https://gururinkansai.com/hizenfukuegotoke.html 【肥前福江藩 五島(五嶋)家供養塔は、和歌山県高野山奥の院22町石北東 にある。】より
写真番号 供養者名 没年 法名 備考
① 肥前国福江藩 2代藩主 五嶋 盛利 寛永19年(1642) 傑山伝英大円寺
①と⑤の間の五輪塔は、盛利の娘「普照院」供養塔
② 肥前国福江藩 3代藩主 五嶋 盛次 明暦元年 (1655) 大円寺 昌屋泰久 供養塔建立は明暦2年
③ 肥前国福江藩 4代藩主 五嶋 盛勝 延宝6年 (1678) 松岩院 羅屋寿休
④ 肥前国福江藩 5代藩主 五嶋 盛暢 元禄4年 (1691) 清涼院殿 良岳英温大居士
⑤ 肥前国福江藩 6代藩主 五嶋 盛佳 享保19年(1734) 覺岸院殿天量 和晬大居士
⑥ 肥前国福江藩 7代藩主五嶋 盛道 安永9年(1780) 大圓寺殿向山見外大居士
⑦ 肥前国福江藩 8代藩主五嶋 盛運 文化6年(1809) 泰源院徳芳良仁大居士
五島家は、宇久島(現長崎県佐世保市宇久町)に山城を築いて宇久姓を名乗り、鎌倉時代から戦国時代にかけて、宇久島や五島列島を領した。
文禄元年(1592)に宇久純玄(すみはる)は、五島姓に改姓した。初代純玄の没後、叔父の玄雅(はるまさ)が五島家を継承して福江藩の初代藩主となり、以降五島家が明治維新まで藩主を勤めた。
https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/3037 【長崎県五島市 大円寺/福江藩五島家墓所】より
長崎県五島市大円寺町にある大円寺は、五島列島を支配した福江藩五島家の菩提寺。
五島家が宇久家を名乗っていた時代、16代宇久盛定が松月庵を再興し、大円寺と改称して五島家菩提寺としました。
「大円寺山門」。
藩主家の菩提寺だけあって立派。本堂も立派ですが建て直されたもの。
本堂左側が大円寺墓地なのですが、五島家当主の墓は相当荒れ果てており、門扉や灯篭等が瓦解しています。更に幕末期の藩主の墓が見当たらない。
調べると大円寺川の対岸に、江戸中期以降の墓所があるとのこと。「五島家墓地」。
対岸には橋があってすぐに行けます。
入口の石門は結構低いもので、門前の車道が後から嵩上げされた模様。
参道には石燈籠が並べられていますが、雑草が生い茂って行くのに勇気が必要です。
奥に入ると沢山の石燈籠と墓石が現れます。家臣らに寄進された石灯篭が並ぶ風景は、
他の藩主家墓所と同様で見慣れた雰囲気。
「福江藩第九代藩主五島盛繁の墓」。
9代藩主五島盛繁の時代から、外国船が出没するようになります。
この為に海防強化が必要となり、その資金を商人達の献金で賄った為、商人達に武士の身分を与えました。彼らから色々な意見が出てくるようになり、個人の才能を重視する序位昇進制を採用。その流れで藩校育英館も発展しています。
「福江藩第十代藩主五島盛成の墓」。
10代藩主五島盛成の墓。先代よりの財政難はなお続き、禄高改正を行って財政再建を図りました。福江藩は城主格大名でありながら、長い間築城を許されませんでしたが、しかし海防政策の一環として、念願であった築城の許可を得ます。
城の完成は次代に持ち越しますが、隠居後も実権を持ち続けました。
「従五位五島盛徳乃墓」。11代藩主五島盛徳の墓。
盛徳の時代に石田城が完成。日本一新しい城となりました。
※記事はこちら。
https://access21-co.xsrv.jp/shigekikou/archives/2777 【長崎県五島市 石田城跡】より
壇ノ浦の戦いで平家が敗れた後、平清盛の弟平家盛が宇久島に流れ住み、宇久氏を名乗ったとされます。
20代当主宇久純玄は豊臣秀吉に臣従し、朝鮮出兵にも参加しており、この頃から五島姓を名乗ったという。その後21代当主五島玄雅が、徳川幕府に所領を安堵されて福江藩を立藩。
江川城を藩庁としていましたが、火災で焼失して以降は築城が許されず、石田陣屋を藩庁として幕末に至ります。
幕末に入って海防が重要になってくると、嘉永2年に幕府より築城が認められ、石田城の建設を開始。
城の完成までに14年の歳月を要し、文久2年に完成した海城である石田城は、日本で一番新しい城となりました。
※松前城より新しい。
高速船の発着場から見えるのは、築城の際に波を防ぐ為に建てられた防波堤。
「常灯鼻」。
この防波堤が造られた後は波が遮られ、容易に築城することができたという。
城の建設後は常夜灯が設置され、漁民にとっても重宝されました。現在も防波堤の役目を果たしています。
「石田城大手門」。
野積みされた武骨な石垣で、重厚な城門によく似合っています。
石工は大津の石工集団だったそうですが、琵琶湖の波と海の波は違うので、海城を造るのに相当苦労した事でしょう。
「長崎県立五島高等学校」の校門。
城内は五島高等学校の敷地となっており、先程の大手門を入って登校するようです。
校舎に書かれたスローガン。「城跡」と書いて「まなびや」と読む。
大手門側からは行けませんが、五島観光歴史資料館や五島市立図書館、五島市福江文化会館が建てられており、どれも城っぽい造りになっています。
石田城南西側の武家屋敷通りへ。「武家屋敷通り」。
2代藩主五島盛利の時代に、各知行地に居住する家臣団を城下に集め、支配権を強化した福江直りという政策で、家臣団がこの付近に移り住みました。
武家屋敷通りと呼ばれていますが、当時の面影は石垣と屋敷門のみで、屋敷の殆どが現在の家屋となっています。
「福江武家屋敷通りふるさと館」。
藤原家邸宅跡に建てられた観光施設。屋敷は後に造られたものですが、門や庭園は当時のものです。武家屋敷通りの塀の石垣には、「こぼれ石」と呼ばれる小石が積まれ、塀を乗り越える侵入者があると、小石で音が鳴る仕組みとなっています。
なるほどよく考えられていますが、台風の時なんて大変そうですね。
「江川城跡」。
たまたま泊まった宿「五島第一ホテル」は、江川城があった場所らしい。建物の脇に石碑が建てられています。幕末期の福江藩は領地が遠島で、海防に関心があった事から攘夷派でしたが、一方で支流の富江領五島家は佐幕派でした。
※3代盛次が弟五島盛清に3千石を分与。
3千石ながら大名格として扱われた。慶応4年に福江藩が富江領を合併すると、これに富江側が反発し富江騒動が勃発。
富江領の領民が次々と富江に集まり、男衆は竹槍を持って武装決起し、福江藩の関係者を襲撃しました。
これに対し福江藩は武装して藩境に待機し、一触即発の状態の中で膠着状態が続きます。
ここへ来て双方の重臣らが話し合い、事態の収拾に努め富江側が降伏。
この騒動は新政府の長崎役所にも届き、家老2名が長崎役所に出頭しました。
長崎役所には当時井上聞多が出仕しており、この騒動を引見した井上は富江側に同情し、
「今は辛抱するように」と諭じます。
井上は薬師寺久左衛門と高松清一と共に、五島に渡って8代富江領主五島盛明と面談。
叛意が無い事を確認します。薬師寺と高松は富江領内宣撫に努めますが、権利論争などに手を焼いたとされています。
その後も領主、家臣らは旧領回復を目指し、新政府に復領を嘆願しますが、結局は戻る事はありませんでした。
福江藩自体も廃藩置県で消滅しています。
【福江藩】
藩庁:石田城 藩主家:五島家 分類:1万5000石、外様大名
藩主就任後も父が実権を握っていますが、盛徳が病弱だったという理由のようです。
廃藩置県後の明治8年に父に先立って死去。
既に家臣も居なくなっていたために、歴代のように寄進された石燈籠が少ない。
これを不憫に思ったのかもしれませんが、墓前に並ぶ石燈籠の寄進者は、父である五島盛成の名でした。
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