https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utamaku/muroya_u.html 【歌枕紀行 室の八島】より
―むろのやしま―
室の八島は下野国(しもつけのくに)の惣社、大神(おおみわ)神社境内にある。JR栃木駅で東武宇都宮線に乗り換え、野州大塚駅下車。ちょうど関東平野が尽きるあたりの、のんびりとした田園地帯である。程なく、こんもり茂った鎮守の森が見えてきた。
大神神社参道
境内の説明板にはこうあった。
大神神社は、今から千八百年前、大和の大三輪神社の分霊を奉祀し創立したと伝えられ、祭神は大物主命です。
惣社は、平安時代、国府の長官が下野国中の神々にお参りするために大神神社の地に神々を勧請し祀ったものです。
また、この地は、けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として都まで聞えた名所でした。幾多の歌人によって多くの歌が、残されています。
奈良時代以前にまで遡る古社であることは確からしく、本殿も周囲の雰囲気も、それらしい風格を漂わせる。付近には古墳が多く、一帯は古代下野国の中心であった。
「室の八島」は当社境内の池にある八つの島をいう、ということになっている。もっとも、歌枕の本などをみると、もともと下野国とは何の関係もなく、宮中大炊(おおい)寮(づかさ)の竃(かまど)のことを言ったらしい。「むろのやしまとは、竃をいふなり。かまをぬりこめたるを室といふ。(中略)釜をばやしまといふなり」(色葉和難集)。つまり、竃=塗り込めた釜、を宮中の隠語(?)で「室の八島」と謂い、これがいつしか下野の国の八島に付会された、ということである。そうして、この辺りを流れる清水から発する蒸気が「室の八島のけぶり」と見なされた。これを、恋に身を燃やす「けぶり」に喩えて、多くの歌が詠まれたのである。
いかでかは思ひありとも知らすべき室の八嶋の煙ならでは(藤原実方)
人を思ふ思ひを何にたとへまし室の八島も名のみ也けり(源重之女)
下野や室の八島に立つ煙思ひありとも今日こそは知れ(大江朝綱)
煙たつ室の八嶋にあらぬ身はこがれしことぞくやしかりける(大江匡房)
いかにせん室の八島に宿もがな恋の煙を空にまがへん(藤原俊成)
恋ひ死なば室の八島にあらずとも思ひの程は煙にも見よ(藤原忠定)
恋に焦がれる心情の比喩としては、「海人の塩焼く煙」なども和歌の常套であったが、「室の八島の煙」はもう少し控えめというか、抑えに抑えた(それでも隠しきれない)鬱屈した恋の想いを詠むのに用いられているようである。相手に対しては、あからさまに知らせることができないが、それとなく知ってほしい、というようなニュアンスである。王朝の恋の美学には、かなったイメージを提供する歌枕だったのであろう。
室の八島
室の八島 池の中に八つの島がある
現存する「室の八島」は、まことに小さな池の小さな島である(夏の盛りにも、蒸気を発しているようには見えない)。それぞれの島には小さな祠があり、各地の効験あらたかな神々を勧請している。
『おくのほそ道』を見ると、こうある。
室の八嶋に詣す。同行曾良が曰、「此神は木の花さくや姫の神と申て、富士一躰也。無戸室(うつむろ)に入て燒給ふちかひのみ中に、火ゝ出見(ほほでみ)のみこと生れ給ひしより室の八嶋と申(まをす)。又煙を讀習(よみならは)し侍(はべる)もこの謂(いはれ)也。」將(はた)このしろといふ魚を禁ず縁起の旨世に傳ふ事も侍(はべり)し。
曾良の怪しげな蘊蓄を記したあと、唐突な魚の縁起話に触れているだけである。芭蕉が訪れた頃、八島の清水は涸れ果てて、痕跡さえも残っていなかったから、こんな話でお茶を濁すしかなかったのだろうか。今ある境内の池は、さらに後世の造作という。源重之女の歌にある通り、「室の八島も名のみ也けり」だったのである。
『曾良随行日記』には、この地で芭蕉が残した句が記し留められている。境内には句碑があって、わずかに先人の足跡を偲ばせてくれた。
糸遊に結びつきたる煙哉
https://ameblo.jp/kotonoha-gakusha/entry-12804635895.html 【和歌と風土 ――山添聖子さんの歌と奈良】より
先日、21日(日)の朝日歌壇に、こんな歌があった。
まなざしのきらめきで鹿は見分けおり観光客と土地の者とを(奈良市 山添聖子)
観光客と土地の者とでは、まなざしのきらめきが違う。奈良の鹿は、観光客と土地の者に対する態度が違う。鹿は、まなざしの違いを見分けているというのである。
山添聖子さんらしい、感性である。そして、奈良らしい歌である。この奈良らしさは、山添聖子さんの歌の魅力のひとつである。
4月23日の朝日歌壇には、山添聖子さんのこんな歌があった。
鹿たちをかわして向かう税務署の署という漢字は少し強面
こわもての税務署に向かう緊張感が、「鹿たちをかわして向かう」という、少し滑稽な光景との対比で強調される。この歌も、奈良でしか詠めない歌である。
いずれも、歌の中に奈良という地名は詠まれていない。しかし、読者は間違いなく奈良の歌としてこの歌を読む。
歌の内容もさることながら、朝日歌壇は作者名とともに作者の居住地が記載されるため、読者は奈良市という地名とともにこの歌を受け取るのである。
朝日歌壇の愛読者にとって、山添聖子さんは、奈良市の山添聖子さんとして認識されていることも、この歌の味わいに効いている。
古代の和歌において、歌に詠まれる名所、「歌枕」は歌を支える重要な要素であった。
「逢坂」といえば「逢ふ」ところであり、「末の松山」といえば「波越す」、「小夜の中山」といえば「命なりけり」、などというのが、昔の歌人の共通理解であった。
現代短歌には、「歌枕」のような共通認識を持って詠まれる地名はほとんどない。
山添聖子さんの奈良の歌は、地名から読者に共通のイメージを喚起する、現代の歌枕の稀有な例である。
朝日歌壇の投稿歌人では、戸沢大二郎さんの歌にも、津軽の風土を感じさせるものが多い。
これらは、新しい歌枕のあり方が歌の魅力となっている。
わたしも、朝霞という土地を歌枕として生かした歌が作れないか、思案している。
日本中の町が均一化している現代では、土地の風土を生かした歌を読むのは難しい。
腕のみせどころである。。
https://ameblo.jp/seijihys/entry-12498745940.html 【「歌枕」と「季語」の関係について】より
(奈良県吉野山)
歌書よりも軍書に悲し芳野山 各務支考(かがみ・しこう)
(かしょよりも ぐんしょにかなし よしのやま)
昨日のブログで、質問をいただいたことを書いてみたい。「歌枕」と「季語」の関係について…である。
昨日、私は、上記の支考の句を上げ、無季の句だが、その説明をすると長くなるのでここでは省く。と書いた。
簡単に言えば、「歌枕」が一句に入っている場合は季語は入れなくてよい。のである。
この句の場合、桜の名所「芳野山」(吉野山)が歌枕である。これは松尾芭蕉の言葉だ。
名所の句のみ雑(ぞう)の句にもありたし。
季を取り合はせ、歌枕を用ゆる、十七文字にはいささか志(こころざし)述べがたし。
この言葉は芭蕉の高弟・向井去来が記した『旅寝論』の中にある。
『旅寝論」は芭蕉の教えを、去来が記したものである。
「雑の句」とは、この場合、季語を入れない句、つまり「無季句」を意味する。
「歌枕」は、和歌に多く詠まれている名所旧跡のことである。
意訳するとこうなる。名所旧跡の句だけは無季の句でありたいものだ。
一句の中で季語を入れ、さらに歌枕まで入れてしまうと、十七文字で思いを述べるのが難しくなってしまう。
これについて、長谷川櫂さんが的確な解説をしているので引用する。
季語同様、想像力の賜物(たまもの)である歌枕にも、季語の宇宙に匹敵する歌枕の宇宙がある。だからこそ、芭蕉は歌枕の句には季語は必ずしも必要でないと考えた。
――『一億人の季語入門』――
季語はそれだけで「詩の宇宙」を持っている。例えば、夏の季語の「蝉」。
われわれは「蝉」という季語から「蝉そのもの」だけを想像するのではない。
蝉の姿はもちろん、鳴き声、真夏の暑さ、ぎらぎらした太陽、樹木や、樹木に覆い茂る夏の青葉なども想像する。
また、少年の頃の蝉捕りの思い出なども想像するだろうし、あるいは、蝉の成虫は一週間しか生きられないことを知っているわれわれは、そこから「命のはかなさ」を見る。
「季語」にはそういう詩的な「連想性」があるのである。櫂さんの言う「想像力の賜物」とはこのことであろう。これを「詩語」と呼んでおこう。同じようなことが「歌枕」にもある。
例えば、歌枕の「白河の関」(現在の福島県白河市)といえば、能因法師の、
都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関 が思い浮かぶ。
他にも、 たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関を越えぬと 平 兼盛
秋風に草木の露をば払はせて 君が越ゆれば関守も無し 梶原景季 などの和歌がある。
作者は「白河の関」を詠む時、これら、先人たちの和歌が作り上げた「詩の宇宙」を念頭に詠む。たとえ作者にそういう意識がなくても鑑賞者はそういうものを意識して鑑賞する。
他にも、いにしえの都人には異郷の地であった「みちのくへの入口」、都から遠く離れた辺鄙の地、古代の蝦夷対策の軍事基地だったことなどを、いにしえ人は思い浮かべながら、白河の関を詠んだ詩歌を味わう。それが「詩歌の伝統」なのである。つまり、「歌枕」も「詩語」で、「想像の賜物」なのだ。「歌枕」にはその地の持つ歴史、風土、先人たちの和歌…そういった「詩的空間」が存在する。
十七文字に「季語」と「歌枕」を入れた場合、それら広大な二つの「詩的空間」を一つに収めることができるか?よほどうまくやらなければ失敗してしまう。
だから「歌枕」があれば「季語」は入れなくていいのである。
無理に季語を入れず、歌枕の持つ詩空間を、一句の眼目としたほうがいい、ということである。上記の支考の句はそれを踏まえている。ここで大きな問題がある。
多くの人が俳句は「季節」を詠む詩、と思い込んでいる。しかし、芭蕉のこの言葉は、それを否定している、と言ってもよい。
季語を詠む事、詠む姿勢、主義を一般的に「季題趣味」「季題諷詠」という。「ホトトギス」の俳句がそうであろう。上記の言葉から、芭蕉、そして芭蕉の俳句は「季題趣味」ではない、ということがわかる。
芭蕉の俳句の目的は「季語」「季題」あるいは「季節」を詠む事ではない、ということだ。
このことを考えると、また、長くなるので(申し訳ないが…)今度の機会にする。
いずれにしても「歌枕」がある場合、季語はいらないとはそういうことである。
簡単に言えば、一句の中に「強い季語」(?)が二つある場合と同じである。
「季重なり」自体は全然問題ないのだが、誤った使い方をすると、季語の情緒がぶつかり合って、一句を台無しにしてしまうことがある。そういうことと同じである。
話を歌枕と季語の話に戻す。ただ…、である。
現代においてもそれは通用するか、となると私は出来ないと考える。
わわわれ(作者も鑑賞者も)は、「白河の関」と聞いただけで、上記のような「詩的空間」を想像することができるだろうか?
「宮城野」(現在の宮城県仙台市)と聞いて、宮城野の萩をすぐに思い浮かべるだろうか?
「小夜の中山」(現在の静岡県掛川市、島田市)と聞いて、箱根、鈴鹿と並ぶ東海道の三大難所
古代の東国への入り口だったことを思い、考えるだろうか。
また、そのことからいにしえ人が、小夜の中山を、越えるに越えられない恋の道として 例えていたことをわれわれは思い浮かべるだろうか。
そして、西行法師の、年長けてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山の和歌を思い浮かべるだろうか。
ほとんどの人がしない、と私は思う。そういう意味で、近代以前と以後は、詩歌において大きな断絶がある。現代の詩歌において歌枕の「詩的宇宙」はあまりに狭くなってしまった。
それゆえ、芭蕉の言葉が、現代の詩歌にも通用すると私は思わない。
いいことなのか、悪いことなのかわからないが、(おそらく悪い…というか悲しいことだが…)現代俳句では「歌枕」が「季語」の代役にはならないと私は考える。
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