Facebook加藤隆行さん投稿記事 【世界は人生初だらけ】
ここ数年、オーソモレキュラー療法ってヤツで 糖質制限をずっと続けてきたのですが、
もうカラダの状態もよくなったのでまた昔みたくよくラーメンを食ってます。
そして昨日は、3食ラーメンで過ごすという人生初の快挙を成し遂げました\(^o^)/
たぶん母ちゃんにバレたらめっちゃ怒られそうですがw
ラーメン3食はどうあれ、こういう「人生初」っていうのが実はメンタルにとってめっちゃ大事です。
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人間って、というか動物というのは「生命の維持」が一番の目的なわけです。
となると出来うる限り、危険なことに合わないよう「同じことの繰り返し」で日常を暮らしていこうとするんですね。同じことしていれば食いっぱぐれたり命を落とす可能性も低い前の日を繰り返して生きていこうとするわけです。
動物はどんな動物でもほぼ一日をルーチンで動きます。
特定の安全そうな場所に巣を作り そこで目覚め、いつもの道を通り いつもの狩場でエサを狩り いつもの安全な場所で排泄し いつもの時間に活動をやめ いつもの道を通って巣に戻り いつもと同じように 外敵を警戒しながら寝る。
「今日だけ 夜更かししまーす^^」って動物、あんま想像つかんでしょ。で、動物はこれでいいんです。永遠のマンネリ。
が、人間は思考する大脳が発達してしまったがためにこれやってるとマンネリ化して人生がつまらなくなってくるんです。
だからといってその生活から抜け出ることは「キケン」と動物レベルでは感じるので抜け出せない。
また、今がすごく劣悪な環境や境遇だったとしても本能的に行動を変えることが「キケン・怖い」と感じるからそこから抜け出せない。(ちなみに怖いのは 「お金」と「人間関係」です)そうやって 同じことを繰り返し人生は彩りを失っていく、、。
いつも同じ景色 いつも同じ行動 いつも同じ人間関係 こればかりをしていると どんどん視野も狭まってきます。
その中でしか生きられない人になっていく。
まあ、だからといってどーんと冒険しろってわけじゃあないんです。(もちろんしてもいい)
ボクのラーメンみたく「人生初」なんて、日常でほんのちょっとだけ視点を変え、行動を起こせばめちゃくちゃたくさんあるのです。
「人生初」、利き手の反対の手で歯を磨いてみる。
「人生初」朝からステーキ食べてみる。
「人生初」、スカートを履いてからパンツを履いてみる。
「人生初」 マンションの管理人さんにめっちゃ笑顔で「いってきます!」って言ってみる。
「人生初」朝ステーキ食ったのに駅でラーメン食ってみるw
「人生初」(おなかいっぱいなので)わざと会社に遅刻してみる。
「人生初」遅刻したくせに課長に仕事ふられて「えー、やだー」って言ってみるw
「人生初」社内でみんなから嫌われている偏屈なあの人に声かけてみる。
「人生初」課内の一人づつに「いつも感謝してます!ありがとうございます」と言ってみる。
「人生初」遅刻したくせに ”理由もなく”午後有給休暇をとって早退してみる。
「人生初」神社に寄って、お賽銭箱に1万円入れてくる。
「人生初」人々がまだ働いている時間に立ち飲み屋で呑んでみる。
「人生初」酒の勢いをかりて街中で鼻歌歌いながらスキップしてみる。
「人生初」いつもの電車でなく、バス路線で帰ってみる。
「人生初」ガラガラなのに席を譲ってみる。
「人生初」部屋に帰ったら裸族で暮らす。
「人生初」宅配ピザでLサイズを頼んでひとりで食ってみる。
「人生初」今度は足で葉を磨いてみるw
「人生初」大人なのに18時に寝る。みたいな。「人生初」なんていくらでも転がっている。
みんな、ただただ漠然と私の人生にはなにも「ない」自分の人生はつまら「ない」って思ってるし、言っている。
それはただルーチンに入ってしまい私の狭い常識の中にいて「ある」が見えなくなってるだけ。あなたの思っている外には無限の選択肢と可能性が「ある」。
それを知るためにも自分の「人生初」をなんでもいいから日々に入れてみてください。
必ず人生が彩りを取り戻します。3食ラーメン食ったら人生変わるべ(^ω^)
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/04.htm 【 行雲流水 (こううんりゅうすい) 】より <普勧坐禅儀>
雲は悠然として浮かび、しかもとどまることなく、水はまた絶えることなくさらさらとして流れて、また一処にとどまることがない。
この無心にして無碍自在のありようが禅の修行にもあい通じることから、この語を禅者は好んで用いた。今も禅の修行僧を「雲水(うんすい) 」と云うのも雲が悠々と大空を行く如く、また流れる水の如く一処にとどまらず師をたずね修行の行脚したことから名づけられたことばである。
「行雲流水」は自然現象である。空を行く雲、川を流れる水は一時も同じ状態ではない。雲の表情は一瞬一瞬ごとに変わり、湧きては消え、消えてはまた生ずであり、また流れる水も常に変化して様々な表情があるように、この行雲流水の語は世の無常を表わした語でもある。
それはそのままわれわれの人生にも通じることである。
雲にはやさしい風ばかりではない。吹きちぎり吹き飛ばす風もある。水の流れにも瀬があり曲がりくねる淵があり一様な流ればかりではない。長い人生もまた然りである。
人生、順風満帆ばかりなんてありえない。どんなに障害があり、喜怒哀楽様々な出来事の連続の中にあっても、常に心はその一処にとどまらず、執着せず、雲の如く無心にして淡々と、さわやかに生きる
ところにこの「行雲流水」の語が生きる。余談であるが、墨染めの衣にわらじ履き、網代笠を被った雲水の姿が自然の風光の中にあれば、ひとつの風景画に見えるかもしれない。だが、雲水である当人は如何がな心境であろうか。
実は私も曾っては雲水として一人、托鉢行脚で放浪しまた四国八十八ケ所霊場を廻ったことがある。悠々などといった心境でいられることはなかった。
門づけの行乞では目障りとばかりに冷たく追い立てられることもある。今夜の泊まるところのないのはたまらく侘しかった。孤独感もつのる。
行脚には晴ればかりではない。雨の日、風の日も多い。そして厳冬の中、雪道を泣きべそをかきたいような行脚は辛かった。だが、また逆に、多くの人々のご接待があり、真心から親切をうけた。いまではそのどれも懐かしく楽しい思い出であり人生の宝になっている。今思う「行雲流水」とはそんな人生におきる雨風、嵐どんな苦楽も嫌悪、取捨せず、ありのままに受け入れて人生の肥やしとしていくおおらかな心ではなかろうか。
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