https://sengohaiku.blogspot.com/2013/01/blog-post_8780.html 【戦後俳句とは いかなる時空だったのか?/堀本 吟】より
(1) 《俳句史的視点の入り口》 磐井への手紙
筑紫磐井さま。予定ではつぎのようなベクトルを持って進めようと思っています。
①和田悟朗の現在的位置。(後述)
② 戦後俳句の、敗戦直後の新人であった、津田清子の主宰誌の終刊に触れて、蛇笏賞の句集『無方』以後から終刊までの、句と比較検討すること。(このためには、「天狼」初期の再読が必要になりますけれど。)
津田清子は、みるところ、「天狼」の系譜の中ではかなり特異な存在です。津田清子の「圭」が8月号で終刊したこと。理由は、「体力の限界」、ということで、あっさりした終刊の辞です。清子現在93歳。山口誓子、25歳から橋本多佳子の指導下に育ち「天狼」直系の女流。多佳子の死後、「沙羅」「圭」を主宰し、92歳まで続けました。文字通り戦後の俳句の営為がひとつの終わりをきたしたのです。彼女の天性のカリスマ性によって、俳壇のアイドル化されてきましたが、橋本多佳子、桂信子、三橋鷹女の後を襲いながら、彼女個人の個性は、いわゆる母性や女性性を表に出さないで女流俳句の強さをみせた人です。そのことは、どこかの場で言っておきたいのです。奈良の地で初期「天狼」の建設精神の根源俳句を全うしてきたこの地味な女性の単独者の風貌は、戦後俳句の一隅に生き続ける、いや、私がそのように位置づけたい、と思っています。
③「京大俳句」(戦前の)にあらわれた戦後的モチーフ、および同誌に投稿された「戦争俳句」の研究は、注目すべきです。
「京大俳句」読む会は、大阪俳句史研究会の分会ですが、これのみを独立したテーマに掲げ、読書会がおこなわれています。昭和15年の京大俳句事件(俳句弾圧事件)まで、この大学同人誌が包んでいるテーマやモチーフは、戦後にひきつがれる要素が散見します。また、新興俳句の理論付がそうとう公式的唯物論なのですが、しかし、その自らの理論の粗い網をくぐり抜ける、彼らの直感は正しいのです。戦争や国家の弾圧自体も無効にして戦後に直結するモダニティがあります。代表の西田元次氏の悲願である戦争俳句の研究についても、この世代の後世へのメッセージとして、受け止めておきたいものです。
④ 昨年9月8日 「攝津幸彦再読」のシンポジウムを神戸文学館で催しました。
攝津幸彦の母校にあったチャペルが神戸文学館となり、そこで攝津を語ったことは、大きな意味を持ちました。神戸市民の自主的な文化活動のにひとつであるから、企画は大橋愛由等(生粋の神戸っ子)が中心。内容からして、関西の豈の俳句側の同人が協力しコンセプトの大枠を作り、チャンスを捉えての動きが必要だったので、おおかた大橋氏と堀本が即断で進めてしまいました。しかし、参加者は、近在の「北の句会」メンバーや「京大俳句読む会」の友人。詩や自由律俳句、短歌、川柳真摯な多様な関心のもとで実現したものです。
このシンポジウムで中村安伸(実家が奈良、住居は東京)が、私が使った「1970-80年代俳句ニューウエーブ」という言い方について、中村、堀本との認識のズレがあることをいいました。彼に言わせると、自分は、小林恭二の『俳句という遊びー句会の醍醐味』1991岩波新書)によってカルチャーショックを受けたというのです。
(参照。中村安伸《俳句のニューウエーブとはなにか》。詩客ー「俳句時評」六十九回。2012年10月4日投稿)
この反論は貴重であり、こういうことを、話し合わねば、戦後俳句の初期と平成にまたがる戦後世代の戦後間のズレは埋まらないように思われます。埋まらなくともいいが、お互いこうだったんだという自己認識が深まりません。もちろん、いろんな不備やツッコミの限界があった。その反省も含めて、いま攝津津幸彦を読むことの必要を改めてかんじました。このことは、紙媒体の方の豈と連動して、私の立場から詳しく総括するつもりです。
(2) 《戦後の危機感と開放感》 和田悟朗の「地球」の句
2012年、私にとっては、転換や節目をおしえられる動きが生じた。 磐井氏にメールを出した項目の①に挙げた俳人がいる。
和田悟朗は1923年生まれ。現在九十歳になんなんとしてをり、昨年3月、東北の災害の直後、第十句集『風車』を刊行した。(2012年3月刊行・角川書店)。生駒市発信の新しい同人誌「風来」は三年目にはいる。ちなみに、私はその「風来」に創刊以来参加している。
和田は、日常的小景よりは包括的な深遠な大景の書ける俳人である。兜太や橋閒石や赤尾兜子、はたまた高柳重信等に先導され刺激され拮抗しながら、あの知的に見えてとりとめないところもある作家像を短い十七字の世界に立たせている。そういう俳句を和田悟朗は作ってきたのである。
「地球」「宇宙」「時間」「光束」など、観念操作のいる用語は悟朗の独壇場ともいえる目新しい使い方だった。その「宇宙」や「時間」や「地球」や「津波」という言葉のほうがいまや日常的に目に見えるほど、自然災害がめだっている。
台風や地球の水を繰り返し 和田悟朗 『風車』
大地球小地球など柘榴裂け 同
あらためて、丸い球の表面に海や川があり風の動き方次第で波がたったり河があふれたりするその水の循環が「台風」というのだ、と自然の法則を教えられるうちに、循環論法のようなとりとめない思索の回路にはまってしまう。
「地球」と「裂けた柘榴」の配合・・、これは、日常のちょっとした思いつきなのかもしれないが、一転して銀河系のどっかから見下ろされている視線も思わせる。なんの社会的な言辞も書かれていなのに社会性をおび、一層のリアリティをもっている。和田悟朗にしてみればこれは今に始まった手法ではない。
俳人は老いて九十歳になったいま、戦後のテーマを包括的にあらわす場所に追い込まれてきたのだといえる。
春鹿に光束蒼し開眼日 和田悟朗『風車』
「春鹿」は春になって、全身の毛が抜けて惨めっぽくなっている鹿。「光束」は単位時間に伝般される放射エネルギーを光の量を、視感度で測ったもの。「開眼日」は、この季節に使われるならば、天平勝宝4年4月9日(新暦752年5月26日)の東大寺の毘盧遮那仏(奈良の大仏)の開眼供養が有名。新仏に目を入れる供養は一般的な宗教行事である。
「春鹿」「光束」「開眼」。この、活きる世界のちがう三つの語彙の組み合わせは。読む方をいささか当惑させる。これは何を真意とするのであろうか?
私は、あえて「光束」は燦々と春の日が降ってくる、ととり、「開眼日」は、奈良の大仏さんの聖武天皇が主催したあの「開眼日」というありがたいおめでたい日に決めた。みすぼらしい春の鹿が春の光を浴びている。おりから、大仏さんの開眼日、鹿は、慈悲の光を浴びて、「春」という言葉の言霊の使いのように、みすぼらしさではなく生命の勢いを取り戻す。今日はとりわけこの光が蒼く見える、というのがまた心憎い。「蒼し」はかなりモダンな色目であるが、蒼い光の束を人も鹿も浴びて美しい。しかし、大仏が目を開けるとともにこの世にみちる光のことを「光束」と言うそのことで、宇宙のはてにある光源に置き直される。身近な電球の明かるさのことや、奈良の観光名物の大仏さんの由来を知ることは、今の現象ををもう一度そのルーツに帰らせ、あわせて、現代科学というものが宗教の発生とむすびつくのもむべなるかな、とこういう感慨をもたらす。
和田悟朗は、科学者でもあるゆえにか、大きな概念世界を掲げながら、しかし、身の回りのちいさなことどもにかかわる自分を忘れない。その姿勢を一貫するとは、傍目に見るほど簡単なことではないはずだが、つねにメビウスの環の還流の道筋をたどっている。
ここに例示したように。「戦後俳句」といっても幅が広く方法も多元的なひりがりをもっているのである。
https://sengohaiku.blogspot.com/2013/05/tsudakiyoko0531.html 【戦後俳句とはいかなる時空だったのか?【テーマ―書き留める、ということ】/堀本 吟】より
【十五】津田清子の発見-秋元不死男の《古さと短さ》、また―句集『瘤』のことなど。
1)
先回、天狼第三周年記念の秋元不死男の講演を紹介した。
引き続き、平畑靜塔、永田耕衣、西東三鬼らの説の解説を続けながら、《遠星集》の津田清子の句や山口誓子の《選後獨斷》をみてゆくつもりだが、実はこの読破の途中にひとつの課題が湧いてきた。初期「天狼」を席巻したこの「根源俳句論争」なるものは、一体なんだろう、という疑問である。戦後俳句を見る上ではこの有名な論争を看過できない。赤城さかえ『戦後俳句論争史』(一九六八年・俳句研究社)にもこの詳細な研究があることは承知だが、自分の目で幾分なりともその論議が立ち上がる頃の臨場的気分を得たくなった。それで、その成り行きをしらべてみたくなった。ただし、それには別の項目を立てなければならない。
昭和二十六年十月の彼らの講演は、既に天狼内では出てきている各氏の根源論の中間総括やおさらいみたいなものである。秋元不死男に触れてもうすこしそのことを書いておきたい。
2)
例えば、秋元不死男の《古さと短さ》という講演内容は、じつは「天狼」第三巻第十一號
(昭和二十五年十一月号)の《俳句の前途》というエッセイのそこに直接触れてくる問題意識だ。
秋元は、明治二十五年に書かれた正岡子規の『獺祭書屋俳話』の《俳句の前途》という小文についての感想を述べながら、俳句の短さ(子規に言わせれば「区劃の狭隘」)についての反省をしている。この「区劃の狭隘」たることによって、「俳句は已に盡きたり」と子規はいう。少なくとも、明治時代が終わるまでに俳句は滅ぶのだ、という。これは有名な文章で、筆者も一度ならず読んだことである、おおむね筆者はこの言葉を一種の反語として受け止めていた。現実がそう動いていないが、滅びの兆候は多々感じられるからだ。秋元もそのように受けているが、彼は、正岡子規が俳句に対して幾分冷ややかに書いていることにも触れてもっと踏み込んでゆき、そこからあるべき俳句の姿を浮き上がらせようとしている。
見やうによれば、これは第二藝術論のはしりであつた。しかし、文學(散文)と詩の本質を混同しつつ、俳人の文學的責任に於て、俳句の衰弱を診斷してゐない桑原説とは大いに異る。子規の場合は―これは彼れ自ら説明していないけれど、―文學と詩(ここでは小説と俳句)の本質的な区別といふものを、小説家になるを欲せずといふ決意によつて知り、更に重要なことは表現を通して知り、又、俳句の終末近きことを「罪其人に在りとは言へ」、と一應俳人の文學的責任に問題の場を残してゐることなどによつても察知されるのである。
秋元不死男《俳句の前途》「天狼」第三巻第十一號)
と、桑原の大雑把な俳句への理解を批判しながら、批評や小説のように膨大な言葉や、センテンスや材料を駆使できる散文世界に対して、たった十七文字で何が言えるか、という現代につづく俳句の大テーマを改めて、持ち出す。
敗戦後の日本文学では、戦争協力をめぐって文学者の戦争責任が追求されており、その戦後的な特殊性に照らしてみると、子規を持ち出すのはかなり我田引水という気もしないではないが、「天狼」創刊の目的の一つに、桑原武夫の《「第二芸術」論》への反駁、自衛という目的があったのはそのとおりである、とともに、正岡子規を読みながら、明治の自然主義小説流行の中で正岡子規が「俳句の短さ」という欠点を深刻に受け止めていた、という事実の指摘は鋭い。「第二藝術論のはしり」とはよう言い得たものである。
「十七音といふ限られた狹まい世界のありやうを眞に知るのでなければ、それを知ることによつて、俳句が自らの生き得る力を知ることにならなければ、俳句の命運は盡きるのだ、と(註・子規は)云つたのである。」さらに、「それは、文學俳句を含めた多くの観念俳句に対する警告でもあつた」(秋元不死男、同文中)と結ぶ。「文學俳句」というのは中村草田男に対する批判であるのだが、小説という世界に対抗して、俳句で小説や物語世界を書くようなことは、無効であることを言っている。まあ、そのへんは草田男の詩的感覚やイデアリズムの方法がもっと検討されねばならないが、ともかく戦時下の弾圧をくぐってきた秋元不死男は、戦後表現の自由が認められ、弾圧する敵がいなくなったその時に、改めて自分がひきうけた詩型の短さを痛感している。且つ新興俳句が追求した新しさの内実を、伝統意識の不在ないしは貧弱さとして反省しているのである。秋元に限らす、天狼では子規、茂吉への関心や研究がしきりに行われている。
この「根源探求の俳句」という議論が、俳句史上の成果があったとかなかったとかは、もちろん問題ではあるが、「天狼」の創刊時から昭和二十九年、三十年頃まで、このカテゴリーのもとに、俳句の特性について、盛んに語られているということは、ジャンルの内側にかかる切実な反省があったからでもある。戦前戦時下の新興俳句の挫折は、この短い古い詩形を引き受ける表現者としての姿勢を問う作業を自らに強いることとなった。
秋元不死男句集『瘤』が刊行され、「天狼」第三巻第七號(昭和二十五年七月號)には、その書評が載っている。(鈴木重喜《二人居るオヤジ》)。十二月號には平畑靜塔《”瘤 ”の切り株》、という書評がみかけられる。いずれも力作である。これらが現在においても重要な文章であると思えるのは、戦前、戦時下(「土上」「京大俳句」)から投獄を経て、戦後(「天狼」「氷海」)昭和二十六年の時期までの、作家自身の多彩な才能とか、境涯の熾烈さは一応別にして、表現上の転機について関心が集約されている。昭和十五年以前は積極的に連作や無季俳句を推進していた秋元が、戦後「天狼」の大会で、俳句が宿命として傳統をになった短い詩であるこことを、納得するべきだ、と強調するに至る。
「街」「木靴」に於て、それが東京三の本道であるかの如き連作俳句の一連が、この句集には跡形もなく消えて、昭和十五年以来、「無季俳句」を揚棄し、「俳句の場」を強調し、自由律俳句を排除してきたオヤジの戦後作品には、その「場」に執着する余り、人間を祕めては只管俳句的骨格の可能性を実践してゐるような句が多くあつたのは否めない事実である。
(鈴木重喜《二人居るオヤジ―句集「瘤」について―)(天狼第四巻七號)
3)
平畑靜塔は、秋元不死男句集「瘤」については,衆人の評価する「獄中俳句」より「極外俳句」に惹かれる、という。秋元に「天狼」の「根源俳句精神」の無いことが欠点であるし、肉体性や暗黒性がなく、知的すぎる、とかまあ友情に満ちた辛口批評の最後に、しかし靜塔がいうには、誰もが云ふやうに、「瘤」の前書句の心にくさである。
たまたま親を難ずることのあれば
父ゆ受けし一羅さへなし蚤の跡
「天狼に加はる」
師を持つや冬まで落ちぬ柘榴の実
これらの前書句は、現代俳句では一寸類のない完全俳句であらう。「瘤」成熟度は前書句によると云つても過言ではない程、成熟そのものである。/(略)。
(堀本註、本文三句中一句省略。また実際の表記では文の行頭や、句の引用の場合は一字下げ。)
更に、靜塔はこれは不死男の成長ではなく、「傳統への解消だといわれても成長は成長だ」、と変わったほめ方をする。虚子の前書句の巧さと比べてみると、「進歩のない成熟であるか否かがはっきりするだらう/(略)/新興俳句がこゝまで成長したと云ふことを示すひとつのいい例が「瘤」の前書句によつて示されてゐる。
(平畑靜塔《瘤の切株》「天狼」第四巻第十二號)
要するに、この句は、秋元不死男個人の才能ということではなく、傳統の形式の力が書かせたものだ、というのである。この指摘は、少なくとも戦前の「京大俳句」史上の句集評にはでてこなかった視点である。単純に先祖返りであったり、転向であるとは言えない、相当深刻な反省が、誓子にも靜塔にも不死男にもあったと考えられる。しかも、ホトトギス虚子流ではない伝統回帰、それを求めていたのである。
秋元不死男については、ここはこれで一應終わるが、問題はやはり「根源論」の諸相をもっと正しく理解すべきであるということだ。とくに秋元不死男は、堀内小花の一元俳句とか、や永田耕衣のような「東洋的無」というような求心的な観念論には入り込まない、即主義の人だから、俳句の方向は西東三鬼に近い。「根源」という理解もさまざまなのである。(この稿了)
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