https://www.plumeria-jp.com/blog/post-22.php 【龍のエネルギー】より
このひと月、とても大きな変化を促されているような感じがします。
お天気も変化が激しく、急に暑くなったり寒くなったり、強風が吹いたり・・・自然界もバランスをとるのが大変です。
個人的には、宝物探しをしているように、日々サインがやってくるのを待ち、探しながら「叡智」と繋がる気付きを深める出来事が重なっています。
先日、2009年にセドナで開催された「先住民族世界長老会議」に参加したことのある友人と電話でお話しをする機会がありました。
「先住民族長老たちがこぞって、日本はドラゴンである」と言っていたと話しをしてくれました。
ドラゴン・龍のエネルギーには「天と地を繋げる」役目があるそうです。
Drクリスティン・ペイジのワークショップでも、ドラゴンについて多く語られました。
ドラゴンのエネルギーは丘に集まり、円を描くようにグルグル回り、純粋なクリエイティブエネルギーに満ちている。
足の裏のルートチャクラから大地と繋がり、地中にエネルギーを流すイメージでドラゴンのエネルギーと繋がることができる。
このエネルギーとコネクションすればする程、真の意味での現実と繋がることができる。
このことを知っていた古代の人々は、ドラゴンエネルギーと繋がるために、男性でもスカートの様な大地をゆらゆらさせる衣服を身にまとっていたそうです。現代でも、ローマ法王や僧侶の衣装、日本の袴などもそうかもしれませんね。
古代の人々はドラゴンのエネルギーが集まる洞窟や湖などで儀式をしました。
また、神社・仏閣・教会・パワースポットなどが、ドラゴンエネルギーの集まるところにつくられています。
(埼玉県秩父市にある今宮神社のホームページに、龍神を祀られる神社の条件は、霊山があること、洞窟と湧水があり、昔人が住んでいたところとの記述があります。)
3500年前、そのコネクションを阻止しするエネルギーが強くなったそうです。
龍が殺されたり、いつの間にか龍のエネルギーは男性性であると考えられるようになりました。
実は龍のエネルギーは女性性であり、このため女性はドラゴンのエネルギーと繋がりやすいのだそうです。
自分の運命を生きるためには、この大地のエネルギーとしっかり繋がる必要があります。
先住民族長老たちに「ドラゴン・龍体」と言われている日本は形そのものがまさに龍の形をしています。
日本は水源が豊富で、湖や洞窟がいたるところに点在し、確かに龍のエネルギーを感じる場所が沢山あります。
長野はその中心、ハートの位置にあります。私は長野はとても重要な場所のように感じています。
ドラゴンである日本は、今後世界の平和にどのような貢献をしていくのでしょうか。
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先日自主上映会をしたドキュメンタリー映画「SHIFT OF THE AGES」の中で、マヤの長老によるコンドル(南)とイーグル(北)の再統一という予言がありましたが、この再統一にドラゴンが関るのかもしれません。
4月5日から善光寺で7年に一度の御開帳が始まりました。
4日には太鼓芸能集団「鼓童」による善光寺奉納太鼓がありました。
強風が吹く中、演奏が始まると一瞬ピタッと風が止んで、また龍が踊りだしたかのようにいきなり強風が吹いた瞬間、龍のエネルギーが大地を駆け巡っているような物凄いパワーを感じました。
私は足の裏からエネルギーを流すイメージでその場に立ち、太鼓の演奏に聴き入りましたが、大地のパワーが身体中に充満していくのがわかり、その後古いエネルギーが一掃され、新しく再生したように感じました。
「鼓童」の太鼓奏者の方々は、大地と人間を繋げるために物凄いパワーを使って演奏して下さっていて、心から感謝しました。
奏者一人一人がシャーマンのように感じました。
地球に存在する命とエネルギー、存在の源は太陽です。天照大神、大日如来、など 太陽は信仰の対象とされてきました。初日の出を礼拝する慣習も存在します。
セドナで日の出の瞑想をしたことがあります。
日の出の神々しいさまを観たくてもサングラスを持たない和多志は サンバイザーを用意しました。サンバイザーを通してみる日の出の荘厳な様に感動し涙が溢れました。
そこに赤い竜を観ました!!!
後ほど知ったことですが 赤い竜は尾骨にあるクンダリー二エネルギー(生命の根源エネルギー)の象徴とされます。竜は魂をくわえるとも言われます。
セドナでのこの体験は 太陽から生命エネルギーが降りてくるさまを目撃したと言っても過言ではありません。太陽はお天道様と呼ばれ 天そのものの象徴です。無条件に誰にでも同じようにエネルギーを送り続けます。
和多志の生きているここでは 生命エネルギー(プラウナ)として魂の成長を助けていただいているのではないかと思います。
アニミズムは幼稚な信仰と考えられていますが 言葉による汚染を受けない 頃の 素直な魂感覚と言えるのではないかとも思います。
https://www.asahi-net.or.jp/~nu3s-mnm/kamikaranomesse-ji.htm 【神との対話】
【錬金術と神秘体験】
<大阪道場の責任者・Tさんの 自己紹介文の一部>
「修行の途上にいわゆる「神秘体験」と呼ばれるものがあります。
かつては、エネルギーを上げるような修行でしか霊的な体験はできないと思いこんでおり、ゆるやかな修行方法では、神秘体験と言われるようなものはあまりしないのでは?と思っていました。
ですが、たとえば体外離脱のような「変化身」と呼ばれる体験などは、和多志自身はこちらのほうが多く経験しました。過去には、離脱といっても身体から意識が抜けて、この現象世界を見ることがほとんどでしたが、今は「光の世界に入る」といった明るさを伴う体験が多くなりました。」
<和多志の質問>>
修行で体験する神秘体験って どんな体験なのですか?
どんな修行をすれば そんな体験が起こるのですか?
(以前、岡山から 大阪道場に数回通ってきた人が神秘体験 ーーー和多志には妄想体験にしか思えませんでしたがーーーを 得々と語っていました。)
体外離脱のことが書いてあるのですが それを変化神の体験と呼ぶのですか?
和多志には一度もそんな体験がありません。
<Jさんの返答>
こういった体験は、ヨーガ・密教の世界では、オーソドックスなものです。
臨死体験者の話としてはよく聞きますが「体外離脱の体験」って皆さんされたことがありますか?「オーソドックスな体験」ということに ショックを受けたのです。
和多志は仏教のことも、ヨーガのことも全く知らないまま この場に辿りついてしまった故の ショックと言えるの かもしれません。
ダンワールドの パワーブレィンメソッドというプログラムの中に 「一つになる体験」というエクササイズがあります。
視覚を閉ざし 対象に意識をとどめる 体験なのですが 和多志はすぐに 次のステップの 無我の体験(と呼ばれる)に入っていくといわれます。
身体の感覚が無くなり 超平安なリラックス体験です。
全ての想念を消し 想念を消している自分、魂までも消した時 胸からエネルギーが 立ち昇り、目を開けると あたりはひかりの海でした。
それは心地よい体験でした。
エネルギーがよい場所に行けば 何もしなくてもきらきら輝くプラウナは見えるのですが また別の光なのでしょうか?
白昼光を分光すれば虹色になります。七色の虹が集合すれば無色透明・・・
金色の光(生命エネルギー・プラウナ)は白昼光とは別の光なのでしょうか?
自然金・金鉱石の中に竜の姿をよく見ます。
金色の竜は創造主だと聞いたことがあります。金は完全な存在の象徴です。
古来錬金術が試行されてきました。もしかしたら真実の神秘体験とは 自分が金の光であることに氣づくことかも知れません。
ウィキペディアには
「錬金術(れんきんじゅつ、亜: خيمياء 羅: alchemia, alchimia 英: alchemy)とは、最も狭義には、化学的手段を用いて卑金属から貴金属(特に金)を精錬しようとする試みのこと。 広義では、金属に限らず様々な物質や、人間の肉体や魂をも対象として、それらをより完全な存在に錬成する試みを指す。」と記されています。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8C%AC%E9%87%91%E8%A1%93
Facebook北條 毅さん投稿
神社が好きです。これまで、いくつもの有名な、そして無名の神社にも足を運んできました。
こう言うと、「どんなお願い事をしたんですか?「どんなご利益がありましたか?」
そう聞かれることがあります。または、「御朱印を集めてるんですか?」そう言われたりもします。でも、そのいずれでもないんですよね。
ご利益があるからつまり、現実的な見返りがあるからそこに行くわけじゃない。
何か形のあるものがほしいからわざわざ足を運ぶわけじゃない。
神社に行くと「ご由緒書」というその神社の成り立ちを記したもの目にすることがあります。
もちろん、それには目を通します。けれど、そこに書かれた一字一句が事実だとは思いません。例えば、同じ映画を見てもその感想の言葉は、人によって全く異なるように誰かが言語化した言葉は必ず、その人の意識のフィルターを通したものになる。
同じ世界を見ていてもその世界をどう見ているかその世界をどう表現するかは人によって、立場によってバラバラに異なっていく。
陰謀論とかじゃなく誰が仕組んだとかじゃなくそれがこの世界の当たり前の「構造」なんですよね。
良いとか悪いとかじゃなくただ、そういうものなんです。だから、ご由緒書の言葉がすべてだとは思っていません。
僕が見ているのは僕が見たいのは、その言葉そのものじゃない。
本当に見るべきものは形になっているものの、その周辺にこそある。真実は、形になっていない部分にこそあると思っています。
神社という建物を見ることが目的なんじゃない。
現実的な利益を求めることが目的なんじゃないし
御朱印という形あるものを得ることが目的なんでもない。
神社という「場」に触れること。形あるものの、その周囲に見えないけれど、確かに「在る」
様々な力場に触れることご由緒書の、その背景にある「書かれていない事実」に思いを馳せることその、形にならずだからこそ本質的な「体験」を求めて僕は神社という「場」へと
足を運ぶんです。3次元というこの現実を生きているからこそ形あるものは、とても重要なものです。
けれど、だからこそ 同時に、その「形あるもの」がすべてではないことを「形あるもの」の、「具体的なもの」のその奥に、あるいはその周りにある「形ないもの」にこそ真実が隠されているということを感じる取ろうとすることが大切だと思うのです。
いま、この時代だからこそ特にね。
形あるもの、具体的でわかりやすいものを信じすぎないこと。
それはあくまでも、ひとつの見方であって世界はもっと大きく複雑なものだということを
受け入れること。
形あるのも、わかりやすいもののその外側にこそ、本当の世界の姿はある。
何を信じ、どんな世界を見ているのかがいま様々な出来事によってそれぞれの世界で
誤魔化しようもなくあらわになってる。世界はきっと、あなたも、僕も想像しているよりずっとずっと大きくて、複雑で多様性に満ちあふれながらそのすべてが大いなる流れの中にある
そんなものなんだと思うから。すべてが想像の範囲内のわかりきった世界なんてつまらない。
想像を超えた世界にこそ僕らは生まれ、生きているんだと思うんだ。
そう思ったほうが、楽しいよね?この世界を閉塞した息苦しいものだと思うのか
それとも
想像を超えた、可能性にあふれたものだと思うのかどう思おうと、それは自分次第だ。
それなら、楽しい方を面白そうな方を選んだほうがいいよね。
僕は、そちらを選んでいきたい。
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