世界を代表する翻訳文学

https://www.newsweekjapan.jp/asteion/2024/03/post-162.php 【日本は翻訳大国でありトランスボーダー大国、『万葉集』は世界を代表する翻訳文学である】より

上野誠 + ピーター・J・マクミラン + 張競(構成:置塩文)

万葉集

清水浜臣(1776-1824)『万葉集』国立国会図書館デジタルコレクション

翻訳、国境、ジェンダー、身分、言語......を超える『万葉集』。上野誠・國學院大學教授[特別専任]と 翻訳家のピーター・J・マクミラン氏に本誌編集委員の張競・明治大学教授が聞く。『アステイオン』99号特集より「境界を往還する万葉集」を3回にわけて転載。本編は上編

張 本号の特集テーマの「境界を往還する」とは、片仮名で言うと「トランスボーダー」、つまり「国境を越えた」という意味ですが、今は「様々な境域を超えた」という意味の「超域性」として広く捉えられることが多いように思います。

今日は、上野誠先生とピーター・J・マクミラン先生にお越しいただきました。奈良時代後期に成立し、日本最古の歌集と言われる『万葉集』を「トランスボーダー」的側面から捉えると、どのようなことが見えてくるのか、存分にお話しいただきたいと思っております。

型を破るトランスボーダー大国日本

張 早速ですが、僕は、マクミラン先生の『英語で味わう万葉集(1)』を拝読して、なるほど、英語で読むと『万葉集』はこういうものなのかと、改めて驚きました。

後に中国語訳についても触れたいと思いますが、僕の持っている『万葉集』のイメージとは全く違いましたし、「これは現代詩か?」とも感じました。「こういう意味にも読み取れるね」という発見もありました。

同じテキストでも、異なる言語、異なる文化において多様な受け止め方がある。それが『万葉集』の魅力であり奥深さでもあると思います。

はじめに上野先生にお伺いします。文芸の起源を考えると、日本には『万葉集』より随分前から農作業や漁業をしながら口ずさむ歌があった。メロディーはなくともリズムがあるその歌を、詩と思う人は誰もいなかった。

では、いつ詩と思うようになったのかといえば、中国文学を知っている人がそれを聞き、「やまと言葉にも漢詩に劣らない美しい詩がある」と気づいて書き留め始めて定着したのではないか。というのも、『万葉集』の中の歌の詩形は完成度が高く、原始的ではありません。

既にあった多くの歌が洗練され、宮廷の和歌として定着したものが後に『万葉集』の中に取り入れられたのではないか、と思うのですが、いかがでしょうか。

上野 大筋でそうだと思います。世界中に言語と歌を持たない民族は存在しない。歌はさらに、言語の記号としての側面と音楽的側面の2つを持っていますね。

張 それが詩になるには、知識層の介入が必要だったと思うのです。万葉仮名を作る前の知識層の教養は漢詩・漢文ですよね。

上野 私は大学での4月の最初の授業で、「『文選(もんぜん)(2)』なくして『万葉集』なし」と黒板に書くことにしています。これで言いたいのは、「歌は日常の言語から切り離されたもの」という認識は中国の文学の影響を受けて発達した、ということです。

『万葉集』はよく日本的な歌集と言われますが、中国文学を学ばなければ『万葉集』の表現は出てこないと思っています。

いきなり今日の話の核心に踏み込んでしまいますが、日本は翻訳大国であると同時にトランスボーダー大国でもありますね。外から新しいものを持ってくることが非常に得意です。

中国という大きな文明圏の周辺国家の1つ、辺境の国で、大きな文明の持つ型が壊れていく場所なんです。その壊し方にこそ「日本文化」があると僕は思う。

典型的な例を1つ言うと、中国の古代文学では基本的に、女性が男性のもとに通って嫁入りする嫁入り婚で、七夕歌などもそうなっています。

ところが日本の場合は、男性が女性を訪ねる通い婚です。『万葉集』は、中国文学を読んだうえで、それをいかに日本での生活に合うかたちにするか、ということを考えて作られたもので、私に言わせれば、中国文学の崩れたものの1つと見ることもできる。まさに国際性を持つ翻訳文学です。

張 『万葉集』の編集は確かに『文選』に倣っているように見えます。その一方で、「防人歌(さきもりうた)」などを取り入れているのは、詩三百篇の『詩経』の集め方も念頭にあったとも思えます。

中国には、文人顔負けの民間の良い歌、優れた民謡を集めた「楽府(がふ)」というジャンルがありました。『万葉集』は、天皇から身分の低い人々の歌まである点が大変特殊であると言われますが、それは横を意識する目があったからこそ生まれた豊かさなのではないかと感じるのです。

上野 そのとおりだと思います。『文選』も『詩経』の影響を受けています。それは「民の声はその土地の民謡に表れる」という考え方で、日本でも、国司は「赴任したら必ずその土地の神様にお参りをしなさい。その土地の民謡をよく聞きなさい。そこから生活をよく見なさい」と言われました。

ヤマト王権は東へ東へと行きますね。いわばフロンティアの歌である「東歌(あずまうた)」を、『万葉集』巻十四に集めていることには、1つの意味があると思います。

マクミラン 上野先生は今、「『万葉集』は翻訳文学であり、中国文学の崩れたものだ」とおっしゃいました。

例えば大伴家持(おおとものやかもち)は池主(いけぬし)にラブ・ポエムを送ったり、雨晴海岸(あまはらしかいがん)の風景を詠んだりします。あるいは、言祝(ほ)ぎの歌、過労死の歌、自殺の歌、子供の貧困の歌などがありますが、それらも中国文化にそれぞれ型があるのでしょうか。

上野 型破りというのは型があるからこそできるものです。中国文学、文化には確固とした型がある。それをどういうふうに破っていくか。その破り方に日本の特徴があると思うのです。

マクミラン 私は、『万葉集』は日本の古典の中で最も伝承されていない歌集という印象を持っていて、原因はその読みにくさにあると思います。平安時代から千年ものあいだ真似され続けてきている『古今和歌集』や『源氏物語』と違って、真似されている印象もあまりありません。

しかし、今、外国人である私が訳してみると、「日本人の原点」であるどころか「日本人のアイデンティティーの源」のようにも感じます。『万葉集』が翻訳文学であるというだけでは、そこまでにはならないと思うのですが。

上野 それは、翻訳文学であることを踏まえて「自分たちのものにしている」から、「型を壊している」から、ということが1つあると思います。

もう1つは、『万葉集』の時代には、漢字・漢文の教養がある人たちのグループがいるのですが、同じ席におそらく文字を書けない人たちもいる。

知識層と文字を知らない人たちの両方を満足させるためには、「恋人と別れて寂しい」「子供がいとおしい」「過労死した人がかわいそう」というような普遍的なテーマの歌を詠む必要がある。

平安時代の文学に比べて『万葉集』の翻訳が世界文学になりやすいのは、文字を獲得していない人たちがオーディエンスにいたからではないでしょうか。

自己発見と新しいものを生み出す動力

上野 ご出身のアイルランドの文化を象徴するもの、代表させたい文化というと何ですか。

マクミラン 今世界的に知られているのは音楽かな。文学も盛んです。小さな国ですが、イェイツ、ヒーニーなどノーベル文学賞を受賞した詩人もいます。

かつて古代アイルランドには王様がいて、その次に位の高いのが詩人でした。呪術的な力を持つシャーマンでもあって、詩人に呪われると不幸になり、言祝いでもらえれば幸せになる、という日本の言霊(ことだま)信仰のようなものがあります。『万葉集』に通ずるところがあるように思います。

上野 言葉を「道具」と考えるか、「それ自身に生命が宿るもの」と考えるか。後者の考え方のほうが古いと思います。

中国文化、中国文明の周辺にいる弱い立場の者は、中国に圧倒されながらも、「古いもの、素朴なものが良い」というふうに主張します。古いものを保存し、それを自分たちのアイデンティティーにする姿勢です。

『万葉集』についても、8世紀の人たちは漢詩・漢文が書けるエリートではあるけれど、「これがなくなったら俺たちは日本人じゃなくなるよね」みたいな感覚があったのではないでしょうか。

アイルランドで、言葉を大切にしたり、「ケルトの文化も残っている」と主張して古いものを自分たちのアイデンティティーにしたりする感覚と、近いところがありませんか。

マクミラン ありますね。

張 日本文学との相性も良いですよね。パウンドが翻訳した謡曲は、日本語がよくわからないから自由奔放な訳し方になっているけれど、英語で読むとそこがかえって面白い。イェイツが感動してそれを取り入れましたね。

マクミラン イェイツばかりか、ジョイスも影響を受けています。「杜若(かきつばた)」という謡(うたい)のパウンド訳に見られる縁語の考え方がジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』の基になっていると言われるほど、アイルランド文学には深く影響しています。

張 それは、トランスボーダーが動力になって新しいものを生み出している、1つの例に思えます。

時代が少し後になりますが、『古今集』に、壬生忠岑(みぶのただみね)の「有明のつれなく見えし別れより暁ばかり憂きものはなし」という歌がありますね。授業で学生に読ませると、今の子たちにはなぜ暁が悲しいのかわからないから、「通い婚で、暁には家を出ないといけないから悲しいんだ」と説明します。

当時の人々は、漢詩を知ったからこそ「暁の悲しさを感じることに価値がある」と発見し、この歌を残したと思うのです。

異質のものとの出会いが、自分の文化にもともとありながらそれまで何とも感じていなかった、そういうものの持つ光に気づくきっかけになる、ということです。上野先生がおっしゃったように、強いものに圧倒され、古いもの、素朴なものを保存するようになるばかりでなく、自己発見のきっかけになるというのも、トランスボーダーの持つ別の力ですね。

マクミラン 私は今、『万葉集』の英訳を世界に発信していくため、さまざまな活動に取り組んでいます。例えば「万葉歌めぐりの旅プロジェクト」では、「万葉のふるさと」のひとつである富山県高岡市が解説板を作っています(3)。

現在、日本全国にある約2300の歌碑のうち、妥当性のあるものは1500ぐらい。しかも、崩し字で書かれていて、日本人でもたいがい読めないし、読めても意味が伝わらない。

そのプロジェクトで作る解説板には、原文と、現代の日本語での読み方と解説、さらには、英訳と外国人目線で書かれた解説を載せます。日本人にも外国人にも、富山なら富山の観光をして、お酒を飲み、おいしいものを食べ、そして『万葉集』文学の旅の情緒を堪能してもらおうというわけです。

また先日、ポーランド、ルーマニア、ブルガリア、ジョージアで、JICAの文化講師として『万葉集』の英訳についての講義をしました。

その折にこの万葉歌めぐりの旅の話をしたら、ジョージアの皆さんが感激してくださって、それが「自分たちの文化や文学をどのようにすれば観光資源として生かせるか」と考えるきっかけになったようなのです。『万葉集』や日本文化にはそういう力がある。まさにトランスボーダーだと思います。

張 異質なものとの出会いにより、みずからを発見するときの合わせ鏡の役割ですね。

※第2回:万葉集は世界レベルの文学作品であり、呪術的な世界の記録として極めて優れている に続く

[注]

(1)『英語で味わう万葉集』 ピーター・J・マクミラン著、文春新書、2019年

(2)南朝梁の昭明太子(501~531)の撰による詩文集。現存する「集部」のなかの最古の「集」

(3)万葉歌碑魅力発信プロジェクト

上野誠(Makoto Ueno)

國學院大學文学部日本文学科教授[特別専任]・奈良大学名誉教授。1960年生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。博士(文学)。専門は万葉集、万葉文化論。著書に『折口信夫 魂の古代学』(角川ソフィア文庫)、『万葉文化論』(ミネルヴァ書房)、『日本人にとって聖なるものとは何か』(中公新書)、『万葉集から古代を読みとく』(ちくま新書)など多数。

ピーター・J・マクミラン(Peter MacMillan)

翻訳家・版画家・詩人。アイルランド生まれ。日本での著書に『日本の古典を英語で読む』『英語で味わう万葉集』『松尾芭蕉を旅する』など多数。相模女子大学客員教授・東京大学非常勤講師をつとめるほか、朝日新聞で「星の林に」、京都新聞で「古典を楽しむ」を連載中。NHK WORLD「Magical Japanese」、KBS京都「さらピン!キョウト」に出演している。

張競(Kyo Cho)

1953年上海生まれ。華東師範大学卒業、同大学助手を経て1985年に来日。東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。著書に『海を越える日本文学』(筑摩書房)、『異文化理解の落とし穴』(岩波書店)、『詩文往還』(日本経済新聞出版)など。


https://news.yahoo.co.jp/articles/644edb39c776aa07d80e87ec6e02c063e807ef66

 【万葉集は英訳のほうが分かりやすいのはなぜか?…古代から現代、日本から世界に羽ばたく「世界文学としての和歌」】より 

■文化の受容と自国の文化

●上野 文化の受容というのは、受容する側の文化の問題でもあるわけです。森鷗外が、「あなたはよくこれだけのすばらしい翻訳ができますね」と言われて、「それは日本語についてよく知っているからだ」と答えたという話がありますね。

マクミランさんは『万葉集』を英訳するとき、「これは英語の詩の伝統ではどういうふうに言うだろう」とか「ソネットの形式に近い形で訳そうかな」などと考えたりしますか。

私は、『万葉集』の注釈を進める際、ドナルド・キーンさんに相談に行きました。キーン先生は「日本人が書いた『万葉集』の注釈書の訳は訳じゃない。説明文です。説明文は要らないです」と言うのです。

そして、「詩は詩として訳さなきゃ駄目。読んだときに詩になっているかどうかが問題です」と厳しく言われました。ああ、そうかと思った。

張先生は、中国で古典教育をする際、現代の中国語に訳す必要はありますか。

●張 書かれた時代によりますね。李白の「静夜思(せいやし)」のように、唐詩には訳さなくてもわかるものがあります。その美しさは現代人にも響いてくるのです。大半は現代中国語に訳さないと、わかりません。

●上野 唐詩の形式は、作品によってはその美しさが今でもわかるのですね。『万葉集』の場合は、訳がまったくなくて済むものは5%ぐらいじゃないでしょうか。

マクミランさんも、いったん日本語の注釈を読んでから英訳するわけですよね。例えばオペラも、今のイタリアの人が聞いてわかるわけではなく、ちょうど歌舞伎のように、オペラ座で売っている台本を見ながら観劇していますね。

マクミラン 先ほどのミサの話もそうです。私が子供の頃はまだラテン語が普通でした。バチカン公会議後にすべて英語や各国の現代語になりましたが、今はまたラテン語で聞きたいという声があります。意味がわからないとかえって厳かに聞こえるからでしょう。

●上野 マクミランさんが翻訳されている日本のさまざまな古典の英訳は、英語の文学関係者、英語の文学を勉強する人たちの財産になっていくだろうと思います。

『万葉集』についても、それ自体は中国の影響を受けて作られたものですが、『古今和歌集』はその『万葉集』を財産にしてできたのですから。文化とは、そういうものだと思うんです。

●マクミラン はい。でも、日本の歌の英訳は日本人の財産にもなっていくと思っています。現代の日本人は原文を読めませんから。もちろん日本語の現代語訳も読めますが、英語でも読めますね。

そういう意味で比較すると、英訳するのはとても困難なことですが、現代日本語に訳すほうがはるかに大きな苦労があると思います。

なぜなら現代日本語は根本的に詩的でないからです。『小倉百人一首』の現代語訳を読んでいると、それがたとえキーン先生の言う「説明文」でなくても、詩的に感じにくい面があります。

私はかつて日本の古典を訳してキーン先生から褒めていただき、賞をいただきまし。それで翻訳の免許をもらった気分になり、「日本の古典を英訳すればこの素晴らしい国に恩返しができる」と感じました。

ところが『万葉集』に出会ったら、「『万葉集』の英訳は日本への恩返しどころか世界のためになる」という気持ちになりました。それほどまでに『万葉集』のすごさを感じたんですね。

『万葉集』には、私たちが持っている文学にない要素がたくさんありますし、その歌には生まれたての新鮮味を感じます。ですから、私も「今朝書かれた歌のように訳したい」と思っています。

●上野 ああ、「今朝書かれた歌のように」ね。すばらしい──。

●張 僕は『万葉集』の中国語訳を読むと、『万葉集』の精神はあるかもしれないけれども、日本の『万葉集』とは別の『万葉集』になっていると感じます。中国の古典語に訳されているからでしょう。英語圏で『万葉集』を中世英語で翻訳しようとする人はいないですか。

●マクミラン それはないですね。明治時代に最初に英訳されたものは『百人一首』で、いわば文語体でした。当時流行していた例えばテニスンのような、それこそキーン先生が好きだったきれいな言葉になっています。

●上野 違和感がありますか。

●マクミラン ありますね。なぜ素直に書かないのかなと。中世の英語に訳したら現代のイギリス人は読めません。現代人はシェイクスピアの英語も18世紀の英語もほとんど読めませんから、読んでほしくないのであれば中世の英語に訳しなさい、ということになりますね。

上野先生が現代語訳で目指しているのは、わかりやすさですか。

●上野 基本的には、耳で聞いてわかるように訳したい。そして、キーン先生に言われたように、詩になっているように訳したいとは、思っているのですが──。

■吟じられる英語に訳して世界に

●マクミラン このあいだ、ある歌を「あなたが去年出会った桜、恋していた桜がまた咲きましたよ」というふうに訳そうとしたら、一緒に翻訳をしている茂野智大さんが「あなたが出会った桜じゃない。桜があなたに出会ったんだ。主語は桜。桜があなたに出会って、あなたに恋をして、あなたのためにまた咲いていますよ、という意味だ」と教えてくれました。

それでは全然違うじゃないですか。自然を擬人化するということですね。英語でも擬人化しますよ。例えばワーズワースの「I Wandered Lonely as a Cloud.(私は雲のようにさまよった)」。

この場合、ある人が外にある自然を見ています。でも、今言った『万葉集』の歌は「桜の木が人間に恋をしている」というのです。

●上野 擬人法とか擬人化と言うと特別に思いがちですが、それは「物は主語にならない」ことを前提としているからで、「物が主語になる」ところでは擬人化は普通です。

面白い例があります。持統天皇の「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣干したり 天の香具山」(『万葉集』巻一の二八)。

最近の研究では、この訳は「春が過ぎて夏がやってきたらしい。天の香具山には白妙の衣が干されている」ではなくて、「天の香具山が衣を干している」でいい、というんです(鉄野昌弘「万葉研究、読みの深まり(?)─持統天皇御製歌の解釈をめぐって─」『季刊 明日香風』第百二号所収、飛鳥保存財団、2007年)。

「山が衣を干す」でいいと。

●マクミラン 先生はどう思われますか。

●上野 それでいいと思います。少なくとも中世にはそう解釈されていた。詩の言語というのは人間の歴史の古い思考法を伝えているものだから、「天の香具山が干している」でいいと。詩には確かに古いものを伝えるという側面がある。これもトランスボーダーですね。

●マクミラン 美しいですね。そのほうが絶対に素敵だと思う。ちょっとパフォーマンスをします。持統天皇の歌を「香具山自身が衣を干す」というふうに即興で訳し直しました。吟じます。

Spring has passed

and Summer has come.

Mount Kagu

is airing on her slopes

her white summer robes.

藤原俊成が言ったように、発声したときの音とリズム感でその良さが感じられるような歌に訳す、ということを私は心がけています。

『百人一首』の歌は単純な自然の描写が多く、英訳してみると平凡な歌なのに、日本語で吟じると素晴らしく聞こえるものがありますね。

●張 和歌を五・七・五のままに五音節・七音節・五音節という英語に訳すと、逆に美しくない、ということですか。

●マクミラン 美しくないことはないと思いますし、反対するわけでもありません。ただ、七五調では私たちの心地よいリズムにはなりません。

明治時代に上田敏がブラウニングの詩を七五調で和訳しました。そして、それはすごく美しい。英語を日本語に訳すなら七五調がベストかもしれません。だから今でもカルタがあるのだと思います。

でも、逆の場合もそうなのかということなんです。それで私は、どんな歌も「英語でも吟じられるように訳そう」と思っているのです。

●上野 マクミランさんは今、英訳『百人一首』のカルタ大会というイベントをやっていますね。

●マクミラン はい。カルタも現代の国内・海外に『万葉集』や和歌を広めていく切り口の1つですから。

●上野 世界大会には、ファン・ロンパイ元欧州理事会議長を呼んでほしいですね。彼は英俳をやっていて、きらっと光るものを俳句で詠んでいますから。

●張 日本の和歌や『万葉集』のトランスボーダーの可能性を感じますね。

●上野 日本語しかできず、一番トランスボーダーではない私は、「古い言葉とトランスボーダーしている」ことで呼んでいただいたということになるでしょうかねぇ(笑)。

●マクミラン いろいろ勉強になりました。

●張 本日は、『万葉集』の持つトランスボーダー的な要素についてさまざまな角度からお話しいただきました。たいへんありがとうございました。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

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