継体天皇ゆかりの史跡めぐり
■トップ 古代史の謎
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■⑩神仏習合と修験道 ■⑪近現代の宗教政策
古代史の謎⑧古代伝承
1 古代海人族
(1)系統と分布 (2)特徴・氏族 (3)古事記・日本書紀での海の神
(4)阿曇氏(綿津見三神) (5)宗像氏(宗像三女神) (6)津守氏(住吉三神)
2 列島へ漂着した三つの「大族」について
(1)紀氏 (2)熊曾於族 (3)天(海人)族
3 景行天皇の伝承
(1)概要 (2)美濃行幸 (3)九州巡幸 (4)日本武尊の活躍 (5)年譜
4 九州王朝の筑後遷宮(玉垂命と九州王朝の都)
(1)玉垂命と九州王朝の都 (2)高良玉垂命と七支刀 (3)高良玉垂命の末喬 抄
(4)多利思北孤の都
1 古代海人族
(1)系統と分布
(引用:Wikipedia)
1)概要
海人族(かいじんぞく、あまぞく)、海神族(わたつみぞく)は、弥生文化前期の主力を担ったもので、航海、漁労など海上において活動し、4世紀以降は海上輸送で力をつけることとなった集団ならびに氏族である。
語感から海人族を抽象的に海に関わる民族と誤解し、沖縄における海人(うみんちゅ)や海の民といった大洋航行を行う海洋民族だと錯覚されることもあるが、考古学的発見と魏志倭人伝を照らし合わせれば沿岸航行を行う漁労生活集団に端を発することが明白である。
海人族には様々な仮説があるが研究は進んでいないため明確ではない。
①インド・チャイニーズ系と②インドネシア系の2系統があるとする見方がある。隼人やタイ人の系統とする説もある。
2)インドネシア系
黒潮に乗って縄文時代に日本列島にやってきた南島系の種族(隼人)の可能性がある。日本列島では沖縄県、鹿児島県、宮崎県、和歌山県南部、三重県、愛知県、静岡県南西部などの県に②の末裔が数多く住んでいるとされる。
3)インド・チャイニーズ系
中国南部の閩越地方の漂海民に起源を持ち、東シナ海を北上、山東半島、遼東半島、朝鮮半島西海岸を経由して、玄界灘に達したと推定される。安曇系およびその傍系である住吉系漁労民と考えられる。
日本に水稲栽培がもたらされたルートと一致しており、中国大陸を起源として日本に渡った倭人(※1)とほぼ同義であろうと考えられる。
※1 倭人(わじん)は、
①狭義には中国の人々が名付けた、当時、西日本に住んでいた民族または住民の古い呼称。
②広義には中国の歴史書に記述された、中国大陸から西日本の範囲の主に海上において活動していた民族集団。
一般に②の集団の一部が西日本に定着して弥生人となり、「倭人」の語が①を指すようになったものと考えられている。
古くは戦国から秦漢期にかけて成立した『山海経』に、東方の海中に「黒歯国」とその北に扶桑国があると記され、倭人を指すとする説もある。また後漢代の1世紀ころに書かれた『論衡』に「倭」「倭人」についての記述がみられる。しかし、これらがの記載と日本列島住民との関わりは不明である。また『論語』にも「九夷」があり、これを倭人の住む国とする説もある。
倭人についての確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志である。その後、280年から297年にかけて陳寿によって完成された『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』では、倭人の生活習慣や社会の様態が比較的詳細に叙述され、生活様式や風俗・慣習・言語などの文化的共通性によって、「韓人」や「濊人」とは区別されたものとして書かれている。
5世紀南北朝時代の南朝宋の時代の432年(元嘉9年)に范曄が書いた『後漢書』列伝巻85(東夷列伝)には1世紀中葉の記述として「倭の奴国」「倭国の極南界」、2世紀初頭の記述として「倭国王帥升」「倭国大乱」とあり、小国分立の状態はつづきながらも、政治的には「倭国」と総称されるほどのまとまりを有していたことが知られる。また南朝の史書には沈約(441年 - 513年)によって書かれた『宋書』倭国伝には倭の五王について書かれている。
656年(顕慶元年)に完成した『隋書』東夷伝には「九夷」「倭奴国」という記載がある。
945年に書かれた『旧唐書』、1060年に書かれた『新唐書』にも倭人に関する記述がある。
兵庫県の淡路島には海人族に関わる逸話が古くからあり、北部九州から瀬戸内海を小舟で渡り淡路島に至るルート、または紀伊水道より上がるルートがあったとする説があり、青銅や鉄などが大陸からもたらされた。
海人族研究で知られる甲元真之氏や系譜学者、宝賀寿男氏は瀬戸内海は岩礁や島々が多く外洋の船では航行できないとし、九州東岸から小舟に乗り換えたとする。淡路島は海人族の営みの地として「日本遺産」に認定されている。
4)越族近縁説
安曇氏、和邇氏、尾張氏、三輪君系(加茂氏、諏訪氏、守矢氏、宗像氏、上毛野氏、下毛野氏など)に代表される地祇系の氏族で、中国の江南沿海部の原住地から山東半島、朝鮮半島西南部を経て紀元前の時代に日本列島に到来してきた、百越系(※2)の種族とされる。
※2 百越系とは、百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナム北部にいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。 日本の明治から昭和期には、かつて中国南部からベトナムにかけて存在した南越国から南越族とも表記された。非漢民族および半漢民族化した人々を含む。
日本の現代の書物において(中国史にまつわる)「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。
秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた。贛語、呉語、閩語、粤語は、百越の百越語と関連が深いといわれている。周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。
秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢の時代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、越人の南方を占めた漢人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。徴姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。
その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。
「越」の国を失い、次第に「越人」としてのアイデンティティーを失っていったものの、現在でも広東省一帯の方言である広東語を「粤語」と呼び、広東省の車のナンバープレートには「粤」と記載され、南方のベトナムは漢字で「越南」と書き表す。
文化面では、稲作、断髪、黥面(入墨)、龍蛇信仰など、百越と倭人(特に海神族)の類似点が中国の歴史書に見受けられる。
また百越に贈られた印綬の鈕(滇王の金印など)と漢委奴国王印の鈕の形が蛇であることも共通する。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
これは滇の金印をはじめ、南方諸国に蛇の鈕を持つ印綬が贈られたことが、奴国に蛇の鈕を持つ漢委奴国王印が贈られたことに通じる。
また百越と日本語はオーストロアジア語族(※3)の言語との類似性が指摘されており、百越がY染色体ハプログループ(※4)旧O2(旧O3が現O2となり、旧O2は現O1のサブに置かれ現O1b。これにより旧O2aは現O1b1、旧O2bは現O1b2)系統に属していたとする見解がある。
※3 オーストロアジア語族あるいはアウストロアジア語族は、東南アジアからインド東部・バングラデシュに散在する言語の語族である。南アジア語族と訳されることもあるが、地域名の南アジアとは異なる。このうちベトナム語、クメール語およびモン語は古くから記録があり現在でも多くの話者がいるが、その他は少数民族の言語である。ベトナム語(ベトナム)、クメール語(カンボジア)、サンタリ語(インド・ジャールカンド州)は公用語として用いられている。
伝統的に東南アジアのモン・クメール語派とインドのムンダ語派に分類され、168 の言語(モン・クメール語派 147 とムンダ語派 21)が記録されている。しかしこの語派分類は確証のあるものではなく、モン・クメール語派はまとまりをもたないとする説もある。
※4 Y染色体ハプログループとは、父系で遺伝するY染色体のハプログループ(=ハプロタイプの集団)のことである。言語学上の区分に近いが、外見上の人種区分とは違うパターンが少なからずある。(これは遺伝子の系統と集団の系統が異なるen:Incomplete lineage sortingによる。)
主として筑前・肥前の沿岸地域に居住し、水稲耕作農業を行い青銅器を使用して、倭国の弥生文化前期の主力を担ったもので、航海・漁労に優れた能力をもつ人々と推測される。
しかし、越族が存在した中国南部にはY染色体ハプログループ旧O2はまったく存在しない理由からこの主張は疑問視されている。また日本には越族式の墓制も発見されていない。
しかし、越族近縁説を提唱する学者は百越系の種族が、那珂川と御笠川の間に挟まれた葦原中国こと奴国の安曇族・三輪族であったとされ、筑後に広がる高天原こと邪馬台国に敗れ(国譲り)、一部は筑前奴国→出雲国→播磨国→大和国と移遷し、最終的に事代主神・建御名方神兄弟の代に三輪山麓周辺に本拠を敷いたものとされる。
また、海人族の一部(和邇氏)は奴国にとどまり、豊玉毘売や玉依毘売などを火遠理命の后として輩出した。
(2)特徴と氏族
(引用:Wikipedia)
1)特徴
青銅器、特に銅鐸、銅矛を用いた種族で、古墳時代には子持勾玉との関係も考えられる。主に龍・蛇、鰐、僅かながら鴨、白鳥などもトーテムとした顕著な龍蛇信仰があり、天孫族ほどではないが一応太陽信仰も持っている。
関係が深い植物には稲や葦があり、大歳神、大国主神、大己貴神、大物主神(事代主神)、建御名方神、大綿津見神、猿田毘古神、豊玉毘売、玉依毘売、菊理姫神(豊宇気毘売神、宇迦之御魂神、保食神、弥都波能売神、瀬織津姫)などを祖神として祀る。
2)氏族
列挙した氏族の系譜、出自に関しては諸説あるが、宝賀寿男の説を採用した。
2.1)大綿津見神後裔氏族
*安曇氏:宇都志日金拆命(穂高見命、猿田毘古神とも)の後裔。
*海犬養氏(安曇犬養連):宇都志日金折命の後裔。
*安曇犬養氏:宇都志日金折命の後裔。
*穂高氏:安曇犬養氏後裔で、穂高神社の社家を務めた。
*和邇氏:安曇氏の初期分岐氏族で、一般に皇別を称している。
*小野氏:和邇氏の後裔。
*尾張氏:高倉下の後裔で、尾張国造を務めた、後に熱田神宮大宮司を務める。天火明命の後裔とする『先代旧事本紀』、『海部氏系図』などは系譜仮冒。
*倭氏:槁根津日子の後裔で、倭国造を務めた。
*明石氏:倭国造の後裔で、明石国造を務めた。
*頸城氏:槁根津日子の後裔で久比岐国造を務めた。
*八木氏:八玉彦命の後裔。
*庵原氏:吉備氏同族とされるが、実際には和邇氏族の出か。廬原国造を務めた。
*牟邪氏:和邇氏同族で武社国造を務めた。
*額田国造:和邇氏同族であるが氏姓は不明。
*吉備穴国造:和邇氏同族であるが氏姓は不明。
*飯高県造:和邇氏同族であるが氏姓は不明。
*壹志県造:和邇氏同族であるが氏姓は不明。
*近淡海国造:和邇氏同族であるが氏姓は不明。
2.2)事代主神後裔氏族
*三輪氏(大三輪氏):意富多々泥古の後裔氏族で、磯城県主の衰退により本宗となった。
*大神氏:三輪氏後裔で、大神神社の社家務めた。
*宗像氏:阿多片須命の後裔で、宗像大社の社家を務めた。
*磯城県主:事代主神の後裔で、歴代の天皇に多数の娘を嫁がせた。
*十市県主:磯城県主後裔で、歴代の天皇に娘を嫁がせた。
*毛野氏:磯城県主の後裔である毛野国の大族と考えられ、上毛野氏と下毛野氏がある。それぞれが上毛野国造と下毛野国造を務めた。
*日下部氏:彦坐王の後裔で、丹波氏とも同族であり、丹波国造や穂国造を務める。
*井伊氏:彦坐王の後裔で穂国造の流れを汲む一族。戦国時代以降遠江の大族となる。
*甲斐氏:彦坐王同族の流れで、甲斐国造を務め、後に甲斐国一宮社家を務める。古屋氏も同族か。
*吉備氏:吉備の諸国造を務めた一族。
*下道氏:吉備氏同族で下道国造を務めた。
*上道氏:吉備氏同族で上道国造を務めた。
*香夜氏:吉備氏同族で加夜国造を務めた。
*三野氏:吉備氏同族で三野国造を務めた。
*笠氏:吉備氏同族で笠国造を務めた。
*角鹿氏:吉備氏同族で、北陸道の角鹿国造を務めた。
*射水氏:吉備氏同族で、北陸道の伊彌頭国造を務めた。
*浮田国造:陸奥の国造の一つで毛野氏の支流だが、氏姓は不明。
*針間鴨国造:山陽道の国造の一つで毛野氏の支流だが、氏姓は不明。
*能登氏:毛野氏の支流で能等国造を務めた。
2.3)建御名方神後裔氏族
*諏訪氏(神氏):伊豆速雄命の後裔で、洲羽国造を務めたとされ、後に諏訪大社上社 の大祝を務めた。後世高島藩主の「諏訪氏」と上社大祝の「諏方氏」に別れた。
*守矢氏:一般には諏訪の土着神洩矢神の後裔と伝わるが、『神長官系譜』では片倉辺命の後裔としている。諏訪大社の神長官を務めた。
*小出氏:八杵命の後裔で、諏訪大社上社の禰宜大夫を務めた。
*矢島氏:池生命の後裔で、諏訪大社上社の権祝を務めた。
*四宮氏:武水別命の後裔で、武水別神社の社家を務めた。
*武居氏:諏訪の土着神武居会美酒の後裔とする説と、建御名方神の御子意岐萩命の後裔とする説がある。
*千野氏:建御名方神の孫智弩神の後裔とされるが、系譜は不詳。
*長氏:八杵命の後裔で、長国造を務めた。
*凡氏:八杵命の後裔で、都佐国造を務めた。
2.4)その他
*神門臣氏:一般に出雲国造同族とされるが、実態は大穴牟遅神の子塩冶毘古命の後裔で、国造と同級の力を持っていた。
*海人族に属す氏族には安曇氏、海犬養氏、宗像氏などが有名である。ほかに海部氏(籠神社宮司家)や津守氏、和珥氏も元は海人族であったとする説がある。ここでは、邪馬台国の時代に活躍した北部九州関連の古代海人族について確認することにします。
(3)古事記・日本書紀での海の神
(引用:Wikipedia)
●大綿津見神(おおわたつみのかみ)
日本神話で最初に登場するワタツミの神。『古事記』では綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神。『日本書紀』では、少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)、海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)。神産みの段で伊邪那岐命(いざなぎ)・伊邪那美命(いざなみ)2神の間に生まれた。神名から海の主宰神と考えられている。『記紀』においてはイザナギは須佐之男命(すさのを)に海を治めるよう命じている。
●綿津見三神(わたつみさんしん)
イザナギが黄泉から帰って禊をした時に、底津綿津見神(底津少童命 そこつわたつみ)、中津綿津見神(中津少童命 なかつわたつみ)、上津綿津見神(表津少童命 うわつわたつみ)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。この三神はオオワタツミとは別神である。
●住吉三神(すみよしさんしん) この時、底筒之男神(そこつつのおのかみ)、中筒之男神(なかつつのおのかみ)、上筒之男神(うわつつのおのかみ)の住吉三神(住吉大神)も一緒に生まれている。
●宗像三神(むなかたさんしん)
天照大神とスサノオノミコトが誓約をした際に生まれた神で、
①沖津宮(記)多紀理毘売命(たきりびめ)/(紀)田心姫(たごりひめ)/(宗)田心姫神(たごりひめ)
②中津宮(記)市寸島比売命(いちきしまひめ)/(紀)湍津姫(たぎつひめ))/(宗)湍津姫神(たぎつひめ)
③辺津宮(記) 多岐都比売命(たぎつひめ)/(紀)市杵嶋姫(いちきしまひめ)/(宗)市杵島姫神(いちきしまひめ)
この三社を総称して宗像三社、三女神を宗像三神(宗像三女神)と呼んでいる。 なお、古事記の三神にはそれぞれ別名があり、日本書紀での三神の化成順は、いくつかの異説がある。
注:(記)、(紀)、(宗)は、それぞれ古事記、日本書紀、宗像大社の略を示す。
(4)阿曇氏(綿津見三神)
(引用:Wikipedia)
〇参考Webサイト:風神ネットワーク/ティータイムは歴史話で(雑記あれこれ・歴史関係)/安曇族
1)安曇氏
〔発祥地〕
「阿曇(安曇)」(あずみうじ)を氏の名とする氏族。海神である綿津見命を祖とする地祇系氏族。阿曇族、安曇族ともいう。古代日本を代表する海人族、海人部として知られる有力氏族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(現在の福岡市東部)とされる。
〔全国への移住〕
古くから中国や朝鮮半島とも交易などを通じて関連があったとされ、後に最初の本拠地である北部九州の福岡志賀島一帯から離れて全国に移住した。
この移住の原因として、一説によれば、磐井の乱(527~528年)が原因という。この乱は、北九州の豪族筑紫君磐井と大和朝廷との争いだが、その結果安曇氏は敗者側の磐井に与したため本拠地を失い、信州をはじめ、各地に移住することになったらしい。
〔安曇野への移住〕
移住先の一つ、長野県の安曇野は松本市や大町市周辺の地域である。有名な黒部第4ダムも近い。 北九州を離れて新潟県糸魚川市付近にたどり着いた安曇族は、そこを流れる姫川を遡っていったという。では、なぜ安曇族はこの地を移住先として選んだのかといえば、海洋族として交易に必要な翡翠(ヒスイ)を求めて、という説がある。
翡翠は日本古来の宝石であり、国内の産地は限られている。確かに姫川流域国内でも有数の産地ではあるが、これも一つの仮説にすぎない。しかし理由はともかく、安曇族が姫川を遡って安曇野(当時は安曇野という地名はなかったが)にたどり着いたというのは史実であろう。
以上はWebサイト〔「風神ネットワーク」から〕磐井の乱や白村江の戦いでの安曇比羅夫の戦死が関係しているとの説がある。
2)安曇の語源
海人津見(あまつみ)が転訛したものとされ、津見(つみ)は「住み」を意味する古語とする説もあり、その説だと安曇族はそのまま「海に住む人」を示す。
3)記紀に登場
「日本書紀」の応神天皇の項に「海人の宗に任じられた」と記され、「古事記」では「阿曇連はその綿津見神の子、宇都志日金柝命の子孫なり」と記されている。その他、「新撰姓氏録」では「安曇連は綿津豊玉彦の子、穂高見命の後なり」と記される。
4)淡路島の安曇氏
古代安曇氏の一族(阿曇浜子)(※) など海人族の伝承が残る。
※阿曇浜子は『日本書紀』によると推定399年、住吉仲皇子が仁徳天皇の皇太子である去来穂別皇子(のちの履中天皇)に反旗を翻した際に、仲皇子に味方しようとしたという。
仲皇子の急襲から逃れた去来穂別皇子が軍を再編し、竜田山を越えたところで、数十人の武器を持って追いかけててくる者たちがいた。皇太子はそれを見て怪しみ、近くにやってきた時に人を遣って尋ねた。 彼らは、「淡路の能嶋(のしま)の海人である。阿曇連浜子の命令で、仲皇子のために、太子を追っています」と答えた。
そこで、伏兵を出して、取り囲んで悉く捕まえた。その後、皇太子の弟の瑞歯別皇子(のちの反正天皇)が住吉仲皇子暗殺を報告し、村合屯倉を与えられたその日、阿曇浜子は捕らえられた。
履中天皇は、即位後の4月に阿曇浜子を呼び出して、彼の罪は死刑に値するが、恩を与えて、死を免じて「墨(ひたいにきざむつみ)」を与える、として、その日のうちに黥(めさききざ)んだ(目の縁に入れ墨をした。これにより、入れ墨をした目のことを「阿曇目」と呼ぶようになった)。
この結果、阿曇氏の中央政界への進出の夢は潰えた。その後は、食膳に奉仕する伴造氏族として、中流貴族としての地位を築いていった。
以後しばらく阿曇氏の顕著な活動が無かったが、推古天皇の時代あたりから再び活動し始め、阿曇比羅夫らを輩出することになる。
5)律令制の下の役職
宮内省に属する内膳司(天皇の食事の調理を司る)の長官(相当官位は正六位上)を務める。これは、古来より神に供される御贄(おにえ)には海産物が主に供えられた為、海人系氏族の役割とされたことに由来する。
6)安曇族が移住した地とされる場所
(引用:風神ネットワーク)
阿曇・安曇・厚見・厚海・渥美・阿積・泉・熱海・飽海などの地名として残されており、安曇が語源とされる地名は九州から瀬戸内海を経由し近畿に達し(古代難波の入り江に、阿曇江(あずみのえ、または、あどのえ)との地名があったと続日本紀に記録される)、更に三河国の渥美郡(渥美半島、古名は飽海郡)や飽海川(あくみがわ)(豊川の古名)、伊豆半島の熱海、最北端となる飽海郡(あくみぐん)は出羽国北部(山形県)に達する。この他に「志賀」や「滋賀」を志賀島由来の地名として、安曇族との関連を指摘する説がある。
穂高神社(穂高見命を祭神とする。長野県安曇野市)(引用:風神ネットワーク)
また海辺に限らず、川を遡って内陸部の安曇野にも名を残し、標高3,190 mの奥穂高岳山頂に嶺宮のある穂高神社はこの地の安曇氏が祖神を祀った古社で、中殿(主祭神)に「穂高見命」、左殿に「綿津見命」など海神を祀っている。
内陸にあるにもかかわらず例大祭(御船神事)は大きな船形の山車が登場する。志賀島から全国に散った後の一族の本拠地は、この信濃国の安曇郡(長野県安曇野市)とされる。
7)阿曇連(阿曇氏)の祖神
(引用:風神ネットワーク)
上津綿津見神の子の宇都志日金析命(穂高見命)が九州北部の海人族であったとされ阿曇連(阿曇氏)の祖神であると記している。現在も末裔が宮司を務める志賀海神社は安曇氏伝承の地である。また穂高見命は穂高の峯に降臨したとの伝説がある。
8)安曇氏が祀る主な神社
8.1)志賀海神社(福岡県福岡市)
写真引用:Wikipedia
〔左殿〕仲津綿津見神(相殿・神功皇后)
〔中殿〕底津綿津見神(相殿・玉依姫命)
〔右殿〕表津綿津見神(相殿・応神天皇)
ワタツミ三神は記紀においては阿曇族の祖神または奉斎神とされている。この神を奉斎する阿曇氏は海人集団を管掌する伴造氏族であった。
『先代旧事本紀』 では、同じく神産みの段で「少童三神、阿曇連等斎祀、筑紫斯香神」と記されており、「筑紫斯香神」の名で志賀海神社が氏神に挙げられている。
古代の九州北部では、海人を司る阿曇氏(安曇氏)が海上を支配したとされる。志賀島は海上交通の要衝であり、その志賀島と海の中道を含めた一帯 が阿曇氏の本拠地であったとされており、志賀海神社は阿曇氏の中心地であったと考えられている。現在も志賀島の全域は神域とされ、現在の神主家も阿曇氏の後裔を称している。
8.2)風浪宮(福岡県大川市)
写真引用:Wikipedia
・少童命三座(表津少童命、中津少童命、底津少童命)
・息長垂姫命(神功皇后)
・住吉三神(表筒男命、中筒男命、底筒男命)
・高良玉垂命
8.3)穂高神社(長野県安曇野市)
写真引用:Wikipedia
〔中殿〕穂高見命( 別名「宇都志日金拆命」、綿津見命の子)
〔左殿〕綿津見命( 海神で、安曇氏の祖神)
〔右殿〕瓊々杵命
〔別宮〕天照大御神
〔若宮〕安曇連比羅夫命
〔若宮相殿〕信濃中将(御伽草子のものぐさ太郎のモデル)
創建は不詳。当地は安曇郡の郡域にあり、定着した安曇氏によって当郡が建郡されたと見られている。そしてその安曇氏によって祖神が祀られたのが創祀とされる。
安曇氏とは海人の一族で、福岡県志賀島の志賀海神社が発祥地とされる。安曇氏は北九州を中心として栄え、その活動範囲を東方へも広げていったとされる。
当郡への定着は、信濃における部民制や当地の古墳の展開から6世紀代と推定されている。
その要因には蝦夷地域開拓の兵站基地として、ヤマト王権からの派遣が考えられている。
安曇郡の式内社には他に川会神社があるが、こちらでも安曇氏系の綿津見神が祭神とされている。
穂高神社の西方には多くの古墳が築かれているが、穂高神社付近は神域として避けられたと考えられ、穂高神社一帯が勢力の中心地域であったと見られている。
(4)宗像氏(宗像三女神)
(引用:Wikipedia)
1)宗像氏
筑前国の古族である。胸形君(むなかたのきみ)とも。また、上代より宗像の地を支配した海洋豪族、宗像大社を奉じる一族も「宗像氏」(むなかたし)(胸形氏、宗形氏、胸肩氏とも)を冠する事があり、併せて記す。
2)上代以前の宗像氏
伝承に依れば、海洋豪族(海人族)として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る広大な海域を支配したとされる。
上代から古代まで、畿内の大和朝廷から瀬戸内海、関門海峡を通って宗像の地の沖から世界遺産の沖ノ島、対馬を経て朝鮮半島に至る海路は「海北道中」と呼ばれ文化交流、交易上重要性を増した。
道中の安全を祈る宗像三女神を祀る社は海北道中の中途に数多くあり、代表的な社が次の宗像大社である。
古事記、日本書紀などに宗像祭神を祀る「胸形君」が現れる。
3)宗像大社神主・宗形氏
海路の重要性が増すとともに宗像大社は国の祭祀の対象となる。清氏親王より前代は、宗形徳善や宗形鳥麿が歴史書に登場する。
徳善の娘尼子娘は天武天皇の妃となり高市皇子を生み国母となるなど、大和朝廷中枢と親密な関係にあったと見られる。
また大和の宗像神社 (桜井市)は、その頃、宗像大社本貫から分祀されたものと見られる。
この時代は宗像大社の神主職を宗形氏大領が独占していた。(祭政一致)
4)歴史(抄)
・宗像神(宗像三神)として奉じられる。
・海洋豪族として、宗像地方と響灘西部から玄界灘全域に至る膨大な海域を支配した。
・古事記に「多紀理毘賣命者、坐胸形之奥津宮。次市寸嶋比賣命者、坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮。此三柱神者、胸形君等之以伊都久三前大神者也。」とあり、宗像三女神がそれぞれ沖津宮、中津宮、辺津宮に鎮座とする。
・仲哀天皇の頃、神功皇后が三韓征伐の直前に来宗した際に、宗像氏が宗像大神に神助を賜う。・雄略天皇が新羅に親征しようとしたが、宗像三女神のお告げにより中止する。
・日本書紀などによると、筑紫君磐井の乱の後、ヤマト王権を背景とし宗像氏の勢力が筑後国の領域まで影響を及ぼす。
・654年、宗像徳善(胸形君徳善)の女で、天武天皇の妃の尼子娘が高市皇子を出産する。
・天武天皇の代に、宗像朝臣を賜う。690年(持統4年)、高市皇子が太政大臣になる。
5)宗像氏が祀る主な神社
5.1)宗像大社(福岡県宗像市)
辺津宮(写真引用*Wikipedia)
〔沖津宮〕 田心姫神
〔中津宮〕湍津姫神
〔辺津宮〕 市杵島姫神
5.2)田島神社(佐賀県唐津市)
〔主祭神〕田島三神(田心姫尊・市杵島姫尊・湍津姫尊)
〔配祀神〕大山祇神・稚武王尊 - 仲哀天皇の弟。
6)宗像三女神を祭神とする全国の神社
海の神・航海の神として信仰されている。宗像大社のほか各地の宗像神社・宮地嶽神社・厳島神社・八王子社・天真名井社・石神神社などで祀られている。
八幡社の比売大神としても宇佐神宮や石清水八幡宮で祀られている。
宗像系の神社は日本で5番目に多いとされ、そのほとんどが大和及び伊勢、志摩から熊野灘、瀬戸内海を通って大陸へ行く経路に沿った所にある。なお、八王子神社は五男三女神を祀る神社である。
(5)津守氏(住吉三神)
(引用:Wikipedia)
1)津守氏
「津守」(つもりうじ)を氏の名とする氏族。住吉大社(大阪市住吉区)の歴代宮司の一族で、古代以来の系譜を持つ氏族である。
2)出 自
津守氏は、天火明命の流れをくむ一族であり、摂津国住吉郡の豪族の田蓑宿禰の子孫である。
田蓑宿禰が「七道の浜」(大阪府堺市七道)(当時は住吉郡) において200年に新羅征伐から帰還した神功皇后を迎えた時、神功皇后が住吉三神の神功があったことから、田蓑宿禰に住吉三神を祀るように言い、田蓑宿禰の子の豊吾団(とよ・の・ごだん)に津守の姓を与えたのが始まり。
津守とは「津(港)」を「守る」という意味。
3)住吉大社(大阪市住吉区)
写真引用:Wikipedia
〔第一本宮〕底筒男命〔第二本宮〕中筒男命〔第三本宮〕表筒男命〔第四本宮〕神功皇后
海の神である筒男三神と神功皇后を祭神とし、古くは古墳時代から外交上の要港の住吉津・難波津と関係して、航海の神・港の神として祀られた神社である。
古代には遣唐使船にも祀られる国家的な航海守護の神や禊祓の神として、平安時代からは和歌の神として朝廷・貴族からの信仰を集めたほか、江戸時代には広く庶民からも崇敬された。
摂津国の一宮として大阪で代表的な神社であるのみならず、旧官幣大社として全国でも代表的な神社の1つである。
2 列島へ漂着した三つの「大族」について
このプログは、九州古代史研究会主宰 内倉武久氏の次の、プログから引用させていただきました。出典:「うっちゃん先生の『古代史はおもろいで』(2015-01-16 19:50:03 テーマ:ブログ)」
ブログ最初の項「神武天皇」(※)に示した地図の中で、九州に漂着した三つの大族について図示してみた。「紀(き)氏」・「熊曾於(熊襲=くまそ)族」・「天(あま=海人)族」の三つである。
これら三つの大族はいずれも大陸から亡命・渡来してきた人々であるが、互いに絡(から)み合いながら日本人化し、その後7世紀末まで日本の古代政権をになった大きな勢力だった。
『日本書紀』・『古事記』がどうしてもその実態を隠しておきたかった最大の勢力である。彼らはどんな「族」だったのか。その力や背景をさぐってみよう。まず「紀氏」から。
※ 参照:同氏プログ「001 ~『天皇』はどこから、なぜ大和に行ったのか~」
(1)紀氏
(引用:内倉武久氏プログ)
1)「姫氏・松野連系図」(参考:「松野連氏」考)
東京・世田谷の静嘉堂文庫(せいかどうぶんこ)や古代史家・鈴木真年が採集した系図のなかに「姫氏(きし)・松野連(まつのむらじ)系図」(下図)というのがある。
これには「呉王・夫差の皇子・忌(き)が孝昭天皇3年(前473)来朝、火の国(熊本県)菊池郡山門(やまと)に住む」と記され、その子孫が日本史上有名な5世紀の「倭の五王」(讃、珍、斉、興、武)であることが記されている。
「姫氏」は『古事記』『日本書紀』では「木」あるいは「紀」と表記された一族である。
松野連系図(国立国会図書館所蔵)
この系図は藤原不比等が、持統天皇の名で5年(691)に出した「紀氏ら十八氏族に対する『墓記』提出命令」が関係していると考えられる。新しい史書『日本書紀』を作るための資料収集や、いかがわしい歴史事実を記すための証拠の隠滅を図るためであったろう。
しかし、「墓記」を没収された紀氏らは自らの来歴や功績を記した資料を失ったわけだ。そこで紀氏一族の誰かが記憶をたどって8世紀以降造ったのがこの系図であると考えられている。
系図の記載によれば、著名な中国の古代史書『魏略(ぎりゃく)』などの記載からみて「邪馬壹国の女王・卑弥呼」も「紀氏」の子孫であるという。その淵源(えんげん)は中国の古代王朝、殷(いん)王朝(商王朝ともいう)最末期にさかのぼる。紀元前1020年、日本の縄文時代晩期にあたるころである。
中国の史書『史記』によれば、殷王朝と覇権を争っていた周王朝では王位継承争いがおきた。その王「古公亶父(ここうたんぽ)」は、長男の太伯(たいはく)に跡を継がせず、三男の季歴(きれき)を後継者とした。季歴の子である昌(しょう)に「聖人となる瑞祥(ずいしょう)がある」とされたので、とりあえず季歴を王位につかせ、その後昌に引き継いでもらい、周王朝の興隆を図ろうと考えた、という。
王位を継げなかった太伯は弟の虞仲(ぐちゅう)とともに都を脱出し、南方に逃げてそこで「呉の国」を造った。揚子江(長江)下流北側の江蘇省(こうそしょう)南部一帯である。この「呉」は後の三国時代の「呉」と区別するために「句呉(こうご)」とも呼ばれる。
この呉国は紀元前473年、最後の王であった「夫差(ふさ)」まで続いた。「夫差」は南隣の越王「勾践(こうせん)」との戦いで知られた王である。二人は「臥薪嘗胆」とか「呉越同舟」などという故事で有名である。
「夫差」は結局「勾践」との戦いに敗れて自殺する。この時「夫差」の皇子や親類縁者一族は船に乗って脱出し、九州に流れ着いた。この事は中国の史書『通鑑前篇』に記載されている。また『魏略』や『晋書』・『梁書』などに「倭(ヰ)の人は自ら、(我々は)太伯の子孫である、と言っている」と記録している。さらに平安時代に我が国で編集された『新撰姓氏録』も同様の記録を残している。
『魏志倭(ヰ)人伝』にこの記録は記されていない。それは3世紀の「魏」と「呉」は最大の敵国であったため、紀元前の「太伯」の国とは違う国ではあったが、同じ名前の「呉」の末裔と親しくしているという非難を避けたかったものと思われる。
静嘉堂文庫の系図には「称卑弥呼」として「刀良(とら)」が記されている。古代史上著名な「邪馬壹(台)国の女王・卑弥呼」の本名は「姫の刀良」(下記、「呉王朝の復活を目指した卑弥呼」参照※)であったという。
系図に記載はないが、『記紀』に記す4世紀始めの「景行天皇」もその都を佐賀県鳥栖市周辺に置いていたらしいので 、さまざまなデータから見て紀氏の一人であろう。
周王朝の姓は「姫」である。である。であるから「太伯」や「夫差」の姓も「姫」である。日本では直接「姫」と表記されないが、古代には発音が同じ字を自由に使っており、『古事記』に記される「木」や『日本書紀』の「紀」がそれにあたる。
「姫氏」がなぜ「松」なのかというと、「木の公」を組み合わせて作った字であるという。2世紀から5世紀ごろにかけて日本列島を席巻していた「紀氏」隠しを目論(もくろ)む意図もあろう。後の八世紀に全国を統一した大和政権は地名を中国風の一字から「二字にするよう」命令を出す。全国に散在していた「紀」も「紀伊」と表記されるようになり、現在に至っている。
「紀伊郡」は和歌山県の「紀伊国」をはじめ関西、関東など全国に残されていた。幾十世代を経て「紀氏」が全国に勢力を伸ばしていたことがわかる。
関東の埼玉稲荷山古墳(さきたま・いなりやま)から銘文入りの鉄剣が発見されて大騒ぎになったが、銘文の中にある「記のオのワケの臣」の「記」も「紀」氏であるとする研究もある(京都大学・宮崎市定氏)。付近に「紀伊郡」があったからでもある。
宮崎氏の研究は当たっている。埼玉古墳群は紀氏と熊曾於が合同して造った古墳群であるとわかってきたからだ(「紀氏」の項で後述)。さすがだ。
ただ列島のすべての「紀氏」がすべて山門・菊池郡から出たかというと、そうは言えない。中国の春秋時代(紀元前8~5世紀ごろ)、中国全土では各地に赴任した周王朝の皇子らが、本家の衰微をうけて独立。それぞれが国を造っていた。「紀氏の国」は全土で約50か国もあった。そしてほぼ全部が戦国時代に「秦」によってつぶされた。
多くの「紀氏」が日本列島に逃げて来たらしいからである。平安時代の詩文に日本のことを「東海紀氏国」と表現したものがある。九州倭(ヰ)政権の王の一人と考えられる5世紀の高良玉垂命(こうら・たまたれのみこと)も「紀氏」の一族であった。「玉垂」は秦の始皇帝の絵などにみられる「玉すだれを冠の前後につける冕冠(べんかん)」のことである。
左写真 冕冠をつけた秦の始皇帝(左から二人目)。徐福=真ん中の人=と対面した折の想像図=中国・江蘇省徐福村で)
右写真:冕冠(べんかん)(出典:Wikipedia)
紀氏は渡来して苦節数百年、じわじわと勢力を広げ、卑弥呼を生み、鳥栖周辺に都した景行天皇や太宰府の「倭の五王」を誕生させ、6世紀始めの磐井の時、福岡県朝倉市に都した熊曾於族の「継体天皇」に大王位を奪われ、一族は名を変え、全国に四散した。
ただ系図の「倭の五王」の所の書き込みなどには間違いが多い。『宋書』によれば、元嘉2年(425)年に宋に使いを送ったのは「珍」でなく「讃」だ。
「使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王」の位を自称したのは「珍」である。次の「済」が百済を加羅に訂正した位に叙せられた。他の記載も記憶違いが多い。
(引用:九州古代史研究会主宰 多元的古代会員 内倉武久氏プログ)
2)呉王朝の復活を目指した卑弥呼
◇卑弥呼は何時、どこにいたか
日本の古代史の上で最も有名な女帝、という「卑弥呼」はどういう系統の人で、本名を何 と言い、何時、どこにいたのか。まずこの事をはっきりさせなければ話は始まらない。
多く の古代史家はこの問題をあいまいにすることで、市民にいかがわしく、事実と違う古代史を 流布してきた。
卑弥呼の事を若干詳しく知ることができるのは、まず、ご存じの通り中国の史書『三国志・ 魏書・倭人伝』だ。
この史書で最初に言っておかなければならないのは「倭」という文字は 決して「わ」と読んではいけないことだ。
当時の字の意味や発音を記録した『説文解字』に 記録されている(拙著『卑弥呼と神武が明かす古代』参照)。
◇「倭」は「わ」でなく「ヰ(い)」と読むべし
「わ」という発音は中国南方の呉音の発音であり、北方で書かれて読まれた漢音地域では 「ヰ(uwi)」という発音しかなかった。
「わ(uwa:)」という呉音が漢音地域に入り 込んだのは 10 世紀ごろ以降のことである。 だから『魏志倭人伝』の記述を正しく理解するためには字の発音はすべて、まず「漢音」 で読まなければならない。
初めて「倭」を「わ」と読むように指導した旧東京帝大の三宅米 吉は国文学者であり、中国の発音には暗かったことも一因だろう。
「奴」も「ナ」ではなく 「do=ド・ト=戸、門」であり、『魏志』に記載されたふたつの「奴国」は室見川河口の 「山門(やまど)」と、筑後川河口の「山門」がこれにあたると考えられる。
古田武彦先生は「卑弥呼」を「ひみか」と読むよう主張していたが、小生は賛成できない。 「ヒミコの時代」はもう「カメ棺の時代」ではないし、「卑弥呼の墓」は、『倭人伝』による 限り径 100 歩の円墳、或は円墳に祭りの場である方形基壇をつけた前方後円墳と思われる からでもある。
「日の御子」あるいは「日の巫女」であろう。
◇出身さぐる資料に「松の連・姫氏」系図
江戸時代中期の国内外の伝説をつづった和田長三郎らの『和田家文書・東日流六郡史』な どによると、「卑弥呼」が生まれたのは「伊川」という所だという。「伊川」は、九州では北 九州市門司区や飯塚市に地名が残っている。
だが、この「卑弥呼」は魏志にいう「卑弥呼」 ではないらしい。当時の日本列島には「日の御子」「日の巫女」はそれぞれの勢力(国)の トップとして大勢いたと考えられる。
「和田家文書」にいう「卑弥呼」は、子供がおり、鐘 洞窟の中で死んだというから、おそらく九州北東部に君臨していた「日の御子」だろう。
日本列島と朝鮮半島の関係を誤解している研究者のなかには、卑弥呼の一族は公孫淵氏 らの流れを汲んだ朝鮮族だと考える人もいる。
が、これは次の『晋書』の記事を誤読した結 果であって間違いだ。
『晋書』倭人伝 「漢末、倭人乱。攻伐不定。乃立女子為王。名曰卑弥呼。宣帝之平公孫 氏也、卑弥呼遣使、至帯方」 この「也」は「~である」の「なり」ではなく、「~するやいなや」の「や」である。
「宣 帝(司馬懿)が公孫氏を平らげるや否や、卑弥呼は魏に使者を送った」という意味である。
古田先生が指摘したように、『魏志』の「卑弥呼、景初二(239)年遣使」説が正しいと考え る。
◇卑弥呼の本名は「姫の刀良」
小生が最も注目しているのは、東京・静嘉堂文庫や国会図書館所蔵本に保管、記載されて いる「松野連・姫氏(マツのむらじ・きし)」系図の記載である。 系図の松氏と姫氏は、名前は違うが同じ一族である。
「野」は元来接続詞で、後に名前の 一部になったらしい。その姫氏がなぜ松氏かというと、姫氏は『記紀』ではそれぞれ「木」 「紀」と書かれている。そして木(紀)氏は「日本列島の覇者」として「木の公(きみ)」 と呼ばれていた。それで「木」と「公」が合体して「松」氏と表現されるようになったとい う。
『魏略逸文』や『晋書』など中国史書には、「倭人は自ら『我々は太伯の子孫である』と 言っている」と繰り返し述べられている。『新撰姓氏録』では松野氏は「出自は(太伯の裔) 呉王夫差である」と記されている。
紀元前 12 世紀ごろ、周王朝(姫姓)の王子であった太伯はお世継ぎに選ばれず、弟とと もに南に逃げ、長江下流・江蘇省辺りに「呉(勾呉)国」を創建。夫差は呉国の最後の王で 紀元前 478 年、隣の越王・勾践によって滅ぼされ、自殺したという(『史記・太伯世家』『呉 越春秋』など)。
静嘉堂文庫所蔵系図に拠れば、夫差から数えて 17 代目ごろの「刀良(とら)」という女性 を「卑弥呼」と呼んだ、と特記している。つまり卑弥呼の本名は「姫の刀良」であろう。
◇紀氏一族・卑弥呼は熊本の菊池が本貫地
系図によると、夫差が自殺した時、一部の皇子や取り巻き人らは船に飛び乗って逃げ、黒 潮に乗って列島に到着(『通鑑前編』)。
とりあえず熊本県菊池市の「山門」に落ち着いたと いう。『倭名抄』に記載のある「山門(やまと)」だ。彼らはここを拠点にし、そこから九州 北部一帯に進出したという。
であるから、『魏志』にいう卑弥呼は福岡県とか佐賀県辺りにいたと考えられる。
注目されるのは、九州歴史資料館が 2001 年ごろ実施した太宰府に付属する防御施設「水 城」のC14 年代測定値である。11 層あった堤の補強材・敷ソダを測定した。それによると 最上部は 660 年±、中層部が 430 年±、最下部は何と 240 年±であった。
◇太宰府は卑弥呼が建設し始めた
要するに「太宰府」は現在言われているような「7 世紀後半の建設」ではなく「卑弥呼時 代に建設が始まった都市」だったのだ。
その可能性はあるの だろうか。「太宰」は中 国では殷代から存在し た伝統の官位で、周も これに倣っていた。
『史 記』や『呉越春秋』に、 「夫差が(部下の)伯嚭 を太宰に任じた」とい う記事がある。太伯は 周の皇子であったから、 取り巻きの官僚たちも 周の制度を踏襲したで あろう。
周の制度の中 に「太宰(たいざい)」 があり、勾呉国もそれ を踏襲していたことが わかる。
「太宰」は国家 の総理大臣格の職務で ある。 「倭人伝(いじんでん)」の記載から考えれば、AD1 世紀当時、北部九州を席巻してい たのはニニギらが創設した「伊都(倭奴)国」であった。
「倭国(いこく)の大乱」の結果、 「邪馬壹(いっ)国」の卑弥呼らが伊都国から支配権を奪ったと考えられる。
その卑弥呼勢力が造った可能性が高い都城に「太宰府」という名称を与えたのも「太伯を 祖と仰ぐ倭人(いぃのひと)」卑弥呼らである可能性が高い。
卑弥呼は、自身を宗主国と仰 ぐ「魏」の宰相格の人間であるとへりくだり、位置づけして自ら拠点にした。或は卑弥呼自 身を「親魏倭(いぃ)王」とし、部下の誰か、例えば難升米(ダン シュクマイ=団淑舞、 或は壇淑舞、或は段淑舞)を政権の「太宰」に任命して、その役所(府)とした、ことなど が考えられよう。
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