Facebook磯野 等さん投稿記事
#酒見神社 の #夏越神事(#輪くぐり) は毎年8月第1土曜で、本日でした。
宮司さんが籠守勝手神社と兼務なこともあり、こちらも #真菰 で調製された茅の輪です。
黒板には、茅輪祭・天王祭・水神祭とありましたが、茅輪祭と天王祭は18時からはじまる輪くぐりのことで、その前に鳥居の脇にある水神社でも神事が行われました。
酒見神社の祭神はアマテラス。
本殿は真っ直ぐ、伊勢に向いている。
ここは倭姫の元伊勢、尾張の中島宮とされてますが、もっと遡ればニギハヤヒが国譲りしたあとに隠居した宮山なので、倭姫の時代にこの聖地を避けることはできなかったのでしょう。
それと関係するわけではありませんが、天王祭の茅の輪は牛頭天王でありスサノオの神事。
そして、夏越大祓(なごしのおおはらえ)の祝詞、大祓祝詞に出てくる祓戸の神セオリツヒメ。
水無月晦日は本来、新月で、太陽と月が重なる日。同時に行った水神祭は、このセオリツヒメのことでしょう。ニギハヤヒとセオリツヒメ。太陽神と水神。火と水。
当地で古くから行われてきた祭りに、蘇民将来の茅の輪が習合していったのかもしれません。
宇都宮二荒山神社・天王祭
溯る光となりし神輿かな 高資 登りつめ水とたゆたふ神輿かな 高資
祭より帰りて水のうまさかな 高資 焼の雲に渦巻く宇都宮 高資
勾玉の雲居に生るる梅雨晴間 高資 みすまるの雲の珠かも天王祭 高資
Facebook髙梨勇樹さん投稿記事
富士山に大山祇=スサノヲ=エンキイア(ルシファー)が居る。堕天使とは先発として降りてきたもの事じゃね?
https://ameblo.jp/yippee-happy/entry-12519553511.html?fbclid=IwAR0st7vbsRE810eVTRVd76yMelYMQMcWXxox-t5mdiY_DfZ1U8cgT4QsAik 【龍の復権 30 大山祇神社と龍神スサノオ】より
みんな元気ですか 続きだよ・・・
大山祇神社とスサノオとのつながりが隠されているメッセージとは・・・
ウィキぺディアにはこの神社の由緒としてこう書いてあります。
「山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。
源氏、平家をはじめ多くの武将が武具を奉納し、武運長久を祈ったため、国宝、重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集まっている。
近代においても日本の初代総理大臣の伊藤博文、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめ、現在でも海上自衛隊、海上保安庁の幹部などが参拝している。」これは実に不思議な事なんです。
記紀にも昔の歴史の書籍にもオオヤマズミという神様が山や海のたくさんの戦いでめざましい活躍を見せたと言う事はまったく出て来ません。
それにも関わらず戦いの神様として源氏・平家の頃からはっきりと多くの武将から限りない尊崇を受けています。
しかも日本に残る約4割の国宝級のヨロイ・兜が奉納されています。
これは想像を絶するほど戦いに実績があった神様だけが集める事が出来る尊崇の念です。
しかも祈れば力を与えられたのです。それほど実績のある人が確かにここに祀られています。
しかも歴史上消えてしまっているのです。この条件を満たす古代の歴史的人物は一人しかいません。日本を統一し日本の国を造ったスサノオその人なんです。
この事を念頭に置くと色々な謎が解けて行きます。
次に注目したいのはこのクスノキの写真の乎千命(おちのみこと)という名前です。
この神様は実はスサノオの直系の親族です。スサノオの息子ニギハヤヒの孫にあたると思われます。ちなみに現代の「越智さん」あるいは「越知さん」という家系の先祖です。
神社の伝承にも乎千命がこの土地にこの神社を築いたとあります。自分が尊敬してやまないひいおじいさんのために創建したと思えます。
もし写真の説明のように本当に乎千命が植えたのであればこのクスノキの樹齢はおそらく言い伝えのように2600年ではなく1900年程と言う事になります。
他にも注目したいのは、同じくウィキぺディアによる以下の記述です。
「毎年春の御田植祭(旧暦5月5日)と秋の抜穂祭(旧暦9月9日)において、大山祇神社の御淺敷殿と神饌田の間に設けられた土俵で行われる相撲神事である。
「稲の精霊」と「一力山」による三本勝負で行われ、稲の精霊が2勝1敗で勝つ。
「すもう」は一般に「相撲」の字を当てるが、ここでは、相撲を含めた広義の力くらべである
「角力」の文字を用いて一般の相撲とは違うこと、神との力くらべを表すとされる。」
相撲を角力と書くのは神との力比べ・・・云々と言うのはなんだかわけのわからない説明のような気がします。これはスサノオが牛頭天王と呼ばれていたことを思い起こせば
意味がもっとはっきりするのではないでしょか。
これは牛の角の力の事だと・・・。もうひとつスサノオは稲作を日本で初めて奨励しました。
稲の語源は「稲妻」・・・つまり雷なんです。雷がなって雨が降ると稲が元気に実ります。
そう思うと季節感も色鮮やかによみがえります。稲が風に揺れる青い波がしらと風が雨と共に
運んで来る香りさえ感じます。スサノオは別名を雷神(いかずちのかみ)とも高籠神(たかおかみ)とも呼ばれていました。
この二つの神様とも大山祇神社の摂社に祀られています。高籠神の一文字「籠」の字は以前ご紹介した裏伊勢籠神社の文字にあてられています。ここでもスサノオ・ニギハヤヒとつながります。大山祇神社の主祭神はスサノオのことなんです。
それに・・・この高籠神及び雷神という別名こそがスサノオが龍神である事を表しているのです。続きはまたね・・・
https://minamiyoko3734.amebaownd.com/posts/14677769/ 【高野山】
https://ranyokohama.amebaownd.com/posts/6913061/【スサノオ】
https://www.min-iren.gr.jp/?p=46138 【神々のルーツ 素戔嗚と牛頭天王】
文・写真 片岡伸行(記者)
祇園祭が開かれる夏の八坂神社(京都市東山区祇園町)
祇園祭が開かれる夏の八坂神社(京都市東山区祇園町)
神社の歴史から日本の成り立ちを探るシリーズ。
今回は「祇園さん」と呼ばれる京都の八坂神社。
祇園とは仏教僧院のことで神道ではありません。
しかも、八坂神社が祀るのは日本神話の素戔嗚。
複雑に織り成された祇園さんの歴史を探ります。
夏の京都は日本三大祭りの一つ「祇園祭」で賑わいます。祭りを開く八坂神社(京都市東山区)は「京の東の守り神」とされる古社で、全国にある約2300の系列神社の総本社。皆さんのお近くで八坂神社の名前を耳にしたことがあるでしょうか。京都の八坂神社は、朝鮮半島北部にあった国・高句麗と深い縁のある神社です。
高麗人が祀った祇園社
八坂神社は元々、「祇園社」(感神院)という名の神仏習合の地でした。2月号で紹介した明治維新時の神仏分離令(1868年)によって八坂神社に改称し、名称のみならず祭神も変更させられました。
祇園社ではそれまで牛の頭と書く牛頭天王を祀っていましたが、「日本神話に出てくる神を祀れ」と言われ、祭神を素戔嗚に変更したのです。
牛頭天王とは釈迦が説法をしたという古代インドの僧院・祇園精舎の守護神で、これが祇園社の由来です。一方、素戔嗚は日本神話で天照の弟とされ、八岐大蛇を退治したエピソードなどで知られる神話上の皇室の先祖です。素戔嗚と牛頭天王、どんな関係があるのでしょう。
八坂神社が1870年に出版した『八阪社舊記集?』に、祇園社の起源が次のように記されています。
〈斉明天皇の即位2年(656年)8月、韓国の使い伊利之使主が来朝したときに、新羅国の牛頭山に座す素戔嗚の御魂を八坂郷に祭ると伝えられる〉
これは『日本書紀』にある〈高麗から大使・達沙、副使・伊利之ら総勢81人が訪れた〉との記述と符合します。7世紀半ば、高麗(高句麗)の使節訪問の際、素戔嗚を新羅の国の牛頭山から八坂郷に遷し祀ったというのです。
新羅から来た素戔嗚
素戔嗚については『日本書紀』第1巻に次の旨の記述があります。
〈素戔嗚は、その子・五十猛と新羅の国の曽尸茂利というところにいた。ここにいたくないと言って船に乗り、出雲国の簸の川の上流にある鳥上の山に着いた〉
曽尸茂利とは古代朝鮮語のソホル(ソウル)で、都の意。素戔嗚は新羅の都から、出雲国(現在の島根県東部)に渡って来たというのです。「簸の川」は島根県東部と鳥取県西部を流れる斐伊川のこと。「鳥上の山」は鳥取県日南町と島根県奥出雲町との境にある船通山のことで、出雲地方では古来この山を鳥上山と呼んでいました。
皇室に受け継がれた高麗楽曲
では、素戔嗚がいたという「新羅国の牛頭山」とはどこなのでしょう。
韓国には牛頭山がいくつもあります。新羅の首都があった南部(現在の韓国慶尚南道居昌郡)にもありますが、かつて高句麗に属し新羅に征服された地(江原道春川市)に牛頭山があり、ここが曽尸茂利の比定地です。※
日本が朝鮮を支配していた1919年(大正8年)、この地に明治天皇と素戔嗚を祀る江原神社が建てられました(戦後、廃社)。当時の日本政府も素戔嗚と関係の深い地だと認めていたのです。
皇室伝統の雅楽に、高句麗から伝わった高麗楽曲「蘇志摩利」があり、やはり素戔嗚と新羅の地を題材にしたものです。
高麗の使節・伊利之が訪れた12年後(668年)、高句麗は唐と新羅に攻められ滅亡し半島の歴史から姿を消しますが、その文化の精髄は祇園社だけでなく列島の皇室に受け継がれたのです。(つづく)
※比定地 他の類似の場所と比較したうえで推定された地のこと
https://blog.goo.ne.jp/gozutennou/e/2919ffcf8dc639bb2ede5bcc6e1909a2 【牛頭天王と蛇神】より
信濃国分寺の所有する『牛頭天王之祭文』の後半には次のように書かれています。
「牛頭天王 婆梨采女(はりさいめ、または、はりさいじょ) 武荅天神 八王子 蛇毒気神王等之部類眷属(けんぞく) 愛愍(あいみん)垂(たれ)納授(のうじゅ)ヲ給ヘト 敬(うやまいて)白(まおす) 再拝々々」とあります。
眷属(けんぞく=部下) の中では蛇毒気神王が代表で書かれているのです。
京都大学附属図書館蔵の『牛頭天王御縁起』の後半においても、
「南無大悲牛頭天王 武答天神 婆利采女 八大王子 相光天王 魔王天王 倶摩羅天王 徳達神天王 羅持天王 達尼漢天王 侍神相天王 宅相神勝天王 蛇毒気神王 興官受福神 摩訶羅大黒天神 各々 八万四千六百五十余神等眷属」と書かれ、蛇毒気神王 は眷属の中でもトップに書かれています。
そもそも「蛇毒気神王」とは何者なのでしょうか。「ヤマタノオロチ」のことではないかという説があります。「ヤマタノオロチ」の御霊を弔うために祀ったという訳です。正しいかもしれません。しかし、わたしは想像するのですが、蛇の中でも毒蛇を司る神様のことを指すのではないでしょうか。原始時代・古代初期においては蛇は神様、または神様の使いでした。ただ、マムシなどのように毒をもったものもおり、ネズミを捕るなど「ありがたい」存在であると共に、「恐ろしい」存在でもあった訳です。その蛇を司る神をも眷属にしてしまう偉大な存在が牛頭天王様という考えから『牛頭天王之祭文』にも『牛頭天王御縁起』にも書かれたのではないでしょうか。
宗教史・精神史から考えるのですが、自然信仰の原始時代は、樹木や蛇そのものが敬われ、さらに時代が下り、蛇を司る人格的神の存在が登場することになったと思います。蛇毒気神王もそういう人格神のひとりと思いますが、もしかしたら、動植物そのものを神とする観念と人格神を創り出した観念との、「中間的観念存在」もあり、それが「人頭蛇身(半人半蛇)」の像で、蛇毒気神王は「人頭蛇身(半人半蛇)」なのかもしれません。違うかもしれません。
井の頭公園(東京都)の池には弁天様が祀られています。弁天様の近くには上り坂があって、のぼったところに「人頭蛇身(半人半蛇)」像があります。恐らく、縄文時代の水神様の蛇と、仏教伝来以降の水神弁天様を、江戸時代の人が「合体」させたのでしょうが、さらにさらに古い時代から動物神と人格神との「合体」観念はあったと思われます。
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