板東俘虜収容所

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BF%E6%9D%B1%E4%BF%98%E8%99%9C%E5%8F%8E%E5%AE%B9%E6%89%80 【板東俘虜収容所】より

板東俘虜収容所跡。現ドイツ村公園

板東俘虜収容所(ばんどうふりょしゅうようじょ、旧字体:板東俘虜收容所、ドイツ語:Kriegsgefangenenlager Bandō)は、第一次世界大戦(日独戦争)期、日本の徳島県鳴門市大麻町桧(旧板野郡板東町)に開かれた俘虜収容所。

1917年に建てられ、ドイツの租借地であった青島で日本軍やイギリス軍ら連合国の捕虜となった、ドイツ帝国将兵及びオーストリア=ハンガリー帝国の将兵(日独戦ドイツ兵捕虜)4715名のうち、約1000名を1917年4月から1920年3月まで収容した。収容所跡は2018年度に国の史跡に指定された[1]。現在はドイツ村公園として整備されている。

概要

1919年当時の収容所平面図

ドイツ軍及びオーストリア=ハンガリー軍将兵の捕虜は1914年10月より、日本各地の12箇所に設置された俘虜収容所(その多くは寺院等に仮設された)に順次移送・収容されたが、ヨーロッパでの戦争が長期化したため、長期収容を前提とした収容所を建設して統合が図られた[2]。

当収容所もその一つであり、完成後の1917年に丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、合計約1000名の捕虜が収容された。ドイツ軍及びオーストリア=ハンガリー軍将兵の捕虜の収容所としては最後に設置された施設である[2]。

収容所長は松江豊寿陸軍中佐(1917年以後同大佐)。松江は捕虜らの自主活動を奨励した。第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて、今日に至るまで日本で最も有名な俘虜収容所であり、捕虜に対し極めて寛大かつ友好的な処置を行っていたとして知られている。

板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ軍及びオーストリア=ハンガリー軍将兵の捕虜と日本人との交流が、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野で両国の発展を促したとも評価されている。板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後の日独関係の友好化に寄与した。

施設と捕虜の活動

捕虜収容所は、兵士の捕虜を収容する8棟の兵舎(バラッケ)を中心に、多数の運動施設、酪農場を含む農園、ウイスキー蒸留生成工場を有した。パンを焼くための竈も作られた。農園では野菜が栽培された。所内には謄写版と石版の印刷所が設置されており、収容所内の週刊新聞『ディ・バラッケ』や文化活動の各種ポスター・プログラムなどが出版された[3]。収容所内での信書のやり取りに用いられた板東収容所切手も印刷所で作られたものである[3][4]。

ドイツ軍及びオーストリア=ハンガリー軍将兵の捕虜の多くは志願兵となった元民間人で、彼らの職業は家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋など様々であった。彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ドイツ人及びオーストリア=ハンガリー人の優れた手工業や芸術活動を披露した。また、建築の知識を生かして捕虜らが建てた小さな橋(ドイツ橋)は、今でも現地に保存されている(現在では保存のため通行は不可)。

ドイツ人及びオーストリア=ハンガリー人らしく文化活動も盛んで、同収容所内のオーケストラは高い評価を受けた。今日でも日本で大晦日に決まって演奏される、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの交響曲第9番が日本で初めて全曲演奏されたのも、板東収容所である。このエピソードは『バルトの楽園』として2006年映画化された。

閉鎖とその後

1920年にヴェルサイユ条約が発効すると収容所はその役割を終えることとなった。このため、条約の発効日(1920年1月10日)には板東町内がまるで葬式のような雰囲気になったとのエピソードがある。1920年4月1日付で収容所は閉鎖され[2]、閉鎖後の収容所跡地は陸軍の演習所として使用された[5]。8棟あったバラッケの建物のうち半数は第二次世界大戦後まで残り、演習所の閉鎖後は戦地からの引き揚げ者用の住宅として利用された[6]。この引き揚げ者用住宅に居住した一人に板東英二がいる[7]。

1948年、引き揚げ者用住宅で生活していた女性が薪拾いの際、雑草に埋もれた石碑を偶然発見する[8]。それは収容所で亡くなった11人の同僚を追悼するため1919年8月にドイツ軍捕虜らが建立した慰霊碑だった[6]。その女性の夫は当時、ソビエト連邦のウズベキスタンに抑留されていたこともあり遠い異国の地で亡くなったドイツ軍捕虜とその遺族の心情を考えると他人事とは思えず、放置されていた慰霊碑の清掃と献花の活動を始めた[7]。後に復員してきた女性の夫もウズベキスタンでの抑留生活中に自らを看病してくれた、第二次世界大戦では日本と同じ枢軸国として参戦していたドイツ軍兵士のことを思い出し、捕虜らを供養するため慰霊碑を守る活動に加わった[8]。

これらのことは1960年に読売新聞が報道したのを契機に世に広く知られることとなり[7]、翌年、駐日ドイツ大使(当時は西ドイツ)のウィルヘルム・ハース(ドイツ語版)が板東を訪問する[6]。帰国したハースを通じて慰霊碑の話がドイツ本国に伝わり、1962年に元捕虜と板東の住民の交流が再開された[6]。

地元とドイツ側の両者の協力により、1972年に収容所跡地近くに初代の「鳴門市ドイツ館」が開設される[6]。展示資料には元捕虜から提供されたものも含まれていた[6]。1976年には、収容所跡のドイツ村公園に、合同慰霊碑が鳴門市と在大阪・神戸ドイツ総領事館によって建立された[9]。引き揚げ者用住宅に転用されたバラッケは、1978年までにすべて解体された。

ドイツ軍捕虜の生活に興味を持ち、収容所内で発行されていた新聞『ディ・バラッケ』の調査研究を続けていた独文学者冨田弘(1926-1988;当時は豊橋技術科学大学教授)は、1982年に「ベートーベンの第九交響曲が大正七年六月一日に板東捕虜収容所内でドイツ軍捕虜によって日本で始めて演奏されたことを突き止めた」「(鳴門)市は冨田氏の学術功績を認め(昭和)六十二年五月十五日市制四十周年記念式で表彰した」[10]。

開設100周年を迎えた2017年4月には、記念式典がドイツ村公園で、また記念コンサートが鳴門市ドイツ館で、それぞれ開催された[11]。

日本におけるベートーヴェン交響曲第9番の初演から100周年を迎えた2018年6月にはこれを記念して、捕虜および松江豊寿の子孫の訪問や、ドイツ館前への松江豊寿の銅像設置がなされた[12]。初演と同じ6月1日には、ドイツ館前で当時とほぼ同時刻から、初演時と同じ男性のみの合唱編成による演奏会が開催された[13]。

遺構

板東俘虜収容所跡地のうち、東側の約1/3は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されている(残る西側は県営住宅や一般の住宅地になっている)。

2007年11月から2011年にかけて鳴門市教育委員会による発掘調査が行われ、地中に埋まっていた建物の基礎などが再確認された[14]。2012年4月に調査報告書がまとめられ、収容所が存在した当時に捕虜によって作成された測量図通りに遺構が発見されたと記載された[15]。鳴門市は2014年度に国の史跡への指定申請をおこなう予定であったが[15]、発掘成果のとりまとめに時間がかかり、2018年度を目標とすることが2015年2月に報じられた[16]。鳴門市では2015年度に収容所敷地の確定作業を実施し、地権者の同意を確認して申請をおこなうとしている[16]。2018年6月、国の文化審議会から板東俘虜収容所跡を史跡に指定する旨の答申がなされ、同年10月15日付けで指定された[1]。なお、史跡指定の対象は元の敷地(5万7000平方メートル)のうち、国・徳島県・鳴門市が所有する約3万7000平方メートルである[17]。

また、徳島県は板東俘虜収容所関係資料のユネスコ記憶遺産への申請を目指し、2016年度から3年間の予定でプロジェクトを予算化した[18]。

住宅に転用されたバラッケには解体後、民間に払い下げられたものがあった[19]。長らくその所在は明確ではなかったが、2002年に倉庫や牛舎として再利用されているバラッケが発見され、現在までに同様に再利用された建物は8カ所発見されている。最初に再発見された2つのバラッケ(安藝家バラッケ[20]・柿本家バラッケ[21])は2004年に国の登録有形文化財に登録された。このうち柿本家バラッケは2006年にドイツ館南側の「道の駅第九の里」に解体・移築され、店舗施設「物産館」として利用されている。

地元ではその後発見されたものも含めた建物を元の場所へ移築復元することを目標としたNPO法人が2008年10月に結成された。

映画『バルトの楽園』撮影に際して2005年に板東に建設され、撮影終了後2009年2月まで公開されたロケセット(BANDOロケ村)はドイツ村公園とは別の場所で規模も実際とは異なるが、2010年4月に一部を移築の上で「阿波大正浪漫 バルトの庭」として再公開するにあたり、現存する実際のバラッケ1棟も敷地内に移築・公開された[22]。「阿波大正浪漫バルトの庭」は2015年5月6日限りで閉園したが、施設の今後については未定となっている[23]。

https://www.city.naruto.tokushima.jp/promotion/bunkazai/bando_furyo_shuyojo.html 【ばんどうふりょしゅうようしょあと 板東俘虜収容所跡】より

所在地 大麻町板東字桧尾山谷6番1他 計20筆等

時代 大正

指定対象地域の面積 37,079.20㎡

指定年月日 平成30年10月15日

1.史跡の内容について

(1)遺跡の立地と現状

板東俘虜収容所跡は、徳島県北東部の鳴門市内西部に所在し、香川県との間で東西にのびる阿讃山地南麓の南側に開けた扇状地上に位置する。収容所跡の現状は、陸軍用地を引き継いだ国有地(財務省所管)を鳴門市が無償貸与されて整備した収容所跡地の記念公園(鳴門市ドイツ村公園)が大半を占め、その他は山林・畑・ため池・公衆用道路・民間宅地により構成される。一部で原地形の改変があるものの遺構の遺存状態はおおむね良好で、鳴門市教育委員会では、平成19~23年度に、遺跡の状況を把握するための確認調査を実施した。

(2)板東俘虜収容所の概要

1914(大正3)年に第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟にもとづき、中国青島(ちんたお)に権益をもつドイツと戦闘を行ってこれに勝利し、総勢約4700名に及ぶドイツ兵を捕虜として日本国内に移送することになる。国内には当初12ヶ所の収容所が設置されたが、いずれも寺院や公会堂など既存施設を利用したものが多く、その後新設された収容所など6ヶ所に統合された。板東俘虜収容所はこのうちの1つであり、四国に当初設置された松山・丸亀・徳島の3ヶ所の収容所を統合する形で設置されると共に、四国外の収容所からも捕虜を移送して、1917(大正6)年4月から1920(大正9)年4月までの約3年間に最大1000名余りの捕虜が収容された。約57,000㎡の敷地内には、日本側の管理棟が1棟、下士官以下の大半の捕虜を収容した兵舎(以下、「廠舎(しょうしゃ)」とする)が8棟、将校用の廠舎が2棟と、これらに付随する浴室・調理場・便所・洗浄施設および病院・製パン所を含めて日本軍の建設した施設が54棟存在したほか、捕虜自身が建設した施設も127棟あった。

(3)発掘調査による確認遺構

収容所内の施設は、レンガ積み基礎に木造平屋建ての上屋を載せる構造を基本としている。現在、収容所跡地に整備されている鳴門市ドイツ村公園内には、レンガ基礎の一部が露出して保存されているが、大半の遺構は造成等により埋没しており、原位置の把握が困難となっていた。調査にあたっては、収容期間中の1919(大正8)年にドイツ兵捕虜が作成した所内の測量図『要図(ようず)』を元にして現況地形と照らし合わせ、施設の位置を絞り込んだ上で調査区を設定し、収容所を構成する主要な建物について、建物の配置、基礎部分の構造および残存状況の確認を行った。

下士官以下の捕虜を収容した廠舎建物は、測量図によると1棟の規模が幅7.5m、長さ72.9mとされている。公園内には長さ約30mのレンガ積み基礎が4棟分残されており、このうち廠舎第5棟の発掘調査では、全長の約1/2にあたる約36mの残存を確認した。なお、収容所の各施設で築かれたレンガ積みには、いわゆる「イギリス積み」が採用されており、廠舎遺構で確認したレンガ基礎の幅や積み上げる段の数は、その他の施設とも共通することが判明している。また、建物基礎に使用されたレンガの刻印から、香川県観音寺市(かんおんじし)の讃岐(さぬき)煉瓦(れんが)会社の製品であることが判明している。

第1将校廠舎の調査では、測量図に幅7.5m、全長約45mの規模で記載された建物の南端部で、地下に埋没していた基礎遺構の残存を確認したほか、収容所閉所後に陸軍演習場として利用された際、建物南端部を拡張して増築した痕跡とみられるレンガ基礎を8.3mの長さで確認した。

捕虜に支給するパンを製造した製パン所は、掘立柱(ほったてばしら)建物であることが確認され、当時の写真資料からは把握できなかった構造の特徴も判明した。この屋内に設置された製パン竃は、南北4.6m・東西3.7mの規模でレンガ積みの基礎が造られ、竃の南側には作業用のピットが付設されていた。この製パン竃は、当初陸軍が建設したものの、度々破損していたことから、捕虜の設計・施工による竃の改築が行われており、この経緯を記した陸軍文書や捕虜の発行した収容所新聞が見つかっている。確認した遺構はこの改築後の竃の基礎にあたると考えられる。

捕虜の私物や土木作業用具などを保管していた倉庫棟の調査では、測量図に記された東西9.3m、南北約37mの建物のうち北端部分の基礎を検出した。しかし、レンガ積みの基礎は、上半部を撤去した後で残りの基礎を利用して、その上部にコンクリートの土台と花崗岩(かこうがん)の柱礎石を設置していた。これは、収容所閉所後に陸軍演習場の厩舎(きゅうしゃ)施設に建て替えられた際の基礎と考えられ、閉所後の施設利用の変遷も把握することができた。

このほかにも、収容所管理棟や廠舎第2棟、将校棟附属厨房、酒保(しゅほ)(売店)附属便所、給水施設および上下水管について調査をおこない、これらについても配置や基礎構造を確認することができた。また、収容生活中に死亡したドイツ兵を弔うための慰霊碑(ドイツ兵の慰霊碑:徳島県指定史跡 H19.2.16指定)が捕虜の手によって所内に建立されており、これに付随する池に面した石垣も良好な状態で残存することを確認した。

(4)関連資料による遺跡の検証

当時、日本は「ハーグ陸戦条約」を批准して国内法規を整備し、捕虜に対して人道的に対応していた。このことに加え、板東俘虜収容所では、管理者(所長の松江(まつえ)豊(とよ)壽(ひさ))の運営方針によって、捕虜による様々な活動が広く容認された。その結果、所内ではスポーツや音楽、演劇、講演会などが活発に行われたほか、捕虜製作品の展示・販売や、地域における橋の建設、地域住民とおこなった生産活動や文化活動等を通して、捕虜と周辺住民との間に友好関係が芽生えた。収容所内外の捕虜の活動状況は、彼らの発行した所内新聞や情報誌などから詳細に知ることができるほか、所内で制作されたカラー刷りの印刷物や当時の状況を撮影した写真も数多く残されており、これらは確認した遺構を含め、各施設がどのように使われたかを理解するための貴重な資料となっている。また、日本陸軍側が作成した文書史料も多く残されており、これによって収容所設置前後の状況や各施設の建設、捕虜の動向や取扱いの経緯などを知ることができる。註1)

(5)総括

板東俘虜収容所跡は、国内における第一次世界大戦時の捕虜収容所としては最も遺構の残存状態が良好な遺跡である。発掘調査によって構築物の規模や構造、増改築の状況を窺うことのできる情報が多く得られたことと併せ、当時の具体的な収容状況を窺うことのできる文献資料等が豊富に残ることから、これらは遺跡を理解する上で重要かつ不可分の関連性を持っている。また、戦争という緊張状態にありながら、収容所内外で捕虜による様々な活動が行われたことや、地域住民との友好的な交流が行われたことも、近代の戦争関連遺跡である板東俘虜収容所跡の歴史的意義を考える上で大きな特色となっている。このことから、板東俘虜収容所跡は、第一次世界大戦に関する国内の状況を窺うことができる数少ない関連遺跡であると共に、交戦国間における市民的活動および文化交流の事跡を象徴する遺跡であり、近代史を考える上で重要である。

註1)板東俘虜収容所に関する印刷物・写真等の資料は、鳴門市ドイツ館、ドイツ−日本研究所(DIJ)のほか、ドイツ・ボンにあるベートーヴェン・ハウス・ボンなどの調査研究機関に収集・保管されている。また、日本陸軍に関する文書史料は、国立公文書館にあるアジア歴史資料センターのデータベース内で防衛省防衛研究所図書館保管資料として公開されている。

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