FacebookOSHO Japanese投稿記事
成るとは偽せものになることを意味する。成るとはあなたがそうではないものになるということだ。在ることはすでに現状だ。人はその人以外のものに成る必要はない。
彼は自分の存在にリラックスし、そして真実を知らなければならない。
真実はすでに与えられている。真実は未来のどこかにあるのではない。それは目的地ではなく源だ。あなた方は真実からやって来ている。
再びその源を見い出すことができれば、あなたは真実が何かを知ることになる。
あなたは真実に向かって進むのではない。
すべて向かってゆくことは、あなたを真実から、より遠く、より遠くへ と連れ去るだけだ。
Osho
Facebok加藤隆行さん投稿記事【日本人は成長病】
昨日、オンラインサロンの月イチおはなし会で『成長』という話をしました。
「成長」というものへの固定観念をひっくり返し、これからの「自分らしい成長」を考え直してみるそんないい感じで革新的なお話ができたと思ってます。(自画自賛)
ところでみなさんは『成長するのは「良いこと」』だと思ってますよね。
ほとんどの日本人であればこれに異論はないと思います。
新しい能力を手に入れること。何かができるようになること。そんなふうにぐんぐんと成長していけたらいいですよね。
ところで『成長するのは「良いこと」』と思っているアナタは、『成長”しない”のは「悪いこと」』だとは思ってはいませんか?
聞かれてみたらうっすらとでも、そう感じているのではないでしょうか?とすると、アナタにとって「成長」は「成長せねば」「成長させねば」と息苦しいものになっているかもしれません。だって成長しないことを「悪い」ことだと思っているのだから。「成長せねば」と自分に思っていると、「成長しなきゃ、成長しろ!」とケツを叩いて叱咤してばかりになって
どんどん焦り苦しくなっていくかもしれません。
「成長させねば」と部下や子供に思っていると余計な手や口を出してしまったりその子らしさを無視して自分の思う方向へばかり無理やり成長させようとしてしまうかもしれません。
本当は「成長」って「勝手にするもの」なんです。植物だって、勝手に育つでしょ?
「成長させねば」と思うと表向きキレイに育ってるようなふうに見えても農薬や肥料やとやりすぎて実は植物は毒物まみれになって短命で人が手をかけ続けないと生きられなく
なっているかもしれません。
水をあげすぎて根腐れ起こしているかもしれません。
だからね、成長するのは「良いこと」とか「悪いこと」とか評価判断するんじゃなくて
『成長するのは「楽しいこと」』にしてみて欲しいんです。
だからがんばって成長してもいいしその場で休んでもいい。
自分のペースで楽しめばよくて「苦しんで成長する」必要なんてない。
「楽しい」と思えたのなら農薬も肥料も与えなくてもきっとぐんぐんと育っていくでしょう。
今日は4/1。新年度のはじまりです。
自分、「楽しく成長」できてるかな?どうやったら「楽しく成長」できるかな?そうやって自分自身を点検してみてください。そして自分の生き方を、そちらに転換してみてください。
楽しくないとサステナブル(持続可能)じゃありませんよ。
勝手にのびのび楽しく育とう。そのとき「成長」が「成熟」へと変わります(^ω^)
Facebok加藤隆行さん投稿記事【問題をそのままにしておける態度】
私がよく言う「自己肯定感」というのは「自分への肯定の感覚・態度」であるのと同時に
「他者への肯定の感覚・態度」でもあります。「肯定」というのは「そのとおりだと認める」
「そのままを認める」という意味です。(肯定の意味をカンチガイしてる人が多いですが、それはまた今度話すっす)
自己肯定感が育ってくると相手に対しても「私がそのままでOK」なのだから
「この人もまあ、ちょっと困ったとこあるけど、そのままでOK」
だから「否定しなくなる」「変えようとしなくなる」ということ。
「不完全な者同士、 まあ、許し合っていこや」といった感じになっていきます。
そうやって相手を許すと「あなたこんな 素敵なとこもあるやん」と「いいとこ」も見られるようになって「仲間・味方」、になっていく。もちろん相手が自分に危害や不利益を加えてくるような状態なら一時的に「防御」したり、その場から「離れ」たり、相手に伝えて必要な改善をしてもらうなりする必要はありますが無闇に相手と「戦わない」という選択ができるようになってきます。
戦うことで自分がそれに囚われていること自体が「損失」だということがわかってくるし
戦ったらより相手を意固地にしてしまい、「反撃」までされたりして建設的な関係を結ぶこともできないということもよくわかってくる。
ゆるし合おう、認め合おう(=肯定しあおう)としても建設的な関係が結べず仲間・味方になれない人もいますがそれはそれで、相手側の内側のハナシで私のハナシではない。と相手との境界線も引けるようになってきます。
で、自然とそーいう人たちとは距離ができ、ゆるし合い認め合える人たちとつながっていくことができて、気がつけば人間関係がどんどんよくなっていきます。
で、ここまで「人」について書きましたがあらゆる「問題」についても同じことです。
「問題」を「肯定」する。「肯定」とは「そのとおりだと認める」こと。
「そのままを認める」こと。「問題をそのとおりなんだな」と認め「問題は問題のままにしておいて ”も” いい」という態度。「問題をことさらに問題視して 問題と戦わない・争わない」てこと。
すると問題を敵視したり変えようとしたりと戦わなくなるので
「問題自体が、いろいろ考えるきっかけくれてるな」と、「問題のいいとこ」も見えてくるようになりその上で「ここはちょっとこうできたらいいな」「こうしたらよくなるかも」と、少しずつ問題と向き合い改善していくことで気がつけば「問題が問題でなくなっていき」
「問題が自然に解決していく」ということが起きます。
もちろん問題がでかくて自分にめっちゃ被害を与えるようなら一時的に「防御」したり「離れたり」する必要はある。
でも基本は「問題は問題のままでいい」「問題を肯定する」という態度が、困った相手も、問題もなくしていきます。
ボクはこれを幼少期からずっとあった「病気」からカラダで学びました。
「病気」にあらがって戦っている間はまったく治らなかった。一時的に治ったようにみえてもそのうちまた大きくぶり返す。戦うのをやめたらつまり、「病気を病気のままでいい」
と決めたら、するすると健康へと近づいていきました。
今さまざまな問題にとらわれてそれと戦っている人。「問題は問題のままでいい」「◯◯は◯◯のままでいい」「自分は自分のままでいい」(↑◯◯には、子供さん、パートナーさん
その他、問題と思っていることを入れてね)一度、この言葉を口に出して
問題を「肯定」してみてください。何か気づきがあるかもしれません(^ω^)
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