魂の一行詩

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◆ 『反逆の十七文字』ー魂の一行詩ー(角川春樹著 思潮社 2007)

図書館で見つけて読んで見た。こういう人もいると嬉しくなった。

春樹氏は父・源義氏が創刊した俳誌『河』の主宰を引き継いでいる。以下本書より抜粋を記す。

【宣言】

私は今、新たに次なる運動を提唱し、展開することを決意した。

ーーーーー「魂の一行詩」-----である。

 魂の一行詩とは、日本文学の根源にある、「いのち」と「たましひ」を詠う現代抒情詩のことである。

古来から山川草木、人間も含めあらゆる自然の中に見出してきた”魂”というものを詠うことである。

 一行詩の根本は、文字通り一行の詩でなければならない。

 俳句にとって季語が最重要な課題であるが、季語に甘えた、あるいはもたれかかった作品は詩ではない。芭蕉にも蛇笏にも季語のない一行詩は存在するのだ。私にも季語のない一行詩がある。

 《老人がヴァイオリンを弾く橋の上》  〈海鼠の日〉

 《泣きながら大和の兵が立つてゐる》  〈JAPAN〉

 ただ、詩といっても五七五の定型に変わりはない。五七五で充分に小説や映画に劣らない世界が詠めるからである。

 また、秀れた俳句は秀れた一行詩でもある。

 従って、俳句を否定しているわけではない。本意は「俳句的俳句」、「物」に託す「もの説」、事柄に託す「こと説」、あるいは技術論ばかりの小さな「盆栽俳句」にまみれている俳壇と訣別することだからである。

 今、私は「俳句」という子規以来の言葉の呪縛から解き放たれ、

独立した。私の美意識は俳句よりも「魂の一行詩」を選択したのだ。

 俳句は「いのち」も「魂」もつぎ込む価値のある器。自らの生き方、生きざまを描くものである。つまり魂に訴えていくものなのである。訴える力さえあるならば、また、心と魂(頭ではなく)で詠めば、定型という枠を自ら破壊するエネルギーをもった一行詩が生まれるであろう。

 ”魂の一行詩”という名称を提唱するのも、俳壇外のより多くの人にアピールするためである。詩眼を持つ若い世代にも門を開きたいと思う。

 この運動は短詩型の「異種格闘技戦」であるから、詩、短歌、俳句、川柳、それぞれの出身のかたがたにも是非、「魂の一行詩」のステージに上がられることを望む。

 この運動は文学運動である。

 自分の人生を詩そのものとして生きる私の魂を賭けた運動である。

 百年前の正岡子規以来の俳句革新運動であるーーそのことをここで宣言する。

 《亀鳴くやのつぴきならぬ一行詩》

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角川氏の提唱する「魂の一行詩」の行方を注目したい。


https://ameblo.jp/kazuro1menjo3/entry-12413027902.html 【心遊記159号 魂の一行詩】より

   満月やマクドナルドに入りゆく

  晩夏光ナイフとなりて家を出づ

 角川春樹『漂泊の十七文字 魂の一行詩』から

 角川春樹さんの俳句が注目され出したのが1980年代からだ。同じ時期、俵万智さんの短歌も空前のブームとなった。角川さんや俵さんの力によって、俳句や短歌の口語化が進んだ時期だと言えそうだね。

 角川さんの俳句は口語調で書かれていて、平明である。芭蕉や蕪村の俳句を教科書などで鑑賞してきた人には、えっ、これが俳句と驚くだろう。角川さんは俳句の約束ごとにとらわれず、俳句を17文字の一行の詩としてとらえようとしたんだ。彼は自分の句作について「自分の人生そのものとして生きる私の魂を賭けた運動である。」と言っている。角川さんのように自由に句作するにはすごい力量がいるんだよ。自由に句作しただけでは凡作の山を築くだけだよ。

https://fragie.exblog.jp/32570871/ 【twitterで"叫ぶ"ように紡がれた「魂の一行詩」を纏めた第二句集】より

2月9日(水) 黄鶯睍睆(うぐいすなく)  旧暦1月9日

今朝の仙川商店街の一角。わたしは仕事場に向かっている。ここは商店街のメイン通りではない。メイン通りへとつながる道であり、かつてのふらんす堂はこの近くだった。

左手にある建物の一階で、友人がセレクトショップをやっている。ここをまがると商店街のメイン通りとなる。この道は狭い道で、すぐに人でいっぱいとなる。

着いた。。ふらんす堂はこの建物の2階。下はCoCo壱番屋というカレーのチェーン店。

ふらんす堂の窓に置かれた招き猫。これに気づく人はあまりいない。わたしはとても気に入っている。明日は東京は雪になるという。しかし、今日は陽ざしが明るくそれほど寒くない一日だった。

雪か。転んで怪我をしたりしても、病院は受け入れ体制がないらしい。雪よ、たくさん降らないでほしい。新刊紹介をしたい。中村光声句集『水脈(みお)』

四六判ハードカバーフレキシブルバック帯有り  152頁 3句組

中村光声(なかむら・こうせい)さんの第2句集となる。中村さんは、昭和22年(1947)東京生まれ、東京在住。企業戦士としてお仕事をされたのち、平成16年(2004)「奥の細道」踏破に向け深川を出立。平成18年に完結された。平成19年(2007)魂の一行詩運動に惹かれ結社「河」入会。平成23年(2011)角川春樹賞、平成24年(2012)「河」源義賞、平成28年「河」銀河賞を受賞され、平成29年にふらんす堂より上梓した句集『聲』で、第十回日本一行詩新人賞を受賞されている。現在は「河」無鑑査同人、「水脈の会」代表。俳人協会会員。

本句集は、8つの章から構成されている。「永遠(とは)の水脈」「白き水脈」「父の水脈」「いのちの水脈」「花の水脈」「たばしる水脈」「太き水脈」「黙(もだ)の水脈」と、すべてに「水脈」がつき、基本的には季節ごとに章立てされている。

第一句集『聲』上梓から、五年ぶりで第二句集を出す。背中を押してくれた妻に感謝。

この五年間に長姉、長兄、次兄、義弟との死別があった。

シナリオにない死は、いつも突然他人事のように身近に起きる。自分の人生の先は見えない。

そこで毎日、俳句をSNS上に呟いてみた。見知らぬ方々からの反応が入りはじめた。

好きなだけ作品を発表できる、喜びの手段を手に入れたと思った。

「あとがき」を紹介。

本句集は、日々のSNS上で日々呟かれたものが一冊となったものである。

呟いてみたところ、見知らぬ人からの反応があり、俳句を発表する手段としての手応えを感じられたのだろう。

新しい(いやもう新しくもないか)、むかしでは考えられなかった俳句を中心とした交流である。

それはこうして一冊の句集にされるというも句集を編むひとつのスタイルとなりつつあるのかもしれない。 

 八月のどこを洗ふも火の匂ひ       火の色の海せり上がり八月尽

 ストーブへ手のひら蝶となりて寄る    猫の子の発光したる闇の底

 七月や水は光のなか走る

担当のPさんの好きな句をあげてもらった。

 八月のどこを洗ふも火の匂ひ

この一句は最初の章「永遠(とは)の水脈」に収録されているものだ。晩夏から初秋へかけて主に八月をテーマにした句が収録されている。〈置き去りにされし昭和の八月よ〉〈爪切つて喪の八月の日記閉づ〉〈火の色の海せり上がり八月尽〉などという句も同じ章にあり、八月は原爆を落とされた月であり敗戦を迎えた忘れてはならぬ月である。そんな戦争の記憶を呼び起こす章であり、八月を記憶に焼き付けようと詠まれているそんな句がならぶなかで、この掲句は、わたしも印をつけたものだ。八月という時間の領域にあるものを、ある時点のある空間的な場所とし、その固有な八月が作者においては、消すことのできない火の匂いをともった普遍的な八月となったのである。洗っても洗っても消すことのできない戦争の火の匂いをもった八月を繰り返して生きることになったのである。

 母だけを想ふ日であり七日粥

この一句は、著者が自薦句として選んでいる句であり、わたしもチェックをした一句。本句集には、父や母を詠んだ句が多い。この句「七日粥」の季語が、読み手のこころをふっとやさしく解いてくれるような感触がある。「七日粥」は、「七種粥」のことであり、七種の野草を摘んでお粥にいれたもの。一年の健康を願って食する。中村さんにとって、「七日粥」はそれをかって作ってくれたお母さんの思い出につながるものなんだろう。「母を想う日」ではなくて、「母だけを想ふ日」であるというのが、手放しの母へのオマージュであり、その心の姿勢がなんとも母親からしたらえらく嬉しいことではないか。おでん鍋でもなく冷やそうめんでもなく「七日粥」というのが、あたたかな思いのエッセンスがまじりものなくあるようでいいなあ。良き息子さまである。わが愚息はこんなことは言わないし思いもしないだろうなあ。。。あは、そうだ、そもそもわたし七草粥を息子につくってあげたことなかったかもしれない。息子の父親はつくったかもしれないが。これじゃあねえ、、1ミリたりとも想ってもらえないわ。

 探梅や呱呱ゆたかなる村に出づ

これも自薦句のひとつであり、わたしも好きな一句である。探梅をしていると赤ん坊の泣き声のする村に出たという句意だけれど、すべてがゆったりとした時間が流れ、「呱呱ゆたかなる」という措辞がいい。梅の気配ともに出会った赤ん坊という瑞々しい命、それをあたたかく受け入れる喜ぶ作者のこころがある。なにもかも祝福された時間のなかにいるようである。

 麦秋へ紙飛行機の不時着す

これはわたしの好きな一句である。本句集はどちらかというと、抒情性のつよい句が多いのであるが、ところどろに掲句のような懐かしい景をさらりと詠んだ一句に出会う。少年だろうか子どもたちの気配があり、紙飛行機をさかんに飛ばしている。そのひとつが熟した麦畑のなかに落ちてしまった。ただそれだけのことであるが、どうしようなくノスタルジックな思いがこみ上げてくる。紙飛行機の白が目にやきつき、麦秋の黄金がまぶしい。こんな風景はすでに失われつつある。著者の中村光声さんの少年時代の思い出を詠んだ一句なのか。気持ちの良いあざやかな景がひろがる。この句につづく「母の日の水平線を子は見つめ」も好きな一句である。

 二丁目の錻力盥に棲む金魚

この一句も懐かしさを呼び起こす一句だ。「二丁目」ってべつに珍しくもない番地の呼び方であるが、最近はあまり〇丁目っていう言い方はしなくなった。だからというのではないが、わたしはこの句を読んで、新宿二丁目をなんとなく思った。新宿二丁目というすこしいかがわしさと妖しさの匂いのする場所、そこのお兄さんが飼っているのだろうか、ブリキ盥の金魚。夜店で釣り上げた金魚をお店のお客さんがお土産に持ってきて置いていった、金魚鉢もないからとりあえずブリキ盥に水をはっていれておく。金魚鉢を買わなくてはと思いながらそのままとなってしまっていつしか金魚も棲みついてお店の片隅に置かれているのだ。金魚もそこに暮らす人間も日々におわれて暮らしていく。ブリキ盥の金魚は逞しくもあり哀れでもある。

ほかに、

 生くるより老ゆるが難し吾亦紅     原罪を我が身に問うて桃啜る

 枯野には父の木のあり泣きに来る    ふらここの影いつまでもすれ違ふ

 薄荷水あります島の純喫茶

心の有り様で、人はいつまでも青春でいられると信じてきた。しかし、肉体の劣化はそれをあざ笑い始めた。いつまでも虚勢を張り、生きるわけにはいくまい。これからは、価値観・思想・志など内面が近い人を大事にして、頼ったり頼られたりしながら、命あまさず生きてみたい。ふたたび「あとがき」より紹介した。

本句集の装釘は、前句集とおなじく君嶋真理子さん。

タイトルは黒メタル箔。

カバーをとった表紙。

栞紐はブルーグレー。フレキシブルバック製本ゆえに開きがよい。

 冬オリオン応へよ命とは何か

私は信じる。私にしか詠めぬ俳句があるのだと。

この句集『水脈』は、過去・現在・未来が、同時に存在する時空に、生かされている私の、ほんの一瞬の魂の記録でもある。(著者)

ご親族の方を立て続けに亡くされ、「魂」というものへの深淵に立った著者。です。

と担当のPさん。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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