前方後円墳

https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/news/20240417-OYO1T50025/ 【川の中で発見の前方後円墳、識者「奇跡だ」…ハの字に並ぶ埴輪も見つかる】より

2024/04/17 16:00

関西・発掘調査

 滋賀県文化財保護協会は、近江八幡市の日野川の中で見つかった 江頭南えがしらみなみ 遺跡が、5世紀後半~6世紀前半の古墳時代の前方後円墳だったと発表した。川の中で古墳が見つかるのは全国的にも珍しく、同協会は「川や谷に埋没した遺跡の存在を物語り、古墳の築造工程を知る重要な資料」としている。(矢野彰)

 江頭南遺跡は2019年、バードウォッチング中の住民が川の中の 埴輪はにわ を見つけたのをきっかけに調査が行われ、円筒埴輪が6点、川の中州に一列に並んでいるのを発見。古墳の存在が明らかになった。

出土した埴輪の列(滋賀県文化財保護協会提供)

 古墳時代の琵琶湖の水位は今より低く、陸地にあった古墳が川の流れで運ばれた土砂に埋もれていたが、近年の豪雨や河川改修の影響で再び現れたとみられる。県が行う日野川の河川改修工事に伴い、同協会が22、23年度に発掘調査していた。

 今回は、前回埴輪が見つかった近くの土が盛り上がった場所など約450平方メートルを調査。土の中を調べると、整地した後に盛り土され、粘土を含んだ強固な構造となっていることがわかり、古墳の墳丘の一部と判断した。

 また、19年に見つかった埴輪の南側に、一列に配置された13点の円筒形の埴輪が新たに見つかり、埴輪が「ハの字」に並んでいることが判明。埴輪は古墳の形に合わせて並べられることが多く、前方部の両側の埴輪列にあたると考えられることから、前方後円墳の前方部と推定したという。

 後円部の大半や古墳の裾にあたる部分は川の流れで浸食され、古墳の正確な大きさは不明だが、少なくとも高さは1・5メートル以上に及んだとみられる。前方部の形や須恵器窯で焼かれた埴輪の特徴から築造年代を絞り込んだ。

 京都橘大の中久保辰夫准教授(考古学)は「約1500年前に造られた前方後円墳が一部でも川の中から見つかるのは奇跡だ。当時の築造技術の高さを示している」と説明。「有力者がいる地域だと示すランドマークの役割もあったのではないか」と推測している。

 調査地の立ち入りが危険なことから、現地説明会や一般公開は行われず、すでに古墳は埋め戻されている。


https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/8424ea8b636c0b0b3072e3b87cc754e987058953 【「前方後円墳」はなぜ「前円後方墳」ではないのか】より

石田雅彦科学ジャーナリスト、編集者

世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」大山古墳(仁徳天皇陵)の案内板。撮影筆者

 日本史を習うと出てくる古墳の形に前方後円墳がある。なじみ深い歴史用語だが、なぜ円形のほうが後方なのだろうか。

前と後ろはどう決まったのか

 先日、神奈川県小田原市で前方後円墳が発見され、関東地方には少ない形状の古墳として注目された。古墳というのは、土を高く盛った古代の墓だが、一般的には古墳時代(弥生時代の後、飛鳥時代の前、3世紀半ばから7世紀末)に多く造られた各地の豪族の墳墓を指す。

 古墳には、円墳、方墳、八角墳、前方後方墳、双円墳、帆立貝形古墳などがあるが、耳なじみのいいのは前方後円墳だろう。全国の古墳で最も多いのは円墳で、文字通り上から見ると円形をしている。方墳は四角形、八角墳は八角形、双円墳は円墳が二つ重なった古墳、帆立貝形古墳は円墳に小さな張り出しが付いて帆立貝形になった古墳だ。

 ところが、前方後方墳、そして前方後円墳には、前と後ろという方向性が示されている。これはいったいなぜなのだろうか。

 古墳に前後の概念を与えたのは、江戸時代中期の国学者、蒲生君平(がもうくんぺい、1759-1813)だ。蒲生が著した『山陵志』は古墳研究の嚆矢とされ、近畿地方の古墳を実地に調査して天皇陵と考えられる墳墓を特定した書物だが、その中で蒲生は前方後円墳を「必象宮車而使前方後円」と記述した。蒲生は、古墳の形状を古代中国の霊柩車「宮車」に模したと考え、この「宮車」の前方を方墳、後方を円墳として前方後円墳と記述したわけだ(※1)。

 ただし、古墳時代の人が古代中国の「宮車」の形をもとに墳墓を造ったという証拠はなく、前方後円墳に前後があるという説明にはなっていない。

 明治期に日本の古墳を調査した英国人、ウィリアム・ゴーランド(William Gowland、1842-1922)は、前方後円墳を「Keyhole Shaped Tombs(鍵穴式古墳)」と呼んでいて方向性を示していない。もっとも現在の考古学者は、前方後円墳を英語で「Front Double Mound Tombs(前方二重式古墳)」とも記述している。

 内部構造を詳細に調べれば前後関係がわかるが、宮内庁の管理下にある天皇陵を含む陵墓の調査には限界があった。

 近年、限定的ながら内部の調査も進み、後円部に竪穴式や横穴式の石室があることがわかってきた。例えば、大阪府高槻市と茨木市にある三島古墳群の今城塚古墳(6世紀前半)では後円部に横穴式石室があったと推定されている(※2)。

 墳墓としての前方後円墳では、遺体を安置したと考えられる石室のある後円部がメインの構造物になるだろう。そのため、前方の方形は付随物であり、石室を納めた円墳が後方に位置するということになる。

 多くの前方後円墳は方形の中心を通って石室へ至る通路があったと考えられ、やはり前後関係があったことをうかがわせる。例えば、日本最大の前方後円墳である大山(だいせん、仁徳天皇陵)古墳は、方形の側に拝所がある。また、大山古墳の調査では、方形の前方から石棺や副葬品が見つかっているが、これは後円部の埋葬者の従者の墓と考えられている。

世界文化遺産「百舌鳥・古市古墳群」大山古墳(仁徳天皇陵)の周濠。撮影筆者

太陽と月の方向が影響しているのか

 最近、イタリアのミラノ工科大学などの研究グループが、Google Mapを使って日本全国158基の前方後円墳の向き(後円が北)を調べたところ、多くの前方後円墳の方形の側が一年を通して太陽と満月に向くよう配置されていたという(※3)。その割合は帰無仮説を否定する程度だそうだが、前方後円墳は意図的に向きを考えられて建築されたことを示唆し、やはり前方後円墳に前後があることを示している。

 なぜ、前方後円墳ができたのかについては、方形部が祭壇や装飾のためのものだったという説や広口壺土器の形状を模倣したという説、中国・漢代の墳墓(打虎亭漢墓など)が伝えられたという説、円墳と方墳が合体したという説など、諸説があるがまだはっきりとわかってはいない。

 円形と方形は、古代中国からもたらされた天円地方の宇宙観や陰陽思想とも関係する。天円地方というのは、天は円形、地は方形という陰陽思想に影響を受けた考え方だ。陰陽思想では円形を天、方形を地としているが、円形と方形を合体させ、陰と陽の両方を取り込んだのが前方後円墳とも考えられる(※4)。

 前方後円墳は、表面を小石などでおおい、草木が育ちにくくしており、その設計も複雑精緻でかなり高度な土木技術を駆使して建築されている。また、サイズに関してはヤマト権力の規格に沿いつつ、その地の豪族がそれぞれ自分なりにアレンジした規格で建築していたという(※5)。

 古墳には土器や埴輪などが配置されていたと考えられ、古墳は死者を弔う場所であったとともに豪族の長を継承するための宗教的な儀式を行う舞台でもあったようだ。前方後円墳では特にこの役割が大きい(※6)。

 ヤマト権力が地方豪族を従え、仏教が伝来して火葬が広まったことで、やがて古墳への埋葬は廃れていく。そして、7世紀の終わり頃から、特に前方後円墳は急速に造られなくなっていった(※7)。

※1:清水大吉郎、「前方後円墳の起源と地学」、地学教育と科学運動、第36号、2001

※2:森田克行、「今城塚古墳の調査成果」、日本考古学、第10巻、第15号、2003

※3:Norma Camilla Baratta, et al., "The Orientation of the Kofun Tombs" remote sensing, Vol.14(2), 377, 14, January, 2022

※4:須股孝信、坪井基展、「前方後円墳の設計理念と使用尺度」、土木史研究、第17号、1997

※5:柴原聡一郎、「前方後円墳の墳丘長の規格性」、東京大学考古学研究室研究紀要、第33巻、155-182、2020

※6:古屋紀之、「墳墓における土器配置の系譜と意義─東日本の古墳時代の開始─」、駿台史学、第104巻、31-81、1998

※7:広瀬和雄、「古墳時代像再構築のための構殺─前方後円墳時代は律令国家の前史か─」、国立歴史民俗博物館研究報告、第150集、2009


https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699066539648 【古墳時代像再構築のための考察 : 前方後円墳時代は律令国家の前史か】より

抄録

西日本各地の首長同盟が急速に東日本各地へも拡大し,やがて大王を中心とした畿内有力首長層は,各地の「反乱」を制圧しながら強大化し,中央集権化への歩みをはじめる。地方首長層はかつての同盟から服属へと隷属の途をたどって,律令国家へと社会は発展していく,というのが古墳時代にたいする一般的な理解である。そこには,古墳時代は律令国家の前史で古代国家の形成過程にすぎない,古墳時代が順調に発展して律令国家が成立した,というような通説が根底に横たわっている。さらには律令国家の時代が文明で,古墳時代は未熟な政治システムの社会である,といった<未開―文明史観>的な歴史観が強力に作用している。北海道・北東北と沖縄諸島を除いた日本列島では,3世紀中ごろから7世紀初めごろに約5200基の前方後円(方)墳が造営された。墳長超200mの前方後円墳32/35基,超100mの前方後円(方)墳140/302基が,畿内地域に集中していた。そこには中央―地方の関係があったが,その政治秩序は首長と首長の人的な結合で維持されていた。いっぽう,『記紀』が表す国造・ミヤケ・部民の地方統治システムも,中央と地方の人的関係にもとづく政治制度だった。つまり,複数の畿内有力首長が,各々中小首長層を統率して中央政権を共同統治した<人的統治システム>の古墳時代と,国家的土地所有にもとづく<領域的統治システム>を理念とした律令国家の統治原理は異質であった。律令国家の正統性を著した『日本書紀』の体系的な叙述と,考古学・古代史研究者を規制してきた発展史観から,みずからの観念を解き放たねばならない。そして,膨大な考古資料をもとに,墳墓に政治が表象された古墳時代の350年間を,一個のまとまった時代として,先見主義に陥らずにその特質を解明していかねばならない。


https://mag.japaaan.com/archives/157404 【Japaaan Japaaanマガジン 歴史・文化 蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【前編】】より

日本古代史上の最大事件である大化の改新。645年に起きたこの事変で、天皇家を凌ぐといわれた古代豪族・蘇我氏の本宗家が滅亡しました。

蘇我氏というと、推古天皇の時代に聖徳太子とともに政権を担った馬子と大化の改新で殺害された蝦夷、入鹿が有名です。しかし、蘇我氏全盛の基礎をつくったのが馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)でした。

今回は、奈良県明日香村にある都塚古墳(みやこづかこふん)と蘇我稲目の関係についてお話をします。

【前編】では、まず、蘇我稲目の人物像と都塚古墳の概要を紹介しましょう。

蘇我稲目ってどんな人物?

奈良県橿原市曾我町に鎮座する宗我坐宗我都比古神社。蘇我稲目の子馬子の創建ともいう。(写真:Wikipedia)

蘇我氏は第8代考元天皇の曽孫にあたる武内宿禰の子石川宿禰を始祖とする豪族です。石川宿禰-満智-韓子-馬背(高麗)-稲目と続くとされますが、稲目以前は実在した確証がありません。

したがって蘇我氏の中で実在が確認できるのが蘇我稲目からで、536年に、朝廷の最高位である大臣に任命されます。

稲目は、娘の堅塩姫と小姉君を欽明天皇の妃として、18名の皇子女の外祖父となりました。この中から、用明・崇峻・推古の3人が天皇(大王)の位についています。

稲目は、朝廷の直轄地である屯倉の管理・経営を司り、王権の勢力拡大に大きく貢献しました。また、百済や高句麗出身の渡来人たちを活用し、朝廷経営を推進したともいわれます。

また、一説によると、蘇我氏は渡来人の知識を活用し、いち早く律令制による官僚制度の導入に力を注いでいたともいわれます。

日本の古代史上、欽明天皇から推古天皇までの世代は、その後の天皇を輩出した血統として認識されています。その王統に尽力した稲目は、その後の天皇(大王)家と蘇我本宗家の勢力拡大に大きな力をもった人物であったのです。

都塚古墳ってどんな古墳?

都塚古墳。一辺40mを越えるピラミッド状の方墳だった。(写真:T.TAKANO)

有名な石舞台古墳から約400m。南から伸びるゆるい尾根上、畑の中にポツンと築造されている方墳です。地元では、元旦の朝、金の鶏が鳴くという言い伝えから、「金鳥塚」とも呼ばれていました。

横穴式石室の発掘調査でわかったこと

都塚古墳の横穴式石室内に置かれた家形石棺。(写真:T.TAKANO)

1967(昭和42)年に、明日香村と関西大学により石室内の発掘調査が行われました。埋葬施設は、横穴式石室でその全長は12.2mとされます。遺体を納める玄室は、長さ5.3m、幅2.8m、高さ3.55m、羨道部は長さ6.9mで、石室の床面に暗きょ排水溝が設けられていました。

玄室には、長さ2.36m、幅1.58m、高さ0.64mの家形石棺が安置されています。石棺を覆う蓋石には大きな縄掛突起があり、発掘調査以前から開口していました。石棺の周辺からは、鉄釘片や棺台とみられる石などが発見されており、木棺も安置されていたとの推測もあります。

この家形石棺の形態や出土した土器・須恵器などから、都塚古墳の築造時期は、6世紀後半ないしは6世末とみなされています。

墳丘の発掘調査で大きな発見がなされた

都塚古墳の墳丘。葺石を貼り付けた8段のテラスからならピラミッドを思わせる外観と推測される。(写真:T.TAKANO・現地案内板)

石室の調査に続いて、2014年と2015年、同じく明日香村と関西大学により、墳丘に対しての発掘調査が行われました。

そして、この調査で大変興味深い発見がなされました。それは、都塚古墳がまるでピラミッドのように葺石を貼り付けた8段と想定される階段状の墳丘形をなしていたことがわかったのです。

そして、墳丘の形は方墳で、その規模は東西41m、南北42mという大型のものであったことが確かめられました。

https://mag.japaaan.com/archives/159288#google_vignette 【Japaaan Japaaanマガジン 観光・地域 蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【後編】】より

【後編】は、いよいよ都塚古墳の被葬者が蘇我稲目かどうかについて、考察していきましょう。

都塚古墳の被葬者論

横穴式石室を羨道部からみた都塚古墳。(写真:T.TAKANO)

2014年8月の調査を終えて、都塚古墳の全貌が明らかになるにつれ、新聞各社でその被葬者を蘇我稲目と見なす報道が相次ぎました。

これは、発掘を担当した関西大学の米田文孝教授をはじめ、猪熊兼勝氏、千田稔氏などの著名な学者たちが揃って「都塚古墳の高い技術力、規模の大きさ、そして地域性から考えて、蘇我氏の有力者の墓に違いない」という見解を出したことに基づいてのことでした。

明日香を流れる冬野川流域一帯が、蘇我氏の支配地域であり、蘇我馬子の墳墓として有力な石舞台古墳が近いことからも蘇我本宗家の本拠南端のこの地に、蘇我氏の墓域が設けられたと考えられたのです。

一方で、都塚古墳の被葬者を稲目以外の蘇我氏有力者とする説も唱えられています。代表的な被葬者として、蘇我入鹿(河上邦彦氏)、蘇我小姉君(小笠原好彦)などの説があります。やはり、この地が蘇我本宗家の本拠であったことから、蘇我本宗家ゆかりの人物に比定する説が多いようです。

石舞台古墳。古くから蘇我馬子の墳墓と考えられてきた。(写真:T.TAKANO)

都塚古墳の被葬者が蘇我稲目ではないとする説の根拠として、稲目が没した570年当時はまだ有力者が前方後円墳に葬られていた時代であったというものがあります。

蘇我稲目の墓との説がある前方後円墳の丸山古墳。(写真:Wikipedia)

稲目は当時の朝廷首班である大臣であり、都塚古墳がたとえ規模の大きな方墳であっても前方後円墳と比べたら小さいため、その墳墓には考えられないという説です。

しかし、どうでしょうか?いま私たちは蘇我氏4代というと、大王(天皇)家を凌ぐ大権力者というイメージを持ちます。

でも、その権力は馬子・蝦夷・入鹿の2~4代で巨大化したのであり、初代稲目がそこまでの権力を持っていたかどうかは判明していないのです。事実、稲目と並ぶ朝廷首班の大連には、物部尾興が健在していました。

都塚古墳は蘇我稲目の墳墓なのか

ですから、蘇我稲目が6世後半にその本拠の南端に葬られ(都塚古墳)、続いて馬子が隣接する地に葬られた(石舞台古墳)という推測は十分に成り立つと考えられます。

そして、蘇我本宗家の権力が成熟期を迎えた蝦夷・入鹿の時代になると本拠地は南の甘樫丘付近に移動していくのです。

大化の改新で倒れた蘇我入鹿の首塚と、蝦夷・入鹿父子が本拠を置いた甘樫丘。(写真:T.TAKANO)

甘樫丘の東麓からは、蝦夷・入鹿の邸宅跡とみられる遺跡が発掘され、隣接する小山田遺跡からは、一辺80mの巨大方墳・小山田古墳が発見されました。

小山田古墳からは、結晶片岩や榛原石の板石の破片が多数みつかっており、都塚古墳同様に、葺石を貼り付けた階段状の方墳であったことも考えられます。小山田古墳を蘇我蝦夷の大陵とする説も有力となってきています。

小山田古墳(右端)と菖蒲池古墳(右端)。蘇我蝦夷・入鹿父子が築いた大陵・小陵に比定する説がある。(写真:Wikipedia)

石舞台古墳の墳丘は、すでに失われています。しかし、墳丘の裾部分に石積みがなされていたことは、今も現地で確認することができます。

石舞台古墳の墳丘裾部分の現状。石積みがみられる。(写真:T.TAKANO)

こうしたことから、都塚古墳(稲目墓)ー石舞台古墳(馬子墓)ー小山田古墳(蝦夷墓)という葺石を貼り付けた階段状のピラミッド型方墳を、蘇我4代の墳墓と考えることもできるのではないでしょうか。

ただ、そのためには、『日本書紀』の記述のように、小山田古墳の西側100mに位置する菖蒲池古墳が入鹿の小陵でなければなりません。

菖蒲池古墳が入鹿の真墓と判明すれば、都塚古墳ー石舞台古墳ー小山田古墳ー菖蒲池古墳が蘇我本宗家4代の墳墓となり、都塚古墳が蘇我稲目の真墓となる確率が高くなるのですが、この結論に至るにはまだまだ多くの考察が必要だと思います。

菖蒲池古墳。上段墳丘裾平坦面では礫(石)敷が判明している。(写真:T.TAKANO)

次回も「蘇我氏四代の墓を探る!」として、馬子・蝦夷・入鹿の墳墓についての考察を続けていきたいと思います。どうぞ、お付き合いください。

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