https://ocean4540.com/essay/%e6%ad%b4%e5%8f%b2%e8%80%83/takuya-satou/%e3%82%b9%e3%82%b5%e3%83%8e%e3%82%aa%e3%81%ae%e8%b6%b3%e8%b7%a1%e2%91%a6%e3%80%80%e3%82%b9%e3%82%b5%e3%83%8e%e3%82%aa%e6%97%8f%e3%81%ae%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%83%84%e3%81%af%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e5%8d%97/ 【スサノオの足跡⑦ スサノオ族のルーツは中国南部にある(佐藤達矢 稿)】より
中国、東晋の干宝という人物が4世紀に書き残した書物「捜神記」に、きわめて興味深い逸話があります。その話はあの、スサノオ族の出自を暗示しているとも思えるからです。
その逸話とは、「捜神記」巻十一266「首の仇討ち」という物語です。
その内容は、・・・「楚に干将・莫邪という夫婦がいた。夫の干将は楚王のために三年かかって雌雄二振りの剣を作り、雌の剣を楚王に献上したが、王は剣の完成が遅れたのを怒り、干将を殺してしまった。干将は王から殺されることを事前に察知しており、「雄の剣は石の上に生えている松の木の根元に置いてある」と莫邪に言い残し、彼らの息子がそこを調べたところ、雄剣が見つかり、息子はそれを持って楚王のところに復讐に行った・・・」。
・・・話はまだ続くのですが、ここまでで十分です。
なぜこの逸話がきわめて重要なのかと言いますと、「石の上の松の下にある剣」とは、日本の石上神宮の名前の語源となった剣、すなわち石上神宮のご神体である、神剣「布都斯御魂」であり、干将が王に献上した剣は同じく御神体の「布都御魂」に間違いないと思われるからです。
これまで見てきましたように、「布都斯御魂」はスサノオの剣、「布都御魂」は建御雷命の剣、そして楚国最後の王・熊負芻の剣でもありました。
スサノオ族は朝鮮半島から日本の出雲地方に渡ってきたと考えられるのですが、決して朝鮮半島に土着していた民族ではなく、その前にどこにいたかというと、どうやら中国南部、この捜神記の逸話の舞台になった場所にいたと推測されるのです。
この話の中で、「干将の墓は中国汝南郡、現在の江西省宜春県の境」と明記されています。
その土地こそが、スサノオ族の故郷だと思われます。
下のウイキペディアの地図でその位置をご確認ください。
この時代、中国には数十、あるいは数百の民族が入り乱れて居住していたようです。
民族は時代とともに混合しあうものですが、現代でもなお江西省だけで38系統もの民族がいるようですから、古代にはもっと多様な民族がいたことでしょう。
そして、現代の江西省の中にも朝鮮族、満州族などの北方系民族や、チワン族、ミャオ族など、日本人とよく似た生活習慣や文化を持ち、容貌もよく似ている民族がいます。スサノオ族はそれらの民族の中の一部族だったのかもしれません。
興味深いのは、このエピソードの主人公であり布都御魂の製作者である干将と、捜神記の作者干宝の名前には、いずれも北方遊牧民族の首長であることを表す「干」という文字が使われていることです。この「干」という字はチンギス干などモンゴル人の首長の職位でもあり、かつ、朝鮮半島においては新羅国の王の職位でもありました。・・・記紀によりますと、スサノオが高天原から移動して行った先が新羅のソシモリという場所です。これは偶然の符合でしょうか?
また、春秋時代の呉国の別称もまた「干」でしたので、干将は呉国の出身だったのかもしれません。そして彼が楚王から殺された遠因はそのあたりにあるのかもしれません。
ちなみに干将が呉国の人であったなら、あの太伯と血縁がある可能性もあります。
また、「干将」という名前はどうも個人名ではなく職掌のような気がします。そのまま「干国の将軍」とも読み取れますし、この話の作者の「干宝」という名前は「王の下にいる逸材」という意味にも受け取れます。そして両者が親族だった可能性も考えられます。
彼らは江西省においては王族ではなく、滅ぼされた呉国の民であった可能性が高く、優れた剣を生み出す技術を持っていたため楚に召し抱えられとしたら、楚王は彼らを登用する一方で彼らに対する警戒を解かなかったことでしょう。そのため、剣の製造の遅れを理由に干宝は誅せられることになり、干将は雌の剣「布都御魂」だけを楚王に献上したものの、雄剣「布都斯御魂」は家宝として一族に残し、これを持ったスサノオ族は北上して朝鮮半島に行くことになったものと思われます。
残念ながら、干将が仕えていた楚王が何代目の何という名前の王であるのかは書き記されておりません。物語は、殺されて首だけになった干将の息子がそれでも楚王をにらみつけ、ついには同じ釜で楚王の首とともに煮られるという怪奇な終わり方をしており、そのため楚王の正体を書けない事情があったのだろうと思われます。
ただ、歴代の楚王はすべて「熊」という姓を持っています。この「熊」氏のいずれかの王であったことは間違いなく、「布都御魂」は国宝として楚国最後の王・熊負芻まで引き継がれたようです。熊負芻の発音は「shion fu chu」。シオン布都と読めます。したがって「布都御魂」とは、楚国代々の王の魂が籠った剣、という意味に解釈できます。
朝鮮半島に「高天原」が出現したのはBC1世紀ごろだろうと私は考えています。・・・
とすれば、スサノオ族の楚国出奔はおそらくその少し前のことだと思われます。
干宝の没年はAD336年。彼の時代からは3~400年位昔の事跡を書き留めたもので、もともとこの話は口伝により伝承された物語であったと思われます。
この干宝のいた東晋という国は、三国時代の末に中国を統一した晋王朝の司馬炎の子孫が南に移って建国した国で、干宝は三国志の時代の逸話も多く書き残しています。
捜神記に登場する左慈、于吉という妖術を使う仙人は「三国志演義」にも登場します。三国志演義はかなりな量の内容、それも怪奇なエピソードばかりを捜神記から拝借しており、その意味では干宝は三国志の原作者の一人とも言えるでしょう。
そして、どうやら干宝は道教の素養もあり、後の陰陽道や祈祷術など日本特有の呪術の元祖のような人物でもあったようでもあります。もしかしたら八咫烏、鴨氏等のルーツかもしれません。
また、すでに多くの人々が指摘していることですが、この捜神記の逸話からも、スサノオ族はやはり優れた製鉄加工技術を持った集団だったことが裏付けられます。
近年になってシルクロードの北方に「アイアンロード」という製鉄技術伝播の道があることが発見されました。この道筋にはずっと製鉄所や鍛冶工房の遺跡が並んでおり、考古学的に確かな裏付けがあります。
私は今回「スサノオ族の故郷は中国江西省である」という説を提唱しました。しかし、実はそこもひとつの停泊地でしかなく、彼らの真の故郷はずっと西方にあることでしょう。
その足跡はアイアンロードを辿って、匈奴、タタール、スキタイやヒッタイト族の故郷に向かって行くことでしょう。言うまでもなく、鉄の加工技術を発明し、伝播したのは彼らなのですから・・・・。
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以前、スサノオの八岐大蛇退治について触れたとき、「八岐であれば首は九つあったのではないか?」と書いたところ、「古事記には八頭とはっきり書いてある」という指摘を受けました。
たしかにそうなのですが、ここは古事記特有の表現で、実際にはこの八岐大蛇の首は九つあったのではないかと私は考えています。
その理由を書くとかなり長くなってしまうのですが・・・。
まず、この八岐大蛇の物語は世界中にある複数の頭を持つ龍の伝承から型紙を借りていると思われます。
複数の頭を持つ龍について、古事記編纂時にどのような伝承が集められていたかと言いますと、
①新約聖書黙示録に「七つの頭と十本の角のある竜」の記述がある。
②ギリシャ神話にヒドラという龍の記述があり、九つの頭を持つ。
③インドに蛇神ナーガがあり、五~八の頭を持つ。
④中国に八大龍王があり、仏教の守護神とされる(八頭ではなく八体ある)。・・・などなど。
古事記が編纂された時代以前の古墳からペルシャやローマ製と思われるガラス器などが発掘されていますので、古事記の時代には交易商人などを通じて世界各国の伝承話が日本に伝えられていたと思われます。
この他、日本だけでも九頭龍、五頭龍など、様々な複頭龍の伝承がありますし、ほかにも複頭龍の伝説となるとシュメールやメソポタミア、東南アジアなど世界中に伝承が残されています。
古事記の作者はそのような伝承のいくつかを伝え聞いて知っていたに違いなく、その中から「八頭の龍」という意匠を選択したものと思われます。
それはなぜか? これにはいくつかの理由がありますが、最大の理由は「八という文字が吉祥数だから」です。
古来、中東のカバラや中国の易経などで、数字というものはそれ自体が重要な意味を持つと考えられてきました。ことに日本や中国においては「八」は大吉祥数で、それ自体がたいへんおめでたい意味があり、子孫繁栄や商売の末広がりを象徴するものとして、現在でも大切にされています。
スサノオの大蛇退治においては「八つの頭を斬り落とした」ということの数字上の意味が非常に大切で、これはスサノオが日本に繁栄をもたらす礎を作ったことを暗示しています。
ちなみに、「九」は大凶数とされ、非常に忌み嫌われます。世俗的な「苦に通じる」という意味だけでなく、この数字の放つ霊的波動が破滅を誘導すると考えられたのです。
また、「八」という数字には「非常に多い」という意味があります。
古事記という書物は詩文として読んでも非常に優れたものがあり、文章がリズミカルで美しい響きがあり、また、随所に文学の修辞法が使われています。
「八岐」という言葉には八つの頭という意味のほか、「多くの頭」「多くの分かれ道」八つの枝分かれした場所」等の意味があり、この言葉を使うことで「八岐大蛇」という言葉には様々な解釈が生じ、それが現在までの論争の火種にもなっているのですが、これは古事記の作者が意図的に数種類の解釈が可能な言葉を選んだ結果であり、この言葉が使われたゆえにスサノオの大蛇退治はその作品世界を大きく広げているわけです。
これは詩作の上では「Double Meaning」と呼ばれ、ノーベル賞を受賞したボブ・ディラン等が得意とする手法です。複数の解釈が可能な言葉を使うことで作品解釈の幅や奥行きを広げ、複雑で深遠な詩的世界を作り出す技法です。
大元出版の本の中には、「古事記の真の作者は太安万侶ではなくて柿本人麻呂である」という指摘がありますが、もしそうだったとしたら、古事記が詩的修辞法を縦横に駆使して美しく描かれていることにも納得が行きます。人麻呂は「歌聖」とまで言われた天才的歌人でしたから・・・。
ちなみに人麻呂の生存年代は660~724年。古事記の成立は712年です。
そして、もし、人麻呂が詩文としての美しさを優先して大蛇の頭を「八岐」としたのであれば、実際の伝承では頭の数が違っていたのではないか?という疑念が生じるのです。
特に私が、実際の史実として可能性が高いと考えるのは、「八岐大蛇は実際には九頭龍だったのではないか?」ということです。
九頭龍伝説は長野県や千葉県などに残されており、長野県の戸隠神社等に祀られています。そのルーツを辿ると朝鮮半島を経由して中国方面から伝えられたもののようで、伝承地を見ますと、どうやら出雲方面から渡来人に迫害されて逃げのびた人々の信仰する神だったのではないかという印象を受けます。
再び大元出版の本によりますと、スサノオは出雲渡来時に先住民族に藁の蛇を祀る習慣があるのを嫌って、彼らの神棚に供えてあった藁蛇の像を斬りまくって破壊するという暴行を働き、このときの記憶が八岐大蛇退治として伝えられた、と書かれています。
このことから考えますと、出雲地方に武御雷命やスサノオが渡来した時、やはり先住民との間に戦争が起こっており、先住民の武御名方命は信州の諏訪に逃げ、「八岐大蛇」と呼ばれた一族は同じ信州の戸隠地方に逃げたのではないか、と推測されます。
一見、華麗なる英雄譚として書かれている八岐大蛇退治ですが、こういうストーリーこそ、裏に血なまぐさい史実が隠されているものなのです・・・。
ところで、「八岐大蛇」という単語は「八大竜王」に通じるものがあり、これは仏教の守護神として尊崇されています。「九頭龍」もまた仏教神としての性格も備えていて、この両者はルーツを一つにするものなのではないかと私は考えています。
複頭龍の意匠の源流はインドの「ナーガ神」信仰にあると思われ、お釈迦様の活躍されたインド東北地域で信仰されていたことから、いつしか仏教の守護神とされるようになったものと思われます。
ところで、ナーガというのは雄の龍で、雌の龍はナーギと呼ばれます。
古事記の世界を読み進めるとき、これに似た響きの名前に良く出会います。
たとえば、イザナギ、渚武(ナギサタケ)ウガヤフキアエズノミコト、草薙剣、・・・。
出雲の銅鐸の古名はサナギ。
いっぽう、スサノオが八岐大蛇を斬って助けた人々の名は手長椎・足長椎。
神武天皇が畿内で戦った相手の名がナガスネヒコ。
ナーガ対ナーギの戦いがそこに示唆されているように思えるのは、私だけでしょうか?・・・。
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大元出版の書物によりますと、出雲王朝はインドから渡来したドラヴィダ人が興した王朝だということです。
これが事実なら、私にはひとつ、非常に気になることがあります。それは、古代の朝鮮半島にも、金官伽耶国というドラヴィダ人の王朝があった、ということです。
前にも書きましたが、金官伽耶国の初代王・金首露の正妃は許黄玉というドラヴィダ人でした。この許黄玉の出自はインド・サータバーファナ王国の王家にあり、母系相続の家でしたので、国王になる資格を持った人物でした。
中国が前漢~新~後漢と目まぐるしく王朝が後退していた時代、許黄玉はインドから現在の中国・四川省に入り、そこから武漢を経て朝鮮半島に渡り、首露王の妃となったのですが、ドラヴィダ人である許黄玉がどうして朝鮮半島にやってきたのか?ということが謎のままでした。
しかし、日本の出雲国がドラヴィダ人国家だったとしたら、その謎が解けてくるのです。
中国に秦や漢といった大帝国ができたとき、周辺にいた異民族たちは迫害を受け、中国の国土から追い出されました。ドラヴィダ人もそのひとつですが、同時に迫害を受けた民族にアジア系遊牧民族たちがいました。
強大な秦や漢に対抗するため、彼らは異民族同士で同盟を結成し、共同戦線を張ろうとしたはずです。
この遊牧民族の代表者が、月氏や鮮卑、姜などと呼ばれた民族でした。この中に首露王の先祖もいて、彼らは中国北方から高句麗を経由して伽耶山に到り、洛東川を下って現在の韓国・金海の地に金官伽耶国を建国しました。
この地は漢の帝都から遠く、軍隊を派遣しにくい土地です。さらに、海を越えて出雲国に到ればドラヴィダ系の親族たちが多く住んでいて、結束して国を守ることも可能でした。
出雲にいたドラヴィダ人としては記紀に登場する塩土老翁や猿田彦があげられますが、彼らは海上交通を取り仕切っていた交易商人でもあったようで、彼らが故郷のインドから許黄玉という国王の血筋を引く女性を招聘し、当時の倭国連合の中心地ともいえる金官の地に新たな国家を作ったわけです。それは、いわば「東サータバーファナ王国」とも呼ぶべきドラヴィダ人王朝でした。
ところで、この金官伽耶国(東サータバーファナ王国)の金首露王ですが、この人は記紀などに登場する「高御産巣日神(高皇産霊神)」に相当する人物ではないかと私は考えています。そして、先日、上野俊一氏から重要な情報をいただいたのですが、上野氏によりますと、日本の伊勢神宮のご祭神とは別にヤマトでは、この「高御産巣日神」を祀っていた可能性があるようなのです。
これまで見てきましたように、スサノオは金首露王と許黄玉妃の暮らしていた金官伽耶国のすぐ隣にあった「伊西国」という国の神を奉戴し、新羅のソシモリという場所から出雲へと渡航、そこから丹後の籠神社を経て元伊勢と呼ばれる場所を転々とし、最後に伊勢の地に伊西国の神様を鎮座せしめています。
伊勢神宮のご祭神が高御産巣日神だったとすると、それは首露王であり、スサノオは首露王の菩提を弔い、祭祀を継続するために日本に伊勢神宮を作った、ということになります。
あるいは、スサノオは首露王と許黄玉二人の御霊を守るため、二人の位牌を御神体とし、祖先への祭祀を欠かさぬよう、そして太陽信仰族であった二人を朝日の見えやすい伊勢の地に祀ったのかもしれません。
ところで、古代史を考えるとき陥りがちな錯覚の一つに、現代の世界地図の感覚で国境をとらえてしまう、という誤謬があげられます。この時代の「倭」という地域は日本列島に留まらず、朝鮮半島の南半分、そして場合によっては中国の沿海部の大半をも含む広大な地域でした。
金官伽耶国のあった南朝鮮は、地理的に、当時の「倭」の中心といって良い場所だったのです。そして金官は鉄鉱石の大産地でもあり、この地を手中にしたものが軍事的に圧倒的な優位を築ける場所でもありました。
スサノオは首露王とほぼ同時期に伽耶に来て、同じ高天原という場所に住んでいます。
記紀によりますと、ここで首露王の一族(天孫族)との間に軋轢が生じ、乱暴狼藉を働いたとして追放されますが、やがて許されてアマテラス(首露王の娘のひとりか?)と結婚、宗像三女神など多くの子供を誕生させています。
そのアマテラスや宗像三女神を祀る神社が朝鮮半島には存在せず、日本に多くあるのは、伽耶諸国や新羅、百済といった国がやがて滅ぼされ、倭人たちが半島から駆逐されたことを物語っています。彼らはすべて、現在の日本人の祖先の一部でした。
スサノオは、金官伽耶国と新羅国の間にあった伊西国という国の神を現在の伊勢神宮に移すわけですが、新羅という国が金官伽耶国と同時期に誕生し、伽耶国が滅びた後は伽耶の遺臣を取込み、伽耶国と合体した形になっていることから考えますと、伊西国の神様が首露王夫妻だったとしても不自然ではありません。
また、現在の伊勢神宮のご祭神がアマテラスであるということも、首露王と同じ天孫族の代表者として祀られているのであれば、まあ許容範囲なのかな、とも思えます。
こうしてみますと、天孫族とは、ドラヴィダ系インド人の母方と遊牧民族系の父方を持つ王族が倭人社会の中に入って建国した国の王族であり、出雲族とはやはりドラヴィダ系インド人が倭人社会に入って混交することによって出来上がった国だということになります。
そしてスサノオ族は、その気性の激しさや布都斯御魂のルーツなどから、北方遊牧民族であると思われるのですが、その出発点は首露王と同じく北イスラエル王国にあり、どちらも10氏族の系譜を引き継ぐものではなかったか?と私は考えています。
スサノオは高天原で乱暴狼藉を働いたり、出雲国で御神体の藁蛇像を破壊して歩いたりといったエピソードも多く残っていますので、天孫族や出雲族とはしばしば対立関係にあった時代も多かったようです。その対立していた時代に起こった事件が八岐大蛇退治であれば、これはスサノオ族と出雲族の戦いを暗示しているのかもしれません。出雲族の神が蛇体であったという説にしたがえばなおさらそういうことになります。
しかしながら、相争った民族が最終的には政略結婚して融合するというのが日本の歴史の特色です。スサノオ族は天孫族とも出雲族とも婚姻を結んで同化しました。そのため、現代の日本人にとっては、アマテラスもスサノオも、出雲の大国主もみな、変わらぬ重要な祖先たちとなっています。
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出雲王家に伝わる伝承では、神武天皇という人物は実在せず、古事記における神武天皇譚とは、徐福の孫にあたる天村雲命という人物が大和地方の王になった史実をもとに創作された逸話のようです。
古事記(日本書紀もほぼ同じ内容)における神武東征の物語は、この天村雲命を神武天皇に置き換え、さらに何人かの人物の逸話を足して、あたかも神武天皇が九州から大和地方に遠征をして王権を築いたような物語に仕立て上げられたもののようです。
今回はこの古事記の神武東征譚が、なぜ、どのような史実をもとに作られたものなのか?ということを分析してみたいと思います。
まず、東征のスタートとなる高千穂から大和に向かう行程は、ヒダカサヌという、ウエツフミに記されたウガヤフキアエズ王朝第73代の王がモデルになっているようです。
古事記ではこの人物を五瀬命の弟として設定しておりますが、実際にはヒダカサヌと五瀬命の間には血縁はなかったたようです。
宇佐公康氏著の「古伝が語る古代史」という本においては、神武天皇は東征の途中、現在の広島市で死亡し、宮島の弥山に葬られたと書かれています。
宇佐氏の記述は宇佐神宮の代々の宮司家に伝わる口伝であり、信ぴょう性の高いものですが、それによりますと、神武天皇は宇佐に進軍した際に、地元の豪族・ウサツヒコの妻であったウサツヒメを自分の妻として迎え、宇佐を統治下においたのちに広島に向けて進軍した、という説明になっています。
古事記では、神武がウサツヒメを迎えるところまでは同じですが、その後、福岡(岡田宮)、広島(埃宮)、岡山(吉備宮)の宮を何年もかけて進み、最終的に大和に入ったことになっていますが、実際には一人目の神武天皇は広島で死んでいるのです。
広島以降、神武天皇が大和に入るまでの記紀の記述は、五瀬命の東征譚をなぞって描かれています。この「五瀬東征」は実際にあった物語であり、名草戸部という女酋長に毒矢を射かけられて五瀬命が死亡、竈山に葬られたというところまでは真実のようです。
が、実際には五瀬東征は五瀬の死によって失敗に終わり、五瀬軍は退却しています。
この先が古事記の作ったフィクションで、五瀬の弟・御毛沼命が伊勢から熊野道を回り込んでナガスネヒコの本拠地を奇襲、見事に破ってヤマト王権を確立させた、ということになっていますが、これは先述のように、天村雲命の大和入り・王位就任の史実をあたかも神武天皇が行ったかのように、架空の戦いを作り出して描いたもののようです。
なぜこんな欺瞞を書かねばならなかったかと言いますと、記紀が編纂された理由が「日本という国の独立性を中国に認識させるため」であり、中国人であった徐福の孫・天村雲命が開いた王朝が日本国の始まりであるということは絶対に秘さねばならない状況の中で書かれたものだからです。
ところで、当時、日本の南九州地方には熊襲国があり、この国は数千年の歴史を有しておりました(実際に、この地から6千年以上前の土器等が発掘されています)。
約3千年前、中国の周王朝の時代、大伯という人物が弟に王位を譲るため、王城を出奔して熊襲国に来た、という伝説が残っています。以降、中国は日本という国を大伯の末裔の国と認識していたようで、中国に残る多くの古文書にそのことが書かれています。
こうしたことから、記紀は神武天皇の出自を熊襲国であるように暗示し、大伯の墓があるとされる高千穂を神武東征のスタートラインに設定したようです。
大伯は周の文王の兄にあたり、中国史上でもトップクラスの名家の血筋になります。この人物が祖であるということは、記紀編纂当時の唐王朝の皇帝でも手出しが許されない国、と主張することができるわけです。
このため、神武天皇は熊襲王国から出た大伯の末裔の王、という設定で記紀に描かれ、徐福の名前は完全に消されました。
ところが古事記の作者には、虚構を描きながらも「なんとかして真実を伝えたい」という強い思いがあったようで、細部をよくよく読んで行くと、神武天皇が徐福ゆかりの人物であることがだんだんわかってくるような細工がしてあるのです。それは記紀と出雲伝承を比較参照することで明らかになるのですが、この部分を具体的に見て行きましょう。
① 古事記において、神武天皇が熊野山中で敵の毒霧を受けて全員昏倒したとき、高倉下という人物が現れて神武を救出する。この高倉下は出雲口伝によると徐福の子供であり、彼が神武を蘇生させるのに使った「布都御魂」という剣は徐福の剣である。
② その「布都御魂」がいかに重要な「生命蘇生の剣」であったかということを示すため、熊野山中において神武軍は全滅の危機に陥り、神武自身も昏倒して瀕死の状態になったところをこの剣によって救われた、という記述になっている。
③ その舞台となった熊野という土地は、徐福の子である高倉下が住み着いた場所で、徐福の子孫が熊野信仰を広めた場所である。
④ 神武がナガスネヒコを倒したとき、その義父として饒速日が登場するが、出雲口伝によれば、この饒速日とは徐福のことである。
⑤ 饒速日は神武天皇と同族であり、互いの神宝を見せ合うことでそれを確認する様が古事記に描かれているが、これは神武天皇が徐福の血を引いていることを暗示している。
⑥ 神武天皇が大和入りの後に結婚した蹈鞴五十鈴姫は、出雲口伝では天村雲命の妻となった女性である。つまり、記紀は配偶者を明記することにより神武の正体を暗示している。
・・・いかがでしょうか? 記紀の神武東征譚は、フィクションではありますが、これほどまでに精緻に徐福との関連を織り込んだ物語なのです。それは決してデタラメに描かれた偽書というべきものではなく、「時代の制約があって自由に描けない中で、なんとかして真実を後世の人に伝えたい」という作者の苦心が結実した精妙な暗号ともいえるもので、特に古事記を書いた作者の、複雑で豊潤な物語の作成能力には驚嘆の思いを禁じえません。
神武東征の物語は普通に読んでもドラマとして非常に面白いのですが、登場してくる一人一人の人物にしばしば裏の意味があり、その出現の場面や行動に様々な謎解きが込められているのです。それは極めて精巧に作られた推理小説とも言えるものであり、斉木雲州氏が「古事記の作者は太安万侶ではなくて柿本人麻呂である」と主張しているのも、「さもありなん」と思えます。人麻呂は「歌聖」と呼ばれるほどの天才歌人でしたから・・・。
(図は左が出雲口伝による系図で、右が記紀による系図。神武天皇に到るまでの人物の違いに注目!)。
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徐福について、改めてその人の素性と行いを検証してみたいと思います。
徐福は古代の伝説の王・黄帝の血脈を引き、山東半島に勢力を張った徐国の王家の嫡子。
当時の中国全体を俯瞰しても、名門中の名門の御曹司だったわけです。
しかし、徐福が成人した頃には徐国は斉という国に取って代わられており、徐福はその斉国の丞相となっていました。
その斉国も秦の始皇帝に滅ぼされ、徐福はやむなく始皇帝の配下となり、始皇帝の命を受けて、不老不死の仙薬を探しに日本にやってきます。
この徐福の行動について、「始皇帝を騙して日本に亡命した策略家」としてとらえている文章が散見されますが、これは見当違いです。
徐福は始皇帝の命に忠実な家臣であり、まじめに任務を遂行しておりました。
それは、彼が日本全国の、三十か所以上もの地域に上陸した伝説を残していることからもわかります。また、日本のみならず、徐福は朝鮮半島の各地にも上陸伝説を残しており、彼がいかに熱心に不老不死の薬を探して歩いたかということがうかがえます。
中でも、韓国・済州島の漢拏山と日本の富士山には濃厚な徐福伝説が残っており、これらの山を伝説の蓬莱山ととらえ、山腹をくまなく探索して歩いた徐福の姿が彷彿されます。
徐福が日本に出発してから1年ほどで始皇帝は亡くなっており、徐福は風の便りでそれを知ったのかもしれません。当時から日本と大陸の間で交易は行われていましたので、そうした交易商人と徐福は会っていた可能性があります。
始皇帝が死に、秦が滅びたことを知った徐福は、帰る場所を失いました。
このとき、不老不死の仙薬を探すという使命も消滅したはずですが、それでも徐福は仙薬探しをやめませんでした。
それはおそらく、方士としての徐福の研究心と、真実を見極めたいという執念によるものだったでしょう。韓国と日本をくまなく捜し歩くという行動は、とても一年や二年でできるものではなく、時間も経費も膨大にかかるものであり、単なるミッションの遂行とはとらえきれないものだからです。
「方士」という言葉をウイキペディアで調べてみますと、「方士とは、紀元前三世紀から西暦五世紀の中国において、瞑想、占い、気功、練丹術、静坐などの方術によって不老長寿、尸解(羽化)を成し遂げようとした修行者である。」と書かれています。
徐福は始皇帝に仕える前から方士でありましたので、不老不死の仙薬を探すのは本人の願望でもあったわけです。この、方士としての徐福の熱意が日本中、韓国中を旅し、伝説を各地に残したと考えられます。
また、不思議なことに、徐福の子孫と言われる人々は、本国の中国に留まらず、日本、韓国、台湾にも残っています。徐福の死後二千二百年も経過した現在でもそれだけの子孫を残しているということにも驚嘆させられますが、子孫が広がった範囲の広さにも驚かされます。しかも現在はそのすべての地域に「徐福協会」なる団体が設置され、日々、徐福の研究が行われているようです。
そして、日本においては、徐福こそがヤマト王権確立の母体となっており、徐福の孫である天村雲命がヤマト入りして磯城王朝を樹立した史実をベースとし、同じく徐福の子孫である物部氏の系譜を引く五瀬命がヤマトに攻め込んだ史実を合わせ、記紀の「神武東征譚」は書かれているようです。
記紀には徐福についての記述はどこにも書かれておりません。これは、当時の編纂者が日本の歴史を中国とは関係のない、独自の歴史を持っているものとして編纂する必要があったためで、そのため中国と関係の深い徐福や卑弥呼の記述は削られたのですが、記紀をよく読み込んでみると、徐福の名前こそ登場しないものの、徐福(あるいはその子孫)の行跡を神武という名前にすり替えて語っているようなところがあり、まったくのデタラメとは言えない書物であることがわかります。
記紀の場合、大まかな歴史の流れや国家成立の過程などはきちんと整理されて書かれていますが、人名や場所、時期等を相当に入れ替えており、真実の歴史がわからないように細工されているといっても過言ではないほどの改ざんが見られます。
しかし、よくよく読むと、「これは実は○○のことを言っているのではないか?」と思える箇所がたくさんあり、他の古史古伝の内容と比較対照することによってそれは浮かび上がってきます。
現在の日本の歴史教科書には、卑弥呼の記述は会っても、徐福の記述はありません。
それは単なる伝説として取り扱われています。
しかしながら、日本最初の統一王朝であるヤマト王権の発祥を考えるとき、そのルーツは徐福なのです。この点において徐福は日本古代史上の最重要人物と言っても過言ではなく、われわれは神武天皇という架空の存在よりも徐福のことを、まず、覚えておかねばなりません。
しかし、残念ながら、徐福渡来の「決定的証拠」はまだ出て来ておりません。このことが徐福を単なる伝説として扱う論者の格好の理由になっているのですが、もし、その決定的証拠がどこかで出土したら、歴史の教科書は書き換えられることになるでしょう。
徐福が滞在したと思われる吉野ケ里遺跡からは、中国から渡来したと思われる機織り機や、始皇帝使用のものと酷似した両刃の西洋風な銅剣などが出土しています。これらに加え、方士の扱っていた仙術の道具とか、始皇帝時代の文書、官位を示す冠などが出土すれば確かな裏付けとなりうるのですが、そういた遺物はまだ出土しておりません。
徐福の墓と呼ばれる場所は日本にいくつかあるのですが、そこに本当に徐福が眠っているのかどうかは判然としません。もともと徐福が方士として行っていた修行法のひとつに尸解(しかい)というものがあり、これはいったん死ぬことによって仙人になるという秘術で、これを行った修行者はその死体も残さずに、他の離れた土地で仙人となるそうです。
徐福がこの尸解という仙術を行ったのかどうか?・・・これもはっきりしませんが、古事記にはこの尸解とよく似た、神武天皇の蘇生譚があります。
熊野山中で倒れ、虫の息となった神武天皇のところに高倉下という人物が現れ、布都御魂という神剣を振るうと神武が忽然と目を覚ます、というストーリーですが、この高倉下は徐福の孫、神武天皇もまた天村雲という徐福の孫がモデルであったことを考えると、古事記はこんなところにも、古代史の真の主人公がだれであったのか、というヒントを提示してくれているのかもしれません。
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始皇帝の命で不老不死の仙薬を探すため日本に向かったとされている徐福ですが、その足跡は日本のみならず、朝鮮半島や台湾にまで及び、各地に伝説が残されています。
たとえば、現在の韓国の済州島にある西帰浦という市には、かつてその町に徐福が来航し、島にある漢孥山を蓬莱山と見立てて仙薬を探したが、見みつからかったので西の方角に帰って行ったという伝説が残されているようで、市の名前もその伝説に由来するようです。
この西帰浦市は済州島の南に位置しており、その港からはすぐに日本に向けて出航できる地勢を持っています。
また、朝鮮半島の本土にも、蓬莱山、瀛洲山などという名前の山があり、やはり徐福の渡来伝説が残されているようです。
徐福渡来の伝説は日本列島にも数十か所にわたって残されていますが、それだけにとどまらず、彼が驚異的なほどに広い地域を探検して歩いていることがわかります。
こうしてみてみると、徐福が始皇帝を騙して莫大な出費をさせ、日本に逃亡したという説は誤りであり、徐福が比類なき忠臣であり、自分の職務に忠実に、全力で不老不死の仙薬を探していたことがわかります。
・・・その一方で、徐福とスサノオとの関連を考えるとき、どうしても理解できない不思議な事象があります。それは、出雲王家口伝の系図の中に、徐福の父を徐猛、徐福の母を栲幡千千姫とする記述があることです(富士林雅樹著「出雲王国とヤマト政権」大元出版 他)。
徐猛という名前は中国人の名前として問題なしとして、問題は栲幡千千姫のほうです。
この姫様は古事記や日本書紀に高皇産霊神(高木神)の娘として記述されているお方で、この姫様が天照大神の息子の天忍穂耳命と結婚して生まれたのが、あの天孫ニニギです。
記紀においては天照大神を皇室の祖として記述していますので、記紀の系図と合わせますと、徐福はニニギその人、あるいはニニギの兄弟、ということになるのです。
そして、出雲伝承による系図では、徐福の子が五十猛命、その子が天村雲命となっており、この天村雲命こそ、後に神武天皇と呼ばれた人物であろうと推測されています。
これに対し記紀の系図では、ニニギの子がホホデミ、その子がウガヤフキアエズ、孫が神武天皇という順番になっており、出雲系図とはかなり異なっています。
では、どちらの系図が正しいのか? このことを検証して行きましょう。
記紀の系図から見て行きますと、ホホデミは火火出見と書き、これは火を信仰した民族である熊襲族の族長を意味しています。実際に記紀では天孫ニニギが大山祇神の娘・コノハナノサクヤヒメと結婚して高千穂に住んだと書かれており、大山祇を熊襲王と考えれば筋が通ります。
また、ウガヤフキアエズは今の大分県あたりにあったウガヤフキアエズ王朝という伝説の王朝の王であり、この王朝についてはウエツフミ等に詳しい記述がありますので、ニニギが鹿児島⇒宮崎⇒大分と移動して子孫を残して行ったと考えれば、やはり無理なく理解できます。
一方、出雲口伝のほうの記述は、徐福から五十猛命、天村雲命と続くもので、富士林氏の著書にはこの系図に関する具体的な説明や地名の表示があり、多くの状況証拠も提示されていますので、こちらの系図こそ間違いのないものだと思われます。
・・・すると、記紀のほうが系図を間違えている、あるいは書き換えているということになるのですが、これはいかなる理由でそうなったものなのでしょうか?
確実に言えるのは、記紀という書物は日本という国が独立国であることを当時の中国の王朝に対して宣言するために書かれたものであり、中国とは別の、由緒ある歴史を有する国であることを主張しなければならない状況下で書かれた書物である、ということです。
記紀の編纂を命じた天武天皇は当時、白村江の敗戦から間もなく、なかば中国の占領状態に置かれていた日本という国の独立を勝ち取るため、中国に負けないほどの美しい歴史物語を作成する必要がありました。そのためには徐福という中国人が日本の王室の始祖であることは許されず、徐福の名をニニギと変え、その出身地も中国ではなく高天原という、あたかも日本列島の真上にあったかのようなおぼろげな場所として設定したのでしょう。
なお、南九州にあった熊襲国の遺跡からは、なんと六千年も前の土器が発掘されており、その後も五千年前、四千年前と各年代ごとの土器も出土していますので、熊襲国は世界でも最古級の王国です。記紀の作者はこうしたことも考慮してニニギと熊襲国の縁組を演出したのかもしれません。
一方、出雲伝承の系図によりますと、徐福の孫である天村雲命は出雲から大和に入り、王権を確立したとされています。これがヤマト王権の発端であるとしたら、天村雲命こそは神武天皇のモデルであろうと思われるのですが、記紀の系図とは合致しません。
実際には、天村雲命が創始した王朝は磯城王朝であり、厳密にいうとヤマト王権そのものの母体ではないようです。この時代のヤマト地方には磯城王朝の他にも複数の都市国家が存在した可能性が高く、ひとつのまとまった勢力は存在しなかったと思われます。つまり、天村雲命が神武天皇のモデルであったとしても、神武天皇がヤマト全体を平定したわけではないのです。
さらに難しいことに、ヤマトのさまざまな都市国家の中でも磯城王朝や三輪王朝は出雲系の民族により樹立された王朝でありますが、葛城王朝はどうやら熊襲人の血脈が入ってきているようなのです。神武天皇から時代はかなり下がりますが、この地に葛城襲津彦という大物が登場します。この人名に熊襲の「襲」という文字が入っていることにご注意ください。
以前お話したことの繰り返しになりますが、古事記という書物は史実を正確に記述しているとは言い難い内容で書かれていますが、まったくのデタラメが書かれているわけでもなく、そのひとつひとつのエピソードを念入りに読んで行くと、「真の歴史とはこうだったのではないか?」と思えてくるような細工が仕掛けられています。
古事記の神武東征譚に、神武軍の兵士が久米歌(熊襲族の歌)を歌うくだりがあったり、神武軍の出発地が高千穂である等の記述は、天孫ニニギの縁組先が熊襲族であったりすることは、ヤマトの地に熊襲族の人々が進出したことを暗示しているのかもしれません。
九州の吉野ケ里に定住した徐福の一族は、やがて南方にいた熊襲族と連合し、ヤマトを目指したのかもしれません。
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