https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2016/PA03180_05 【実践のプラットフォーム(井部俊子)】より
看護のアジェンダ
看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第138回〉
実践のプラットフォーム 井部俊子 聖路加国際大学特任教授
(前回よりつづく)
状況の穴
助産師・辰野さんは,父親の介護をきっかけに看護学校に入学したのちに,看護大学に編入して助産師になり数年の臨床経験を持つ。辰野さんは子育てを経験したあとに看護と助産を学び,もともと臨床家になろうと思ったわけではないのに,状況に従うまま助産師という実践家になった。
辰野さんは,父親の介護で医療に対する不満を持ったことで看護学校に入った。「家族と語りたくないのか,あんまり話してくれることもなかった」という医師や看護師に対する不信感が,看護師になるつもりはないのに看護学校に入学して勉強しようという大きな決意のもとになっている。つまり辰野さんは,患者である父と,家族である辰野さんを中心にしたケアが行われていないと感じたのである。そして知識がまったくないと感じた辰野さんは,思考可能性の可能性を超えてしまい,状況に穴が開いてしまう。辰野さんは植物状態に陥った父親の状況に対して知識を持ち,対処となる行為が組み立てられるようになることを願って看護学校に入学する。
辰野さんは看護学校での助産教育でも違和感を持つ。自分が経験したお産と比べて,看護学校の先生の指導が「なんかすごいずれている気が」した。違和感を持った辰野さんは行為を可能にする知を手に入れようとして,助産を学ぶために看護大学に編入する。そしてまたしてもそのつもりはなかったのに,違和感を持った分野の「知」を手に入れ,その分野で「活動」することになる。こうして辰野さんは当事者の主体化を助ける人として,状況への介入に成功しているのである。
辰野さんは,医療規範のなかで活動しながらも規範を批判し,それに対抗する形で形成される「ローカルでオルタナティブな行為のプラットフォーム」の上にある。
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以上は,村上靖彦著『仙人と妄想デートする――看護の現象学と自由の哲学』(人文書院)で記述された看護師の語りである。実は,私は以前にも,本連載(第3048号「看護と哲学のコラボ」)で村上氏の著書『摘便とお花見』(医学書院)を取り上げており,再び彼の著書に魅せられたことになる。
今回は,『仙人と妄想デートする』において現象学的な手法を用いて提示された「実践のプラットフォーム」を取り上げたい。この概念を知ることで,パートナーシップ・ナーシング・システム(以下,PNS)論で抱いていた違和感がどこにあったのかを考えることができたように思うからである(註)。
規範のなかで自由と享楽をうみだす看護の力
私は,看護実践は制度やルール,マニュアルなどで拘束され不自由だと思っていたが,村上さんは冒頭から「看護師は自由をつくる」という。つまり「医療の世界には,技術的,法的,倫理的といったさまざまな仕方で外から課せられる規範がある。しかし外からの規範とは別に,看護師たちは自らの行為がそれに則っているプラットフォームを自主的に創りだす」として,メルロ=ポンティの「制度化/創設」概念を引用して説明する。そして「それゆえにこそ看護実践は厳しい規範に従いつつも自由を獲得する」という。しかし,この実践のプラットフォームは,まったく意識されていないこともあり,意識されていたとしても明文化されることはない暗黙のものであり,「状況に応じてフレキシブルに変化する,ゆるやかな実践のロジック」である。このような土台を「プラットフォーム」という。看護師やあらゆる実践者は,自らの行為のルールを自発的に作る。しかし外的規範が無視されることはなく,「規範とは別のルール」であり,「オルタナティブなルール」である。看護師の実践は,切迫した状況の中で行われるがゆえに「不可避的に創造的である」。しかも「この実践の枠となるプラットフォームを形成できないと,新たな困難には対応できない」という。したがってこのプラットフォームは流動的な構造を持ち,それぞれの現場固有のローカル性を持つ。
さらに,プラットフォームは「どのように患者から触発され,患者に対して構えを取るのか」といった対人関係の構造の根本が問われる。しかも,この実践のプラットフォームは,医療者がチームで動いているがゆえに,看護師だけの行為ではなく,患者の行為と家族関係を切り離すことはできない。
実践のプラットフォームは,人間が人間らしさを保つための不可欠の契機であり,これは,自由,創造性,主体,楽しむことといったものを実現するための仕組みだという。行為は状況に応じて新たに創造的に作られ,制限に対する隙間を作る。この点で自由なのだという。プラットフォームは,自由,創造性,楽しむことを価値として肯定する。村上さんは,「看護とは<制度の中で自由を作り出す試み>とも定義できる」と宣言した上で,「私たちの社会が規範的な制度でがんじがらめになっている以上,規範のなかで自由を,享楽をうみだす看護の力」を認め,「生の一つの指針となりうるであろう」と結んでいる。
昨今,PNSを導入したがうまく機能していないという報告が聞かれる。PNSを実践のプラットフォームと考えると,その自由性,可変性,創造性,そして主体性といった特徴を備えていなければならない。決してPNSが固定化された不自由なプラットフォームであってはならないのである。
(つづく)
註:パートナーシップ・ナーシング・システム(Partnership Nursing System)とは,看護師二人一組で複数の患者を受け持つという看護提供方式。福井大病院で開発され,全国に普及している。
https://www.igaku-shoin.co.jp/paper/archive/y2016/PA03184_07 【感情のメカニズム(井部俊子)】より
看護のアジェンダ
看護・医療界の"いま"を見つめ直し,読み解き,
未来に向けたアジェンダ(検討課題)を提示します。
〈第139回〉
感情のメカニズム
井部俊子
聖路加国際大学特任教授
(前回よりつづく)
このところ,「DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー」誌で連載している「世界標準の経営理論」に注目している。執筆者は入山章栄氏(早稲田大ビジネススクール准教授)である。彼が一人で毎回執筆している。「世界標準」という命名にも誘われる。
2016年7月号のテーマは「職場環境と感情の理論」である(41巻7号,126~137頁)。「感情のメカニズムを理解してこそ,組織は動き出す」という。今回はその概略を紹介したい。
経営学で扱う三種の感情
経営学で取り扱う感情には三つの種類がある。それらは「分離感情」「帰属感情」「ムード」である。
分離感情(discrete emotions)とは,怒り,喜び,憎しみ,恐れ,嫉妬,驚き,悲しみ,幸福,ねたみ,いらつきなど,一般にわれわれが感情と呼ぶものであり,学術的には分離感情と呼ばれる。分離感情は外部刺激によって引き起こされ,短い期間で収まりやすい。
帰属感情(dispositional affect)とは「感情の個性」を指す。この感情は,ある程度安定的に一人ひとりが持つ特質であり,「彼女は常にポジティブだ」「彼はいつも心配性だ」「うちの部長は怒りっぽい」などがそれに当たる。帰属感情は「ポジティブ感情」(Positive Affect;PA)と「ネガティブ感情」(Negative Affect;NA)に大別される。
個人の帰属感情は,短時間で変化する分離感情と異なり,安定していて計測しやすいため,実証研究が進んでいる。代表例としては,1980年代後半にデイビッド・ワトソンらが打ち立てたPositive and Negative Affect Schedule(PANAS)がある。PANASは,個人の心理状況を苦悩,驚き,自信,怒りなど20の感情表現に基づいて質問票で調査し,最終的にPAとNAの高さとして集計される。この指標は心理学者だけでなく,セラピストなどにも広く応用されている。
ムード(mood)とは感情の集合体を指す。組織や職場は人の集合体であるからである。職場のムードの研究はミクロ組織論で重要な位置を占める。ムードは,「この職場は元気な職場だ」「このオフィスはいつも雰囲気が悪い」などと,比較的安定して職場に定着している。
これら3つを包括する概念を,学術的にアフェクト(affect)と呼ぶ。
現場リーダーにこそ重要な「感情のマネジメント」
怒り,喜び,悲しみなどの発生は無秩序にみえるが一定の法則性があるとされ,感情イベント理論と称される。感情は,事件・事故のようなドラマティックな外部刺激だけではなく,日常業務などさまざまなことから常に刺激を受ける。
刺激がやがてたどりつくのが「分離感情の体験」(emotional experience)である。ここで興味深いことは,「ポジティブな外部刺激よりも,ネガティブな外部刺激のほうが,心理的な影響度がはるかに強い」という多くの実証研究結果である。これを「感情の非対称性」という。つまり,「仕事でのネガティブな出来事が人の感情に与える効果は,ポジティブな出来事が与える効果より約5倍も強い」ことや,「人は仕事上のポジティブな出来事より,ネガティブな出来事を思い出しやすい」こと,「人は職場(家庭)で経験したネガティブな感情を家庭(職場)に持ち込みがちで,ポジティブな感情は持ち込まない」傾向を明らかにしている。
「外部刺激」と「感情体験」の間には認知評価(cognitive appraisal)が挟まる。同じ外部刺激でも,それをどう評価するのかは人によって異なり,人の帰属感情に影響される。一般にNAが強い人はネガティブな外部刺激に反応しやすく,PAが強い人はポジティブな外部刺激に反応しやすい。特にネガティブな刺激は影響度が大きいから,NAが強い人は深刻になりがちとなる。「上司が何の気なしに部下を叱っているうちに,いつの間にか部下が精神的に追いつめられた」といった事例がそれに当たる。
分離感情の体験は人の内面で起こるが,人は感情を外に向けて表現もする。外への表現によって,人の感情は周囲に伝達され,それは周囲の人々にとって外部刺激となる。一般に,周囲からポジティブ(ネガティブ)な感情表現を刺激として受けた人は,ポジティブ(ネガティブ)な感情を抱きがちとなる。これを感情伝播(emotional contagion)という。重要なことは,感情は言語表現よりも,表情,声のトーン,身振り手振り,体の接触,対話者との物理的な距離など非言語表現を通じて伝播する側面が強いということである。感情は互いに顔を見合わせられる「物理的に近い人」にのみ伝播しやすい。したがって,感情のマネジメントは,企業トップだけでなく,各部署の現場リーダーにこそ重要な仕事である。
「ポジティブな感情は個人の仕事への満足感を高める」ことや,「ポジティブな感情を持つ人のほうが,より同僚や上司からの仕事上のサポートを受けやすい」こと,「個人・組織の仕事のパフォーマンスを高める」などの結果を得ている。
しかし,話はそう単純ではない。「ネガティブな感情やムードのほうが,組織の意思決定や認知パフォーマンスにプラスの効果をもたらす」という研究結果がある。「成果を認められて,その成果に対する報酬をもらえる場合,人はネガティブな感情を持っているほうが創造的な成果を生み出しやすい」というのである。
感情を巧みにコントロールすることこそが組織・職場の認知力を高める上で重要であり,感情のディスプレーとして「笑顔の効果」を推奨している。
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職場の管理者は,「感情のメカニズム」を知り,自己の感情が組織に及ぼす影響をマネジメントすることが「管理のカタチ」として重要であることがわかる。
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