肥前福江藩五嶋家墓所

【肥前福江藩五嶋家墓所 (高野山・奥の院)】より

肥前福江藩五嶋家墓所

肥前平戸松浦家墓所の左にある肥前福江藩五嶋家墓所です。右の方に見えている標柱は肥前平戸松浦家墓所の標柱です。五嶋家墓所は標柱もありませんし地図にも出ていません。前後2列に並んでいますが刻まれている文字は比較的はっきりと残っています。4代藩主五嶋盛勝(松岩院)、5代藩主盛暢(清涼院)、7代藩主盛道(大圓院)、8代藩主盛運(泰源院)といった歴代藩主の名を読み取ることが出来ます。五嶋家は秀吉の朝鮮出兵にも出陣した初代純玄から幕末まで12代にわたり続いた外様大名です。


【富江領主 旗本・五嶋家墓所? 】より(高野山・奥の院)

これは24町石の少し手前左側にある、堀尾吉晴墓所から参道を隔てた向かい側、参道沿いにある墓所です。この様子からすると、参道沿いとは言うものの、あまり注目されていないような・・・。墓石に刻まれている文字ははっきりしているのですが、ほとんどが命日、戒名、建てた方の名前だけ。しかも、その名が官位止まり。ですから、私にはどなたかが祀られているのか特定するのがとても難しいのです。命日は明和・享保・安永・寛政・天保など、戒名の院号だけを記してみると、大乗院・瑞雲寺殿・秋頭院・雄安院・単傳院・瑞鳳院などです。建てた方は、五嶋修理。五嶋兵部などですが、みな五嶋という姓がついているので、五嶋家の墓所であることは間違いないと思います。以前取り上げた「肥前福江藩五嶋家墓所」の五嶋氏に繋がる家系ではないかと思うのですが・・・。寛文2年(1662年)に藩主の後見役だった五嶋盛清が、その任を終えるに当たり、富江3000石を分知してもらい旗本になったようです。ですから、今のところ、この墓所はその系統の方々の墓所ではないかと思っています。この墓所、もう少し詳しく調べてみたい気がしています。またそのうち何か判りましたら、ご報告します。なお、この墓所についてご存じの方、いらっしゃいましたらご教示いただければ嬉しいです。

早速いつもお世話になっているM.I様から連絡を頂戴しました。

五嶋家 盛清系( )は没年。 民部盛清—兵部盛朗(享保11・7・20)—修理盛尚(明和5・3・2)—右膳盛峰(安永2・4・6)—兵部盛恭(寛政元・8・2)—右膳運龍(没年不明)

とのことです。次回のこの墓所を調べるとき、とても参考になりそうです。ありがとうございました。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%82%A5%E5%89%8D%E5%9B%BD 【肥前国】より

肥前国(ひぜんのくに、旧字体:肥前󠄁國)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属し、現在の佐賀県と長崎県(壱岐・対馬を除く)にあたる。

沿革

国絵図 慶長・正保・元禄・天保

火国(ひのくに)、後の肥国(ひのくに)の分割によって7世紀末までに成立した。肥後国が『続日本紀』に初めて見える持統天皇10年(696年)までのどの時点かに、肥前国(ひのみちのくち)と肥後国(ひのみちのしり)との分割があったと推定される。 以後、奈良・平安時代は肥前国と呼ばれた。平安時代の班田制による生産量から、佐賀県部分で7万人以上いたと推定される。

「肥前国風土記」によると、見通しの良い山丘に外敵の来襲を通報するための烽が計20か所、高来郡(長崎県)5つ、藤津郡(太良町大浦)1つ、小城郡(多久市と江北町の間の両子山)1つ、神埼郡(日の隈山)1つ、養父郡(鳥栖市朝日山)1つなど設けられ、城が基肄城(三養基郡基山町基山)に1か所設けられた。白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に大打撃を被り、わが国と百済との連合軍は陸戦でも惨敗を喫した。百済が完全に滅び新羅と唐の来襲の危機に直面し、翌664年に防人と烽を対馬と壱岐に置き、筑前に水城を築き、665年に筑前に大野城、肥前に基肄城と南北相対して大宰府都城防衛のため古代山城が築かれた。

肥前国の官道西海道は、大宰府から基肄駅(基山町木山口)- 切山駅(中原町)- 佐嘉駅(肥前国府付近・大和町尼寺)- 高来駅(多久市)へ至り、杵島郡と松浦郡への二つに分かれていた。肥前国には鹿嶋馬牧(鹿島市)・庇羅馬牧(平戸島)・生属馬牧(生月島)・柏島馬牧(唐津市神集島)・極(=扌遷)野牧(島原半島)・早崎牛牧(島原半島南端)の六ケ所の官牧があり、西海道の諸国は駅馬・兵馬、牛は運搬として大宰府へ送っていた。[1]

『肥前国風土記』は、全国で5つだけの、ほぼ完全な形で残る風土記の1つである。

中世には鎌倉幕府鎮西奉行の少弐氏と室町幕府九州探題の渋川氏が争う。両氏とも本来は筑前国にあった大宰府を拠点としてきたが、大内氏や大友氏の侵入によって肥前に没落した存在であった。この他にも千葉氏・松浦氏・大村氏・有馬氏などの中小の武士が割拠しており、龍造寺氏が戦国大名化するまで、国内の大半を支配する有力武家は現れなかった。

戦国時代にポルトガル、スペインの宣教師が相次いで来訪してからは、西洋の窓口となり、天正少年使節団を出すなどした。


https://www.pref.nagasaki.jp/bunrui/kanko-kyoiku-bunka/kanko-bussan/hizen/427592.html 【日本遺産「日本磁器のふるさと 肥前」とは】より

「日本遺産」とは

  文化庁が認定した”地域の歴史的魅力や特色を通じて日本の文化・伝統を語るストーリー”

「肥前やきもの圏」とは

  2016年(平成28年)4月25日に日本遺産に認定された「日本磁器のふるさと 肥前 百花繚乱のやきもの散歩」の35の構成文化財、当該文化財の所在市町及び当該市町が有する地域資源(長崎県佐世保市、平戸市、波佐見町、佐賀県唐津市、伊万里市、武雄市、嬉野市、有田町)

構成文化財一覧

  陶石、燃料(山)、水(川)など窯業を営む条件が揃う自然豊かな九州北西部の地「肥前」で、陶器生産の技を活かし誕生

 した日本磁器。肥前の各産地では、互いに切磋琢磨しながら、個性際立つ独自の花を開かせていった。その製品は全国

 に流通し、我が国の暮らしの中に磁器を浸透させるとともに、海外からも称賛された。今でも、その技術を受け継ぎ特色あ

 るやきものが生み出される「肥前」。青空に向かってそびえる窯元の煙突やトンバイ塀は脈々と続く窯業の営みを物語る。

 この地は、歴史と伝統が培った技と美、景観を五感で感じることのできる磁器のふるさとである。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%B1%9F%E8%97%A9 【福江藩】より

福江藩(ふくえはん)は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島家が藩主を務めた。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し、1万2000余石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。

略史

文治3年(1187年)、平家盛(平忠盛次男、平清盛の異母弟)が宇久島に上陸し、宇久姓を名乗る。観応2年(1351年)、宇久覚が宇久より福江島岐宿に移り、天正15年(1587年)、宇久純玄(すみはる)が五島姓へと改める。藩の成立は江戸時代初頭の慶長8年(1603年)に、初代藩主・五島玄雅(五島純玄の嗣子)が徳川家康に謁し、1万5千余石の所領を認める朱印状を下賜されたことに始まる。

第2代藩主・盛利は、玄雅の養子として慶長17年(1612年)にその跡を継いだ。元和5年(1619年)、玄雅の実子・五島角右衛門の養子であった大浜主水が、後継者の権利主張と盛利の失政を幕府に対し直訴した。しかし幕府は盛利の正当性を認め、主水の訴えを退けた。盛利は主水とその一派を処刑した。いわゆる「大浜主水事件」である。この事件を機に藩主の支配権強化に着手し、藩政の礎を築いた。兵農分離の徹底と、各知行地に居住していた家臣団に対し「福江直り(ふくえなおり)」と呼ばれる福江城下への移住を強制した。福江直りは寛永11年(1634年)に完了している。寛永12年(1635年)には領内の検地を実施し、曖昧であった家臣団の知行高・序列を決定した。更に、慶長19年(1614年)に焼失した江川城に代わって、寛永14年(1637年)、石田陣屋を建設して藩庁の整備を行なった。承応元年(1652年)、漁場として最盛期を迎えて居住者の増えていた男女群島に「女島奉行」を新たに設置した[1]。

第4代藩主・盛勝は幼少で藩主となり、寛文元年(1661年)、その後見役で叔父の盛清に富江領3000石が分知された。この地は捕鯨が盛んで藩財政の基盤となっていた。しかし富江領成立直後から福江領有川村(現在の南松浦郡新上五島町)と富江領魚目村(新上五島町)の漁民の間で、流血にまで至る漁業権問題が発生した。幕府の仲介により元禄2年(1689年)、入会制度が成立して問題は解消した。その後、捕鯨による利潤で藩財政は潤うこととなった。

捕鯨で潤っていた藩財政も、江戸時代後半になると度重なる飢饉により逼迫することとなった。このため、第6代藩主・盛佳は領内の労働人口を把握して確保するため、享保6年(1721年)より「人付け改め」と呼ばれる徹底した人身把握政策を開始し、各世帯の家族数・年齢・世帯主との続柄・出自・身分を細かく人付帳に記載した。

第7代藩主・盛道は宝暦11年(1761年)、「三年奉公制」と呼ばれる藩政史上最大の悪制を開始した。これは領民の長女を除く娘が16歳に達すると福江の武家へ3年間無給で奉公に出されるといういわば奴隷制度に近いものであった。3年の奉公の後、里に帰り結婚するのであるが、離婚すると再度、3年間奉公に出された。米5石または銀300匁を藩に差し出せば免除されるという抜け道もあったが、相当に裕福な領民でなければ捻出できる額ではなく、ほとんどの領民は奉公に出された。「人付け改め」とともにこの制度は幕末まで続いた。

嘉永2年(1849年)、幕府より築城の許可を富江藩主・五島盛貫が受領し、第10代藩主・五島盛成が着工した。文久3年(1863年)、第11代五島藩主・盛徳によって、日本で最も新しい城として石田城が竣工した。

明治4年(1871年)、廃藩置県により福江県となる。のち、長崎県に編入された。明治2年(1869年)に旧藩主・五島家は華族に列し、明治17年(1884年)に子爵となった。盛徳の跡を継いだ盛主には男子がなかったが、旧新発田藩主家の溝口直溥の十六男盛光を養子に迎えることで無事に家を存続させた。しかし盛光の後継者だった盛輝は昭和20年(1945年)8月9日に長崎市で原子爆弾に被爆したことが原因で9月2日に卒去した。盛輝と夫人の間には子供がいなかったため、当主が長い間不在であったが1986年に夫人の甥(夫人の妹の子)である典昭が養子に入り、当主を引き継いでいる[2]。

歴代藩主(略)

富江領(富江藩)

五島氏第23代当主(福江藩の第3代藩主)・五島盛次の弟・五島盛清(富江五島家初代当主)が、寛文元年(1661年)、宗家・福江藩より分知して富江藩が成立し、政庁として富江陣屋が築かれた。石高は3000石で、高家・交代寄合(大名格)として扱われた。

第6代当主・五島運龍(瑞鳳公)は、将軍・徳川家斉の側衆、大番頭役、京都二条城在番、大坂城番、諸国巡見使を歴任した。第7代当主・五島盛貫(将軍・徳川家茂の側衆)の時代には、実高1万600余石となった。

慶応4年(1868年)、福江本藩藩主の五島盛徳が政府に申し出たことにより、第8代当主五島盛明の代に領地を没収し福江藩に併合され、代わりに蔵米三千石を渡すことになったが、これは福江藩が海防などによる出費が増えるため、収入増を目指したものであった。富江領民は反発し、武装蜂起して激しく抵抗した(富江騒動)。明治2年に新政府により沙汰が出され、旧領内の1千石のみが認められた。ただしこの1千石の認可は実体の無いものであり、同年中に同じく新政府により代替地として北海道寿都町の地を与えられたが、これも移住などの行動は行っていない。(以下略)


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