考えることができます。
高橋虫麻呂(たかはしのむしまろ)
万葉集に長歌14首、短歌19首、旋頭歌1首を残していますが、その多くは、「高橋連虫麻呂之歌集中出」の形で収められているので、その範囲には異説があります。
富士の嶺(ね)を 高み畏(かしこ)み 天雲もい行きはばかり たなびくものを
(万葉集3-321)
「富士山は高くて恐れ多いので、雲も行く手を阻まれてたなびいています」という意味です。
奈良時代を築いた貴族たち
奈良時代から続く日本の政治の基礎を築いた藤原不比等の息子を紹介します。
藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ)
藤原不比等(ふじわらのふひと)の4人の息子(藤原四兄弟、上から順に武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の長男。藤原四兄弟は、当時の権力を一手に握っていました。
天平9年(737年)、当時流行していた天然痘により死去。天平年間に大流行した天然痘により藤原四兄弟は全員亡くなり、藤原家の勢力は一時的に衰えました。
藤原麻呂(ふじわらのまろ)
藤原不比等の四男で末弟。武智麻呂同様、天然痘で死去。
万葉集の代表的歌人の大伴坂上郎女の恋人として有名で、二人の間で交わされた歌が素敵です。
むしぶすま 柔(なご)やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも (4-524)
「温かく柔らかい夜具を着て寝てはいるが、あなたと一緒に寝ていないので肌が寒いです」という意味です。
奈良時代後半の混乱、道鏡をめぐる人たち
奈良時代の終わりに第46代、第48代天皇を務めた称徳天皇(孝謙天皇)が寵愛した道鏡(どうきょう)は、僧でありながら、皇位を狙った者として、日本の歴史にその悪名を馳せています。
和気清麻呂(わけのきよまろ)
称徳天皇からの寵愛を受けていた道鏡は、皇位を狙い、「道鏡を皇位に就かせるなら、国は安泰」とする、嘘の宇佐八幡宮のお告げを奏上させます。
天皇は、真相を確認するため、和気清麻呂を宇佐八幡宮に派遣します。道鏡の奏上が嘘であると報告した清麻呂は、道鏡の怒りを買い、足の腱を斬られて流罪になりますが、後に復権します。
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
橘諸兄の子。藤原仲麻呂の専横に不満を持った奈良麻呂は、不満を持つ者たちを集め、藤原仲麻呂を滅ぼして、天皇の廃位を企てましたが、密告により露見して未遂に終わりました(橘奈良麻呂の乱)。
藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)
藤原武智麻呂の次男。後に改名し、恵美押勝(えみのおしかつ)と名乗ります。権力の頂点にいた彼ですが、道鏡の台頭などにより失権することを恐れ、軍事力で政権を奪取しよう(恵美押勝の乱)としましたが失敗し、以後、孝謙天皇と道鏡の政権が続きました。
橘奈良麻呂を失脚させた彼が、その後の乱に失敗し、失脚していくというのは、歴史の皮肉というか必然というか。混沌とした奈良時代後半を象徴しています。
遣唐留学生や征夷大将軍
(中国西安市の阿倍仲麻呂記念碑:著者撮影)
他にも有名な「○○麻呂」さんがいますよ!ご紹介しましょう!
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)
阿倍仲麻呂は、奈良時代の遣唐留学生。第9次遣唐使として、吉備真備らと唐に渡りました。唐での科挙に合格し、唐の玄宗皇帝に仕えました。唐の詩人李白らと交流を持ちました。帰国の船が嵐に会って唐に戻ったり、その後、帰国を希望しながらかなわなかったりで、帰国を断念し、唐で客死しました。
天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも
百人一首で有名なこの句は、阿倍仲麻呂の句です。
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
平安時代の公卿で武官。桓武天皇により征夷大将軍に任命され、二度、蝦夷征討しています。「私が死んだときは、体に鎧と甲を付け、手には太刀を握らせ、立ったまま埋葬してほしい。そして御所の見えるところに埋めてほしい」と遺言しました。
2007年、京都市山科区の西野山古墳が坂上田村麻呂の墓だと確認されました。
まとめ
「麻」つながりから、歴史上の「○○麻呂」さんを集めてみました。直接、麻そのものとは関係ない横道でしたが、ちょっと一息。日本の歴史の一端を覗いてみました。
https://www.city.tamura.lg.jp/soshiki/18/oogoe-kankougaido-densetu.html 【鬼五郎幡五郎伝説】より
鬼五郎幡五郎物語
一千年の時を越えて語られるやさしい鬼の伝説
鬼が名物といっても、ふるさと愛にあふれた鬼のお話です。
一千二百年も、むかしのこと。蝦夷地平定に訪れた坂上田村麻呂からこの地を守ろうとしたのが、鬼五郎・幡五郎兄弟。武道にすぐれた鬼五郎と、兄亡き後治世を行った幡五郎は故郷を愛した英雄として語り継がれています。
鬼五郎・幡五郎太鼓
【鬼五郎・幡五郎太鼓】
一人打ち奥州・猿羽流一門の流れを組む創作太鼓。大太鼓・長胴太鼓・締胴太鼓で構成され、町内外のイベントで勇壮なリズムでバチさばきを披露しています。
白鳥神社額
鬼五郎・幡五郎伝説
その昔、早稲川の里に里の長である鬼五郎と、弟の幡五郎の兄弟が住んでいました。二人は力を合わせ、先祖から受け継がれてきたふるさとの田畑を守り、さらに豊かにしようと、里の人々の先頭に立って働いていました。
政府の蝦夷討伐がはじまったのはちょうどこの頃、陸奥(東北地方)の平定を大義に掲げる政府軍を率いた坂上田村麻呂が、この地にも攻め入ってきました。これに猛然と立ち上がったのが阿武隈山系一帯に勢力をふるっていた大多鬼丸。もちろん彼の部下であった鬼五郎もまた、秀でた武術を発揮し、政府軍を迎え撃ちました。しかし、ねばる政府軍を前に戦いは長期戦へともつれこみました。
しかし、激しく長い戦いの中で奮闘を重ねた大多鬼丸軍にしだいに敗色が濃くなり、仙台平まで追い込まれてしまいました。「お前は生きのびて立派に守ってくれ。わしは死んでも鬼となってこの地を見守ろうぞ。」と鬼五郎は弟に言い残し、壮絶な最期を遂げました。愛するふるさとのため、勇敢に戦い抜いた鬼五郎と、兄の遺志をつぎ豊かな早稲川の里づくりに励んだ弟・幡五郎。ふるさとを愛した兄弟の想いは今も人々の胸に脈々と生き続けています。
https://www.city.tamura.lg.jp/soshiki/18/kanko-tamuramarodensetu-kari.html 【坂上田村麻呂伝説】より
正史にみる坂上田村麻呂
坂上田村麻呂像の写真
坂上田村麻呂像(郡山市美術館蔵)
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)は、今から1200年ほど前の平安時代初期の武将で、征夷大将軍として蝦夷【えみし】(現在の東北地方)を討伐した人物です。
奈良から平安時代にかけて、朝廷は、敵対(あるいは反抗)する蝦夷に対して度々東征していました。
坂上田村麻呂は最初は大伴弟麻呂の副将の一人として東征して功を上げ、後に征夷大将軍として蝦夷討伐を成功させます。
晩年は、参議(現在の内閣大臣に相当)・中納言・大納言と出世し、主に政治の中心で活躍しましたが、病によりその生涯を終えました。享年54歳。官位は大納言正三位兼右近衛大将。死後従二位を贈られました。時の天皇は彼の死を悼み、一日喪に服したといいます。
田村市における坂上田村麻呂伝説
田村市内に残る坂上田村麻呂の伝承は、大滝根山を本拠としていた賊(あるいは鬼)の首領である大多鬼丸を討つための戦いに関するものが非常に多く、陣を張ったところ、戦勝祈願したところ、進軍中でのものごと、戦勝報告とそのお礼として祀った神社に関することなどが多いのが特徴です。
そのため、田村市内の地名の由来の多くが田村麻呂伝説に結び付けられています。
そして、田村市内に所在する神社仏閣の多くが田村麻呂の建立・奉祀によるものとされています。これらの伝承について代表的なものをいくつか抜粋いたしましたので、別表をご覧ください。
田村市に残る坂上田村麻呂の伝承の多くは、田村麻呂が正義で、田村麻呂に退治された大多鬼丸は賊(あるいは鬼)の首領であるとして語られています。
しかし、地域によっては「大多鬼丸は賊(あるいは鬼)ではなかった!」とする伝承も存在します。大多鬼丸は実は地元の豪族(指導者)で、民を守るために朝廷の支配に立ち向かいましたが、朝廷に敗れたために賊(あるいは鬼)にされてしまったとする伝承です。
最後に、大多鬼丸を悪とした伝承と、大多鬼丸を英雄とした伝承の両方を、短くかいつまんで以下に紹介します。
坂上田村麻呂の大多鬼丸退治
昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)周辺で大多鬼丸を首領とする賊が悪逆非道を繰り返していました。
時の朝廷は、この賊を征伐するため、坂上田村麻呂を大将とした軍を田村の地に送りました。
田村麻呂の軍は各地で戦勝祈願しつつ進軍し、ついに大多鬼丸の軍と激突しました。最初は苦戦していた田村麻呂ですが、神託や白鳥の導きにより、ついに大多鬼丸を洞穴(達谷窟)に追い込んで自決させました。首領を失った大多鬼丸の軍は降伏し、この地の戦いは終結しました。田村麻呂は大多鬼丸の武勇を惜しみ、その首をあぶくま一円が見渡せる仙台平に丁重に葬りました。
※昔語りをお聞きになりたいかたは動画「白鳥の道案内」をどうぞ。
大多鬼丸
昔むかし、陸奥国霧島山(現在の大滝根山)の白銀城に大多鬼丸という豪族が住み、七里ヶ沢(現在の滝根町周辺)を平和に治めていました。
ある日、大多鬼丸の元に朝廷から、「この地と人を朝廷に差し出せ」という要求がありましたが、大多鬼丸はそれを拒否しました。怒った朝廷は、大多鬼丸を討伐するため、この地に坂上田村麻呂を大将とした大軍を送りました。こうして坂上田村麻呂と大多鬼丸との戦いが始まりました。
大多鬼丸や部下の鬼五郎は勇猛に戦い、田村麻呂軍相手に善戦しましたが、兵で勝る田村麻呂に次第に追い詰められ、達谷窟で自決して果てました。かくして、大多鬼丸は悪鬼として後世に名を残すことになりました。
※昔語りをお聞きになりたいかたは動画「鬼五郎と幡五郎」をどうぞ。
参考資料
以下にこのページを作成する上で参考にさせていただいたものを紹介します。
田村市史3 田村市の伝説 田村市教育委員会
田村市に残る坂上田村麻呂の伝説など238編が収録されています。
A4版88ページ/定価1,000円/限定700冊
お問い合わせは田村市教育委員会生涯学習課(電話0247-81-1215)まで。
福島弁 大越の民話「白鳥の道案内」の話だぞい♪ alltamura.tv様(新ウインドウ表示)
田村民話の会 会田幸子さんによる「白鳥の道案内」のお話
福島弁 大越の民話「鬼五郎と幡五郎」の話だぞい♪ alltamura.tv様(新ウインドウ表示)
田村民話の会 遠藤利子さんによる「鬼五郎と幡五郎」のお話
郡山市(新ウインドウ表示)、三春町(田村郡)(新ウインドウ表示)、小野町(田村郡)(新ウインドウ表示)
奥州田村庄は田村市のほかに田村郡および郡山市の東部地域が含まれていました。それぞれの地には田村市にはない坂上田村麻呂の伝説が残っています。
一例)田村麻呂の誕生秘話、阿武隈川の由来、三春駒の歴史、大多鬼丸を討ったのは○○麻呂?などなど。
Wikipedia(ウィキペディア)(新ウインドウ表示)
フリーの百科事典です。
別表・田村市の田村麻呂伝承
代表的な伝承
名称 由来
大鏑矢神社 鏑矢を放ち、落ちた場所に陣を敷いた。
(或いは鏑矢を奉じて戦勝祈願した)
明石神社と夜明石 明神様境内の石に座って夜を明かし神託を得た。
白鳥神社 白鳥の導きがあったことから白鳥大明神を祀った。
船引(地名) 征討で傷ついた兵士(或いは死者)を舟で引いて運んだ。
大越(地名) 田村麻呂の軍が大声を上げて進軍した。
(【大声】が転じて【大越】)
栗出(地名) 田村麻呂が仙女の教えによりこの地で栗毛の駿馬を得た。
(【栗毛】が転じて【栗出】)
七ツ壇(地名) 戦死した7名の兵を壇を作って葬った。
鳥生平(地名) 白鳥が飛び立った場所。
馬洗戸・休場(地名) 馬を洗わせた場所が【馬洗戸】、休ませた場所が【休場】。
柳清水 鏑矢を砥いだ清水。
【矢砥清水】転じて【柳清水】
達谷窟(鬼穴) 大多鬼丸が最期を遂げた場所。
早稲川 大多鬼丸の部下の鬼五郎・幡五郎兄弟が里長として治めていた地。大竹を切ることが大多鬼丸を切るに通じることから、大きな竹は植えられていないという。また、この地には【鬼五郎】【鬼五郎渓谷】といった地名が存在する。
その他(上記抜粋した分と重複します)
※以下は、「田村市の伝説」に掲載されている伝承から固有名詞のみ抜き出したものです。
(これでも伝承の一部とのこと)
尚、詳細につきまして、リンクが張ってあるものはリンク先をご参照ください。
(★) は田村歴史観光協会様のページに掲載されています。
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