https://ameblo.jp/bunchyou/entry-12700160033.html 「今ここ」と「中今」の違い】より
最近、スピリチュアルでは、「今ここ」に生きましょうと「今ここ」を大切にしています
地に足を付けて、「今ここ」の一瞬一瞬を大切にしましょうと呼びかけています。
また、同時に、「中今」(なかいま)という言葉もよく目にしますが・・・
時折、「今ここ」と同じ意味で使っている場合を目にします。
「今ここ」は、場所を表しているのに対して、「中今」は、状態を表します。
「中今」とは、古神道の言葉です。明治・大正時代の思想家である川面凡児(かわつらぼんじ)氏の解説によると、古代飛鳥・天平時代に日本には、「い」と「ま」の発音はありませんでした・・・。
「い」の代わりは→「ゆ」「ま」の代わりは→「め」つまり、中今=なかゆめ なかゆめ=夢中 「中今」とは、 夢の中にいるような自我がない状態ということになります。
聖徳太子が作った「夢殿」ですが、ゆめ=いまですから、「今殿」だったということになり、
「夢殿」は、中今になるための装置だったそうです。
「今ここ」と、「中今」は、意味が違ってきます。
宇宙法則は、自分が与えたものが返ってきますから、自分が選ぶ言葉によって、未来も変わってきます。言葉は自分で選べますから、誰も傷つかない自分に返ってきても善い言葉選びを心掛けたいですね
善い週末をお過ごし下さいませ 本日も読んでいただきありがとうございます
Facebook斉藤 一治さん投稿記事
天孫降臨の時にニニギノミコトは高千穂の嶺に降臨するとき、天照皇大神から三つのお言葉を賜り、これを三大神勅(さんだいしんちょく)と言います。
︎「天壤無窮 の神勅」 (てんじょうむきゅうのしんちょく)
天照皇大神は、 孫である瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に「豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)は、 私の子孫が中心となって治めるべき国です。私の孫であるあなたが行ってまず治めなさい。あなたは、 天の神の御心を地上に実現する貴い使命があるのです。
そして、 天の神の子としての誇りをもって、 この国をすばらしい国にしなさい。
その貴い御位も、 天の子孫を中心とする国柄も、 これからどこまでも栄え、 天地と共に永遠に続くでありましょう」
︎「宝鏡奉斎の神勅」 (ほうきょうほうさいのしんちょく)
「この鏡を私の魂だと思って、 私に仕える氣持ちで、 大切にお祭りしなさい。
鏡と共に生活し、 私の氣持ちを十分に汲んで、 天の神の子孫として氣高い氣持ちで政治を執り行ってください」
︎「斎庭の稲穂の神勅」 (ゆにわのいなほのしんちょく)
「天上界の田で育った稲を地上に植えて、 この国を天上界のような稔り豊かで安定した国にしなさい」
三種の神器には
「明鏡の心で天下にのぞみ、 慈悲仁愛をもって万民に接し、 乱暴者や和を乱す者があれば、 最後に剣の威力で平和郷を作りなさい」 という天照皇大神の御心が込められています。
古来の「 随神の道」は生活のありようで、古神道と言います。この大道は縄文時代からの自然信仰と祖先崇拝です。自然の中に神々の働きを感じ、生活の中に神々の神徳に感謝します。
神の国・日本
しかしながら、時代が経ちますと、異人が潜入してきて、神徳を忘れ、争い対立が起きます。
聖徳太子も、当時、和が無いから「17カ条の憲法」で和を強調することになりました。
聖徳太子は海外からの哲学である「お釈迦様の教え」を受け入れ、古神道との融和を図りました。
その後、天武天皇は律令制国家を達成し、自分の態勢を正当化するために、古事記・日本書記の編纂を立案しました。
素朴な自然信仰や祖先崇拝では、国家体制を維持し、複雑な利害関係を調整することが出来なくなり、古神道には無い「罪 穢れ」を強調することになりました。
今日でも神社では「大祓の詞」が奏上されて、参拝者は「お祓い料」を払っています。
本来、スメラミコト(天皇)は権力でいく覇道ではなく、王道を行く、宇宙の大王です。
いいことのみ起きます。病氣になればおめでとう 苦難は福門 大自然に感謝申し上げ、
両親やご先祖様を崇拝します。約1万600年も争いや競うことがなく平和を生きた縄文人に回帰します。
あらゆるものの本質は同じ神性を持ちます。
この宇宙には一つの神、一つの心、一つの物質しかありません。
その一つのものが、あらゆる表現をとって現れ、宇宙を個性豊かな世界としています。
私たちが神性の奥底に鎮まりこの世界を見るとき、「私はここにも、あそこにもいる」「私はありてあるものである」という、ワンネスの言葉が真実であると、きっと理解できるのでしょう。
神性が最も花開いていた時代(サティアユガ・黄金時代)、神の世界と物質世界は同じであったと思われます。
宇宙文明と地球文明が交流し、自由に宇宙を旅し、交易し、鳳凰が飛び龍神が佇む神話のような世界は、その時代では日常であったことでしょう。
大自然とともに、大地に質素に生きながら、宇宙の超文明にも生きる。
富士山は、そのような時代の中心地であったと私は理解しています。
やがて神性さを忘れ自我が強まり、支配するものの力が大きくなるにつれ、そのような超文明の歴史を隠して支配者の都合のよい情報に変え、力と暴力、洗脳で世界を支配してきました。
日本だけでなく、ムーもアトランティスもエジプトもホピも南極も、月や太陽や宇宙までも本当の情報を今に至るまで隠し続けてきました。秘密に近づくと抹殺されたり呪詛をかけられて生命を狙われました。
真理を求めるたくさんの偉大な方たちが命を落としてきました。
しかし、「時」が来ました。時節ほどおそろしくありがたいものはありません、どんな悪魔も時の神様には敵いません。
真理を求めてきた先人の努力が報われる時が訪れています。
地球はこれから、超古代文明以上の超宇宙文明を必ず迎えます。
しかし、その前に、今までの負の清算があり、また今まで人類をコントロールしてきた存在たちは、自分たちが滅びるなら地球を巻き添えにしようともするでしょう。
今こそ祈りが必要です.真剣な祈りは何を信じようと必ず同じワンネスの祈りとなり、神様は必要な導きやヒラメキを与えてくださいます、必ず。(小林 誠)
国士とは「日本は世界の祖国の士」の略。
初代国士は聖徳太子。
聖徳太子は厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)・厩戸王(うまやとおう)と呼ばれ、「聖徳太子」は、後世の諡号。
用明天皇の第2皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。
厩戸皇子は、天皇から次期天皇就任を何度も要請されたが、これを断り、叔母が推古天皇となり、自らは摂政となった。
厩戸皇子著書の三経義疏(さんぎょうぎしょ)は、「法華義疏」「勝鬘経義疏」「維摩経義疏」の総称である。
法華義疏は日本最初の『法華経』の解説書。「未来記」は厩戸皇子による予言書。
厩戸皇子編纂の「先代旧事本紀大成経」にあるアマテラスには「普く照らす」という意味がある。氣の流れが強い所に城や神社が造ると、その街は栄え、作もつも良く実り、その土地に住む人々は豊かに暮らせる。
その代表が旧江戸城( 現在の皇居)で、お陰様で徳川幕府は約300年も繁栄を続けることができた。つまり、あらゆる権威性を否定して、人は神の同じことができ、誰からも支配されないと説く。これこそ人の尊厳と言えるが、このような書は権力者にとって邪魔な物となる
聖徳太子は「先代旧事本紀大成経」72巻を編纂しましたが「近い将来に失ってしまう」と思い、大成経の複製を3セット作り、3箇所に埋めという。
この一巻に「未然本紀」があり、聖徳太子が100年単位で書いた「聖徳太子の予言書」と言われています。
法隆寺は学問所として、聖徳太子によって創建されました。焼失前の夢殿は、現在の5倍から6倍の広さがありました。夢殿は八角形であり、円であり宇宙です。
聖徳太子は、夢殿の中心に座って、世界の情勢を夢見るように見たようです。
人間の心は神であり太陽です。
そのやり方が自然の摂理に反しない限り、できないものはない、ならないものはない。
http://www.arsvi.com/w/kt09.htm 【「地球的平和の公共哲学の形成」より
鎌田 東二 かまた・とうじ 『徳島新聞』2003-05-11朝刊,12朝刊
「イラク戦争が終わり、復興計画が進んでいるという。が、米国が攻撃の第一の理由としてあげた核兵器や生物・化学兵器などの「大量破壊兵器」はまだ発見されていない。査察継続を主張したフランスやドイツ、ロシアの反対を押し切って、戦争に踏み切った判断と理由付けが正しかったかどうかは証明されていないどころか、それは甚だ疑わしい。
また、米軍関係者や湾岸戦争時の退役軍人からも「非人道的」と批判があったクラスター(集束)爆弾が今回も使用された。大量破壊兵器とは、イラクが「開発・所有」しているのではなく、むしろ米国がもっとも多く「開発・所有」していることは間違いない。世界平和のためには、それをまず破棄する必要があるのではないか。
今回の戦争は、情報戦でもあった。マスメディアが報道する情報だけでなく、それとは異なった市民レベルの情報がインターネット上を行き交い、世界中で二千万人を超すデモが起こり、反戦運動が急激に盛り上がった。これは湾岸戦争時でも起こらなかった未曾有(みぞう)の出来事であったといえる。
しかしながら、メソポタミア文明の発祥地・バグダッドでは無辜(むこ)の市民の生命とともに、貴重な歴史的遺産が灰塵(はいじん)に帰したり、略奪されたりしている。ブッシュ大統領は、この戦争は「イラク解放戦争」であり、勝利を占めたのは自由と民主主義である、勝利宣言をした。が、それは国連や反戦運動をないがしろにする武力に任せた「一国自由主義」と「民主主義」であり、その内実は石油資源の確保と国際覇権の確立を急ぐ「侵略戦争」ではなかったか。
イラク攻撃時に、米国防総省傘下の復興人道支援室は、イラク国立博物館などを保護するよう米軍に要請し、「収蔵品は人類にとって貴重な宝」と主張したが、無視されたという。いったいこの戦争の目的と意味は何だったのか、今後とも注意深い追及と吟味が必要である。
そもそもこの戦争の背景には、パレスチナ問題がある。歴史的にイスラエルを支持してきた米英は、多くのアラブ・イスラム諸国の反発を買ってきたが、それを経済支援という「アメ」と、経済制裁と軍事力という「ムチ」で押さえ込み、ハイテク兵器の破壊力を見せつけることで恫喝(どうかつ)政治を確立した。
二十一世紀の世界地図は、この帝国主義的な野望に食い破られて大きく塗り替えられる恐れが出てきた。今後、世界平和はどのようにしてなしとげられるのか、まったく予測がつかなくなったといえるが、少なくとも二十一世紀の平和を構想する場合に、文明論や宗教史についての知識と洞察は必要不可欠になるだろう。
そのような折、公共哲学ネットワーク編『地球的平和の公共哲学』(東京大学出版会)が出版され、話題になっている。「公共哲学」とは、公開性と公益性を持ち、現実の問題解決に役立つ実践的で包括的な学問的知恵の総称である。この本は、9・11テロが起きた二〇〇一年の終わりに、千葉大学で行われた「地球的平和問題会議」での報告と討議の内容をまとめたもので、その残る半分も『戦争批判の公共哲学』(勁草書房)としてまもなく出版される。
そこでの論議は多岐にわたるが、特筆しておきたいのは、会議の基調講演を飾ったイスラム研究家の板垣雄三東京大学名誉教授の「反テロ戦争と地球的平和」についてである。
板垣は同論文で、「平和」を基本理念とした日本国家とイスラム国家の形成の平行現象という興味深い指摘をしている。いずれも七世紀に登場した聖徳太子(和を以て貴しとなす)、ムハンマド(イスラムの語源はアラビア語で平和を意味するサラーム)に平和への志向を見るのである。そして板垣は、「人類の共倒れを回避して地球的平和をつくり出すため」に、①覇権的グローバリズムに反対し、「多文化共生」を強めること②イスラーム文明の「多元主義的普遍主義」の論理を人類の「スーパーモダン原理」として活用すること|という方向性を打ち出している。
わたしもこの「多文化共生」や「多元主義的普遍主義」の共有化への模索に基本的に賛同する。それこそが、「地球的平和の公共哲学」の形成の努力の一里塚であると思うからである。」
cf.米国/イラク/…
Facebook高木 道郎さん投稿記事
もうすぐ憲法記念日なので…。
✿ああ、弟よ、君を泣く、/君死にたまふことなかれ。 親は刃をにぎらせて/人を殺せと敎へしや、人を殺して死ねよとて/二十四までを育てしや。 (by 与謝野晶子)
あの時代にこういう詩を書いて発表する勇気に脱帽です。炎上どころではない烈しいバッシングを受けたようですが…。
文壇から批難されてもひるむ様子は微塵もありませんでした。
✿「(この詩が)たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」?(by 与謝野晶子)
個人的な話ですが
母は亡くなる少し前に意識が混濁して私が見舞いに行くたびに戦地で亡くなった弟の名を呼びました。「〇〇か?〇〇か?どこへ行ってた?」
「末に生れし」叔父は私によく似ていたのだそうです。
叔父は結婚して間もなく徴兵され、新妻と乳飲み子を残したまま南方戦線で亡くなりました。
当時の南方戦線は悲惨な状況で、多くは餓死を含む戦病死だったそうです。
叔父もおそらくまともな戦死ではなかったと思います。それは「尊い犠牲」などと呼べるものではなかったはずです。叔父の死が妻と乳飲み子を守ったのでしょうか?
平和を守るのにどうして無残な死が必要だったのでしょうか?犠牲がなければ戦後の平和は訪れなかったのでしょうか?奪われたのは長い人生であり家族とともに過ごすはずの楽しい日々の記憶です。
母はずっと気懸かりだったのでしょう。それまでは口にしなかった名前を、懐かしそうに 愛おしそうに、何度も何度もくり返しました。
そのとき私の脳裡に響いていたのは与謝野晶子が戦地にいる弟を案じて書いた有名な詩です。
これほど激しくも理にかなった反戦詩はありません。
ただ、そんな晶子でさえ日中戦争~太平洋戦争に飲み込まれてしまいました。
そのことも忘れてはならない「現実」です。
✿ ✿ ✿ ✿
君死にたまふことなかれ (旅順の攻圍軍にある弟宗七を歎きて) 與 謝 野 晶 子
ああ、弟よ、君を泣く、 君死にたまふことなかれ。 末に生れし君なれば
親のなさけは勝りしも、 親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せと敎へしや、
人を殺して死ねよとて 廿四(にじふし)までを育てしや。
堺の街のあきびとの 老舗(しにせ)を誇るあるじにて、 親の名を繼ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順の城はほろぶとも、 ほろびずとても、何事ぞ、 君は知らじな、あきびとの
家の習ひに無きことを。 君死にたまふことなかれ。
すめらみことは、戰ひに おほみづからは出でまさね、 互(かたみ)に人の血を流し、
獸の道に死ねよとは、 死ぬるを人の譽れとは、 おほみこころの深ければ
もとより如何で思(おぼ)されん。 ああ、弟よ、戰ひに 君死にたまふことなかれ。
過ぎにし秋を父君に おくれたまへる母君は、 歎きのなかに、いたましく、
我子を召され、家を守(も)り、 安しと聞ける大御代(おほみよ)も
母の白髮(しらが)は増さりゆく。 暖簾(のれん)のかげに伏して泣く
あえかに若き新妻を 君忘るるや、思へるや。 十月(とつき)も添はで別れたる
少女(をとめ)ごころを思ひみよ。 この世ひとりの君ならで ああまた誰を頼むべき。
君死にたまふことなかれ。
※3連目で「すめらみことは戦いに おほみずからは出でまさね(天皇は戦争に自ら出かけられない)」と唱い、晶子と親交の深い歌人であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月に反論した。(Wikipediaの記事より一部引用)
0コメント