https://fjii.blog.fc2.com/blog-entry-1713.html 【ことを知らない「黛まどか」】より
コメント欄を利用して読者の方々と交信するうちに、「黛まどか」の海外文化認識の程度の低さを示す場面が出現しました。纏めて記事にします。
「むじゃもと」さんが「黛まどか」の発言を引用
ブログ記事〈数々の矛盾を曝して平気な「黛まどか」〉に「むじゃもと」さんから届いたコメントのうち「黛まどか」の発言を引用した部分を転載します。
橙色の文字は、地の文。紫色の文字にしたのは、〈フランス人の質問者の言葉〉だとして「黛まどか」が「引用」している部分です。
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俳句を通して日本文化を伝えるために、パリを拠点にフランス国内と東欧も含め7カ国で100本以上の講演をしました。質疑応答では、日本に居ると当たり前すぎて気付かなかった事にいっぱい気付き、考えさせられました。フランスには約5000人のハイキスト(俳人)がいらっしゃるようですが、そのお1人から「詩は本来自由であるべきだが俳句には型がある。型は束縛だ。矛盾していないか?」と質問を受けました。そこで、ヨーロッパでも通用するような例を挙げて説明しました。体操の床運 12m×12m の枠から出ると減点です。その緊張感ゆえの華やぎは、枠無しで行うよりもはるかに美しい。選手たちは枠を利用して演技をより美しく見せているのです、これが型の効用なのです、と。俳句も型があることで、言葉が枠内で跳躍し別の次元に変 化します。型を使わないのはもったいないのです。
また、日本人は自然を尊び、自然と一体として考える独特の自然観を持っています。一本(ひともと)の菫(すみれ)を自分と同じ身の丈、同じ命の重さと考え、自然にあいさつをするのが俳句です。日々意識していなくても、日本人は自分が大きな自然の中の一部でしかないことを自覚していると、フランスで感じました。フランス人が同じ自然を詠っても自然観が違うのです
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F爺の返信コメントのうち上の引用に関する部分を転載します。
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質問の捏造
リンク先の「黛まどか」の発言を引用します。
>[フランス人から]「詩は本来自由であるべきだが俳句には型がある。型は束縛だ。矛盾していないか?」と質問を受けました。
フランス人でフランス語などの詩作の歴史と現状を知っている人がこんな質問をするはずがありません。フランス語でも、詩には「定型詩」と「自由詩」があります。定型詩にも何種類もあります。「詩は本来自由であるべきだが」という主張は、戯言(たわごと)です。
もしもフランスで本当にこの質問をする愚か者がいたら、
「フランスにも定型詩は存在しますよ」
と切り返しておしまいです。
リンク先にある質疑応答も「黛まどか」特製のパラレル・ワールドの出来事に過ぎません。文化交流使として派遣することに決めた文化庁のお役人は、「黛まどか」の虚言癖に全く気付かなかったのでしょうか。不思議なことがたくさんありますね。
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上の返信に書き忘れたことがあったのに気付いて、次のように追伸しました。
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「むじゃもと」さん
追伸です。上の返信に書き忘れたことが一つあります。
>フランスには約5000人のハイキスト(俳人)がいらっしゃるようですが、そのお1人から「詩は本来自由であるべきだが俳句には型がある。型は束縛だ。矛盾していないか?」と質問を受けました。
欧米人の分類では「定型詩の一種」である「haïku」を捻(ひね)って面白がっているフランス人が
「詩は本来自由であるべきだが・・・」
と質問するでしょうか。
仮に講演会場でこの質問をしたフランス人が実在したとすると、その人は、文学と文学史の素養の欠けた「haïku」懐疑論者のはずですよね。言い換えると、無知蒙昧な輩がいちゃもんを付けたのです。
〈渡仏する前に「こんな質問が出たらこう答えよう」と準備していた。そんな質問をする人は実際にはいなかったけれども、その場面が実現したことにして自慢した〉
のではないか、という疑惑が掛かります。
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「むじゃもと」さんとの交信を受けて、三郎さんからコメントが届きました。
その内容を小分けにしてほぼ全文を引用したF爺の返信コメントは、こうでした。色分けと太字は、F爺が勝手に施したものです。
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三郎さん
>「詩は本来自由であるべき...」
自由詩・散文詩至上主義者が定型詩に喧嘩を吹っかけたのだとしても、俳句だけに矛先を向ける理由がわかりません・・・。
正当な理由なんて、あり得ません。愚かないちゃもんなのです。それほど定型詩が嫌いなら、先ずは自分の国の定型詩を攻撃すれば良いのです。
>詩でも劇でも、韻律という型を伝統的に有してきた文化に対し、「ヨーロッパでも通用する例」とは何という烏滸がましさかと、恥ずかしさを覚えました。
フランスでの講演の場合、何種類もあるフランス語の定型詩を例に挙げるのが一番簡単な答え方ですよね。
体操の「床(ゆか)運動」を勝手に「床運」と短縮する下品さにも呆れます。
>黛まどか女史は、欧州の文学、絵画、建築、音楽などに「型」がないとでも言うのでしょうか。
その疑いは、大いにありますね。いずれにしろ、欧州の文学、絵画、建築、音楽などについて具体的に何も知らないから何も言えないわけで、「自分にとって分かりやすい例」を探したことは確かです。
>100本以上の講演をした質疑応答の中の印象深い例として挙げるにはあまりに不適切なのに、そのことに気づかぬどころか、得意満面な様子で、不憫に思います。
ご本人は、きっと〈素晴らしい例を見つけた〉〈第一級の応答をした〉と確信しているのでしょうね。
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またしても謎が一つ残ります。『奇跡の四国遍路』の編集担当者は、〈フランスにも定型詩はある〉と一言(ひとこと)「黛まどか」に言って推敲を促(うなが)さなかったのでしょうか。それとも、言ったけれども「黛まどか」に聞く耳が無かったのでしょうか。
定型詩は、フランスだけでなく、英語圏にも、ドイツにも、ロシアにも、トルコにも、イランにも、アラブ語圏にも・・・・・・勿論、漢字文化圏にもあるのです。
フランス語のフの字も知らない者が・・・
コメントでの交信には書かなかった重要なことが一つあります。
「黛まどか」がこう言っています。
「フランス人が同じ自然を詠っても自然観が違うのです」
この発言の内容自体は正しいかもしれませんが・・・それを一年間のフランス滞在経験があるのにフランス語のフの字も知らない者が言うのは烏滸(おこ)がましいことです。対話者の母言語が話せない者に対話者の自然観や人生観を的確に理解することは出来ません。
「フランス人の自然観と日本人の自然観は、具体的にどこがどう違うのか」
と訊かれたら、質問に答えるだけの知識も分析能力も「黛まどか」にはありません。
「フランス人の自然観」という括り方自体が、既に議論の対象になります。恰(あたか)も「ベルギー人の自然観」や「スペイン人の自然観」と対立する概念であるかのように聞こえますから。
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