https://yamato-uta.hatenablog.jp/entry/2016/12/18/Japanese 【冬の和歌 わたしは泣いているのでしょうか ― 恋もせず物もおもはぬ袖のうへに涙をながすはつしぐれかな】より
冬歌(Winter)
恋もせず物もおもはぬ袖のうへに涙をながすはつしぐれかな
(拾玉集・詠百首和歌当座百首・冬・時雨・1443)
現代語訳
恋をしているわけでもない、悩み事があるわけでもない私の袖の上に、涙と(みまごうばかりに)ふりそそぐ初時雨であるよ。
内容解説
しぐれ。晩秋から初冬へ、一気に季節を塗り替えてゆく冷たい雨です。
つらい恋をしているわけでもない、苦しい悩みを抱えているわけでもない、泣く必要など心のどこを探してもないはずのわたしが時雨の空を見つめて、その時雨がまるで涙のように袖を濡らしている。なぜ涙に見えるのか、自分でもわからないのです。
華やかに寂しい秋がすぎて一面の冬枯れだからかもしれません。身にしみとおるような寒さゆえかもしれません。この一年が終わってしまう寂しさとも考えられます。本人に特に心当たりがないというのですから、こちらで理由を推測するのは難しいでしょう。時雨に濡れた袖がふと涙のように見えて、あれ、どうしてだろう。そんな思いが自分の中にあるのかと心のうちを見つめ直しても、何も思い当たらないのだけれど。
Facebok田中 宏明さん投稿記事
生きるために 学んだたくさんのreason 目の前の君は ただ君のままで よかったはずなのに いつからか 僕らは自分でいるための 理由を探しはじめた
笑って生きている だけでは足りないと 悲しくて泣いている だけではいけないと
もっと意味と価値のある Style で生きることが 幸せに続く道だと 歯をくいしばって
keep going
でも 君の笑顔を見ると 思い出すんだ 生きることに 理由はいらないって
特別な何かになる 必要などないって それだけで Heartは安らぎで満ちてくる
no reason 生きることに理由はいらない no border 僕たちに境界線はない
no future ただありのままに 今を生きよう 自分を守るために つけたたくさんのmask
でも気がつけば 本当の顔まで見失っていた
誰かのため 社会のために 生きなさいと 世界は自分を忘れた 人たちの声で溢れていた
でも 君の笑顔を見ると 思い出すんだ 自分を生きること の素晴らしさを
自分を愛している人だけが 本当に人を愛せることを
それだけで Heartは優しさで満たされていく no reason 生きることに理由はいらない
no border 僕たちに境界線はない no future ただありのままに 今を生きよう
イェイ✨🌈😆 らぶ💓
https://yahantei.blogspot.com/2006/01/ 【尾崎放哉探索】より抜粋
平畑静塔氏の「不実物語」(『俳人格』所収「朝顔の臨書」)に次のような定型論に関する示唆に富んだ記述がある。
「俳人は、歌手であって作曲家ではないと思う。曲譜はもはや定まり切った十七字型という万人共通のものしか与えられていない。その曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすかに俳人の仕事がかかっているのである。」
この「曲譜はもはや定まり切った十七型」ということは、ずばり、「俳句の本態というのは定まり切った十七字型」という、この「十七字型の詩型」こそ「俳句の本態」なのだということではなかろうか。すると、「十七字型ではない自由律俳句」をどのように解すべきなのか。この自由律俳句というのは、「定型律俳句」を実態とすると、その実態の影のようなもので、常に、その実態との関係で見え隠れするという理解である(そもそも、定型律俳句が前提となって、それとの関係で自由律俳句というものは誕生しているということを理解すれば足りる)。このことからすると、自由律俳句は、長い長律(長い影)と短い短律(短い影)とがあることは当然のこととなる。
上記の放哉の掲出句では、極端な長律も、極端な短律も見られず、丁度。連句の「長句」
(五七五)と短句(七七)の辺りをうろうろしているという雰囲気である。
○ こんなよい 月を一人で 見て寝る (五・七・五)
○ 尻からげして 葱ぬいている (七・七)
ここでも、「五七五」の「定型」と「七七」の「定型」の魔力のようなものを感じる。
(その四)
小浜常高寺時代 大正十五年四月 ~ 大正十四年七月
須磨寺を出た放哉は再び一燈園に舞い戻っていたが、縁有って福井県小浜常高寺の寺男になる。この寺は破産状態で末寺から排斥されていた住職は居候同然の身分であった。当然ここにも長居の出来なかった放哉はわずか二ヶ月あまりで京都に舞い戻るのである。大正十二年の関東大震災以後京都東山に寓居していた荻原井泉水の所に身を寄せた放哉は、かねて一燈園の同人を頼って遠く台湾に行くことを決意していた。しかし井泉水に堅く静止された放哉はもはや海の見える所で死にたいと願うばかりなのである。
彼の願いに井泉水はかって遍路巡礼をしたことのある小豆島にいる「層雲」同人井上一二に適当な庵を探すことを依頼する。(「尾崎放哉記念館」記事)
小浜常高寺時代の作品
背を汽車通る草ひく顔をあげず 時計が動いている寺の荒れている
田舎の小さな新聞をすぐに読んでしまった 浪音淋しく三味やめさせている
遠くへ返事して浅野味噌を擂っている 豆を煮つめる自分の一日だった
とかげの美しい色がある廃庭 母のない児の父であったよ
淋しいからだから爪がのび出す 一本のからかさを貸してしまった
小芋ころころはかりをよくしてくれる 蛙たくさんなかせ灯を消して寝る
釘箱の釘がみんな曲っている お寺の灯遠くて淋しがられる
かぎりなく蟻が出てくる穴の音なく 一人分の米白々と洗ひあげたる
頭をそって帰る青梅たくさん落ちてる たまらなく笑いこける若い声よ
山寺灯されて見て通る 昼寝の足のうらが見えている訪なう
打ち水落ちつく馬の長い顔だ (「尾崎放哉記念館」収載句)
再び、平畑静塔氏の定型論を見ていくと、
「俳句の定型を誰が一番初めに創造したのかこれは不詳である。何百年か何千年の昔
から続いていることは確かで、その後何億の人間が、それを真似して唄って今日まで続けているのだ。誰もその定型をこわして別に独創の曲譜を完成した人はないではないか」(平畑・前掲書)と続く。
まさに、同感である。尾崎放哉も、はたまた、種田山頭火も、その師の、荻原井泉水も、「自由律」という独創の曲譜を夢見てそれに挑んだのであろうが、その定型は微動だにするものではなかった。しかし、彼等の血みどろの所業は、その定型律という本態に、影があるということを明瞭にした。そして、振り返って、彼等の所業というのは、
その影の世界を執拗に追い求めたに過ぎないということを、上記の作品群が語っているように想われる。かく解すると、上記の作品群の、放哉の佳句とされている次の作品が、何と「痛々しく」見てとれることか。まさに、誇大妄想にとりつかれたドンキホーテのようにも思われてくるのである。
○ 淋しいからだから爪がのび出す
(その五)小豆島・南郷庵時代 大正十四年八月 ~ 大正十五年四月
小豆島・南郷庵時代
日本人は放浪の詩人が好きである。ふと夢を枯れ野に駆け巡らしているかのようである。ここに改めて一人の放浪の俳人を紹介したい。ここ小豆島が易簀の地となった尾崎放哉である。
大正時代に自由律の俳句雑誌が創刊された。荻原井泉水主催の「層雲」である。そして層雲から自由なる心の叫びを詠じた二人の俳人が輩出した。一人は種田山頭火であり、もう一人は尾崎放哉である。彼ら二人が在所定まらぬ放浪の身であったことは決して偶然とは思えない。しかし二人の間でその放浪のもつ意味は大いに違っている。山頭火は自ら求めて行乞放浪をし、放哉は傷ついた獣が安住の場所を求めるように各所を漂ったのである。そして最後の安住の地が、ここ小豆島第五十八番札所西光寺奥の院「南郷庵 みなんごあん」だったというわけである。
これでもう外に動かないでも死なれる 放哉
小豆島にはもう一つ二十四の瞳館という文学記念館がある。勿論、壷井栄の文学館である。栄の名作「二十四の瞳」は昭和三十年に映画化され大ヒット、この島を一躍全国的に有名にした。栄と夫であり詩人の壷井繁治、またプロレタリア文学作家の黒島伝二ら、小豆島から輩出した三人の文学者達は、山頭火、放哉と同時代の人達である。
彼ら三人は島の西部、内海地区の出身である。壷井繁治はしばしば人から、同時期に三人もの作家が、この狭い地域から輩出した何か特別の文学的伝統でもあるのか、と質問されることがあったらしい。繁治は後に「わたしと小豆島」と題するエッセイで次のように書いている。 「ここに特別の理由や背景なぞないだろう。もしあるとすれば、思い当たることは、時代の波というものではなかったのか、激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う。所詮郷土というものは若者をいれるにはあまりにも小さな容器であり、小豆島もその例外ではなかった」と。
もしそうだとすれば時代の波が、この小さな島の青年達を大きな広い世界に押し出し、放哉をこの島のごく小さな世界に押し込めたのではなかったのか。壷井繁治が言うように、この島には文学的伝統も背景もない。しかし文化の匂いのする伝統は宗教的な所に確実に存在する。八十八箇所巡礼、お遍路さんの島である。
折しも大正末期の激動の時代、アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。
放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った。そのとき小豆島に来島「層雲」同人井上一二、西光寺住職杉本宥玄「玄々子」らと共に八十八箇所巡礼を行う。その仏縁から放哉は来島、井上杉本両人の世話を受けつつ、「南郷庵」でその生を終えたのは決して偶然の出来事ではない。 (「尾崎放哉記念館」記事)
上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、太字にした個所に注目していただきたい。プロレタリア詩人の坪井繁治の、「激動の時代、旧社会に反抗する青年達がその時代の波涛に乗って、この狭く小さな島から文学の広大な世界に飛び出して行ったのだと思う」の、この指摘は、いわゆる、当時の社会的風潮の「大正デモクラシー」の繁治流の表現なのであろう。この「大正デモクラシー」の波が、当時の全国津々浦々に蔓延していて、こと、俳句の世界においても、この激動の波に乗り、伝統的な「定型律俳句」に反旗を翻したのが、荻原井泉水らの「自由律俳句」ということになろうか。また、それは、「定型律俳句」そのもの世界においても、日野草城や平畑静塔らの「新興俳句」の誕生ということで、内部崩壊の現象も呈していたのであった。さらに、上記の「尾崎放哉記念館」の記事のうち、「アイデンティティを見失おうとした人達のある部分は、それを宗教の世界に求めていった。放哉や井泉水がそれである。 放哉は一燈園で托鉢修行に身を投じたが、荻原井泉水は、関東大震災直後家族を相次いで失い、傷心の身の癒しを宗教に求めて行った」との指摘は、井泉水や放哉の置かれた環境を端的に物語るものであろう。この個人的な境涯性と、そして、その当時の社会的風朝の「大正デモクラシー」こそ、「自由律俳句」の誕生の要因であったということは、井泉水や放哉、そして、山頭火のそれを理解することにおいて必須のことであろう。
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