もう一つの祈り-震災復興に向けて

https://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-ronyu/kitao/new-19.html 【もう一つの祈り-震災復興に向けて】より

Ⅰ東日本の原風景

イ、古代

 日本書紀によると、景行天皇はその在位中に北陸・東北地方に武内宿禰(たけうちのすくね)を派遣させて、その土地の地形や地質、あるいはそこに住んでいる人びとの風俗や気質について、視察・調査させたとある。

 その調査によると「東北の辺境に日高見(ヒタカミ)国があります。その国の人びとは、男も女も髪を結い上げ、身体に入れ墨をし、人となりは勇敢である。すべて蝦夷(エミシ)という。土地(仙台平野と北上盆地)は肥大にして広大である。討伐してこれを取るべし」と報告している。

 また、その数百年後の斉明天皇(七世紀)の時代には、越国(こしのくに:いまの福井県敦賀市から山形県庄内地方の一部に相当する地域を領した)の阿倍比羅夫(あべのひらぶ)が日本海を北上し、東北遠征を行なったとの記述がある。

 「(658年)夏四月、越国守阿倍比羅夫が軍船百八十艘を率いてエミシを討つ。顎田(アギタ:秋田)・淳代(ヌシロ:能代)二地方のエミシは、その船団を遠くから眺めただけで降伏してきた。そこで軍船を整え、顎田浦(アギタノウラ:秋田湾)に入港し、上陸した」と。

 エミシは本来、争いごとは徹底した話し合いによって解決するという習慣をもった平和的な民族であったから、首長のオガは、比羅夫の前に進み出て、次のように誓って言った。

 「自分たちの弓矢は、食糧にするための動物を獲るためのものである。もし、その弓矢を用いて、あなた方に立ち向かったならば、アギタノウラの神がおとがめになるでしょう。その清い心の誓いをもって、あなたのお仕えしている朝廷にわたくしどももお仕えしましょう」と。

 (このエミシが信仰していたアギタノウラの神とは、古四王神社に祭る海洋神で、古四王は古志王、高志王、越王に通じる)

 阿倍比羅夫は、オガの申し出を聞き入れた。そうして、彼に小乙上という官位を与え、ヌシロ(能代)とツガル(津軽)の二地方の郡領(こおりのみゃっこ)に任命した。

 (その年の秋七月に、エミシ二百人あまりが朝廷に出向いて貢物をささげ、朝廷はエミシに位階と、旗・鼓・弓矢・鎧などを与えたと日本書紀は記している)

 その後、阿倍比羅夫は更に北上し、津軽半島から北海道の渡島半島にまで到達し、各地のエミシとの親睦をはかった。

 因みに、前出「古四王(古志王)」神社は、新潟付近とその以北に数十社ある。古志とは、中国東北から黒龍江流域沿海州に住んでいたツングース族のことであり、古代、この民族が南下し、渡海して、日本に移り住んでいたという。

 その者たちが築いていた古志国が飛鳥時代(七世紀初め)の国名にあり、越(こし)または高志ともいい、大化の改新時、名称は越国(こしのくに)に統一されたとある。

 この越国のルーツとなった古志(ツングース族)の日本に移り来る者たちのことを粛慎(ミシハセ)と呼ぶ。

 日本書紀によると欽明天皇544年12月、佐渡島に渡来するミシハセ人のことが越から朝廷に報告されている。

 前述の阿倍比羅夫が水軍を率いて日本海を北上したとき、その沿岸の土地にはエミシだけではなく、朝廷の眼の届かない日本列島の北方から日本に自由に出入りしていたミシハセがいたのである。

 660年に阿倍比羅夫はまた、軍船二百艘を率いて北上し、北海道の南部にいたエミシたちの通報を得て、北の海に出没していた敵対的なミシハセを討伐したと日本書紀に記されている。

 しかし、古代日本には多くのミシハセ人がすでに移住していて、彼らによって持ち込まれたユーラシア大陸産の馬の繁殖(南部馬)や、採鉱、採金技術(749年、陸奥国小田郡からの金の産出や、陸奥一帯の多くの金山の発見など)が広まることになるから、その文化は東日本にしっかりと根付いていたのである。

 その後、ミシハセの子孫、靺鞨(マツカツ)族が台頭し、朝鮮半島の高句麗に進入するが、北海道または日本の北陸・東北地方に移住した者がミシハセと呼ばれ、高句麗に移住した者がマツカツと呼ばれた。

 663年、白村江の戦いで唐朝と新羅の連合軍が、日本と百済の連合軍を破り、朝鮮半島が統一されると、高句麗に在住していたマツカツ人の多くが、中国東北に逃亡し、渤海(ぼっかい)国を建国した。

 渤海国は727年、日本との通商条約を締結し、その後、約二百年の正式外交関係を維持した。この間、マツカツ人が日本を訪れ、山形から上陸し、大勢が日本に帰化したという。古代の東日本にはツングース族の同胞がすでに移り住んでいたから、親しみのある顔に安心感を抱いたのであろう。

 このように、古代の東日本では、青森三内丸山に見られる縄文文化一万年の縄文人をルーツとするエミシと、日本列島の北から入ってきた大陸の人びと、すなわち北アジアのツングース族をルーツとする者とが共存していた。その結果、大陸から伝えられた狩猟と農耕と遊牧と金属の文化と、日本列島独自の森や海と共生してきた縄文文化が融合したところに文明国、日高見があった。この東の都は、大陸の稲作文化をもつ大和朝廷とは全く異なるものであった。

 この日高見国の名は日本書紀の景行天皇の時代にすでに記されているから、そのずっと後の平安時代初期802年に、日高見国の最後の砦となった胆沢で、エミシ軍の指導者アテルイとモレが部下五百人を率いて、朝廷軍の坂上田村麻呂に降伏したとの記述(『日本紀略』)と照らし合わせれば、少なくても五百年以上はつづいていた都が古代の東日本にあったことになるー)

ロ、地勢

親潮(おやしお)

 千島列島に沿って南下して、日本の東にまで達する寒流。流れは日本列島の東岸で北上してきた黒潮とぶつかり、北太平洋海流となって、東方へ向かう流れとなる。

 栄養塩に富んでおり、親潮という名は「魚類を育てる親となる潮」という意味をもつ。

 豊かな水産資源をもたらすその栄養塩の濃度は黒潮の少なくても5~10倍と言われるが、実際はその数十倍とも言われる。

 春になると日射量の増加や温度躍層(サーモクライン:湖水や海水などの水温が急激に変化する層)の発達に伴って植物プランクトンの大増殖が起こり、動物プランクトンや魚類の格好の繁殖場になる。そのために親潮は緑や茶色がかった色である。

 また、親潮は低温のため黒潮より密度が高く重いので、混合水域では黒潮の下に沈みこむかたちになる。この潮目に黒潮とともに北上してきた多様な魚類が親潮の植物・動物プランクトンにより繁殖し、海域は量・種類とも豊富な好漁場となる。

三陸(さんりく)海岸

 東北地方の太平洋側、青森県南東端から岩手県沿岸を経て宮城県の牡鹿半島までの海岸。

 岩手県宮古市より北では、陸地が大きく隆起し、高さ50m~200mにも及ぶ大規模な海食断崖が連続し、その間に砂丘海岸がある。

 一方、宮古市より南では、リアス式海岸となっている。そのため水深のある入り江が多く、天然の良港となって漁業が盛んである。

 台地上のところはほとんどなく、海に面した急峻な谷間にできた沖積平野(ちゅうせきへいや:主に河川による堆積作用によって形成される平野)が生活の場となっている。

 漁業:沖合いは黒潮と親潮がぶつかり合う良漁場で、世界三大漁場の一つ「三陸沖」として知られる。三陸沖はサンマやカツオなどの主漁場となっており、日本各地から三陸沖で操業する漁船が集まる。このため、日本の特定第三種漁港十数港のうち、三陸海岸北端の「八戸港」、三陸海岸中南部の「気仙沼港」、三陸海岸南部牡鹿半島の仙台湾側の「石巻港」、仙台湾(松島湾)の「塩釜港」と四つの港がこの地域に集中している。

 なお、漁港には、マグロなどの遠洋漁業の基地となるものや、捕鯨基地も存在する。

 また、沿岸漁業や養殖漁業は、ウニ・ワカメ・カキ*・ホタテ・ホヤなどの主要産物のほか、流入河川のサケ漁も盛ん。

*「気仙沼湾のカキ養殖」

カキの養殖場は世界中どこでも河川水が注ぐ汽水域(淡水と海水が混在した状態の水域のこと)にある。これはカキの餌となる植物プランクトンが、森林の腐葉土層でつくられるフルボ酸鉄が沿岸の海に供給されることによって増えることによる。そこで気仙の漁師は山に入ってブナ・ナラ・カツラなどの木を植え、海がカキの豊かな揺りかごとなるように植林活動を行なっている。ここでは森が青々とした海を産む。

 自然:植生はアカマツを中心とした自然林が多く、半島部には手付かずの自然が残る。また、千島海流の影響で温暖な地方で生育する植物も多数見られ、北山崎のシロハナシャクナゲ・ハマナス、船越半島のタブノキ、広田半島のトベラなどがある。

 動物は北上高地と連続している地域にニホンカモシカが見られるほか、ウミネコ・オオミズナギドリなどの海鳥類が多く棲息している。

貞山(ていざん)運河

 阿武隈川(あぶくまかわ:福島県中南部、那須火山群の三本槍岳付近に源を発し、郡山・福島の両盆地を通って南から北へと流れ、宮城県で太平洋に注ぐ。長さ239km)と名取川、名取川と仙台湾、仙台湾と松島湾、松島湾と北上川(岩手県岩手郡岩手町のゆはずの泉に源を発し、盛岡市、花巻市、北上市、奥州市、一関市などを通って、北から南へと流れる。宮城県登米市で旧北上川を分け、洪水防止のため開削された新北上川は追波湾:おっぱわんに注ぎ、旧北上川は石巻湾に注ぐ。長さ249km)を結ぶ運河の一部。

 藩政時代に舟運による安定した物資の輸送路を確保するために、仙台藩主伊達政宗の命により、家臣川村孫兵衛重吉が名取川河口から阿武隈川までの海岸線と平行に、まず、木曳堀(こびきぼり:五間堀川~志賀沢川~川内沢川~増田川~名取川)を開削し、その後、新堀(しんぼり:名取川~七北田川)、御舟入堀(おふないりぼり:七北田川~仙台湾~砂押川~七ヶ浜)を掘り、松島湾と結んだ。この全長28.9kmを「貞山運河」と呼ぶ。

 また、明治時代に開削した、松島湾と鳴瀬川を結ぶ「東名(とうな)運河」3.6km、鳴瀬川と定川と旧北上川を結ぶ「北上運河」13.9kmがあり、江戸時代に開削された「貞山運河」と結ばれ、東松島市、石巻市を貫いている。

 以上の三つの運河の長さを合わせると、約47kmになる。

 「ともかくこれほどの美しさでいまなお(運河が)保たれていることに、この県への畏敬を持った。なんとも長大な"遺跡"なのである」と司馬遼太郎が賛嘆している。

 また、日本の村という村、島という島を歩きつづけた民俗学者の宮本常一は、その著書の中で、貞山堀(運河)のことを次のように記している。

 「貞山堀というのは阿武隈川の川口から、海岸にそうて松島湾までの間に掘られた堀で、伊達政宗の企画したものという。

 山形県南部地帯から阿武隈川上流にかけての米を江戸に送るために、幕府は川船で下流に運び、その川口に荒浜という港をつくり、そこから帆船に積みかえて海上を輸送することにした。しかし、荒浜は港としてはけっしてよい港ではなかったので、貞山堀を利用して松島湾まで川船で運び、松島湾の寒風沢(さぶさわ)港から江戸へ送ることにした。砂浜に掘った堀は砂でくずれやすい。その砂くずれを防ぐために堤防に松を植えた。いまは堀を利用する船も少なく、堤防の松も伐られたところが多いが、この堀とこの松を見るとき、人間のたくましい努力に深く心を打たれる」と。

 人間の努力によって生まれ、地勢となった人工河川である。

 (自動車や鉄道の発明される前の大量の交通・運搬手段として、河川による舟運があった。近世においては、その水運を図るために人工河川、すなわち運河が世界各国の都市で開削された。その当時のロンドン、パリ、江戸は水の都であったのだ。その運河の長大なものが東北の地にもあったー)

「玉山(たまやま)金山」とジパング

 続日本書紀に日本初の「金の産出」を記している。その記録によれば、聖武天皇が奈良東大寺の大仏を計画し、その黄金を輸入するつもりであったが、経済状況が悪化したため、国内で金を産出できないかと全国に調査を命じた。それに答えて、陸奥国(むつのくに)に赴任していた百済王敬福(くだらのこにきしのきょうふく)から、地元の小田郡に黄金が産出したとの報告があり、九百両(一両=37.5グラム)の黄金が献上されたとある。749年の時である。

 この天平の産金の感動を万葉の歌人、大伴家持は次のように歌っている。

 「天皇(すめろぎ)の御代(みよ)栄えむと東(あずま)なる陸奥山(みちのくのやま)に金(くがね)花咲く」と。

 しかし、古文献によると陸奥の産金はもっと早くから始まっており、黄金の採集は正史に記載される前からあったとする。

 いまの陸前高田市竹駒町にある「玉山金山」も気仙地方の大金鉱であり、すでに天平年間(729~749)に僧行基によって発見されている。

 この産金処は奥州藤原氏代々の平泉文化を支え、その後、豊臣秀吉や仙台の伊達家もこれを重要な金山と認め、近代の明治政府にいたっては、玉山金山を中心とする気仙地方の黄金埋蔵量を四十億円と評価した報告書を作成し、国際社会に対する日本の財力の信用とした。

 「東方に国あり、名はジパングという。その国で特に驚くべきことは黄金の多いことである。その黄金は掘れど掘れど尽きず」と記したのは、マルコポーロ『東方見聞録・黄金の国ジパング』である。著作は十三世紀末のことであったが、その黄金の国とは、大量の産金を誇っていた日本の陸奥国、すなわち奥州のことであったという。

 (因みに、今日の研究家は、調査にもとづく玉山金山全体の推定金鉱量を約250万トン、精鉱はその四割と見て約100万トンと見積もり、そこから金の埋蔵量を12.762トンと計算している)

 この奥州(陸奥平泉を中心に出羽を含む東北地方一帯)を華々しく治めていたのが藤原氏(1087~1189)であり、藤原氏の登場する以前は、本論考、古代の項で述べたように、当地の日高見国のアテルイとモレが、坂上田村麻呂に802年に降伏したのち朝廷は、鎮守府をその攻防の最終地である胆沢に置き、律令制の時代に入ると陸奥国と出羽国となり、エミシ・ミシハセなどの民族と、大和朝廷の西の国から移り住んできた人びとが入り混じって生活していた。

 十一世紀半ばになって、陸奥国に阿倍氏、出羽国に清原氏という豪族が出現する。共に先住民族の流れを汲む者であった。

 滅ぼされた日高見国の民が歳月を経て、再び勢力を盛り返したのだ。その後、彼らを含む豪族どうしの戦いを経て、最終的に阿倍氏の血を引く奥州藤原氏が覇者となった。

 奥州藤原氏は中央から来る国司を受け入れ、朝廷に砂金や馬、それに独自の北方貿易によって得た珍品を献上することを欠かさなかったため、その奥州支配は容認されることになる。

 奥州藤原氏はその根拠地を平泉に置き、人口規模で西の平安京に次ぐ国内第二の都を東の地に築いた。(その都のことが北方貿易を通じて大陸に知られ、東方見聞録に登場するジパングとなったのだ)

 東の都には中尊寺金色堂(しゅうそんじこんじきどう)があり、浄土世界を示すお堂は内も外もすべて金箔貼りで、扉・壁・軒から縁や床面に至るまで、漆塗りの上に金箔を貼って仕上げられていた。

 清らかな環境が清らかな心をつくりだし、心が汚れれば環境も汚れるというのが仏教の基本的な教えの一つであり、美と荘厳さをもつ絶対世界の"浄土"の存在を信仰することによって、人びとの心は浄化される。その浄土的環境を眼に見えるかたちで表現したものが金色堂であった。

 それは、長期の戦いによって汚れてしまった環境と心を、縄文一万年の血を引くエミシの人びとと、北アジアから日本の地に移り住んで来た人びとと、日本の西から来た大和の人びとが、金色堂の美しい浄土世界に触れ、共に清らかな心をもって祈ることによって、人間の犯す罪科(つみとが)を一時なりとも贖(あがな)うものであった。

 地勢がもたらす恵みや災いによって、精神風土が培(つちか)われる。人びとはその鍛えられた精神をもって、自然が与える恵みや災いに祈り、美しく平和な浄土に祈る。その祈りがまた、地域固有の文化を育てるー

Ⅱ知の祈り

 人間は発達した知能をもったが故に、その知能によって、祈りの習慣をもつことになった。

 それはなぜか。生命の生と死、成長と実り、山と森、川と海、火と風、それに季節と気候、天変地異など、つまり、人知を超えたところにある運命や自然への畏れと、物質的なるものへの欲望を、人間が意識するようになったからだ。

 それらを鎮めるために、無事・平穏・豊饒を祈らざるをえなくなった。

 その結果、祈りは自ずと風土とともにあるから、住む環境の違いによって、人びとの祈りも異なり、多様な信仰も生まれた。

 そうして、異なる精神風土と生活様式をもつ人間が地球上に出現し、その異なる言語によってもコミュニケーションを難しくしてしまったが、そこに、地域の独自の産品(とそれに伴なう材料や技術)を交易するという実利を介在させることによって、お互いの交流を可能にしてきた。

 このようにすべての祈りの成就は、物質によって叶えられることを実感としているが、それは自然界が、地(固体)・水(液体)・火(エネルギー)・風(気体)・空(空間)の五つの物質要素によって構成されていて、それらと同じ要素によって構成されるからだをもつ者(そのからだが意識をもっている)もまた、まず、物質界の秩序と充足がなければ、その存在を維持できないという現実があるからである。

 だから、祈りの満足は、あくまでも物理的な充足を感知することによって得られるという宿命を担っている。

 その上で、もっと根源的なところでの祈りの知、それを説いたのが空海である。その教えによれば、すべての生命は無垢なる五つの知によって共に生きているから、その知にしたがって祈りなさいと。そうすれば、あらゆる生命と自然が調和し、等しく共に生きるあるがままの美しい世界が現れると。そこに清らかな心がある。

 空海の説く、その五つの知による祈りとは、

 まず、生命そのものを存在させている知<生命知:法界体性智(ほっかいたいしょうち)>。その全体への祈り。

 次に、あらゆる生きものが共に生きる根幹である呼吸と睡眠を日々行なっている知<生活知:大円鏡智(だいえんきょうち)>。その清らかな生活環境への祈り。

 その次に、生きとし生けるものすべてがその個体を維持するために、衣食住の生産と摂取を互いに分かち合っている知<創造知:平等性智(びょうどうしょうち)>。そのことによって、世界の秩序が保たれていることへの祈り。

 そうして、生きることによって、対象を観察・記憶・編集し、他とコミュニケーションできる知<学習知:妙観察智(みょうかんざっち)>。その喜びの祈り。

 また、生きている個体がそのからだをもって、運動・作業し、働けることと、所作によって自己を表現できる知<身体知:成所作智(じょうそさち)>。その喜びの祈り。

 というようなことである。

 これらの根源の知によって、多様な生命が共に生きることができているのだ。そこに祈りがあると空海は説いた。

 では、その知の祈りによって、人びとは住み場所となる風土とどう向き合い、知を発揮すれば好いのか、以下考察してみたい。(そこに、まちづくりの理念と原理がある)

イ、生活知(環境づくり)

 「生きているということは、その生物が世界の一部と、主体=環境系を作っているということである。環境とは生活の場であり、生活の場は住み場所である」これは京都大学の人文科学学者、今西氏の提唱された「すみわけ理論」である。このことは、ヒト科においてもそうである。生活の場が違えば人びとの生活様式も違い、生活様式の違っている人びとは違った生活の場に住むという生活形のすみわけ原理。このことによって、人びとが暮らすための居住環境づくりの理念が成立する。

 居住環境づくり=まちづくりである。最古の計画的なまちづくりとして、ギリシャの自由都市が挙げられる。その自由都市の一つに人口約四千人の古代都市プリエネ(イオニア人の築いた古代都市。もとはエーゲ海に面する港湾都市だったが、土砂の堆積などにより、紀元前四世紀頃、内陸の丘の上に再建された。古代都市計画の最古の例として、明快なたたずまいをもつことで知られる)がある。その街並みを見ると、丘の斜面中腹に設けられた矩形の市民広場(アゴラ)を中心として、それを取り囲むかたちで各種店舗(ストア)と事務所が連なり、ストアの端には約七百座席の会議場(エクレシアステリオン)がある。これらの施設を核として、周囲には碁盤目状に整備された街区(一街区:約35×45m、住宅数六戸)があり、中庭付きの二階建て住宅が隣接して広がり、その住宅街の周辺には、軒を接して立ち並ぶ小さな家の借家や職人(石工・陶工・鍛冶屋・大工・家具師・指物師・織物師・細工師・革なめし工・靴屋・パン屋・菓子屋・床屋・薬屋など)の工房と公衆浴場がある。また、市街の下方には下の体育場と二百メートルの矩形競技場(スタディオン)があり、上方には上の体育場と約六千席の野外円形劇場がある。そうして、都市の山手や要所にはギリシャの神々や女神たちを祭る神殿が建ち、円柱の立ち並ぶ空間の中に鎮座する神像が人びとの敬虔なる信仰心を支えていた。

 ここにはギリシャの神々とスポーツ競技(レスリング・ボクシング・徒競走・跳躍・円盤投げ・槍投げなどと馬車競争)と舞台(悲喜劇・舞踏・詩の朗読など)が同居し、議会と哲学によって社会を治めようとする市民(自らの手によって貿易や事業を起こし、まちをつくり、議論をし、政治を行ない、国を守る兵士となる人びと)の明快な意思がまちのかたちとなって存在していたし、もちろん、まちの周囲には農民の耕作地が広がり、小麦やブドウやオリーブ畑、それに野菜(キャベツ・豆・ニンニク・タマネギ・メロン・カボチャなど)畑と養蜂(はちみつ)と牧畜(肉・チーズ)によって食糧が生産され、それに漁師のとってきた魚(まぐろ・めかじき・いわし・アンチョビーなど)が加わり、市民の旺盛な食欲を満たしていた。

 居住環境づくり=住まいづくりでもある。住まい(家)はヒトが住み場所において、雨・雪・風・気温・湿気などをしのぎ、安心して眠ることのできる寝床を確保するために、床・壁・屋根によって構成される居住空間のことである。

 ヒトはその人類史の中で居住空間の快適さを求めてきたが、その努力が結実した住まいのかたちの一つに山村の民家がある。

 民家の特徴は、堅牢性とエコロジー性、それに家並みの美しさであるが、なぜ、その家並みは山間にあって美しい景観を成すことができているのだろうか。それは民家のかたちが生態学的な深層と一体となっているからだろうか。あるいは民家が、自然の法則にしたがって、成るべくしてなったものであるからだろうか。いずれにしても、そこにはヒトのもつ根源的な知力が発揮されている。

 では、住まいにおける自然の法則とはどのようなことなのだろう。

 ヒトが家で暮らすにあたっては、四季を通じての快適な温度と湿度、それに通風と採光が必要である。それらは太陽の光と熱・風と空気・樹木と水や土という自然の要素によってパッシブ(受動的)にもたらされている。そこに法則があるのだ。

 (1)「暖かい空気は上昇し、冷えた空気は常に下にある」:この法則を利用すれば、夏は下方の冷えた空気を戸外から採り入れ、室内で上昇させ、それを天井部で戸外に放出すれば、天然の涼風を得ることができる。また、冬の暖まった空気は上昇するから、それを跳ね返せば下降し、室内を循環する。

 (2)「蓄熱材を温めておけば、その熱は夜間に放出される」:この法則を利用すれば、冬の晴れた昼間には太陽光によって、曇りの日には暖房によって蓄熱材を温めておけば、その熱は夜間に放出され、室内温度を極端に下げない。

 (3)「太陽は東から昇り、南へと回り、西へと沈む。また、その照射角度は夏は高く、冬は低い」:この法則にしたがえば、家の向きは南に面し、屋根の庇は深くなり、その傾斜は冬に太陽光を最大限に受けられるよう急勾配(ほぼ、正三角形のかたち)になる。夏にはその庇が日差しを遮り、屋根の傾斜は太陽光を逸(そ)らす。また、三角形の構造が屋根の堅牢性を増す。

 (4)「北側に陽は当たらない」:この法則を利用し、北面の窓から採光すれば、その明かりは一定である。

 (5)「落葉広葉樹は夏に葉を繁らし、冬に葉を落とす」:この生態を利用すれば、南面に樹木を植えるだろう。そうすれば、暑い夏には緑陰を得られ、寒い冬には陽光が得られる。

 (6)「水は蒸発するときに熱を奪い、周囲の空気を冷やす」:この法則を利用すれば、夏場の戸外に水を配置すれば涼しさを得られる。

 (7)「風がモノの乾かす」:この法則を利用すれば、湿気の高いところでは床を上げ、床下の風通しをよくすることによって湿気を防ぐことができるし、室内の通気性の確保においても同様である。

 (8)「モノは燻(いぶ)すことによって長持ちする」:この法則を利用すれば、室内で火を焚き、植物系の建材を燻すことによって長持ちさせることができる。

 というようなことを、厳しい山間の環境に住む人びとは、熟知していたのだ。

 この法則にしたがえば、風土が住まいのかたちを決定することになり、その家並みは自ずと揃う。そうして、そこに固有の生活様式が生まれ、人びとは自然の一部となって景観に取り込まれる。その自然の秩序に融け込んだ生活のたたずまいがあるから、山あいの集落は美しいのだ。

 以上のように、都市と山村とでいえば、都市空間は文明という名の知性と観念の集積場であり、山村集落は自然と共に生きる知恵の住みかである。このパッシブな知恵が、人間中心主義で発達してきたまちや都市づくりにも必要である。省エネルギーのエコロジカルな空間技術は、すでに自然の法則の中にあるのだ。その法則を見つめるヒト科の意志さえあれば、そこにまちや都市の明快な家並みも見える。

ロ、創造知(物づくり)

 人類が二足直立歩行をしたとき、そのあいた手と、かたちをイメージできる脳によって、物づくりが始まった。

 その能力によって、狩猟道具をつくり海・山・空の獲物を捕らえ、鍬(くわ)や鋤(すき)を使って土地を耕し、自然の恵み(穀物・野菜・果物)を栽培できるようになった。また、さまざまな材料を加工し、衣服や料理や住まいや各種道具をつくりだせるようになった。その物づくりの楽しみは、ヒトに与えられた特権である。

 土を耕し種をまき発芽させ、魚の卵を孵化させ、家畜を交尾させ、育て、食糧として収穫し、その食材をそのまま料理することも、加工し保存食とすることも、ヒトはその手によってできる。

 また、各種の道具をつくりだし、その道具によってさまざまな対象を加工することによって、土や木の器(うつわ)、樹皮や綿や虫の紡ぐ糸や動物の毛によって織ったり編んだりする衣服や小物、各種建材と家、木材や塗料と家具、木の繊維と紙、顔料や染料と色、薬草と薬、蝋や油と明かり、鉄と農機具や武器、木炭と燃料、水や風を利用した動力機械などをつくることもできる。

 物づくりとは、まず物のかたちをイメージし、そのイメージを設計図としながら、手とからだで道具を使い、こつこつ、こつこつ、対象を加工し、物の機能を芽生えさし、それを育てながら、そこに美しさを見つけだすことである。

 その美しさとは、物づくりの場の風土の景観や、鉱物・植物・動物がもつものであり、それらの美が、つくる物の中にも宿るように祈る。

 一心に祈り願い、その願いがやがて無心となり、成るべくしてなり、在るべくしてあるものとして、かたちが出現したならば、そのつくられた物は風土の落とし子なのだ。

 その「地域固有の美」によって、つくられた物は国際的な価値をもつ。そうして、交易される。このような物づくりは、紀元前の昔からあり、その産品(独自の紋様をもった土器/黒曜石の石器/漆塗り/絹の織物/鉄などの金属とその精錬、鋳造技術/稲など)が海を越えたことをわたくしたちは知っている。物づくりが世界の人びとを結びつけているのである。

 ここに開かれた経済の原点がある。また、物の生産とその流通・分配・消費など、物づくりがなければ経済活動もない。

 この物づくりの原点に人びとが気づけば、そこに経済の立ち帰るべきところがある。

 本来、人類は物づくりの欲求をもち、それを充たすために生きている。そうして、物づくりを通して美を見つめ、それを楽しむ心をもつ。その結果が文化となり、経済となる。

ハ、学習知(知覚と感性)

 人間を含め、あらゆる生きものが生きてゆく上で、必然的に学習している事柄とは何だろう。

 それはたぶん、第一義的には生存欲求を充たす成否の対象となる事柄の学習であろう。では、その事柄とはどのようなものか、次に挙げてみる。

(1)呼吸欲求:土壌・水質・光合成などと空気の清浄性。

(2)睡眠欲求:概日(がいじつ)リズム・昼夜・明暗などとねぐらの安心と安全性。

(3)飲食欲求:清浄なる水・食物の元<植物(無機質から炭水化物を生産する唯一の生物)>・食物連鎖・生産と摂取と分配・食事法・美味いか不味いかなどと栄養・健康。

(4)生殖欲求:繁殖期・配偶相手とメンデルの法則・巣づくり・求愛・性交・出産・保育など。

(5)群居欲求:地縁・血縁、住みか・地位・共同体、固有の生活様式など。

(6)情動欲求:生存欲求の成否による快と不快の主張。(あらゆる生物の生存への情動がなければ、自然界は成立せず、進化もなかった。そうして、生物のもつ広義の意識が共通の「知」へと収斂することもなかった)

 これらが、あらゆる生きものに共通する第一義の学習であり、すべてが個体の生存に関わる事柄である。

 次に、上記の第一義の学習「生存欲求」によって、あらゆる生きものがその存在を主張しているのであるが、それらの多様な種が、一時なりともその生を楽しむことを知っているから自然界は美しい輝きを放つ。それを第二義の学習「生の楽しみ」とする。

□植物は太陽光の波長を感得(学習)し、色とりどりの花を地上に咲かせ、風にゆれる。

□昆虫はその一生で、もっとも気持ちのいい日を感知(学習)し、水の中から地上へ、あるいは土の中から地面の上へと移り、脱皮し、すがたを変え、羽をひろげて空に舞う。

□鳥は大空に羽ばたき、気流に乗って遊泳し、さえずり(歌)を学んで仲間と交わる。

□川で産まれ、大海で育つ魚はふるさとを記憶(学習)していて、産まれた川に戻る。

□幼いけものは家族と共に草原や森を駆け、日向に寝そべり、遊びながら生き方を学ぶ。

□人間は二足直立歩行によってスポーツ競技を楽しみ、五感と手や足を使って美術や音楽や舞踊を創作し、それらを観賞し、料理を味わい、遊戯をし、見知らぬ土地への旅を楽しむ。

このように、地上に生を受けたものは、知覚と感性によってあらゆることを学び、その生を楽しむことができる。

 生存欲求を充たすことと、生を楽しむこと、それらを学習の根源とすれば、第三義の学

習が「知識」と呼ばれるものである。

 「こうした、ちっぽけな存在なのに、人間は知識によって世界を見極めようとするから、先行きでは混乱してしまって、何も分からなくなるのだ」と言ったのは、紀元前四世紀の中国の哲学者、荘子であった。(知識そのものは、本来的な生き方からすれば方便の道具に過ぎない。だから、世界の本質は知識の外にあるというのが荘子の言い分である)

 荘子の約百年前にインドのガウタマ・シッダールタ(ブッダ)も次のようなことを説いている。

 「十二因縁説」

 1、人間は発達した知能をもつから

 2、世界を識別し、言葉にする。

 3、だから、それらの言葉と

 4、知覚(目・耳・鼻・舌・からだ・意識)によって対象を把握する。

 5、知覚される事柄は、色彩とかたちとうごき・音と声・匂い・味・感触・法則であり

 6、それらによって、対象となる世界に遊ぶ。

 7、しかし、時とともに対象との関係によって快・不快が生じ

 8、心に情動を起こす。

 9、その情動が言葉となって記憶され、やがて心の執着となり

 10、その執着の中で人間は生きるようになる。

 11、そのような執着によって、人間は生まれ、生まれ、生まれて

 12、そして、老い、死んでゆく。

 以上のように、ブッダは「人間の執着が識別を因とし、情動を果としている」と気づき、次に「因をもたらす識別は、人間が言葉によって勝手につくりだしたものであるから、もともとの世界には無かったものである。因が無ければ果は生じない」とさとった。

 古代の賢者たちは、このように知識を目の仇(かたき)にしたのであるが、それよりも大事なことは、知識以前に学ばなければならない根源的なものがあるということであり、本来の知覚や感性による学習をおろそかにしては、生の本質は成り立たない。

二、身体知(からだと空間と言葉)

 動物は、手があれば物をつかみ(羽になった手で空を飛び)、足で歩き、走り、魚は尾ひれで泳ぎ、ヘビはからだをくねらして進む。

 目で物と空間を見、耳で音を聞き、鼻で呼吸し、香りを嗅ぎ(魚はエラで呼吸し)、口の中で食物を味わい、声を発する。

 そうして、感性(中枢神経と脳と脊髄)で行動をコントロールする。

 植物は、土に根を伸ばし、茎(からだ)を支え、土の中の水分と養分を摂取する。茎は葉をだし、枝を伸ばし、葉が太陽光を受けられるようにそれらを支える。葉は太陽光を受けて、光合成を行ない(無機質の二酸化炭素+水+太陽光エネルギーから)炭水化物をつくり、酸素を放出する。

 そうして、からだの組成分の炭素によって電気パルスを発し、周囲に反応し、すばやく判断し、スローに行動する。(このことによって、植物も動物とは違うシステムであるが、知覚と感性をもつといえる)

 このように知覚と感性により、からだを空間の中でうごかす行為は、生物の有する機能の根幹である。

 この機能について、近代の建築家、ル・コルビュジェはその設計手法の中で、次のように述べている。

 (1)人間の身長によって空間に高さが生じる。

 (2)人間の歩幅によって空間に広さが生じる。

 (3)人間の眼のうごきによって空間に視界が生じる。

 (4)人間の手は眼の姉妹である(眼で物を見て、手でそれに触り、手でつかみ、手でそれをうごかし、加工する。つまり手は眼の出先機関であるということ)。

 (5)そうして空間には、すべての人間の心理作用がはたらく。

 というようなことだが、明快である。

 人間が快適な居住空間を得るために、立地環境に合わせ、床と壁と屋根をこしらえ、その中に道具を設えたものが建築となるが、その空間は、人間のからだの寸法と行動、視覚と触覚、そうして、心理作用によってつくられるというのだ。

 今日の脳科学によれば、左脳の言語野と対になる右脳部分は、からだと空間との位置関係を知覚する機能を果たしているという。その状況把握があって、そこから左脳の言語が生まれた。つまり、からだが置かれている空間のスケールと形状、それとからだの感知する空間のひびきによって、言葉が生まれたのだ。

 弘法大師空海はその著『声字(しょうじ)実相義』に、「自然を構成しているのは、固体・液体・エネルギー・気体・空間の五つの要素である。生物といえどもこれらの要素によってかたちを成しているのだ。そこにひびきがある。そのひびきが言葉になった。したがって、言葉も文字も、実在する空間とかたちが先にあって、それらの発しているひびきである」と記している。

 これによると、空海の説く言語も、右脳の感知している空間のひびきということになる。

 この空間のひびきが祈りになる。

 祈りは観念ではなく、からだと実在する空間との間に発生するものであり、この祈りこそが言葉のオリジナルの形態なのだ。

 本章の「知の祈り」もそこに位置する。

 空海は「知の祈り」を万の燈火と万の華を献げる祭りのかたちにして今日に伝えている。そのことを記す「高野山万燈会(まんどうえ)の願文」によると、八三二年八月二十二日の初秋(空海五十九歳のとき)、高野の山の自然道場で多くの弟子たちと共に満天の星の下で祈ったとある。

  六大の遍ずるところ、

(物質と生命が満ちるところ)

  五智の含するところ、

(いのちの無垢なる五つの知をもつもののいるところ)

  虚(そら)を排(はら)い、地に沈み、水に流れ、林に遊ぶもの、

(空を飛ぶ鳥、地にもぐる虫、水中を泳ぐ魚、林に遊ぶけものたち)

  すべてこれわが四恩なり。

(すべては、親から生を受け継いだことと、国土が守られていることと、多様な生きものによる相互扶助と、いのちと、いのちの無垢なる知のちからと、その知にしたがい修行する人びとのおかげである)

  同じく共に一覚に入らん。

(そのいのちの無垢なる知のちからによって秩序を保っている世界に、共に入ることができるように、ここに祈ります)

 以上のように「知の祈り」は、空海によって普遍的な祭りとなったが、今日において祈るとすれば、どのような「知」がふさわしいのか、それを「からだと空間」「知覚と感性」の視点でとらえてみたことになる。

 その要点をもう一度、列挙しておこう。

イ、都市に必要なものは、広場と市場と会議場・集合住宅と街工房・公衆浴場・スポーツジムとスタジアム・シアター・祈りの場(神社、寺院、教会などと鎮守の森とお祭り)である。また、住まいのかたちは自然風土によって決まる。<大円鏡智>

ロ、地域固有の物づくりが活性化されることによって、異なる地域や民族間に交易が生まれ、他から認められる文化も生まれる。その文化が国際的な価値をもつ。<平等性智>

ハ、生きるための学習の根幹は知覚と感性にあり、その付け足しとして知識がある。<妙観察智>

二、まず、からだが行動し、その行動した場が空間となり、その空間体験が言葉を生んだ。<成所作智>

Ⅲ明日の散策

(A)運河の眺め

 延々と砂浜はつづき、その砂浜に太平洋の青い海原から繰り返し白波が押し寄せている。

 砂浜から陸に向かって、新たに植樹されたタブノキ・シイ・ヤブツバキなどの照葉樹の林が、まだ成長途中であったが緑色に広がっている。

 その照葉樹林の常緑の森を切り裂くかたちで、運河は砂浜に沿って先へと延びている。

 地元の人に聞くと、南の阿武隈川河口から北上して松島湾と結ばれているのが、江戸時代に開削された運河であり、松島湾からさらに北上して鳴瀬川を経て、石巻の旧北上川へと延びているのが明治時代に開削された運河であるという。全長四十七キロに及ぶという。

 今日その運河が整備され、レジャー用の水路として再生し、岸辺には英国ウェールズ地方の運河を走る「ナロウボート」のようなスリムなレジャー・宿泊用ボートが係留され、川面には観光ボートが静かに行き交っている。

 運河には美しい木の橋が幾つも架かり、観光要所となる場所にはコンパクトな入り江をもつ運河の駅が設けられている。

 その運河の駅の水辺のレストランでは、地元産の食材による美味しい料理にシェフが腕をふるう。

 レストランの大きな窓から眺める、白く光る運河の水面越しの緑色の照葉樹が広がる向こうには、近代的な風車の立ち並ぶ田園地帯があり、段丘の林の中には合掌づくりのような屋根をもつ民家が建ち並ぶ。

 民家の屋根に取り付けられたソーラーパネルが日に光る彼方には、奥羽山脈の青い山並みが霞む。

(B)入り海の漁村

 青く栄養豊かな海を、両手ですくうようなかたちで湾がある。

 湾には、定置網漁の漁港やカキの養殖場があり、その海にそそぐ川には季節になればサケも遡上する。

 漁船が戻ってくると、漁港は大忙しで、海産加工所は忙しく手をうごかしはたらく女たちのすがたでいっぱいだ。

 また、漁港にはバーべキュウレストランがあり、新鮮な四季の海の幸を味わいたいという都会の客を受け入れている。レストランは木造で、室内は高い天井の梁がむき出しになっていて、その梁の中を太い排煙ダクトが走り、客席のテーブルに設えた炭火焼き用の各々の炉の上部に、煙りを吸い込むために、漏斗(じょうご)を逆さまにしたような赤銅製の大きなフードがダクトより下がっている。

 この漁業生産組合が運営するレストランは、ホームページによって、海産物の旬の情報と漁村独自が開発した海産加工品グルメを映像とともに発信しているから、近隣の都市民のみならず全国にファン客をもつという。

 さて、この漁村の集落はと見ると、すべての家が丘の斜面に建ち並び、それが何段にも上下に重なっている。丘の中腹まで帰るのは大変だろうと村民に聞くと、「なに、大変なときはモノトラック(小型ケーブルカーで各自が運転する)に乗ればいい」ということで、よく斜面を観察すると、小型の電気自動車のようなものが一本レールの上を登って行くのが見える。また、「丘の斜面の自宅のベランダから眺める青い湾の美しさは、何事にも代えがたく、日々の暮らしの癒しとなっているから、ここが好きだ」ということも付け加えられた。

 その立体的な集落は、平地に住む人びとにとっては、十分に魅力的な景観であり、その四季の海の幸を食材とした料理をも含めて、民宿を営んでいる漁師も多い。

(C)再生商店街と市場

 その商店街は昔からそこにあった。しかし一時は、百貨店やスーパー、それに郊外のショッピングセンターの出店により、瀕死の状態にあったという。

 それが見事に活性化しているのだ。それも若者や市外からわざわざやってくる来街者によってもにぎわっている。

 なぜなのか、商店街の各店内を見ると、そのほとんどが、自営の工房によって産み出されたもののようだ。

 衣:地元産の染め織物を使ったファッション、地元で紡がれた毛糸による手編みのセーター、地元産の動物の皮を使用した小物類、地元デザイナーのオリジナルプリント柄の布地による衣服と小物と生活雑貨とインテリアファブリックや、手づくりアクセサリーなど。

 食:手づくりのパン・ジャム・チーズ・ヨーグルト・ハム・ソーセージ、それに四季の和洋菓子、地元食材による各種惣菜・珍味など。

 住:白木やうるし塗りの食器、陶器、ガラス工芸、鉄器、手漉き和紙、灯り・蝋燭、家具、玩具などと、それに住宅や家具の設計図。

 遊:釣具・自転車と修理など。

 よく確認するとすべてが、地元の各種職人やデザイナーの手に成るものである。来店者に聞くと、彼らが先生となった、カルチャー教室もあるという。

 それに、日々の暮らしに必要な米・麦・蕎麦の穀物や粉や麺類、新鮮野菜・果物・魚肉、味噌と醤油と酢と油、酒とワイン、生花なども、商店街に併設された市場で販売されていて、その産品は、地元生産者の顔が見えるものばかりである。

 ここまで地元固有の産品が豊富になれば、誰だって、この暮らしの生活工房的な商店街に日々、足を運びたくなる。

 また、この工房型店舗の三階以上は集合住宅となっていて、物づくりに従事する若い世代を軸として、街の暮らしに住民が戻ってくるきっかけをつくっている。それも活性化の要因である。

(D)堅牢なる集合住宅

 その高台の建物の断面は、正四角形を対角線で切り取ったかたちをしていて、その対角線が太陽に向いている。だから、遠くから見ると、三角形の断面をもつ長い棒(建築家が使用する三角スケールに似ている)が日光にさらされて、丘の上に置かれているようである。

 建物の南に面して階段状に積み上げられた住居の一階には老人たち(一人住まいの元気な老人住居に若者が同居する制度もある)が住み、二・三階に若夫婦、四・五階に中年夫婦と家族、最上階には独身者が住んでいる。(このように世代バランスをとることにより、住人の年齢的片寄りを防ぎ、世代循環と交流を図る)

 このように日当たりの良い南面には六段に積み上げられた住居(約300戸)があり、各戸は、その南向きの大きな窓から採り入れられる太陽光によって冬は暖かく、夏は北側の日陰から取り入れた空気を、室内で自然上昇させ、窓の上部の開口部から外部へと逃すことによって、涼風を得られるように設計されている。また、各戸の南面に付くベランダの緑陰によっても、室温を調整することができたし、そのベランダはガーデニングを楽しむにも十分の広さがあった。それに、各階の各戸の窓の上には、庇(ひさし)状にソーラーパネルが取り付けられており、それらの発電によって室内での使用電力は、ほぼ充たすことができた。

 また、建物の北側の広い地面部(三角形の底辺)には地下に公衆浴場・理髪店・ランドリー・倉庫&工作室、一階に駐車場と駐輪場・スーパーマーケット・パン屋・和菓子屋・喫茶店、その上にはスポーツジム&プール・レストラン、その上にはアパートメントクラブ・集会室・共同厨房&食堂がある。

 この建物一棟で1200人程度が暮らしているという。

 このような集合住宅は過去にもあり、1951年にフランスのマルセイユに建設された、ル・コルビュジェ設計の「ユニテ・ダビタシオン」が有名である。

 ユニテ・ダビタシオンとは、住む組織体、あるいは住居単位と訳すが、広がる都市の中でのコンパクトで快適な暮らしの共同体の単位を意味している。建築規模は長さ165、幅24、高さ56m。鉄筋コンクリート造。住戸数377戸。住戸は独身者用から大家族用までの各種タイプがある。標準型住戸は吹き抜けと二階付き。室内の天井高は4.8m、窓幅3.66m。最大1600人が住める。

 建物全体の床部分はしっかりとしたコンクリートの柱で持ち上げられており、地面部分は玄関ホール、自動車と自転車の駐車スペースのみである。

 中間の共同施設階には、ホテル・肉屋・雑貨屋・パン屋・スーパーマーケット・オフィス・郵便局などがあり、この階には外部から直接、外階段によってアクセスできる。また、屋上には、保育園・遊び場・プール・体育館・300mトラック・野外劇場などがある。

 この住宅には現在も人びとが住み、快適に暮らしている。

 日本においてもコルビュジェ以前に、同潤会江戸川アパートメントが1934年に建設されている。家族向け126戸、独身向け131戸、店舗向け1戸、その他2戸の総戸数260戸の規模であった。アパートメントの地階には共同浴場(男女50㎡ずつで定員各30名)・理容室、一階にレストラン食堂(客席数90、バーカウンター併設。一日の利用客数300人)、二階に社交室(100㎡の洋風ホールと12畳の和室)があり、屋上には共同洗濯場と物干し台、中庭には中央花壇とこどもたちのための木馬・メリーゴーランド・ブランコ・すべり台・ジャングルジムが設けられていた。

 この住宅は2003年に取り壊された。

 同潤会は1924年、関東大震火災(1923年9月1日)復興のために設立された団体であり、その多様な事業(住宅建設や社会福祉)を果たした後、「一般住宅の供給」を目的とした。江戸川アパートメントはその一新した同会の都市型・鉄筋コンクリート造「一般集合住宅」の最初の清新な取り組みであったという。設計コンセプトは、中産階級の家族の都市生活の器づくりとし、設計者はニューヨークで試みられていた集合住宅プランを参考にしという。

 このように、二十世紀前半の震災が契機となって、大正末期から昭和初期にかけての日本のモダニズムが開花している。そのモダニズムが今日の文明の先駆けとなった。

(E)魚つき林(うおつきりん)と鎮守の森

 海岸に面してこんもりと茂った鎮守の森がある。

 漁村民によって新調された鳥居のすぐ前には、タブノキ・シロダモ・ヤブツバキなどの常緑広葉樹(照葉樹)が生い茂っている。これらの樹木は、今日の植物学おいて、日本本来の「潜在自然植生」であるといわれ、古くからこの森が守られてきたものであることの証拠となる。

 この森を「魚つき林」と言うと、古老の漁師が教えてくれた。

 昔から、漁師たちには、「海岸近くの森林が魚を寄せる」という言い伝えがあって、そのために海岸林や離れ小島の森林を守ってきた。そのような森林が、往々にして神社林のように大切に扱われ、小さな祠(ほこら)が祭られ、「鎮守の森」になったという。

 今日の生態系では、樹木や草木が大小の動物や昆虫の餌となる他、葉を落とし、分解されて土の養分となり、ふたたび植物を育て、一部の養分は水とともに川を下って海に至り、海のプランクトンや海草・海藻の栄養分となる。それを魚介類が食べて育つとする。

 だから、「魚つき林」なのだ。

 日本の森の再生活動を指導されている植物学者の宮脇昭さんによると、その土地本来の植生である常緑広葉樹が深く根を張ってくれるから、土砂崩れを防ぐことができるように、その土地本来の森こそが、地震・台風・火事に耐えうるちからをもつと言う。

 その森が日本には縄文の昔からあり、国土を守ってきた。それが「鎮守の森」であると言い切る。(縄文一万年。この間、日本列島各地はどれほどの大災害に見舞われてきたことであろうか。それを耐え抜いてきたものだけが、日本固有の植生となったのだ。だから強くないはずがないのだ)

 この「鎮守の森」こそが、生態学的に調査した日本国土の「潜在自然植生」と一致している森なのだ。その植生の森は強い。そうして、宮脇さんは日本本来の植生であるシイ・タブノキ・カシ類を中心とした森づくり活動を実践している。

 森とは木が集まっただけのものではなく、高木・低木・下草、さらには野鳥や昆虫、地中の小さな生きもの群、カビ・バクテリア、それに水中の生きものと、森に暮らす各種けもの類を含めた共同体社会であるから、森が強いことは、自然共同体そのものが豊かで強いということである。

 日本人は森を切り開いて水田としてきたが、それでも賢明なる祖先は必ずふるさとの木による森の生態系モデルを残してきた。それが「鎮守の森」となった。

 このように風土の木を守ることは、自然の足腰を強くする願いそのものであり、すべての生きものの固有の住環境を人間の手で守ることである。

 そこに、もう一つの確かな祈りがある。

 高野の森で、「空飛ぶ鳥、地にもぐる虫、水中を泳ぐ魚、林に遊ぶけものたち、すべてこれわが四恩なり。同じく共に一覚に入らん」と、空海は祈る。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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