https://ameblo.jp/seijihys/entry-12829566417.html 【おくのほそ道をいろいろ考える~芭蕉と良寛】より
芭蕉は「おくのほそ道」越後出雲崎(新潟県出雲崎町)で名吟、荒海や佐渡に横たふ天の川
を得た。「出雲崎」は当時、北国街道有数の賑わいの地。
北前船寄港地であり、なおかつ佐渡金山の荷揚げ港でもあった。
佐渡は当時、世界トップクラスの金山であったから大いににぎわったようだ。
今は閑散としているが、実際に歩いてみると、今も街並みが数キロ続いていることに驚き、かつての栄華を感じさせる。
『おくのほそ道を歩く135~新潟県出雲崎町』
(新潟県出雲崎町) 弥彦から出雲崎までは約30キロ。よく歩いたものだ。着いたのは夕方、そろそろ日が沈もうという時だった。 途中、賑やかな寺泊漁港を抜ける。芭…
ところで「出雲崎」と言えば、なんといっても「良寛」で、ここは「良寛」の故郷であり、ここで庵も結んでいる。
芭蕉は1644~1694年、良寛は1758~1831年。
約100年の差があるので二人に当然接点はない。
良寛は芭蕉のことをどう考えていたんだろうか…。
出雲崎を歩いた時、ふとそんなことを考えたことがある。
良寛は和歌、書の達人として知られているが、辞世に際しては俳句を残している。
有名な、うらを見せおもてを見せてちるもみぢ がそれである。
他に、 世の中は桜の花になりにけり ほろ酔ひのあしもと軽し春の風
散る桜残る桜も散る桜 夏の夜や蚤を数へて明かしけり
鉄鉢に明日の米あり夕涼 手ぬぐひで年をかくすや盆踊
二人して筆をとりあふ秋の宵 焚くほどは風がもて来る落ち葉かな
のつぽりと師走も知らず弥彦山 などがある。
「散る桜…」「焚くほどは…」などは人口に膾炙している。
「のつぽりと…」は個人的に大好きな句だ。
また、芭蕉の〈古池や蛙飛び込む水の音〉を意識した、新池や蛙とび込む音もなし
という戯句(ざれく)も残している。
昨日、紹介した、『奥の細道のクライマックス 越後路の芭蕉ズームイン』
大星哲夫・著、考古堂・刊ではこのような記述がある。
良寛の父・以南が蕉風の俳人であったし、良寛自身も和歌だけでなく俳句を多く残していることや、その昔、故郷の出雲崎で芭蕉が『おくの細道』の途次一泊したことなどから、良寛は芭蕉に対して特別の親しみと尊敬の気持ちを抱いていたと思われる。
そして、良寛には芭蕉を慕った漢詩が残されていることを紹介している。
是翁以前無此翁 是翁以後無此翁 芭蕉翁兮芭蕉翁 使人千古仰此翁
是の翁以前此の翁無く 是の翁以後此の翁無く 芭蕉翁 芭蕉翁
人をして千古此の翁を仰がしむ
今風に訳すと、芭蕉の前に芭蕉なく、芭蕉の後に芭蕉なし。ああ、芭蕉、芭蕉!全ての人が永遠に芭蕉を敬う。となるだろうか。
「大絶賛」と言っていい。
良寛も、私負けないくらい「芭蕉愛」の強い人だとわかると、なんかうれしい。
余談だが、出雲崎は私も大好きな土地。これまで何度か訪れ、
良寛と同じ目をして赤とんぼ あをあをと海に雪降る良寛忌
母の日の義母(はは)に悲しきことを告ぐ 新潟のたんぽぽ海をおぼろにす
という句を作ったのも、良寛記念館のお庭で、僕にとっても大切な地である。
Facebook清水 友邦さん投稿記事
良寛和尚(1758-1831)といえば、かくれんぼや手毬をついたりして、子供達と遊びに興じる姿が、人々の記憶に残っています。
良寛和尚は禅僧でしたが、酒や煙草を好み書と詩歌に没頭する、かなり自由な生活を楽しんでいました。
生まれてこの方、立身出世に興味がなく (生涯懶立身)
天にまかせてあるがままに生きている (騰々任天真)
托鉢の袋に米が三升 (嚢中三升米)
炉辺には一束の薪 (炉辺一束薪)
迷いや悟りなどはどうでもよく (誰問迷悟跡)
名声や利益も塵のようなものだ (何知名利塵)
雨の降る夜の草庵で (夜雨草庵裡)
気ままに脚を伸ばしている (双脚等間伸)
欲がなければ一切が満ち足り (無欲一切足)
求めすぎれば万事がゆきづまる(有求万事窮)
菜っぱだけでも飢えはしのげるし、(淡菜可療飢)
衣一枚でも体は覆える (衲衣聊纏身)
一人鹿と遊び (独往伴鹿)
高らかに歌って子供たちと唱和する (高歌和村童)
岩清水で耳を浄めると(洗耳巌下水)
峰の上の松風がなんとも心地よい(可意嶺上松)
良寛和尚は、老荘をよく読んでいたそうです。
きのう是としたことを(昨日之所是)
今日は非と思う(今日亦復非)
今日是とすることを(今日之所是)
きのうは非としたのかも知れない(安知非昨非)
こうして是非の判定に決めてはなく(是非無定端)
事の得失は予測できないものなのだ(得失難預期)
しかるに愚かな人は片方だけにこだわり(愚者膠其柱)
どこへ行ってもぎくしゃくしてばかり(何適不参差)
智のある者は根源を見て(有智達其源)
ゆったりと過ごす(従容消歳時)
だが智にも愚にも与しない人こそ(智愚両不取)
道(タオ)の人と呼ぶ(始称有道児)
荘子に胡蝶の夢がありますが、良寛和尚はこの現実も夢だと言います。
夜見る夢はみな虚妄にして(夜夢都是妄)
何一つ値打ちはない(無一可持論)
しかしその夢を見ている時は(当其夢中時)
情景はありありと目に浮かぶ(宛兮在目前)
夢を今の現実にあてはめると(以夢推今日)
この現実もおなじようなものだ(今日亦復然)
夜に眠って夢を見ている時、夢だと気が付きません。
朝に目が覚めて初めて夢だったと気がつきます。
日常の生活も夜の眠りと同じく夢を見ているのです。
夢から目を覚ますのが瞑想です。
良寛和尚は、倉敷の円通寺の国仙和尚のもとで16年間、座禅修行に励んだ禅僧でした。
良寛和尚は、草庵でよく瞑想をしていました。
静かな夜に草の庵で(静夜虚窓下)
衣にくるまって座禅を組む (打坐擁衲衣)
へそは鼻孔と向かい合い (臍与鼻孔対)
耳は肩に垂れる (耳当肩頭垂)
窓が明るくなって月が出た(窓白月初出)
雨が止んで滴が残った(雨歇滴猶滋)
今の心境は (可怜此時意)
ひっそりと ただ自ら知るのみ(寥々只自知)
自分のこころを見るように、良寛和尚は提案しています。
虚妄と言えば一切は虚妄(道妄一切妄)
真実というならば一切は真実(道真一切真)
真実のほかに更に虚妄があるのではなく(真外更無妄)
虚妄のほかに更に真実があるのではない(妄外別無真)
しかるにどうして修行者たちは(如何修道子)
ひたすら真実ばかりを追求したがるのか(只管要覓真)
ひとつ試みに、求めようとするその心を観察してはどうか(試看覓底心)
その心は虚妄なのか、真実なのか(是妄将是真)
すべての出来事は現れては消える実体のないものです。
そのことに気がついている心は虚妄か真実か確認する必要があります。
良寛和尚は晩年の二十数年間を五合庵(新潟県燕市国上寺)で暮らしていました。
当時の五合庵は、村人が雨漏りの心配をするくらい古く、土と木と萱と藁の家で、畳6帖くらいの土間にムシロ敷きの床だったと言われています。
良寛和尚は、夜中に寒くて目が覚め、そのまま寝れずにおきていることもあったようです。
良寛和尚は、山から里に降りて一軒ずつ托鉢で回って、米や麦の喜捨で暮らしていました。
町での乞食を終えて(城中乞食罷)
てくてくと頭陀袋を下げて帰る(得得擁嚢帰)
帰り道は何処かは知らない(帰来知何処)
家は白雲のたなびくあたり(家在白雲陲)
時には托鉢しても、村人につっけんどんに追い払われて、何ももらえなかった事もあったようです。
晴れ渡った空に雁が鳴いて飛んでいく(青天寒雁鳴)
空になった山に木の葉が飛ぶ(空山木葉飛)
かすみ漂う日暮れの村の道(日暮烟村路)
托鉢の空の器を手にかかえて一人草庵に帰る(独掲空盂帰)
良寛和尚は、自分のことをこんな詩にしてます。
おんぼろのうえにおんぼろ(襤褸又襤褸 )
おんぼろが私の生き方だ(襤褸是れ生涯)
食い物はやっと乞食でもらい(食は裁かに路辺に取り)
家は草が生え放題(家は実に蒿萊に委ぬ)
月を見ながら詩をうそぶき(月を看て終夜嘯き)
花に酔いしれて帰ろうとしない(花に迷うて言に帰らず)
修行の寺から一度出て以来(一たび保社を出でて自り)
こんな痴呆者になってしまった(錯って個の駑駘と為る)
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