https://ameblo.jp/stone1289/entry-12756723566.html 【サンゴジュ】より
サンゴジュとしては大きな方ではないが、葉の傷みがなく、実の付き方もいい。
この季節に遠くから見ると樹全体が真っ赤に見えるものも見た事があるが、葉や実は結構傷ついていた記憶がある。
サンゴジュ(珊瑚樹[3]、学名: Viburnum odoratissimum または Viburnum odoratissimum var. awabuki)は、レンプクソウ科ガマズミ属に属する常緑高木である。暖地の海岸近くに生え、珊瑚に見立てられた赤い果実がつき、庭木、生け垣、防風・防火樹に利用される。
日本は自生地である。自生地というのと原産地というのでは意味が少し違う。
葉は虫食いだらけで穴が開いていたりするものが多い。若い木だからまだ被害に遭っていないのか。
珊瑚樹の朱き実房や長崎忌 斎藤朗笛 珊瑚樹のいただきくらきまで熟す 古舘曹人
海青く珊瑚樹は実を滝なして 村沢夏風 珊瑚樹のうちに鳥ごゑさき彼岸 岸田稚魚
珊瑚樹は熱風の吹き入りしまま 岡田史乃 尼寺の珊瑚樹鵯に実をこぼす 大島民郎
珊瑚樹の梢はづれの露地の月 京極杞陽
このサンゴジュは、家から庄下川迄、鉄路沿いの道を歩くと出会う。
「東芝」という日本を代表する企業の電設関連製品の販売や設置・修理・補修を手掛ける子会社の営業所の社有地のもの。全国に100カ所以上ある営業所の一つのようである。
今朝収穫した2個。3つ見つかれば、昨日の日日草のお礼に持参しようと思ったが、2つだったので迷っていたら、ワイフが冷凍保存していたものを取り出してきたので、朝採り2個の価値を維持するために、1個だけ加えて10時半過ぎに家を出る。
バジルも無事育っていて、なんども少しずつ収穫利用なさった伐り後を確認。
更には差し芽に挑戦中も確認。各種の盆栽仕立ても並んでいる。お店の北側で、真夏の直射日光が避けられている。
無事に茗荷の子3つを渡してニチニチソウの礼も行って、バス停前でスマホを覗くと11時06分。バス停の時刻表をみると11時06分発の便がある。慌てて乗車カードをカバンから取り出して待つこと1分以内でバス到着。予定変更でバスに乗車。乗車してから下車駅を選ぶ。市役所前で降りて橘公園辺りをうろつくか、西難波で降りて、熊野神社周辺を歩くかなどと。
「昭和通り8丁目」で下車。国道2号線沿いを歩く。
通りの北側に見える「熊野神社」の石碑。尼崎市内に残る石の道標30基を探索した時に
初めてこれを確認。石碑の下にここから北へ何丁などといった案内文が記載されている。
入江橋 蓬川にかかる橋。両岸は緑地になっている。左岸の緑地を歩くことにする。
緑地と名乗るだけに道は川沿いの1本だけではない。
水量は庄下川より多い。多いというより閘門のあたりでせき止められてあまり流れていない。
何本かの百日紅だけが彩である。
対岸のマンションの屋上。緑が多い 画像で見える以上に、森になっている感じがする。
左岸、阪神電車の北側の薔薇園。この前は右岸の薔薇園を見たが、ここも比較的よく手入れされている。見えている橋を渡っていけば、センタープール前へ。
東へ歩けば、すぐに出屋敷の駅前。↑の標識では1.6キロ先の尼崎駅を示している。
阪神電車の駅間距離はおおむね1キロ以下である。よって尼埼市内には、西から、武庫川、センタープール前、出屋敷、尼崎、大物、杭瀬 と阪急電車の駅数の2倍ある。
阪神電車出屋敷前の広場が新しくなったという記事を読んだので、出屋敷の方へ歩く。
昨日は貴布祢神社の祭礼であった。
駅前は噴水が無くなり、カラータイルが更新された。市の負担ではなく、近くの福祉法人の寄付だそうである。バス時刻表をみたら12時06分発があった。始発駅からの乗車は私一人。
また途中下車して庄下川の鯉にパンくずを投げて帰宅。13時過ぎの帰宅。歩いた歩数は8000歩余。
FacebookKNOB ノブさん投稿記事
何が起きようが そのすべてが導いていただき 守っていただき 必然であるからこそのこと
起きている この今に 意味を持たせること それは自分自身の 今の心ができる
この今をありがとうございます
この言霊は 魔法のような 予祝のような いつでも どこでも 自分次第で使える
奇跡の呪文です また 人生の先輩方 年齢を重ねておられる 長老の存在 その有り難さも
深く体感させていただいている日々 僕も一日一日 ひとつひとつ 大切に老いを結んでゆきたい この今をありがとうございます
KNOB拝
Facebook新田 修功さん投稿記事 花はただ、咲いている……🌷
読書セラピー「賢者の一言」
岡 潔
スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだ。
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花が咲いている……🌻 人が生きている……😊ただ、それだけで素晴らしいのです🙏💕✨😊明日も花のように素敵な一日をお過ごしください 🌷🌸🌼💕😊🙏
今日も読んでくれてありがとう🙏😊💕
https://note.com/e8ecef/n/nb5b1cb0bb5f6【スミレはただスミレのように咲けばよい】より
数学者の岡潔(おか・きよし)さんの言葉が好きだ。岡潔―日本のこころ (人間の記録 (54))から抜粋すると、以下のように語っている。
「私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。私についていえば、ただ数学を学ぶ喜びを食べて生きているだけである。」
スミレなのにタンポポの花を咲かせようとする人がいる。自分の本性を否定して、他の何者かになろうとする。
なぜ他の何者かになろうとしたかと言えば、不安を感じたからだ。ありのままでよしとされなかった。甘えられなかった。不安を感じて、身を守るようになった。身を守ろうとした結果、タンポポのように種を飛ばしてどこかにいきたいと思った。現状が辛かった。
スミレはスミレであるから、他の何者にもなれない。こう言うと今の現状が続くのか、お先は真っ暗だと感じる人がいるかもしれない。スミレはスミレにしかなれないが、そうではない。スミレだからこそできることがある。スミレだからこその楽しみがある。
スミレには多くの種類がある。花びらがピンクのもの、ブルーのもの、ホワイトみがかったもの。その花びらの形も様々である。花びらが均一になれんでいるもの、なんだか狐の顔のように見えるもの、花びらの先端を丸めたもの、その様子は様々である。
スミレだからといって、今のままであるわけではない。タンポポになろとしなくていいという話だ。スミレは、春の野に咲いている。それまではその野がなんと窮屈で何もないところであると感じたと思う。油断すれば大雨くる。地面がぬかるむ。時には踏まれて大怪我をする。常に臨戦態勢であった。
そんな春の野でも、太陽が注いで穏やかな時がある。ゆっくりと休息できる時だ。ゆっくりと休息していると、なんだか自分は大丈夫だと思えてくる。その暖かな日差しが注ぐその時に、脅威に感じるものはない。これまでは大変であったかもしれないが、その瞬間は確かに安全である。大丈夫である。
水を飲み、太陽を浴びたスミレは元気である。何かこうしてみよう、ああしてみたいという意欲が生れる。それは以前のタンポポになりたいという想いではない。エゴがない、安心した想いである。無理にこうしてやろう、ああしてやろうと思わない意欲である。
子供が走り出すかのように、自分ができることをする。根を伸ばす、葉を広げる。それはこれまでもできたことかもしれないが、以前とは違うことはのびのびとやっているところだ。今日はあと何センチ根を伸ばそう、今日はあと何時間日光に浴びようなどと思わない。目標を立てず、今できることを楽しむ。取り組む。
自分ができることをしているうちに、なぜだか他のスミレとは違い、食べることに困らなくなっている。以前はあんなにも大雨に怯えて流されまいとしがみついていたのに、今はしっかりと根が伸びて流されなくなっている。風が吹けば、そのしなやかな身体で風を流す。踏まれても、その太く丈夫な身体でまた起きる。身体についた他の場所の土を取り入れる。その養分は花の色を変え、ユニークな個体となる。
ユニークになると、他のスミレに特徴を持ったものがいることに気づき始める。香りが他と違うスミレ、姿が他と違うスミレ。それらは自分と同じように、置かれた場所で自分は大丈夫と思ってきた。目の前のことを楽しんできた。他のスミレが、どんなに仲間と同じ方がいいと言ってきたとしても、自分のやりたいようにやってきた。その結果、食べるものに困らず、ユニークになっていた。
ユニークになると、全然違う仲間が集まってくる。蜂や蝶。他のスミレとは異なるので、目立つ。他の仲間も多く集まる。様々な土地のことを知れる。新たな刺激をもらえる。他のスミレもそれがいいなと思い、真似をしようとする。しかし、タンポポの時と同様、自分の置かれた場所でできないことをしても、ユニークなスミレになることができない。その足場は岩であったり、砂利であったり、同じ春の野でも置かれた環境は異なる。なれる姿が違う。
そうして、攻撃してくるスミレが出てくる。自分は恵まれていないと嘆く。君だけが成功しているから、惨めな自分にも、その仲間を分けてほしいと懇願する。中には下手に出てその利益にあずかろうとするスミレもいれば、こいつはスミレではない、私たちとは違う突然変異だ、敵だと言ってくるスミレもいる。
中には、ユニークなスミレの真似をするスミレが現れる。密集したところで育ったスミレであったので、葉を真っ直ぐに伸ばすことで、太陽を取り入れようとした。それがその環境では一番やりやすく、無理のないことだったからだ。他のスミレは、どんどん高くなることを選んだ者もいる。やりやすいことを続けていると、いつしかユニークなスミレ同様、食べ物に困らなくなっていた。ユニークなスミレの技を真似して、花びらの色を変え、ひねりやねじりを加えることで、より美しい姿になろうとするスミレもいた。
攻撃してくるスミレが出てきても、自分の後を辿ってさらに高みに行くスミレをがいても、ユニークなスミレは構わない。その姿はタンポポになろうとした自分と重なり、理解できる。そうして、ただそこにいることを選択する。攻撃するスミレを受け入れる。高みに行くスミレを受け入れる。そうして、ユニークなスミレは、また新たな冒険を始める。仲間になった蜂から、他の春の野に散歩に行こうと誘われる。ユニークなスミレは、自分の花粉を蜂に分けて、新たな世界への冒険に出る。
ユニークなスミレがいた春の野は、それは鮮やかな春の野になっていた。しかし、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことである。
https://note.com/bird_24/n/n9984de95df0a 【岡潔「スミレはスミレのように」】より
天才であり、変人としても知られる数学者の岡潔は、文学にも精通し、文筆家として代表的な随筆も残しています。
その随筆に記された名言として有名な言葉が、「スミレはただスミレのように咲けばよい」という一節です。
スミレは、道端に咲く春の花で、紫色の花を咲かせ、都会でも、コンクリートの隙間から咲きます。
一見、「スミレはただスミレのように咲けばよい」と言われると、何も変化する必要はない、スミレはただスミレのまま、一生変われない、といったマイナスの意味合いを帯びているようにも聞こえるのではないでしょうか。
しかし、岡潔が実際に随筆に書き綴っている「スミレ」の前後も読むと、その意味がより深く伝わってきます。
私は、人には表現法が一つあればよいと思っている。それで、もし何事もなかったならば、私は私の日本的情緒を黙々とフランス語で論文に書き続ける以外、何もしなかったであろう。
私は数学なんかをして人類にどういう利益があるのだと問う人に対しては、スミレはただスミレのように咲けばよいのであって、そのことが春の野にどのような影響があろうとなかろうと、スミレのあずかり知らないことだと答えて来た。
岡潔『春宵十話』
スミレは、人類全体の利益がどうということを考えるわけでもなく、春の野にどういう影響があるかと考えているわけでもありません。
スミレがそのことを考えようにも、あずかり知らないことであり、スミレはスミレのように咲く以外にない。
言い換えるなら、周囲のことを気にしても仕方がない、あなたはあなたの咲けるように、目一杯に咲きなさい、ということでしょう。
生きている意味とは何か、こんなことをして何の役に立つのか、という疑問が、内外から襲いかかってくるとき、いったん、そういった問いは捨て去り、自分は自分の咲かせられる花をただ咲かせればいい、「スミレはスミレのように咲けばよい」のだ、と岡潔の言葉を振り返ってみるといいかもしれません。
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