再生の池

https://tocana.jp/2023/01/post_245828_entry.html 【37秒間死んだ女性が「他者の危険を察知する超能力」を獲得! 臨死体験でフィルターが開く】より

 米シカゴ出身のステファニー・アーノルドさんは、出産時に37秒間にわたって”死んだ”経験を持つ。その後、数日間は昏睡状態が続く危険な状態にあったそうだが、次に目を覚ました時には、一種の超能力のようなものを備えていた。以来、彼女は他者の危険を察知できるようになったという。

 スピリチュアルの世界では、チャクラが開くことで精神的な覚醒が起こると言われており、アーノルドさんの場合、臨死体験中に経験した体外離脱が大きな引き金となっている可能性が考えられる。しかし、このフィルターは一度不用意に開いてしまうと、閉めるのには相当な困難を要するようだ。

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 37秒間“死んだ”女性が、他人の危険を察知できる超能力を開花したという驚きのニュースが報じられた。

 英紙「Daily Star」(1月28日付)によると、米シカゴ出身のステファニー・アーノルドさんは、2013年に2人目の子供を出産した際、37秒間にわたって臨床的に死んだ経験を持つ。アーノルドさんは以前から妊娠に至るまでに「死」の予感があったと主張していて、これもまた不思議な予感であるが、いずれにしろ彼女は37秒の臨死体験中に体外離脱を経験した。

 一時的な死後、アーノルドさんはすぐには目を覚まさず、腎不全で昏睡状態が6日間続いたという。結果的に彼女は死の淵から生還したわけだが、この時以来、ある種のビジョンや虫の知らせのような予感といった超能力のようなものが強烈に感じられるようになったそうだ。

 そうしたなか、アーノルドさんはNetflixのドキュメンタリー「Surviving Death」に出演し、米ヴァージニア大学の知覚研究部門の教授に、自身の変化についての意見を求めた。

「私が見るビジョンのほとんどは見ず知らずの人についてのものです。つまり、私の目の前にいる人たちです。たとえば、心臓発作が起こりそうな気がしても、それが自分の体に起こっていることではないとわかります。私はこの能力を神からの祝福だと信じていますが、スピリチュアル的観点からは1つのチャレンジです。なぜなら、私は他の人が多くの場合は見ないものを見ているからです」(アーノルドさん)

 こうしたアーノルドさんの能力についてブルース・グレイソン博士は、彼女の経験は臨死体験に苦しんだ他の人と似ていると説明した。

「率直に言って、ある経験をする前に予感を持つことは一般的ではありません。普通は、ある特殊な経験の後にこうした予感能力を持ちます。つまり臨死体験のような出来事がフィルターを開くのです。このフィルターは、一度開いてしまうと閉めことは困難です」(グレイソン博士)

 しばしば、スピリチュアルの世界では、身体にある想像的な門であるチャクラが開くことで、精神的な覚醒が起こるとされているが、チャクラが不用意に開いてしまうと、それを閉じるには多大な努力を要するとも言われている。もしかしたら、アーノルドさんは臨死体験によってそうしたチャクラの1つが自ずと開いてしまったのかもしれない。体外離脱は精神的なチャンネルを開く1つの手段でもあるから、それが引き金となった可能性は考慮されても良いだろう。

 いずれにしろ、臨死体験や体外離脱は精神や心を探求するうえで重要な意味を持つことは間違いないだろう。実際にこうした現象にフォーカスした研究もあるが、人間精神にはまだまだ未踏の大地が広がっている。今後の研究に期待したい。


https://deku-dec.hatenablog.com/entry/20150406/p1 【臨死体験 上】より

作者: 立花隆

内容(「BOOK」データベースより)

まばゆい光、暗いトンネル、亡き人々との再会―死の床から奇跡的に蘇った人々が、異口同音に語る不思議なイメージ体験。その光景は、本当に「死後の世界」の一端なのだろうか。人に超能力さえもたらすという臨死体験の真実を追い、著者は、科学、宗教、オカルトの垣根を超えた、圧倒的な思考のドラマを展開する。

 結構積んでいたけど、ようやく上巻を読了。まあ、積んでいたとはいってもたぶん1年は積んでいないと思うが、他に同著者の「天皇と東大」も積んでいるので余計にさっさと読み終えなければという思いが強くあったから、「ようやく」と感じた。

 テレビ番組の取材であちこち取材したけど、実際の番組では時間の都合上皮相的な部分しか放送できず、その取材の深い部分がまったく使われなかったということもあって出したという本みたい。しかし長時間番組のためにそうした研究の著名人に対してインタビューをしても全く使われなかったというケースが結構あるそうで、そうしてその道の人にインタビューしたのに全く使われないということがままあるんだということははじめて知ったので、ちょっと驚いた。

 臨死体験、ある程度共通するいくつかのパターンはあるにはあるが、そうしたパターンのうちこれは必ず体験するというものはないし、パターンの組み合わせもまちまちで、典型的な臨死体験と言うものはない。

 さまざまな体験者の体験例をあげられているが、そのどれもが具体的で幻想的な体験なので、読んでいて興味深く面白い。また上記にあるような使われなかった研究者や、研究者であり体験者などへのインタビューの内容が書かれている。

 通常の臨死体験は体験者の心理的には幸福に感じるもの。内容的に、デスパレードな内容の体験と見える体験をした人でも「死への恐怖はありません。あんな風に死ねるのなら、死は怖くありません」(P88)といいきっている人も何人もいるなど、臨死体験はネガティブな体験であっても体験者にポジティブなインパクトを与えることができる。ただ、それも全員が全員ではなく、少数ではあるが臨死体験時に、ネガティブな思いを抱いたという体験者もいる。

 低酸素状態に陥った脳で起きる幻覚症状という解釈、臨死体験時は脳は低酸素に陥っているのだからそれで説明できる要因もある。他にもエンドルフィン仮説では幸福感の説明はつくかもしれない、しかし臨死体験は複合的要因で起きるものなので一つの説では部分的説明にしかならない。ただ、エンドルフィン説は、臨死体験時の明晰な意識だったり、持続時間についてはその説をとるのではおかしい部分があるようだ。また低酸素説でも明晰な意識と言うのはおかしいということになるようだ。

 『心臓が止まっても生きているなどということは、あり得べからざることと聴こえるかもしれないが、これも、あり得ないことではない。正確にいえば、心臓が完全に停止して、血流が完全に停止してしまえば、人は死なざるを得ないが、動脈を触診してすぐわかるような拍動が停止しても、心臓細動による一定の微小血流が確保されていれば、人間は一定期間生きていることが出来るのである。実際、ヨガの行者の中には、心臓(の拍動)を止めて見せる男がいる。どの程度の微小血流で生きていられるかは、代謝水準によってちがうが、代謝水準がギリギリまで下がっていれば、三十分くらい血流が事実上停止した状態でも生きていられる。』(P119)というのは面白い。

 臨死体験、日常的な意識と超常的な意識の境目で異音が聞こえることもあるが、超常的な意識(臨死体験の中核部)においてはなんともいえない静けさ、あるいは美しい音楽が聞こえる世界を体験する。

 出生時の記憶、催眠で暗示・誘導行われて作られたのではないかと疑わしいものもあるが、吟味して本当の可能性が高いと著者が思えるものもかなりある。と書かれているのを見て、よく考えたら、覚えていなくても記憶は残っているという話も聞いたことあるし、それに生まれてきたときと連続しているんだから出生時だったり、胎児の記憶があるというのもあながち嘘でないということもありえなくもないなとちょっと思えるように。

 臨死体験をすると超能力が身につく?少なくとも、その能力が事実化はともかくそういう感覚を得た人は多いようだ。

 単純に人生観、世界観を変えただけでなく、いままで全くの門外漢で数学や物理学の知識なかったのに、量子論についてその内容が読むと分かるようになったし、そうした方面に関心が行くようになったなどと言う知的能力・知的方向付けの変化があった例などもある。

 『臨死体験で、大概離脱する場合、ほとんどのケースで、ベッドの上に残された体は、まるで死んだように横たわっているだけなのだが、かの緒所の場合は、苦しみのたうち、さけびごえさえあげていたという。』(P438)本人は臨死体験中、そうした苦しみを感じていなかったようだが、体はそうした反応を継続していた。


https://note.com/hayahi1002/n/nb50d7c9c1aee 【俳句コニャック2.〘 永遠と臨死体験と1.〙神曲(導入場面)と松尾芭蕉(辞世の句)を対比する。】より

早瀬野卑

⬜神曲 第一歌

『人生の道の半ばで 正道を踏みはずした私が 目をさました時は暗い森の中にいた。

その苛烈で荒涼とした峻厳な森が いかなるものであったか、口にするのも辛い、

思いかえしただけでもぞっとする、その苦しさにもう死なんばかりであった。

しかしそこでめぐりあった幸せを語るためには、そこで目撃したニ、三の事をまず話そうと思う。どうしてそこにはいりこんだかうまくいえない、当時私はただもう夢中だったからそれで正道を捨てたのだ。

森の中で私の心は怖れおののいていたが、しかしその谷が尽きたところで私はとある丘の麓にたどりついた。

目をあげると、丘の稜線がもう暁光に明るく包まれているのが見えた、あらゆる道を通して萬人を正しく導く太陽の光であった。』

参照:ダンテ 神曲 平川祐弘訳

⬛笈日記

『旅に病んで 夢は枯野を かけめぐる』

芭蕉は元禄7年9月29日夜から、下痢を発病し、病床についた。……そして10月8日深更、呑舟に墨をすらせて、これを作句した。(芭蕉db 病中吟参照)

👁 疲労困憊して午睡した時や、朝方の夢で、いわゆる「薄暮の世界」にいて、何かを見ることはよくあることだ。往々にして焼け付くような焦燥感や、刃物を突きつけられるような切迫感を伴う。その場所が街や屋内でなく、どこともしれぬ枯野や荒れ地であることはよくある。門や垣根、また川、岩山が見えるときもある。芭蕉の枯野の夢に自分の枯野を重ねて直感的に句の世界と意味を把握した人は多いと思う。ダンテの神曲の始めの情景もまた同じ気配を漂わせている。ただしダンテの神曲の場合、まるでシャーマンの異界遍歴のような、臨死体験やスェーデンボルグの霊界訪問と同質の体外離脱を彷彿とさせる。ダンテもまたシャーマン的な能力をもっていたとしか思えない。さらに人類史級の古典として完成し得たのは、“招き”があったからかもしれない。「薄暮の世界」は、いわゆる霊界の外縁部、麓に広がるとされるまだ霊界の太陽のささない「冥界」へのアプローチかもしれない。陽の光のある、色彩豊かな夢は稀にしか見ないが、層を為す霊界を垣間見るアプローチかもしれない。

永遠とは時の止まった世界であり、つまり輪廻転生を免れている高度の霊界、神界と言える。私たちは臨死体験から死に入り、肉体=物質=時空世界を離れ、しばしの霊的自覚とともに、次なる急流か、対岸の土地に向かう。言語や感情は象徴となり、私たちは喋らなくなる。地上のすべてを忘却した、“原・私”の旅が始まる。


https://www.sarashinado.com/2011/07/16/76%E5%8F%B7%E3%83%BB%E5%A7%A8%E6%8D%A8%E5%B1%B1%E9%A0%82%E3%81%AB%E4%BA%A1%E3%81%8D%E6%AF%8D%E3%81%AE%E9%9D%A2%E5%BD%B1/ 【76号・姨捨山頂に亡き母の面影】より

 江戸時代の俳人、松尾芭蕉の句で当地にちなんだ代表的なものが次の句です。

 俤(おもかげ)や姨(おば)ひとりなく月の友

 貞享五年(1688)の中秋8月15日、のちに「更科紀行」として発表される旅の目的地だった長楽寺周辺(千曲市八幡地区)を訪ねたときの感慨を詠んだ句です。境内には人間の背丈を超える句碑(左の写真)が建っています。

 母の手で育つ

 この句の「姨」には、年老いた老婆と、自分の母親のイメージが重なっていると思います。芭蕉の母親が亡くなったのは、更科への旅の5年前(天和3年)なのです。  芭蕉の家は地侍という下級武士の家柄で、その暮らしは農民に近かったそうです。母は芭蕉が十二歳のときに夫を失います。つまり芭蕉の父親が死んだわけで、芭蕉は女手で育てられました。

 芭蕉の生誕地は三重県伊賀上野。家は芭蕉の兄が継ぎました。芭蕉は伊賀上野一帯の領主の一族である藤堂家に奉公に出て禄を食んでおり、藤堂家で俳諧の精進を続けていたのですが、29歳で、江戸に出ます。俳諧は和歌の延長上に生まれた言葉遊びです。五七五の発句の後に別の人が七七のリズムの言葉を付ける連句から生まれました。ただ、まだ今のように五七五の俳句としては独立したものになっていませんでした。

 芭蕉は五七五の芸術性を開花させるべく江戸に出たわけですが、故郷に残してきた母親は、芭蕉が深川などでたくたんの門人を従えるほどに力をつけた九年後、芭蕉が四十歳のときに亡くなります。残念ながら芭蕉は死に目に会えませんでした。

 伊賀上野への帰郷を果たしたのは、その翌年の秋、後に「野ざらし紀行」としてまとめる旅ででした。「野ざらし紀行」は、芭蕉が死を覚悟して自分の俳諧芸術を完成させよとして江戸から西国に歩く旅です。ひょっとしたら、この旅に自分の人生をかけようとしたきっかけは、母親の死だったかもしれません。(芭蕉の代表作「古池やかわず飛び込む水の音」の句もこの旅の後に作りました。「野ざらし紀行」についてはシリーズ72で触れています)。

 遺髪を手に…

 帰郷を果たした際に、母親の遺髪を手にして詠んだ句です。

   手に取らば消えん涙ぞあつき秋の霜

 秋も深まって寒さが増してきたころだったと思いますが、芭蕉の内側には悔いや感謝、申し訳なさなど本当にさまざまな感情が去来して熱い涙を流しように読めます。それなのに母親の髪はすっかり白くなっていて、さらさらと手から消えてしまうのではないかと思うくらいにはかない白髪だったのでしょう。

 この句からは「慟哭」という言葉が浮かんできました。俳句としては字余りですが、それを補っても自分の思いを表現するにはこの形の句が必要だったということでしょうか。  特にこの「涙」という言葉が母の死から、「さらしな・姨捨」への旅を貫く心のキーワードではないかと思います。芭蕉は更科での月見をして江戸に戻った後に、更科紀行とは別に「更科姨捨月之弁」という短い俳文を書くのですが、その中で強烈に「涙」を意識させる文言が出てきます。短いのでほぼ全文を記します。読みやすくするため表記を一部変更するなどしています。

 (冒頭略)ことし姨捨月んことしきりなりければ、八月十一日美濃の国をたち、道遠く日数少なければ、夜に出て暮に草枕す。思ふに違わず、その夜さらしなの里にいたる。山は八幡とい里より一里ばかり南に、西南に横をりふして、すさまじう高くもあらず、角々しき岩なども見えず、ただ哀れ深き山の姿なり。慰めかねしと伝へけむも理り知られて、そぞろにかなしきに、何ゆへにか老ひたる人を捨てたらむと思ふに、いとど涙落ちそひければ

   俤や姨ひとりなく月の友  芭蕉  

   十六夜もまださらしなの郡哉 同

 ことしは、姨捨の月がどうしても見たくなって8月11日、中秋までは四日しか残されていないとてもハードなスケジュールで岐阜県を旅立った、なんとか予定通り到着して月に照らされた姨捨山を眺めると、古今和歌集で「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」と詠んだ古人の気持ちがよくうかがわれた。どうしてこんなこんなところに老婆を捨てたのだろうか、それを思うと涙が頬を伝ってしょうがない、そして、その上で「俤や姨ひとりなく月の友」の句を作ったと表明しているのです  母親の遺髪を手にしてこぼした「涙」と、さらしな・姨捨で月見して流したこの「涙」の熱さが、つながっているように思えないでしょうか。

 謡曲「姨捨」

 俤には亡き母の面影も重なっていると思います。芭蕉が生きた時代の前、中世までは、当地で一番高い冠着山が姨捨山とされていたので、この冠着山の頂上を見ながら謡曲「姨捨」に登場する老婆の姿を思い描いた可能性があります。

 謡曲は能楽の脚本で、「姨捨」は中秋の名月がまもなくのとき、都の人が更級の月を見るため姨捨山に急いでやってきて頂上で更級の里に住む女性に出会うところから物語が始まります。この女性に都人が「老婆が捨てられた場所はどこか」と尋ねると、先に紹介した古今和歌集の「わが心…」の和歌を持ち出し、「私の立っているこの場所です」と教えます。この後、里の女性が実は捨てられた老婆で、中秋の名月のときには毎年、「執念の闇」を晴らそうと姨捨山の頂上に現れていることを明かし、月の光のもとで舞を舞います。謡も奏でられ、月が隠れると老女も姿を消します。

 繰り返しになりますが、芭蕉が更科に到着したのは中秋8月15日の夜。芭蕉の母は実際には山には捨てられたわけではありませんが、世話になった母を故郷に置いたまま江戸に上り、九年も会わずにいたことからすれば、心のうちでは捨てたと後悔していたかもしれません。

 ですから、この謡曲に登場する老婆を母に重ねて思い描いたとしても不思議ではない状況でした。世阿弥も芭蕉と同じ三重県伊賀上野の生まれです。世阿弥は1363年ごろに生を受け、芭蕉にとって世阿弥は自分より約300年前の故郷の偉人ですから、芭蕉も世阿弥のこと、「姨捨」という謡曲を当然、知っていたでしょう。

 ですから、俤句の「なく」には捨てられて月の光を浴びながら一人泣いている老婆と、すでに他界してあの世にいる年老いた母の二つのイメージが重なり、つまり、「泣く」と「亡く」の両方の意味が込められている―芭蕉が本当にそのように意図したかどうかは分かりませんが、そのように読んだ方がこの句の味わいは増します。芭蕉研究者の間で、もっと取り上げられていい句だと思います。

 今年が芭蕉の更科来訪320年なので、それを記念して「まんが 松尾芭蕉の更科紀行」という本を作りました。著者は、「まんが紀行 奥の細道」で日本漫画家協会賞特別賞を受賞しているすずき大和さん。すずきさんは間と空間の描写に独自の作風を持つ漫画家、絵本作家で、この本では月の詩人としての芭蕉の真髄を描き切っています。書店などで販売しています(価格は税込みで1680円)。右の写真が本の表紙です。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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