http://nonsyaran1223.blog.jp/archives/84291.html 【胡桃割る聖書の万の字をとざし 平畑静塔】より
「胡桃」と「聖書」の珍しい取り合わせ。聖書を閉じることを「万の字をとざし」と言い換えている。この「言い換え」が、詩であり、俳句である。胡桃を割ることと聖書を閉じることに、必然や因果関係はない。偶々時系列の前後がそうだったに過ぎない。それをそのまま述べているだけなのに、両者に人知では測れない必然があるかのような、妙な錯覚が起きる。聖書の言葉も、預言や寓話や象徴に満ちていて、その深い意味は、容易には理解できないようになっている。胡桃のぎっしり詰まった滋味も、殻を割るという一手間を加えないと、その恵には到達できないのだ。平畑静塔(1905-1997)には他に/狂ひても母乳は白し蜂光る/雪片と耶蘇名ルカとを身に着けし/川ゆたか美女を落第せしめむか/もう何もするなと死出の薔薇持たす/春昼や腑分けして来したゞの顔/黄落や或る悲しみの受話器置く/稲を刈る夜はしらたまの女体にて/など。
硬い殻を破るには 聖書のメッセージを閉ざす必要があったのではないでしょうか?
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1646 【愛は赦しであり、赦しは平和であり、平和とは沈黙である】より
キリスト教とは何か~愛と赦しといのち(5)「赦す」とはどういうことか
竹内修一竹内修一上智大学神学部教授
情報・テキスト
磔刑図(アンドレア・マンテーニャ画、1459年)
愛とは何か。それは「赦し」である。しかし上智大学神学部教授・竹内修一氏は、この「赦し」は「水に流す」ことではないと強調する。さらに愛とは、「平和」であり「沈黙」であるとも言われる。キリスト教の愛は、さまざまな言葉で言い換えられながら、その本質を露わにしていく。(全6話中第5話)
●愛とは他人を「赦す」ことだ
キリスト教の語る愛については、他のところにもいろいろありますので、もう1点だけ紹介します。「コロサイ人への手紙」というものがあります。「コロサイ人への手紙」3章12節からの引用です。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。キリストの言葉があなたがたのうちに豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」。
「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」。まず愛されているから、このようなことを身に着けることができると語ります。つまり、愛が原点になっているということですね。そして、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」。互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、と言いますから、なければ当たり前です。仮にそういうことがあったとしても、例えば相手が間違っていて自分が正しかったとしても、相手を赦しなさい。こういう言葉が、ここでスッと書かれます。
少なくとも、このコロサイの箇所では、愛の意味内容は「赦す」という言葉に置き換えられていると思います。ただ注意しなければいけないのは、聖書における「赦し」という言葉は、「水に流す」とは全く違うということです。たとえ良いことであっても悪いことであっても、私たちが何か具体的な行為をした場合、その行為を消すことはできません。もし間違ったことをしたとするならば、そのときにはやはり謝罪や反省が必要だろうと思います。そして、自分がきちんと反省して、過ちを認めてそれを告げたその後で、相手が赦してくれるとするならば、私たちがするべきことはその償いだろうと思います。ですから「赦し」と言っても、決して水に流していいことではないと思います。人を傷つけた時に、それを水に流すのは、やはり良くないことでしょう。
●キリストの愛は「平和」につながる
聖書は、「これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。なぜならば愛は、すべてを完成させるきずなだ」と語ります。「キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです」。ここでの愛という言葉は、「赦し」という言葉に置き換えられ、そして「愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずな」だとして、また愛が語られます。
例えば私たちは、普段いろいろな服を着ます。それと同じように、「愛を身に着ける」という表現がなされています。そして、愛を身に着けた人は一体どういう人になるのだろうかということについて、静かに思いをはせていいと思います。愛を身に着けている、愛を生きようとしている人は、具体的にどのように生活をしているのだろうかということです。
同時に、ここで「平和」という言葉が出てきます。キリスト教の語る愛という言葉は、平和という言葉にもつながっていることも、押さえておきましょう。そこで、平和について紹介しましょう。ヨハネの福音書20章19節からの引用です。ここは、イエスが復活した後、弟子たちの前に現れる場面です。そこは、次のように語られています。
「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。『あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。『聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る』」。
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=1661 【キリスト教の愛の種類「エロス・フィリア・アガペー」とは】より
キリスト教とは何か~愛と赦しといのち(6)聖書とはどんな書物なのか
竹内修一竹内修一上智大学神学部教授/カトリック司祭(イエズス会)
情報・テキスト
ペトロ(聖カタリナ修道院所蔵)
エロス、フィリア、アガペー。これはどれも、キリスト教で「愛」を示す言葉だ。上智大学神学部教授・竹内修一氏によれば、この意味の違う愛をめぐっては、イエスと弟子の間ですらもすれ違いがあった。しかし師イエスは、弟子を赦し、彼らに伝道を託した。たとえ相手が間違っていても、相手を赦す。これこそが、キリスト教の愛だ。(全6話中第6話)
≪全文≫
●三つの異なる「愛」
新約聖書を読んでいると、確かに日本語でいう「愛」という言葉が、翻訳として何回も出てきます。しかし正確には、主に三つの言葉が使い分けられています。厳密に分けられるというよりも、おおむねです。3種類あって、一つは「エロス」という言葉です。現代語でのエロチックにつながるものです。次が「フィリア」という言葉、もう一つが「アガペー」という言葉です。
少し大ざっぱな言い方ですが、エロスとは人間が何かを求める動きです。自分の中にはまだ満たされていないものがあり、それを求めようとする欲求をエロスとして考えていいと思います。フィリアとは、よく哲学で「友愛」、友の愛と訳されます。イメージで言えば同等関係のようなものです。三つ目のアガペーは、先ほどのエロスとは向きが逆のものです。自分が何かを求める、自分のところに何かを持ってくるというよりも、自分が与えるということです。たとえ相手が何かをしてくれなくても、ひたすら自分が与える。これがアガペーであるという理解でいいと思います。新約聖書の中では、今述べたような意味で、エロス・フィリア・アガペーが区別されています。
以前の講義で引用したヨハネの福音書13章34節の言葉、イエスが弟子たちに新しい掟を与えるところは、「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」でした。ここで使われている「愛」はアガペーです。「究極的な愛」と言ってもいいアガペーです。ひたすら与える、「友のために命を捨てる、それ以上に大きな愛はない」というところがアガペーなわけです。
●イエスとペトロですれ違う「愛」
さらに1箇所、面白いところがあります。イエスが復活した後、弟子のリーダーであったペトロと会話をしたところです。イエスが復活した後、弟子たちと食事をする場面のことです。
「食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、『ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか』と言われた。ペトロが、『はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは『わたしの子羊を飼いなさい』と言われた。2度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか』、ペトロが『はい、主よ。わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです』と言うと、イエスは『わたしの羊の世話をしなさい』と言われた。3度目にイエスは言われた。『ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか』。ペトロはイエスが3度もわたしを愛しているかと言われたので悲しくなった。そして言った。『主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っています』。イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは若いときは自分で帯を締めて、行きたい所に行っていた。しかし年を取ると両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくない所へ連れて行かれる』。ペトロがどのような死に方で神の栄光をあらわすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに『わたしに従いなさい』と言われた」。
イエスがペトロに対して、「あなたはわたしを愛しているか」と、同じ言葉で3回問いかけます。なぜ3回なのか。それは、イエスがローマ兵に捕まって殺される前の話が関係しています。「あなた(ペトロ)はわたし(イエス)を3回知らないと言うだろう」、「鶏が鳴く前に3回わたしのことを否むだろう」というイエスの言葉があります。ペトロはそう言われて、「そんなことはない」と見栄を切るのですが、実際には3回「私はあの人のことなんか知らない」と言ってしまいます。そうしたら鶏が鳴いた。こういう場面があり、それが伏線になっているのは間違いないと思います。
イエスは自分を裏切ったペトロに向かって「あなたはわたしを愛しているか」と言う時、「愛している」に使われているのが、アガペーです。正確にはアガパオーですね。ところがペトロの答えは、フィレオーです。すなわちフィリアです。だから、イエスはアガペーのレベルで聞いているのに、ペトロはフィリアのレベルで答えているのです。二人のやり取りは噛み合っていないのですが、ペトロにはそれが分からないのです。だから3回とも、ペトロはフィリアで答えます。イエスはそれでどうしたか。もうそれでも良しとしたと思います。今はまだ、ペトロはアガペーの域まで達していないと考えたと思います。まだこれからなのだろうと考えたはずです。
ペトロは、自分の望まないところに連れて行かれます。どういうことかという...
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