伝統文化

Facebook竹元 久了さん投稿記事

🌷徒然日記・森の声

  ある人の娘さんがドイツ人と結婚した。それが縁で、二人連れだってちょくちょく日本へやって来るようになった。そのドイツ人の彼が最近頻りに日本の里山の素晴らしさを口にすると言う。ドイツにも森は幾らでもあるに違いないが、日本の森のどこが良いのかと聞くと、下草が繁茂している、むさむさしさが素晴らしいというのである。ドイツにはこの様な感じの森はないそうで、魑魅魍魎(様々な化け物)の息使いや、森に潜む生命のうごめきを感じるそうだ。これが何とも魅力で、そう言う山の中を歩くと、異世界と交流することが出来、大変幸せな気持ちになると言う。たしかに日本人は、自然の風景の中から、季節の微かな変化を敏感に感じとり、四季の移ろいに心を動かされ、そこから俳句や短歌を生み出してきた。春になれば待ち構えていたように梅見に出掛けたり、桜の季節は各地で花見が催され、テレビで開花予報まで出されるのである。これらは当に日本的情緒の典型と言える。

 前秋に、イギリスの友人宅を訪ねたとき、「紅葉狩りに何処かへ出掛けようか~。」と言ったら、「イギリスではそんなことする人は一人も居りません。」と言われてしまった。イギリスでも黄葉する森は幾らでもあるそうだが、それを見る為にだけ、わざわざ出掛ける人は居ないらしい。「イギリス人は、はらはらと散る黄葉に、自分の人生を重ねると言うことはないのか。」と更に問うと、「そんなこと全然ありません。」と一言のもとに否定されてしまった。この時ほど日本人との精神構造の違いに驚ろかされたことはなかった。

最近、ある企業の会長さんがお寺にやって来るなり、「この感じは良いですね~。」と頻りに仰る。この方は旧家の育ちで、小さかった頃、お祖父さんが当時有名な禅僧を招いては、坐禅を組み法話を聞く会を催されていたそうである。お寺の長い廊下、部屋の違い棚の置き時計、開け放たれた廊下越しに見える鬱蒼とした庭の木々、部屋に漂う空気、どれを取っても小さかった頃の思い出に繋がることばかりで、懐かしさが込み上げてきたと言うのだ。

この二人の話を聞いて大いに感ずるところがあった。現代は万事便利になり、効率的で快適な生活が出来るようになった。それは大変結構なことなのだが、その為に失ったものも多い。これは以前別なところにも書いたが、私が四国八十八ケ所巡礼の歩き遍路に出掛けたとき、歩くことがどれだけ人間を本来の姿に立ち直らせるかを身をもって知った。山越えの遍路道を歩ききって、ふと振り返ると、急斜面に張り付くように点々と家が建ち、その間を梅林が覆っている。この何の変哲もない四国山地の田園風景が、代え難い素晴らしさで私の心に迫ってきた。ただ歩くだけで、こんなにも自分の心の内と向きあい、味わい深く景色を見ることが出来たのである。

私たちは日常的に車やバス、電車を利用し、極めて効率的、スピーディーに暮らしている。これは一方で、日々本来の心を失っていると言うことでもある。しかし、それで何か不都合が生ずるかと言えば別段ない。便利で快適ならそれが一番!と言うことになる。ところがもっと広い視野で社会全体を見ると、何処か歯車が狂い始めているのではないかと危惧される。親が子を殺し子が親を殺す、またお年寄りが一生掛かって貯めた命の綱とも言える蓄えを、騙して掠め取り、平然としている事件など、有っては成らないことが日常的に頻発している。これらはどう考えても異常としか思えない。便利さばかりを追い求めるうち、我々の心は知らず知らずの間に蝕まれ、本来あるべき姿を失ってしまったのではないだろうか。

嘗(かって)て人々の日々の暮らしは、自然と一体で、ゆったりとした時が流れていた。常に自分の心をそこに投影し、自然から生きる指針を学び教えられながら生きてきた。だから自然とは、人間の都合で利用するだけのものではなく、同等の価値を持った輩であったのだ。だから自然の持つリズムと歩調を合わせ、自然の発する声なき声に耳を傾け、会話するような気持ちで共に生活してきたのである。ところが現代は、丁度新幹線で矢のように飛ぶ車窓の景色を眺めているように、ただ効率一辺倒となり、その結果行き着いたのが自己喪失なのである。

最初にドイツ人が端無くも言ったように、日本人が古来より保ち続けてきた独特の自然観は、世界が注目する素晴らしい価値なのだが、日本人自身は全く気付いていない。それどころか西欧的合理主義を金科玉条のように思い、益々日本的情緒の大切さを忘れている。このへんでもう一度、近代合理主義から離れ、人間が本来持っている原初の速度で歩んでみれば、見落としたものに再び気付くことが出来るのではなかろうか。


Facebook清水 友邦さん投稿記事

日本を愛するあまり小泉八雲という名前で日本人に帰化したアイルランド人の父と、ギリシア人の母の西洋人がいました。

帝国憲法を発布した翌年の明治23年(1890)ラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn)はニューヨークから横浜に入国しました。

その頃の日本は、西洋諸国と肩を並べようと近代国家を目指していました。

中学校の英語教師として松江にやって来たハーンは、二週間後には出雲大社を参拝しています。

「霞たなびく神聖な大地、漆黒に包まれた境内の静けさ、ホタルと見間違う提灯の灯り、荒垣から聞こえてくるたぎる瀬のような柏手の音」

外国人として初めて出雲大社の昇殿を許されたハーンは、出雲国造の千家尊紀の風貌を古代ギリシアのエレウシス密儀の神官のイメージに重ねていました。ハーンは信仰が生きている出雲大社に大きな感銘を受けました。キリスト教に席巻されたハーンの生まれ故郷ギリシアの古代信仰は廃れ神殿は廃墟になっていました。

1896年にハーンは松江の士族の娘、 小泉セツと結婚し、日本に帰化しました。

英語の教師として松江にいたのは1年3ヶ月でした。

ハーンには幻想や想像力、目に見えない世界に対する深い理解がありました。

「霊( ghosts )を 神々と呼ぶ人たちもいれば悪魔という人もあり、天使という人たちもいます。そのものたちは人のために世界を変えてきました。それは人に勇気と目的を与え、自然への畏怖がしだいに愛へと変わることを教えました。」

ハーンは近代化に邁進して、しだいに近代合理主義に変わりつつある世界に顔を曇らせていました。

「霊も天使も悪魔も神々も今はいません。みな死に絶えました。電気と蒸気と数学でできた世界は、がらんとして冷たく、虚ろです。 」

結婚して増えたセツの家族を養うためと、松江の寒さに耐えかねたハーンは熊本へわたりました。

古い家並みが失われ、近代化が進む熊本でハーンは失望し落胆します。

けれども、熊本の押し込み強盗の話を聞いてから、気をとりなおして日本人の美徳、庶民の暮らし、伝統文化の魅力に目を向けました。

ある日、染物屋に長い刀を帯びて覆面をした強盗が入った。

女たちは恐怖して

「わたしらば殺したかとですか?」と聞いた。

頭領が答えた。

「殺したかなか! 金が欲しかだけたい。それが手に入らんと、こうなるまでたい」と、刀を畳に突き立てた。

腹の据わった老婆が言った。

「そぎゃんに義理の娘ば驚かせんでよかでっしょ。こん家の有り金全部ば差し上げますたい。ばってん、せがれは、京都に行っとるですけん、ここにはそんなにはなかとです。そればご承知おきくだはりまっせ。」

彼女は金庫と自分の財布とを差し出した。

そして信心深い老婆はこういった。

「あなたたちが今私から盗ろうとなさっとは、私自身がかつて前世であなた方から盗ったことがあるけんでしょう。これはそん時の罪に対する罰ですたいね。そんならば、あなた方を騙す代わりに、私が前世であなたたちにした罪をこの際喜んで償うことしまっしょ。」

強盗は、笑いながら言った。

「婆さん、あんたはよか人たいね。あんたば信じるよ。おれたちゃあ、貧しい奴からは盗らん。そこでたい、着物とこれだけはもらうよ。」と、上質の絹の羽織に手を置いた。

老母が答えた。「家の着物なら全部さし上げますばってん、それだけは盗らんで下さりまっせ。それは家の物じゃなかとです。染めに預かった、よそ様の品ですけん、ひと様の着物ば差し上げるわけにはいかんとです。」

強盗は納得して言った。「そりぁそうたいな。そんなら、これは持っていかんたい。」

強盗は二三の着物を受け取って退散した。

その後、強盗が捕まったという話は誰も聞いていない。

(思い出の記・小泉節子より抜粋)

ハーンがいた時代の熊本に筋を通す強盗がいたのです。

のちに「日本の本当の良さは知識階級の中にあるのではなく美徳を代表している庶民の中に存在している」「日本人の道徳は西洋文明のものよりも優れており、西洋から学ぶ必要はない」とまでハーンは書いています。

ハーンは西洋化に邁進する日本に警告をしていました。

「金儲けがなされ、収入が高く、生活水準が絶えず上昇し、必然的に無慈悲な競争が行われている所では、精神的・道徳的な弱者は、他の地域におけるよりもっと恐ろしい極端な行動に駆りたてられる。将来、日本の産業が発展すると共に、必然的に弱者の不幸の増加と、その結果として起こる悪徳と犯罪の増加が危ぶまれている。」

日露戦争の最中の明治37(1904)年9月26日にハーンは54歳で亡くなりました。

絶筆となった神国日本でこう書いています。

「日本人は目に見える一切の森羅万象の背後に、超自然の神霊を考えて、山川草木湖海風雷から井戸・かまどに至るまで、それらを司る神を想像した。

日本人はこの国土をつくった神々の子孫で、この神々こそ我々の祖先である。この祖先である神々に奉仕し、この祖先を崇拝することが、我々の最高のつとめであると考えてきた。

神道では他の宗教のように、地獄・極楽を説かない。

日本人はその肉体が終えると同時に、超自然の力を得て、時間空間を超越した霊となって、子孫と国家を護るのである。この考えのない者は、日本人ではない」(神国日本 )

国家神道以外の民間信仰を迷信として排除して、経済を至上として近代化につき進んだ日本に、ハーンは「お前は本当の日本人か」と問いかけているかのようです。

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清水友邦 呼吸道ワークショップ お知らせ

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無条件の愛、永遠の至福、無限の光、沈黙、虚空などの言葉は、言語で表現できない真実の自己を表しています。

本来の自分に戻るには体の感覚に注意を向け、常に変化している呼吸と身体感覚から始めるのがやさしいのです。

私たちは頭に浮かぶ思考を自分と思い込んでいます。

苦しみの根っこは、頭の中に浮かぶ思考を自分と思い込んでいることにあります。

不安な時、憂鬱な時、退屈している時は思考に同化しています。

思考は過去を思い出し現在にいません。

そして、過去の記憶から否定的な未来を想像して、湧き上がる不安や恐怖に翻弄されています。

そこから自由になるには、否定的な受け入れがたい感情が自分にあることを、しっかり受け止めて、それに心を開くことが必要なのです。

マインドの条件つけを解除すると、制限していた生命エネルギーが活性化します。

微細な身体に、生命エネルギーが流れることで、思考が鎮まり、あるがままに観照している本来の自己に気づくでしょう。

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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