https://rekishi-club.com/%E4%B8%8E%E8%AC%9D%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%80%80%E5%A4%9A%E8%8A%B8%E3%81%A7%E8%8A%AD%E8%95%89%E4%B8%80%E8%8C%B6%E3%81%A8%E4%B8%A6%E3%81%B3%E7%A7%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E6%B1%9F%E6%88%B8%E4%BF%B3/ 【与謝蕪村 多芸で芭蕉,一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人】より
与謝蕪村は江戸時代中期の俳人・画家で、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸時代俳諧の巨匠の一人であり、中興の祖といわれる。画壇・俳壇両方で名を成した、類稀なるアーティストであり、絵画的浪漫的作風で俳人として一派を成した。絵画は池大雅(いけのたいが)とともに文人画で並び称された。また、俳句と絵でこっけい味を楽しむ「俳画」の創始者でもある。蕪村の生没年は1716(享保元)~1783年(天明2年)。
与謝蕪村は摂津国東成郡毛馬村(ひがしなりごおり けまむら、現在の大阪市都島区毛馬町)で生まれた。姓は谷口あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。俳号は他に夜半亭(二世)・落日庵・四明・宰鳥など。画号は春星、謝寅など。「蕪村」とは中国の詩人、陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。
蕪村は20歳のころ江戸に下り、早野巴人(はじん、号は夜半亭宋阿=やはんてい そうあ)に師事し、俳諧を学んだ。1742年(寛保2年)27歳のとき、師が没したあと下総国結城(現在の茨城県結城市)の砂岡雁宕(いさおかがんとう)のもとに寄寓。松尾芭蕉に憧れて、奥の細道の足跡を巡り、東北地方を周遊した。その際の手記を1744年(寛保4年)、雁宕の娘婿で下野国宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)の佐藤露鳩(さとう ろきゅう)宅に居寓した際、編集した『歳旦帳(宇都宮歳旦帳)』で初めて蕪村を号した。
その後、蕪村は丹後、讃岐などを歴遊し、42歳のころ京都に居を構えた。このころ与謝を名乗るようになった。45歳ころに結婚し、一人娘くのをもうけた。島原角屋で句を教えるなど以後、京都で過ごした。1770年(明和7年)には夜半亭二世に推戴されている。京都市下京区仏光寺通烏丸西入ルの居宅で68歳の生涯を閉じた。最近の調査で死因は心筋梗塞だったとされている。
蕪村は松尾芭蕉を尊敬してやまなかった。芭蕉が没して22年後に生まれ、俳人であり画家でもあった彼は、幾通りもの芭蕉像を描いた。いずれも微笑を浮かべた温容だ。早野巴人に俳諧を学んだが、書も絵も独学だった蕪村は芭蕉が心を込めたところを一生懸命に描いた。彼自身の体に芭蕉の精神を入れ、自分の心として描いたのだ。その結果、後世に知られる蕪村の俳画は、芭蕉と心を一つにすることで大成したといえる。
ただ、生涯師につかず、独自に画風を開いていった蕪村は、60歳を超えて才能を開花させた、遅咲きあるいは、晩成型の俳人・画家だっただけに、経済的にはほとんど恵まれなかった。そのため、ほぼ生涯を通して貧乏と縁が切れなかった。この点は、彼が創始した俳画作品にもよく表れている。蕪村の並々ならぬ芭蕉敬慕の思いは、奥の細道図だけで少なくとも10点は描いたことから知れる。絵の修業時代、奥の細道を追体験する遍歴の旅をしているほどだ。蕪村の俳画において絵と俳句は混然と溶け合った。いわば絵で俳諧する世界だ。その頂点にあるのが蕪村の「奥の細道図屏風」や「奥の細道画巻」だ。
芸術と人間は一体だと考えた蕪村は生来、去俗の人だったという。「もの云えば唇寒し秋の風」と詠んだ芭蕉こそが心の師だったのだ。俗な言葉を用いて俗を離れ、俗を離れて俗を用いる。それが大切だ。これが蕪村の精神だった。蕪村は独創性を失った当時の俳諧を憂い『蕉風回帰』を唱え、絵画用語の『離俗論』を句に適用した天明調の俳諧を確立させた中心的な人物だ。蕪村に影響された俳人は数多いが、とくに正岡子規の俳句革新に大きな影響を与えたことはよく知られ、『俳人蕪村』がある。
蕪村のよく知られた句には「春の海 ひねもすのたりのたり哉」「菜の花や 月は東に日は西に」「月天心 貧しき町を通りけり」などがある。
また、俳画の句に「学問は 尻からぬける ほたるかな」「花すすき ひと夜はなびけ むさし坊」などがある。いずれもこっけい味にあふれた作品だ。
辞世は 「しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり」
蕪村の主な著作は『新花摘』『蕪村句集』『蕪村七部集』『玉藻集』『夜半楽』などがある。
(参考資料)大岡 信「名句 歌ごよみ 春」、大岡 信「名句 歌ごよみ 冬・新年」、NHK「天才画家の肖像・与謝蕪村」
https://www.museum.city.nagoya.jp/collection/data/data_13/index.html 【俳諧資料コレクション 芭蕉と蕪村】より
俳諧とは俳句や数人で句を詠む連句などの文芸の総称で、江戸時代においては庶民の娯楽の代表であった。
尾張は俳諧が特に盛んで、優れた俳人を輩出し、豊富な俳諧資料が残されている土地である。中でも代表的な俳人としては、横井也有(1702~1783)・久村暁台(1732~1792)・井上士朗(1742~1812)らが挙げられるが、その共通点は、松尾芭蕉(1644~1694)の影響を少なからず受けていることである。
名古屋ゆかりの芭蕉直筆発句懐紙「いざ出む」
「いざ出む」発句懐紙:貞享4年(1687)
「いざ出む」発句懐紙:貞享4年(1687)
芭蕉は貞享元年(1684)、『野ざらし紀行』の旅の折に、名古屋に立ち寄り、尾張の俳人たちとはじめて交流した。連句集『冬の日』はその時の連句を収めたものである。後にこの本は蕉風開眼の書と評され、芭蕉の俳諧スタイル―いわゆる蕉風が名古屋で発祥した由縁を伝えるものとなった。以後芭蕉は、旅の折々に名古屋を訪れ、尾張俳人と親しく交流を重ねた。
発句懐紙「いざ出む雪見にころぶ所まで」は芭蕉の直筆と認められるもので、名古屋との縁の深さも感じさせてくれる懐紙である。芭蕉は貞享4年(1687)の『笈の小文』の旅においても名古屋に立ち寄り、12月の始めには名古屋城下の書林風月堂を訪問。主人の夕道(二代目孫助)が門人ということもあって、懐紙を揮毫したようである。懐紙に書かれた句形は初案で、後に「いざ行む雪見にころぶ所まで」と改案されている。
この懐紙は芭蕉没後も大切に伝えられた。天保15年(1844)に刊行された『尾張名所図会』前編巻第一には、この懐紙を見た横井也有が「手の跡や雪の足あと見ぬ世まで」の句を寄せたことが書かれており、也有の芭蕉に対する思慕の情を感じさせられるエピソードを伝えている。
蕉風復興に尽くした蕪村・暁台・士朗の交流を語る「与謝蕪村絵入り書状」
与謝蕪村絵入り書状:安永7年(1778)10月11日付
与謝蕪村絵入り書状:安永7年(1778)10月11日付
芭蕉の死後、一旦は低迷した俳諧文化。しかし、芭蕉没後80年頃より「芭蕉に帰れ」というスローガンのもと、芭蕉の精神の再生を求めて、蕉風復興とよばれる動きが活発化した。京では与謝蕪村(1716~1783)、名古屋では久村暁台・井上士朗らが一門を上げて復興運動に取り組み、彼らは交流を深めていった。
この書状は、京に蕪村を訪ねた後、名古屋に戻った暁台・士朗に蕪村が宛てたものである。
彼らが無事に帰ったことを喜びつつ、蕪村がこの頃盛んに描いていた「おくの細道之巻」を、名古屋は「文華之土地」だから「財主(支援者)之風流家」に一本は残したいとの旨が述べられている。
この「おくの細道之巻」二巻は、無事に暁台の手元に届き、暁台門人の宰馬子(さいばし)らに渡されたことがその後の蕪村宛ての暁台の書状によって知られている。蕪村が描いた「奥の細道図」は、重要文化財になっているものを含め、巻物3組と屏風1双が現存しているが、暁台の書状に見えるものにあたるかどうかは、残念ながら不明である。
書状の最後の部分にも注目してみよう。蕪村・暁台・士朗らしき一行が「雪楼」(おそらく京の料亭)で戯れる様子が描かれている。芸者であろうか、女性を傍らに愉快に遊ぶ姿や「歯の痛もとんとわすれて」手招きに応じている様子は、思わず見る者の笑いを誘う。特に「尾張名古家(屋)は士朗でもつ」というセリフは、「伊勢音頭」にも歌われている「尾張名古屋は城でもつ」をもじって遊んだもの。こうしたウィットがきいたやり取りからも蕪村が、暁台・士朗らと交友を深めていることが
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