https://note.com/rc575/n/ncfecc31f7a26 【ポエジーの発露か、異端の発現か?! ーー小山玄紀『ぼうぶら』(ふらんす堂)を読む】より
RCは句集を買うのが趣味ですが、気に入ったのがあれば、勝手ながらに評をしていきたいと思います。
ふだんは書店の詩歌の棚で気になった句集を買うのですが、今回は出版社のブログで紹介していた記事を読んで、興味を持ち、取り寄せました。
それは小山玄紀『ぼうぶら』(ふらんす堂)です。
取り寄せて読み始めると、不思議な世界が目の前に広がり、今までの句集の読みとは異なる読み方をしている自分に気づきます。
この句集の特徴として、無季の句が多く収載されていることがあります。でも、「ああ、これは無季だな」と気づくまでには一瞬、間があります。同じように、有季であることにも、気付かずにさらりと読んでしまいます。
ふつうは、なぜ無季で句が成立しているのか、と考えてしまいます。でも、この句集に限って、その時間は必要ありません。一句一句立ち止まらずに読み進められます。有季なら、季語が効いているかな、などと考えますが、それもほとんど気にしないでどんどん読み進めます。難解な句も多いのですが、句自体が解釈を求めてきません。つまり、まず体感するのが、この句集の読み方だと思います。
それはなぜかというと、一句一句が詩的必然において完成されていて、高いクオリティをもっているからです。そしてこの句集全体が、一篇の叙事詩のように構築されているからです。ここにあるのはポエジーそのものであり、それをベースに叙事詩として『ぼうぶら』が成立している。そんな感じがするのです。
小山玄紀という若い俳人から、この叙事詩が表出したというエポックは俳句界にとって、密かな事件と言えるかもしれません。なぜ密かかというと、おそらくその重大さに気づいている人はまだ少ないと思われるからです。
しかし、時間が経つうちに、多くの人に見えてくるでしょう。社会事象がささいな出来事から大きく変化していくように、ここに俳句界の転機が訪れたと言えるのかもしれません。
彼のつくり出す世界は、難解といっても近寄り難いものは感じさせず、異端というには有季定型への愛と敬意を感じさせるので、とにかく不思議なものです。ご興味を持たれたら、ぜひお手に取ってみてください。
もう一度ゆっくり目を通して、十句を選んでみました。最後にご紹介して終わります。
【『ぼうぶら』より十句】
鎌倉や歌声のする穴一つ 定かなるもの顔と寒椿
チョコレート砕けて秋の渚かな 呼鈴に繫つてゐる浮寝鳥
青い膜拵へ昼の話せむ CDを旅の鏡としてゐたり
寒卵弦のふるへを遥かにす 他人の夢にも釘打つてゆきにけり
青空を剝しゆきたる姉妹かな 星涼し火口へ親を伴ひて
https://note.com/blue_landscape/n/n177f52d6ef8c?magazine_key=m886fcb199354 【虚の林を歩く(小山玄紀『ぼうぶら』感想)】より
共に群青の同人である小山氏。様々な評にもあるように無季の句を前面に押し出してきた句集を出してきたのは案外だった。
それにしてもこの句集の面白みは幻想世界、とりわけ天上界を思わせる句が多いことにある。
鏡ありさうな竹林冴返る 桜蘂降る戒名と平行に
宮殿に郵便来り蓮の花 雲上にちらかる竹夫人の数
小山玄紀『ぼうぶら』
仏教的な世界の天上界を思わせる句たちだが、リアルな(?)天上界というよりは、ミュージシャンのミュージックビデオに出てきそうな光景たちにも思える。
戒名の句はある種のリリックビデオ的な映像作品としての美しさがあるし、竹夫人の句は天上界という舞台にモノを配置していく美術作品にも見える。
つまり天上界を描くというより、天上界を創造しているに近い。
蒲の花鳥から埃立ちにけり 春水に近づけるだけ近づきぬ
鍵盤の光に気付く客一人 百合鷗さし不覚にも明るい指
小山玄紀『ぼうぶら』
一方でこういう実景を詠んだ句もあるが、印象派的なニュアンスが強い。とりわけ光を感じさせる句が多く、ある意味では前段で触れた世界観に通底しているともいえる。
埃の句などはかなり細かいことを見ているのに、虚実の判然としないことを詠んでいる。春水の句はかなり共感できる。明るい指は、不覚にもがよい。何が不覚なのか全くわからないので。
長い物とんとんとする癖ありぬ
小山玄紀『ぼうぶら』
そんなふわふわした句群の中で、こういう人間味のある句が挟まると安心する。渠も人間界の住人だったのか、と。だが季語はない。この屈折がこの句集らしさだとも思う。
ちなみに句集を戴いて最初に思ったことは「装丁がかっこいい」と「ぼうふらじゃなくてぼうぶらだったんだ」でした。たいへん失礼しました。
https://ameblo.jp/kawaokaameba/entry-12795966083.html 【小山玄紀第一句集『ぼうぶら』、豊里友行第5句集『母よ』】より抜粋
3/27の読売新聞の俳壇歌壇のページの「枝折(しおり)」欄に紹介されていた、小山玄紀さんの第一句集『ぼうぶら』と豊里友行さんの第5句集『母よ』について少し調べてみました。
◎小山玄紀第一句集『ぼうぶら』(ふらんす堂・税込3,300円)
※句集名「ぼうぶら」は、南瓜の別名、語源はポルトガル語「abobora」。
(序は櫂未知子さん)
鎌倉や歌声のする穴一つ
小山玄紀第一句集『ぼうぶら』の巻頭句である。紛れもなく、無季の作品である。これは、第一句集にふんだんに無季の句を入れることを決意した著者の決意にほかならないのではないだろうか。もともとは有季定型を旨としていた著者が、それまでの来し方をほぼ捨てて(あるいは否定して)、無季の領域に堂々と踏み出したことを意味する。(序より)
(跋は佐藤郁良さん)
小山玄紀、この若くて優秀な才能が、今後どのような道筋をたどって大成してゆくのか、私にも全く想像がつかない。彼にとって、『ぼうぶら』は壮大な寄り道になるかもしれな
いし、このままさらに斬新な冒険に突き進むのかもしれない。いずれにせよ、私の中にはいささかの心配もない。彼の才能と俳句への真摯な姿勢は、必ず大きな果実につながると信じられるからだ。(跋より)
(「あとがき」より)
櫂未知子先生、いつも私の味方になってくださり有難う御座います。佐藤郁良先生、私を「群青」の仲間に迎えてくださり有難う御座います。そして私の最初の師である小野あらたさん、自作を記録する習慣のない私に資料を提供くださった田中冬生さん、慶大俳句の大先輩である行方克巳先生他多くの句友に御礼申し上げたいと思います。そしてこの句集は家族への感謝の印であり、そのようなごく個人的な一冊を読んでくださった皆様にもまた感謝致します。私自身の脆さや弱さを恥じずに晒すことが出来たならば、「ぼうぶら」という名前に適った句集になったと、胸を張って言えます。
(収録句より)
★西へ顔動かしてゆく桜かな ★白桃を剝いてゐるなり海の上
★受験生より電話来る渚かな ★いつまでも都の羽根を持つてゐる
★いつも何かうしろめたくて柿の秋 ★竹馬のまま見送りてくれにけり
★手の平当てて手の甲当てて箒草 ★悴みて湖の面は緻密なり
★竜胆を見付けるたびに母老いぬ ★父母に真赤な廊下続きをり
★みんな帰ると都忘になる母よ
【小山玄紀(こやまげんき)】1997年大阪生まれ。「群青」同人。櫂未知子、佐藤郁良に師事。医者。
https://sectpoclit.com/furukawa-6/ 【水の香の方へ 小山玄紀】より
妹の手をとり水の香の方へ 小山玄紀
「ねじまわし」第6号(2023)
馥郁とした「水の香」にふと気づく。誘われているような気がする。でも、ひとりでは行かない。そばにいる妹の手を取り、連れだってその香の源へと向かう。幼時の記憶をたぐるように見えて、浮遊感のあるこの書きぶりには、幻想の世界をたゆたうような、不思議な手触りがある。
季語のない無季の句だが、涼しさを感じる。「水の香」であることは重々承知で、私は「香水」(夏の季語)の人工的なイメージを、ほんの一滴垂らすようにして読んでみたい。そういうふうに読んでも、この句の内包する涼気や透明感、微かな華やぎは損なわれることがないように思う。「妹」「手」「水」「香」というそれぞれの語の意味やイメージがつながったり、お互いを照らし合ったりしながら、さらに「〜をとり〜方へ」という一連の動きが軽やかに、速やかに行われるのも、この句の見どころだ。
「ハイクのミカタ」日曜担当、小山玄紀さんの連作「まはりやまざる」の一句。
第一句集『ぼうぶら』(ふらんす堂 2022年)にも「妹」の句がいくつかある。
日溜を三角にしてゆく妹
妹は異形の枇杷を大事にす
妹は瀧の扉を恣
特に三句目、瀧を扉と見る把握の大胆さ、さらにその扉をほしいままにするという妹。なんとも魅力的だ。しかし掲句の「妹」は、これら三句とは少し趣が異なる。「手」の感触はあるが実存が希薄というか、句中の「水」「香」という語と戯れながら、「水」「香」の語の感触に近づいていく感覚をおぼえる。まさに「水の香の方へ」…。
掲句を含む連作を掲載している「ねじまわし」第6号は、小山さんのほか、山口遼也、渡部有紀子、高久麻里、山岸冬草、膣ギロチン、喪字男、丸田洋渡各氏と同人の生駒大祐、大塚凱両氏の20句連作によるアンソロジー号。同時発売の第5号では「特集 参照性をめぐる」の議論が、質、量ともに圧巻だ
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