トイビト

Facebookトイビト投稿記事  《新年のご挨拶に代えて》

 いまさら何をという感じですが、「トイビト」は「問う人」という意味です。ただしこれは、問う人とそうでない人がいると言いたいわけではありません。夕陽はなぜ赤いのか、鳥はなぜ飛べるのか、人は死んだらどうなるのか、他人の心を知ることはできるか、自分は何のために生きているのか……。物心ついてからこうした問いを一度も抱いたことがないという人は、おそらくいないでしょう。現代人のすべてがホモ・サピエンス(=賢い人)であるのと同じように、われわれはだれもが問う人である。それが、この名前の意図するところです。

 われわれがこのような存在であると教えてくれるのは、やはり子どもたちの姿です。地べたにしゃがみこんでアリの行列を見つめたり、車の窓越しにどこまでもついてくる月を眺める彼・彼女らのなかには、たとえ言葉にはなっていなくても、大きな「?」が浮かんでいることでしょう。しかし、こうした経験やそれをもたらす感性(ありていに言えば好奇心)は、多くの場合、年齢を重ねるごとに漸減していくように思えます。

 生きていくためには社会や組織のしくみを知り、そこで役立つ知識・技術を身につけなければならない。大人になるとはそういうことで、アリだの月だのにいつまでも構っていられないのは当然だ、と言われるかもしれません。しかし、そのように「成長」した大人たちの多くが一様に疲れ、その目から輝きが失われて見えるのは、きっと私だけではないはずです。人が社会で生きていくのは事実ですが、既存のシステムにただ取り込まれ、現状を追認して(問うことを忘れて)日々数字を追いかけることが、本当に、大人になるということなのでしょうか。

 私は、こうした事態の背景には、学問の世界と社会の分断(今やほぼ断絶)があると思っています。研究者でもなんでもない素人が言うのは気が引けますが、学問の本質とは未知のものやことを追い求めるのと同時に、これまで常識とされてきたものに疑いの目を向け、新たな見方や考え方、解釈の可能性を探っていくことだと思います。そこには絶対的な正解もゴールもありません。ある研究は次の研究に(批判的に)引き継がれ、乗り越えられていく定めにあるのです。

 これに対して大多数の人が経験する学問(それを学問と呼ぶのであれば)には、明確な正解がありゴールがあります。受験勉強にせよ、資格や就職のためのものにせよ、そこで求められるのは事前に決められた答えに辿り着くテクニックであり、答えそのものに疑問をさしはさむことではありません。言うなればこれは、「合格」や「内定」という目的と対になった「手段としての学問」です。それが無意味だとは言いませんが、こうした理解があまりにも一般的になった結果、学問そのものが道具だとみなされ、ほとんどの人にとっては学校に行っている間だけやる(やらされる)ものになってしまったのではないかと思うのです。

 では、一般社会に生きる私たちにとって、そうではない学問とはなんでしょうか。私は「生きることとしての学問」を提案したいと思います。何かのためにするのではなく、食事や睡眠と同じように、それ自体が日々の営みのひとつであるような学問を考えてみたいのです。

「学問」という言葉は「問うことを学ぶ」と読めます。これを踏まえるなら、「生きることとしての学問」はわれわれに、日常的に問うことを要請するでしょう。当然それは「正解」を暗記したり、権力者やAIの指示通りに動くよりもはるかにめんどくさい生き方です。「コスパ」も「タイパ」も悪いどころか、そもそも何が得られるのか(得られるのかどうか)さえわかりません。しかし、いえ、だからこそそこには自由があり、自分を世界を変えていく無限の可能性があります。そしてそれこそが、われわれが本来そうである「問う人」の生き方ではないかと思うのです。

 マックス・ヴェーバーは『職業としての学問』のなかでトルストイの言葉を引用し、学問が、「われわれがなにをなすべきかやどう生きるかについてなにごとも答えない」ことを「争う余地のない事実である」と認めています(尾高邦雄訳、岩波文庫、42-43頁)。しかし学問するということ、事象と向き合い、真摯に問い、自らの認識を不断に更新しつづけていくことは、(ヴェーバーが生きた時代と同じく)混迷を極める現代において、われわれが生きていく指針のひとつになりうるのではないでしょうか。

 そんな思い(込み)をもとに、「トイビト」というサイトは運営されています。といってもここは、人生いかに生くべきかを明らめんとする求道の場というわけではありません。学問に興味のある人ならだれでも出入りできる、自由な知の公園です。覚えなければいけない年号や、取るべき単位などはもちろんありません。と同時に、実生活ですぐに役立つ情報(ラクをして稼ぐ方法とか、人に好かれるテクニックとか)が得られることもまずないでしょう(保証します)。それでもよければ、いつでも散歩にいらしてください。この場所からひとつでも多くの問いが生まれることを願っています。

 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 トイビト 加藤哲彦


「トイビト」というサイトを開設して、この10月でまる6年が経ちました。つい昨日はじめたことのようにも思えますが、小学校の入学から卒業までと考えると、それなりの月日が流れたことに気づかされます。

 このサイトを開設する前、私は広告会社のコピーライターをしていました。その際に、一般企業の案件に加えて、大学の広告や学校案内の制作に携わり、さまざまな研究者とお話する機会に恵まれたことが、このサイトの土台になっています。

 トイビトをつくるとき、私はふたつのことを決めました。ひとつはすべての記事を無料で公開すること、もうひとつはサイトに広告を入れないことです。Webメディアの運営では、一部のコンテンツを有料にする(有料会員になったら記事の続きが読める等)か、広告を入れるかして収益化を図るのが普通です。ではなぜそれをしなかったのかというと、これらの方法で仮に収益化に成功したとしても、自分がめざしている状態には近づけないと思ったからです。

 トイビトを立ち上げたのは、アカデミアと一般社会を架橋し、ひとりでも多くの人に「学問(問うことを学ぶ)」の意義と醍醐味を知ってもらうためです。あらかじめ言っておくと、私はまったく学問的な人間ではありません。大学4年間でまじめに通ったのはパチンコ屋と雀荘ですし、「就職したくない」という理由で受けた大学院の試験に寝坊したような人間です(もちろん落ちました)。しかし、皮肉にも社会人になってから垣間見た学術研究の世界は、そんな筋金入りの劣等生を「改心」させるほどに奥深く、魅力的だったのです。こんな世界があったのか、と。

 そのとき感じた面白さをひとことで言うなら、「何が正解なのか、そもそも正解あるのかどうかさえわからない」ということです。教科書の内容を理解することが学問だと思っていた私(大学で本当に何をやっていたんだと言いたくなります)は、多くの先生方がこうした前提で研究されていることに心底びっくりしました。そして、学問の本質は、答えに辿り着くことではなく、問い続けることではないかと気づいたのです。

 しかし、新自由主義が席巻する現代社会において、学問は、「役に立つか否か」もっと言えば「儲かるか否か」で判断されつつあります。一般の人にとっては「いい大学」や「いい会社」に入るための苦行あるいは通過儀礼のように思われているのではないでしょうか。でも、いやだからこそ、そうではない「学問」に触れられる場が必要だと思って、つくったのがトイビトです。そんな場の運営資金を、商品やサービスの対価という形で得るのは違うと思ったのです。

 記事を商品に、サイトを広告媒体にすることは、それらの価値を売上やPV(ページビュー)に還元することに他なりません。しかし、さまざまな研究者の「問い」や「知りたい」という情熱に触れてきた私には、それが正しいことだとは思えませんでした。人気のある分野や「役に立つ」研究しか存続が許されないとしたら、それは主体的に問うことを端緒とする学問の終わりを意味するのではないかと思ったのです。

 そんなこんなでスタートしたトイビトは、幸いにも多くの研究者のご協力と温かい読者に恵まれ、ここまで続けることができています。予想通り(?)資金難に陥り、存続をかけた一昨年のクラウドファンディングでは、300名以上の方から貴重なご支援をいただき、なんとか窮地を脱することができました。資金確保の目処は今もたっておらず、頭の痛い問題です。しかし、学問が市場原理に吞み込まれること、権力の干渉を受けること、アカデミアと一般社会の断絶が進むことの重大性は、それとは比べものになりません。

 状況は深刻で、自分の無力さに打ちひしがれることもしばしばです。それでも、今すべきこと、できることは何かを問い続けながら、一つひとつ、積み重ねていきたいと思っています。「中学生」になったトイビトを、これからもどうぞよろしくお願いいたします。

トイビト 加藤哲彦

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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