蕉風復興期の中心的存在

http://www.basho.jp/ronbun/2016/02.html 【論文を読む会のまとめ・発表テーマ  蕪村の嗜好 ―宰鳥から宰鳥へ― 】より

<発表のまとめ>

1.発表の概要

・今年は蕪村生誕300年に当たる。蕪村は一般に「蕉風復興期の中心的存在」として知られている。しかし、本発表では蕪村作品の精査によって、芭蕉の作風とは異なる強い嗜好性を読み取り、蕉風復興運動とは別個の生き方を選んだ蕪村像をえぐりだしている。つまり、蕪村は画業を本業として俳壇とは距離をおき、江戸を中心とする関東在住期への回帰を試みる自在奔放な境地に遊んだという。

・なお本発表は、発表者が雑誌『文学』(岩波書店)17巻第2号の特集「蕪村生誕300年」に寄稿した「蕪村の嗜好 ―宰鳥から宰鳥へ―」を元に、「論文を読む会」用に再整理したものである。

2.発表のポイント

◆作品に同居する宰鳥、宰町、蕪村(問題提起=結論)

・蕪村は複数の撰集の中で旧号を復活させ、新旧二つの号を同居させている。この蕪村の嗜好に着目し、その作品を読み解くことで新たな蕪村像に迫る。すなわち、時空を超えて遊びたい処に自由に降り立つ彼の「旧事追懐」こそが、それである。

◆宰鳥との別れ、蕪村の登場(『寛保四年歳旦帖』)

師である宋阿没後の1年半後、蕪村が初めて編んだ歳旦帖の巻軸(巻末に記す編者の句)で初めて「蕪村」を名乗る。面白いことに軸前の全作品の号は、入門時に宋阿から授かった「宰鳥」である。発表者はこれを「先師の弟子であり続ける宰鳥と、先師亡き旧居で悲しみにくれる蕪村を寓したもの」とみる。

蕪村と夜半亭(作品に俳壇的意欲を読まず)

・宝暦元年(1751)蕪村は京に上り、以後の約10年間を画業の修業に当てる。結婚したと思われる宝暦10年には、ひとかどの画家になっていたと思われる。

・明和3年(1766)、蕪村51歳の時に三果社句会を発足させるが、このときは未だ「俳諧は画業の余技」に過ぎず、画業に勤しむ暮らしを徹底する。

・明和7年(1770)、「先師巴人の夜半亭を継承」し、京で俳諧師の再スタートを切る。

・それ以降、弟子几董の『あけ烏』、『続明烏』や道立の『写経社集』などの蕉風復興を意識した作品や、蕪村が編集者と記された『たまも集』、『芭蕉翁付合集』など、後世蕉風中興の書と目される作品集を編むが、いずれの作品集にも蕪村が積極的に関与し指導したという痕跡は見られない。

・また、立机はしたものの積極的な直門拡大の意欲なく、蕪村の回りには相変わらず太祇など旧い知己とわずかな直門がいるばかりであった。

・つまり、蕪村は俳壇と距離をおき「几董や大魯などの門人を世に送り出し、道立や維駒を支援する役割を担い」ながら、自らは「俳諧は画作の傍らで自在な境地に遊ぶ」という暮らしをした。

◆宰鳥との再会(旧事追懐)

・さらに時代は下り、安永3年発行の蕪村編『安永3年春帖』・『むかしを今』(宋阿三十三回忌集)には、「蕪村」「宰町」が同居する作品が随所に表れる。すなわち、懐かしい修業時代へ奔放に回帰していることがわかる。

・極め付けは、安永6年春に刊行した『夜半楽』であろう。この集には幼き頃、若き日の頃の思い出を奔放に詠った「春風馬堤曲」三部曲を中心に、もはや俳諧様式を逸脱するような編集を加えている。

3.まとめ

・蕪村は生来画の素質をもち画業で大成する夢を持ち、長じてその夢を達成するが、青年時代の一時期に江戸で絵画より俳諧一筋の生活を送った。そのきっかけは貧しさで途方に暮れる蕪村を温かく迎い入れた俳諧師宋阿の慈愛があると思われる。

・上方に戻り、画業に励み、絵師で生きてゆく見通しが立った時点で、先師の後を継ぎ夜半亭二世を名乗る。しかし画業に時間を取られることが多く、俳諧においては旧事追懐という嗜好に、その道を見出したと思われる。

・その姿勢には俳壇的意欲はなく、俳諧仲間も旧知の知己と決して多くない直門で不足はなかった。ただ自身の先師を敬う心は強く、門人にもその父の追善集を編むことを勧めたようである。その姿勢が逆に門人の自主性を養い、几董や子曳などの俊英を輩出したと思われる。

・以上、蕪村像は巷間言われている蕉風中興の中心的存在などと少し異なり、その俳壇的な仕事の多くは門人の功績によるものだろう。蕪村は師として彼らを応援していたのである。

・また、その作風は都会風であり、晩年に進むにつれて求道者的になる芭蕉とは大きく異なる。むしろ先師巴人が学んだ其角、嵐雪に近かった点は通説の通りである。 

 (了) 


https://chigasaki-haiku.com/?p=6389 【俳句的生活(260)-蕪村の詠んだ京都(16)芭蕉庵ー】より

芭蕉は時雨を愛し、その忌日は時雨忌と称されています。蕪村の芭蕉への敬愛の情は深く、蕪村の「時雨」を詠んだ句には、芭蕉を踏んだものがいくつか見られます。

しぐるゝや堅田へおりる雁ひとつ  (明和7年 蕪村55歳)

これは芭蕉を踏んだ蕪村の時雨の句の一例です。堅田は近江八景「堅田落雁」で名高い琵琶湖畔の地です。蕪村のこの句は、芭蕉の 堅田にてと前書きされた 病雁の夜寒に落ちて旅寝かな を踏んだものです。芭蕉の句は暗いイメージを宿していますが、蕪村の方は摸したとはいえ、どこかカラッとした明るさがあります。

堅田の浮御堂

堅田浮御堂の夕景

蕪村の芭蕉への敬愛は更に進み、洛北金福寺で荒廃してしまっている芭蕉庵を再建するほどになりました。

洛北金福寺の芭蕉庵、芭蕉庵という名前から芭蕉が過ごした庵と思いがちですが、そうではなく、金福寺の鉄舟という住持がこよなく芭蕉を敬愛したことから、自分の過ごした庵を芭蕉庵と称したものです。芭蕉自身、元禄4年前後は割と長期に京都に滞在しているので、金福寺を訪れたこともあっただろうと思いきや、略年譜での行先の中には、金福寺に近くの詩仙堂へは元禄4年6月に見物した記録はあるものの、金福寺を訪れた痕跡はありません。

鉄舟のあと、70年も経た蕪村の時代には、「芭蕉庵」は荒れ果ててしまい、再建しようという機運が蕪村一門に起こり、発起人として立ち上がったのは、蕪村門の十哲の一人となっている樋口道立という人でした。道立の実家は京都で漢学塾を開いていた儒学者の家でしたが、川越藩の武士の家に養子となり、40歳のころ、川越藩の京都留守居役となり、京都に戻って来て居ていました。彼は俳句を好み、蕪村の門弟になるのですが、川越藩京都藩邸は、二条通の南、烏丸通の東にあり、四条烏丸西南の蕪村の家からは10分ほどの処という近さでした。

蕪村一門で芭蕉庵を復興しようというとき、真っ先に問題となるのは、その資金をどのように調達するかということでした。蕪村の門弟である樋口道立が京都留守居役であったことは、将に好都合で、上方において藩の物資の出入りに責任を持つ京都留守居役は商人に対して顔が効き、寄付を頼むことが出来たのです。蕪村門は資金調達のために写経社という組織を新たにつくり、芭蕉碑の拓本を頒布して行ったのですが、京都留守居役が中心人物として居たことは、頒布を進め易くしたことはいうまでもありません。

京都留守居役という役職ですが、川越藩と同じ規模の譜代の藩の例では、80石の中級武士が務めています。80石の武家がどの程度のものであったかですが、角館の武家屋敷の石高がその程度ですから、大体の生活水準は想像がつきます。

樋口家の墓は真如堂近くの極楽寺というお寺にあります。右端が道立の墓です。

樋口道立の墓

金福寺には 四明山下の西南一条寺村に禪坊あり、金福寺(こんぷくじ)といふ。土人口稱(こうしょう)して芭蕉庵と呼。という一文で始まる蕪村自筆の洛東芭蕉庵再興記が、芭蕉庵完成を記念して納められています。この再興記の結びには、再興發起の魁首(かいしゅ)は、自在庵道立子なり。道立子の大祖父担庵先生は、蕉翁のもろこしのふみ學びたまへりける師にておはしけるとぞ。されば道立子の此挙にあづかり給ふも、大かたならぬすくせのちぎりなりかし。と、発起人である樋口道立を立てています。ここにも功績を自分一人のものとしない蕪村の人柄が現れています。

金福寺の芭蕉庵

京都の時雨を好んだのは、高浜虚子もその一人で、京の時雨に遭遇するためだけの目的で京都に行ったりもしています。そのことは、また別稿に記したいと思います。

しぐるゝや孤舟の真菰ぬらすほど  游々子


https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/buson/buson_kinpuku.htm 【蕪村の芭蕉-金福寺の芭蕉庵】より

蕪村自筆の「洛東芭蕉庵再興記」

「洛東芭蕉庵再興記」

佛日山金福寺パンブレットより。

四明山下の西南一条寺村に禪坊あり、金福寺(こんぷくじ)といふ。土人口稱(こうしょう)して芭蕉庵と呼。階前より翆微(すいび)に入こと二十歩、一塊の丘あり。すなわち芭蕉庵の遺蹟なりとぞ。もとより閑寂玄隠(かんじゃくげんいん)の地にして、緑苔(りょくたい)や、百年の人跡を埋むといへども、幽篁(ゆうこう)なを一爐の茶烟(さえん)をふくむがごとし。水行き雲とどまり、樹老鳥眠りて、しきりに懐古の情に堪ず。やうやく長安名利の境を離るといへども、ひたぶるに俗塵をいとふとしもあらず。鶏犬(けいけん)の聲籬(こえまがき)をへだて、樵牧(しょうぼく)の路門(みちもん)をめぐり。豆腐賣小家も近く、酒を沽(か)ふ肆(みせ)も遠きにあらず。されば詞人吟(しじんぎん)客の相往来して、半日の閑を貪るたよりもよく、飢をふせぐもふけも自在なるべし。

  「洛東芭蕉庵再興記」の全文へ

福寺

 京都市左京区一乗寺才形町20

 2020年11月2日、京都は1日中雨。

 蕪村・芭蕉ゆかりの地、コロナ禍をついてようやく金福寺(こんぷくじ)を尋ねることができた。

 外国からの観光客が増えてから、長らく京都へは行く気がしなかった。コロナの関係で海外からの観光客がストップしているため、今が京都を尋ねる好機(ほとんどラストチャンス)と考えて京都にやって来た。

 詩仙堂、圓光寺と回って、金福寺にようやくたどりついた。途中の案内はしっかり出ているのだが、最後の金福寺へのアプローチが分かりにくい。地元の人に教えてもらってようやく門前に立つことができた。

金福寺・本堂と庭  

 金福寺は、近くの圓光寺の鉄舟和尚が荒廃していたお寺を再興したもので、臨済宗南禅寺派のお寺となって現在にいたっている。

 金福寺は、他の多くの有名な寺社が観光客意識が強いのに比べ、自然で質素で蕪村愛好者向けで好もしい。蕪村・芭蕉ゆかりのお寺さんは観光とは一線を画しているようだ。京都のお寺は、信者・檀家のためのお寺と観光客用のお寺があるそうだ。さしずめ金福寺は、蕪村・芭蕉愛好者のような特別の趣味・趣向をもった人のお寺と言えそうだ。

 訪れた日はあいにくの雨。 雨の日の芭蕉庵も一興、詩興というものとしたいが、やはりやや残念な訪問になった。

庭より一段高いところに見える芭蕉堂。芭蕉堂の辺りから京の街並みがよく見える。この場で蕪村は芭蕉庵を再興し、芭蕉を偲び、句会を開いていたのだろう。

 歳末弁

  名利(みょうり)の街(ちまた)にはしり貪欲(とんよく)の海におぼれて、限りある身を苦しむ。わきてくれゆくとしの夜のありさまなどは、いふべくもあらず、いとうたてきに、人の門(かど)たたきありきて、ことごとしくののしり、足をそらにしてののしりもてゆくなど、あさましきわざなれ。

 さりとておろかなる身は、いかにして塵区(じんく)をのがれん。

 としくれぬ笠着てわらぢはきながら

 片隅によりて、此句を沈吟(ちんぎん)し侍れば、心もすみわたりて、かかる身にしあらばといと尊く、我ための摩呵止観(まかしかん)ともいふべし。蕉翁去つて蕉翁なし、とし又去るや又来るや。

 芭蕉去つてそののちいまだ年くれず  蕪村

      (「蕪村文集」岩波文庫)

 

 江戸元禄期、松尾芭蕉は吟行中、金福寺の鉄舟和尚を度々訪れ親交を深めていたという。鉄舟は境内に草堂を建て、芭蕉を慕って「芭蕉庵」と名付けたが、やがて荒廃した。芭蕉に心酔していた儒者、樋口道立が庵の再興を発起したりしていたようだ。

 その後、70年ほどして蕪村が当寺を訪れた頃には、すでに庵は荒廃していた。しかし、村人たちは、「草かる童や麦うつ女」もここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた、と蕪村は芭蕉庵再興記の中で書いている。

 蕪村は金福寺に芭蕉庵を再興してから、次のような句を詠んで、金福寺の芭蕉碑の近くに埋葬してほしいと希望している。

 我も死して碑に辺せむ枯尾花 蕪村

 蕪村の芭蕉への敬慕の念がいかに強かったかよくわかる句である。蕪村の墓は本人の望みどうり、この芭蕉庵の少し山を登ったところにある。苔むした石の階段を上りながら心の高鳴りを感じる。

(蕪村筆の芭蕉像)

 「歳末弁」は蕪村の俳文だが、「としくれぬ笠着てわらぢはきながら」(芭蕉)を静かに吟ずると、愚かな自分でも俗塵をのがれんとする気を励まし、心澄みわたり、落ち着かせてくれる、といっている。芭蕉の生き方、作句へ向かう姿勢、旅への思い、それが蕪村の心を揺り動かし、奮い立たせている様子がよくわかる。

庭の井戸と筧のおもむき。自然でいい感じ。

 蕪村は芭蕉を敬慕し師と仰いでいた。俳諧に向かう芭蕉の真摯な姿勢と俳諧革新の静かな熱情に、蕪村も心揺さぶられるものがあっただろう。師と仰ぐ芭蕉に近づきたいと念じながらも、蕪村が詠む句はどうしても芭蕉とは異なってしまう。師の求道的で禁欲的な「俳諧の誠」追求の主観性の強い句に対して、蕪村の句はやや享楽的で、主観性を抑えているが抒情的な句になっている。蕪村の、客観写実ではないが、自由で解放的な感性や郷愁の淡い抒情性が現代人のセンスにもマッチして受け入れやすいように思う。

 芭蕉の句は、以前の俳諧の言葉遊びや滑稽、諧謔趣味を超えようと、深川に隠棲し旅に身をやつし、俳諧に事物の本質に根差した表現を志向した。だが表現がやや重く、枯淡なわびさび色が強い。「軽み」や「俗に帰る」ことを指向することもあったが、やはり重く暗い。芭蕉から70年くらい後の蕪村の句は、自由で感性的でやや耽美的、現代人のセンスに近い。芭蕉は自分に厳しい求道者だったが、蕪村は感性的には自由人だった。

金福寺にある掛け軸。芭蕉の画は蕪村の直筆。

選んだ芭蕉の句は、私好みではあるが、蕪村の排風とは大分異なる。本当に蕪村の選んだ句なのだろうか。

 この芭蕉の肖像画は蕪村筆によるもの。ときに蕪村64歳。蕪村がこの寺のために揮毫し奉納されたものといわれる。この肖像画の上部には、芭蕉を賞賛した清田たん叟の撰文と芭蕉の句の中で蕪村がもっとも好んだものを蕪村自身が書いてこの画像の賛としている。それぞれ芭蕉の主観的な想いが強い、味のある句ばかり。蕪村の句とは遠くて近いような。

 こもを着て誰人います花の春

 花にうき世我酒白く飯黒し

 ふる池やかはず飛びこむ水の音

 ゆく春や鳥啼魚の目はなみだ

 おもしろふてやがてかなしきうぶねかな

 いでや我よききぬ着たり蝉衣

 子ども等よ昼がをさきぬ瓜むかん

 夏ごろもいまだ虱とり尽さず

 名月や池をめぐりてよもすがら

 ばせを野分して盥(たらい)に雨をきく夜かな

 あかあかと日はつれなくも秋の風

 いな妻や闇のかたゆく五位の声

 櫓聲(ろせい)波を打て腸氷る夜や泪

 世にふるもさらに宗祇の時雨かな

 年の暮線香買に出でばやな

蕪村筆「紅山清遊の図」 蕪村胸中の図、天橋立か。味のある南画風の画。

芭蕉庵のたたずまい。なんか修復されない方がよいようにも思うのだが。

 あいにくの雨で、芭蕉庵は閉められていて、内部は見られなかった。外観はなかなか味のある形で、茶室風でもあるが生活感のある芭蕉庵にふさわしいようにも思う。最近リフォームしているようで、茅葺き屋根も表面の壁や窓も整備されていた。天気の良い日には修復が始まるのだろう。

芭蕉庵から見た金福寺の庭

芭蕉庵の横の壁。いかにも閑古鳥が鳴き、しみじみと一人生きる淋しさにしたることができそうだ。それにしても「憂きわれを寂しがらせよ」とは、「獨住むほどおもしろきはなし。長嘯隱士(ちょうしゅういんし)の曰、「客は半日の閑を得れば、あるじは半日の閑をうしなふ」と素堂此言葉を常にあはれぶ。予も又」(「嵯峨日記」)の後に続く句。

  芭蕉庵の横の壁が修理を待っているのか、いい具合に残っている。なんという風合い。蕪村の句に次のような壁漏る煙があるのを思い出した。

 春雨や人住ミてけぶり壁を洩る 蕪村

 春雨の中、芭蕉と鉄舟和尚がお茶しながら風流や俳諧について語らっている、そんな庵の壁と柱の隙間から煙が漏れて壁を伝っている。そんな叙景を蕪村はイメージしていたのかも知れない。

 憂きわれを寂しがらせよ閑古鳥 芭蕉

 この句は金福寺で詠まれた句である。私はてっきり落柿舎でと思っていたのだが。この句碑が芭蕉庵の前にあったのだが、写真を撮りそびれてしまった。

金福寺の裏山にある蕪村の墓

 私は、芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」が気に入っている。この句に出会って芭蕉が好きになったのかもしれない。蕪村もそうだったのではないかと密かに思っているのだが。蕪村の「白梅に・・・」の句は、芭蕉の「旅に病んで・・・」とはずいぶん趣が異なる。かえりみて、私の場合はどうなのだろう。

誰が建てたか蕪村の立派な墓。

 しっかりとした分かりやすい書体で好ましい。芭蕉碑の側、見晴らしの良い場所で、蕪村も満足なのではないか。

蕪村辞世の句といわれる。名句だと思うのだが、ちょっとかっこつけすぎなのでは。

 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

 蕪村は「しら梅」に何を象徴していたのだろうか。心安らかに朝を迎えられたように思われ、よかった。たが「明ける夜」に何を託していたのだろうか。

蕪村の住んでいたとされる住居跡。現在の建物はどこかの会社のようで蕪村とは何も関係ない。

 下京区仏光寺通烏丸西入南側。左の写真の家の前に「与謝蕪村宅跡(終焉の地)」の案内の石柱と案内板が建っている。案内板には、蕪村59歳の時の日記にある、家を見つけたことや家の周りの様子が記されている。

 次のような句を思い出した。

 下京や雪つむ上の夜の雨 凡兆

 「下京や」の上五は、凡兆の師芭蕉がつけたが、凡兆は気に食わなかったようだ。悪くはないと思うのだが、凡兆には別の思いがあったのだろう、腑に落ちなかった。面白い話だ。凡兆の句は蕪村に似て、客観・叙景性の強い句を思っていたのかもしれない。

庭から出るところにある門が、冬の雨にうるんで、気づけばとてもいい感じ。

 庭にある花守の句碑。

 花守は野守に劣るけふの月 蕪村

 一里は皆花守の子孫かや 芭蕉

 芭蕉にしては珍しく華やいだ句だが、蕪村はそれに対抗したわけではなかろうが、渋い句を詠んでいる。花守には華やかさが、野守には侘びがある。野守には花守にない楽しみもある。

雨に煙る京の街。芭蕉庵より。  

 受付で、蕪村が金福寺で読んだといわれる句の手書きの竹製しおりを、ついつい買ってしまった。

 畑打つや動かぬ雲もなくなりぬ 蕪村

 夏山や通ひなれにし若狭人 蕪村

 三度鳴きて聞こえずなりぬ鹿の声 蕪村

 冬近し時雨の雲もここよりぞ 蕪村

 受付でおしゃべりをしていたら、蕪村作芭蕉像の色紙をゲットした。だが、私としては、なぜか芭蕉の肖像としてはどうも納得がいかない。それぞれの芭蕉があり、蕪村があるか。それにしても残念なことは、披露すべき私の句がないこと。

 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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