Facebook仁平 香代子さん投稿記事
以前より、よく・・・「〇〇はニセモノで 私はホンモノです」というふうに言われながら
発信をされている方がいますが
最近、そんなふうに発信している人に対してものすごい違和感を感じてしまって…なので敢えて色々な人の発信を見てはそれを踏まえて内観していたのですがそうしていたらね!
たとえ、その人がホンモノだったとしても 間違える事はあるし たとえ、その人がニセモノだったとしても真意を伝えてくれてることもある。
という「100%正しい人はいないし 100%間違ってる人はいない」というところに辿り着いたので最近の私は「この人はホンモノかニセモノか?」とジャッジをするのを止めて
「この人は、私にとって必要な事を伝えてくれているか?」いう視点で話を聞くようにしてみたのです。
そうしているとね!変な色メガネがなくなったからか?どんな人が何を喋っていても今の自分にとって大事なことや今の自分が大きく前進することを適切に拾えるようになって👀✨
また少しステージが上がったようなそんな気がしたのです😆💕
そう☝「その人が、ホンモノかニセモノか?」よりも「その情報が、ホンモノかニセモノか?」この視点で見た方が取りこぼしがなくなるような気がしたの。
どんなに周囲の人たちが「この人はホンモノだ」って騒いでいたとしてもその人の発信が
自分の人生にプラスにならなかったらホンモノだろうがニセモノだろうが関係ないんだよね(笑)
例えば『幸せで豊かになる方法』を求めていてもその方法は沢山あるから1つじゃない。
そして、それが正解かどうか?は自分と相性が合うかどうか?
ある人にとっては大正解だったとしても自分にとっては大間違いってこともよくある。
何より大事なのは自分にとっての正解を拾えるようになることそのためにも自分の感覚を磨いていくことの方が何より大事だよねって改めて感じたのですよね😊
ちなみに…
「〇〇はニセモノで 私はホンモノです」って発信している人って男性性が強い人が多い気がしたの。
だから、圧倒的に男性が多いけれども女性の場合は男性性が明らかに強い人が多い
私も、男性性が優位になると、ついそういう思考になりがちなので💦気を付けていきたいなぁとも思っておりますが(^▽^;)
「これからどんどん女性性優位の時代になる」とも言われていますし
多様性を重んじる世の中にもなってきたからこそ‼こういう二元論って古くなっていくんだろうなぁってね☺
・時代に合った
・自分に合った
そんな方法を選んでいけると良いですよね💖
https://ooikomon.blogspot.com/2022/01/blog-post_22.html 【安井浩司「御燈明ここに小川の始まれり」(『自選句抄 友よ』)・・】より
救仁郷由美子「安井浩司『自選句抄 友よ』の句を読む」(5)
御燈明ここに小川の始まれり 浩司
掲句は昭和中期の俳句史に印されている句だ。
神仏に供える「御燈明」だが、この選句抄に夢に仏陀が現れる「夢殿」の句があることから、仏へと供える「御燈明」と考えるのが自然であろう。
ところで、仏陀最後の説法は次のようなものであった。抜粋引用してみよう。
この世で自らを島とし、自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島と して、他のものをよりどころとせずにあれ。
引用にある島と訳された言葉は灯明(とうみょう)とも訳され、仏陀最後の説法は「自灯明(とうみょう)・法灯明(とうみょう)」と言われもする。
東洋的な感覚を呼ぶ「御燈明」の句を思い泛べる度に「自灯明」の言葉が思い泛ぶ。
なおも、「叢林の中でー二十世紀の俳句に寄せて」の安井の一文を思い起こしてみる。
この一文には「二十一世紀の俳句に係わる在りよう」は「”芭蕉以前の俳句”として、俳壇以前の規範の原点、いわゆる己が詩としての一個の俳句作品を書き続ける外ないのである」とある。そして、「往くも帰るもきみ一人である」それ故に「己が俳句を(略)己が個のものとして、俳句の根拠律に挑んで欲しい」、だからこそ、「唯一本の乞食杖だけ」を頼りに、二十一世紀の宇宙」へと「旅立って欲しいのだ」と書き綴られている。
ここに、「自らをよりどころとして、他人をよりどころとせず」の自灯明が「御燈明」となって見えてくる。自らをよりどころとして、創る俳句は「小川」の始まりとなって流れていく。
その上で、掲句の静寂な暖かさに心が包まれていくのだ。山奥の寺、僧堂に灯された「御燈明」の光に、小さな流れは幽かに水音を立てて流れはじめていく。幽玄な世界の句である。
http://www.daikakuji-himeji.jp/sermon/index29-02.html 【~ 第107回 「お釈迦様の遺言」 ~】より
数年前、永観堂に秋篠宮さまがご来訪なさったことがあります。勿論、公務でなく、いわばお忍びのご訪問でした。
京都国立博物館の佐々木館長を案内役として、永観堂所蔵の「仏涅槃図」を見たいというご所望でした。
京都国博に委託されている他の涅槃図4点と、当寺所蔵のものを広間に掛け並べてご覧いただきました。
その時に「宮様は、どうして涅槃図に興味をお持ちなのですか」とお尋ねしたところ、「涅槃図に多くの動物が描かれていて、制作年代や作者によって動物の種類や表情が異なっています。それに興味を惹かれて調べております」というご返事でした。
さすがに幼い頃から動物好きで「なまず殿下」の愛称で親しまれている宮様であるなあ、と感心しました。
ところで、私の好きな俳句に次の作品があります。
泣いて生まれ泣かれて逝くや涅槃雪
作者はわかりません。涅槃雪というのは、釈尊が入滅された旧暦2月15日頃に降る雪のことを言い、冬の終わりに降る雪なので「名残り雪」とも「忘れ雪」ともいいます。
人間はすべて「オギャア!」と泣いて生まれ、家族親族に看取られ泣かれて、この世を去ってゆくのであり、お釈迦さまもまた無常の世を示すために80歳で入滅された。
折から春のなごり雪が降っているよ、という俳句です。
涅槃とは、パーリー語(インド俗語)でニルバーナの音訳です。「生命の燈火が吹き消された状態」をいいます。
ですから仏教徒は釈尊の死を「入滅」とか「入涅槃」というのです。
80歳になられた釈尊が、生まれ故郷のクシナガラで最期を迎えようと、「最後の旅」をされる途中、鍛冶屋の青年チュンダが差し出す供養の食事の中のキノコが原因の食中毒を起こし、沙羅双樹の林の中に横たわり、弟子達に最後の説法をされました。
その時にチュンダが後悔しないようにと気を使い「自分が頂いた供養の食事の中で、最も功徳が大きく嬉しかったのは、悟りを得る直前にスジャータという村の少女の乳粥と、涅槃直前のチュンダの施食である」と告げられたのです。
「自らを島とし、他を拠り所とせず。法を島とし、他を拠り所とすることなかれ」(自燈明・法燈明)。
と説き、「すべての事柄は滅びゆくものである。倦むことなく修行を続けなさい」。これが最後の言葉でした。
Facebook心学の集い ·奥土居 帥心さん投稿記事 【自燈明・法燈明】
人生は体験の連続。その為に肉体がある。体験を『成功と失敗』に分けると、心配と後悔を生み出す。それはやがて『恐れ』となり行動にブレーキをかけ、生ける屍となる。
お釈迦様は、難行苦行において悟りを得ることが出来なかった。難行苦行は失敗の連続、悟りに難行苦行は不要。それは体験を失敗と成功に分けただけの連続性のない人生観。
難行苦行の体験の延長線上に菩提樹の瞑想があり、悟りと言う体験があった。
悟りが成功で難行苦行が失敗ではなく、すべての体験の連続の上に起きたことで成功も失敗も無い。在るのは体験だけ。お釈迦様は遺言として、法燈明・自燈明を残された。
法燈明の法とは『平等』自燈明の自とは『行動』人生は常に一寸先は闇。
その暗闇を平等と言う明かり、行動という明かりで照らして進め。これがお釈迦様の教え。
Facebook奥土居 帥心さん投稿記事·
自然とは自分の想いのままに行動することだ。
しかし、人間は考えれば考えるほど、自分の思いは遠ざかっていく。
脳は常に世間体や常識に合わせようとするからだ。合わせられない時は逆を思考する。
それが嘘だ。嘘や世間体や常識は自分じゃない。例えば、一般論として物欲に対して、
『欲しがってはいけません。』と漠然とそれが善と思い込んでいる。そんな基準は誰が決めたんだろう。無い人は欲しいと思う。それが自然だ。お釈迦様は弟子達に「自燈明」と言う遺言を残した。自分の明かりで進めということだ。
でも、自分の明かりで迷った時は「法燈明」の明かりで進めと言う遺言もある。法とは自然のことだ。自然を見れば進む方向は分かる。
祈りとは念波。念波は電磁波となり、創造主に届けられる。いま、日常回復を祈る。
念波となりその電磁波は神仏に届けられる。しかし、祈りの効果は証明出来ない。
それが祈り。しかし、決して疑ってはならない。必ず祈りは届いている。
観音経に『念念勿生疑』と言う教えがある。念念に疑いを生ずること勿(なか)れ。
念念とは一瞬一瞬、今今いま。証明されないことが祈りが届いている証拠である。
もし、祈りが人の前で効果を見せたら、それは人的なパワーであり、そのパワーに人々は『頼り』『求め』『願う』そして支配が生まれる。人はみんな神仏の分け御霊。
他人に願わず・求めず・頼らず、自分で歩けるとお釈迦様も遺言で残している。
それが『自燈明』自分の明かりを信じて歩め。それでも迷う時がきたなら、『法燈明』
宇宙の真理の明かりを辿れ。
Facebook山地 弘純さん投稿記事
本日2月15日はお釈迦さまがお亡くなりになった日です。
仏教寺院では、この日に「涅槃会」という法要を行い、お釈迦さまの最期のメッセージを読み解きます。
涅槃とは「ニルヴァーナ」の和訳で、吹き消すという意味があるそうです。
それは単に命の灯火が消え、魂の肉体からの解放というだけでなく、煩悩の火が消え、死と再生を繰り返す命(生死輪廻)からの脱却をすることであり、我々の理想とする境地です。
涅槃図をご覧ください。
15日ですから、空には満月が輝いています。ここはクシナガラという辺境の地。
背後に流れる川はネーランジャラー川。
旅の途中であったお釈迦さまは、チュンダという貧しき人が精一杯のおもてなしをした食べ物にあたって命を落とすこととなります。
最期の時、お釈迦さまは中央の台座の上に頭を北に、足を南に寝転んでおられます。
(それで仏教徒はお釈迦さまを慕い、死の際には北枕にするようになりました。)
周りには多くの方々が集まり、お釈迦さまの死の瞬間を嘆き悲しんでおられます。
身分の偉い方も、身分の低い方も、裕福な方も、貧しい方も、さらには動物たちも分け隔てなく一様にその場にいることができました。
空からはお釈迦さまのお母様の摩耶夫人が訪れ、助かるようにと薬を投げました。
しかし薬はお釈迦さまの元には届かず、それがひっかかった沙羅双樹の木の左4本は大きく成長し、花を咲かせます。
(逆に右4本が白く老いた木で、薬のかかった左の4本は青々とした葉をつけたという右左の色の違うものもあります)
寿命にしたがうために、毒だとわかっていても食べ物の施しを喜んでいただいたという説や、わざと薬を受け取らなかったという説もあります。
「チュンダのせいで亡くなるというのは間違いで、チュンダの供養を最期に選んで逝くのである」という経文にあるお釈迦さまの言葉が、自己の選択の尊さ、自分軸で生きることの大切さを教えてくれます。
亡くなるお釈迦さまの体から黄金色の光が滲み出ています。
お釈迦さまが最期に残された言葉があります。
「自燈明法燈明」の教えです。
「自らを灯火としなさい。法を灯火としなさい。他のものを灯火としてはなりません。」と言い残されたのです。
まさに答えは自らの中にあるということですね。
そして法という時代を超えても変わらない普遍の真理と照らし合わせながらいくのです。
他のものに答えを求めるのではなく。
改めて、人生の責任を自分で取ることを教えてくださっています。
それだけではエゴを撒き散らすのみになるため、法燈明と二つの光で進むのでしょう。
そして具体的にはどのような行いを修めるのかというと、身体、感覚、思考、集合意識をしっかりと観察することと説かれています。
なるほど。
素晴らしいメッセージです。
そうすることで、自我という囚われから離れて、真実なる認識の世界へいくことがイメージできます。
#善住寺寺宝の涅槃図
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