https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20230908-001.html 【《宮沢賢治没後90年㊤》宮澤賢治と法華経信仰(1/2ページ)】より
立正大仏教学部教授 安中尚史氏
論2023年9月19日 09時28分
あんなか・なおふみ氏=1964年、東京都生まれ。立正大大学院文学研究科仏教学専攻博士後期課程単位取得退学。博士(文学)。立正大仏教学部教授となり、2022年より同学部長。日本印度学仏教学会理事・常務委員や日本宗教学会評議員、日本近代仏教史研究会運営委員を務める。共著に『シリーズ大学と宗教Ⅲ 現代日本の大学と宗教』(法藏館)、『仏教をめぐる日本と東南アジア地域』(勉誠出版)、『日蓮教団の成立と展開』(春秋社)など。
今年で没後90年をむかえる宮澤賢治は、熱心な仏教信仰をもって詩や物語を創作していたが、そのよりどころとなった教えは法華経であり、この法華経を絶対の教えとして鎌倉時代に衆生救済を目的に活動した日蓮の行動と思想であって、その橋渡しをおこなったのが田中智学であった。
賢治は明治29年、岩手県花巻で質店と古着商を営む裕福な家に生まれ、何不自由のない生活を送っていた。父親の政次郎は堅実に家業を営みながら仏教に強い関心をもち、「花巻仏教会」の運営を担い、家の宗派である真宗大谷派の僧侶のみならず、他宗派の僧侶を招いて講習会を開催していた。母親のイチも慈悲深く、善根をほどこすために生まれたと、周囲からいわれるほどの人であった。また、賢治の伯母(父親の姉)も熱心な仏教信仰をもつ人で、幼い賢治を寝かしつけるときに、親鸞の「正信偈」を読み聞かせていたという。
このように、仏教の信仰が満ち溢れるほどの環境の中で育った賢治は、一流の仏教者と接しながら成長を果たしていった。先に記したように、父親の政次郎は「花巻仏教会」の運営に携わり、近隣の大沢温泉で毎年「夏期講習会」を開催した。講師として近角常観、暁烏敏、多田鼎、村上専精、島地大等ほか、当時活躍する仏教者を招き入れていたが、その中でも、特に真宗大谷派の暁烏敏とは昵懇となり、家族ぐるみの付き合いをしていた。
この暁烏敏は、清沢満之に師事して宗門の改革運動に参加したことで、在学していた真宗大学を退学させられたが、翌年復学して卒業を果たした。その後は仏教の近代化を目指して清沢が主宰した浩々洞に加わり、また雑誌『精神界』の編集に携わるなど、真宗大谷派のみならず近代仏教に大きな影響を与えた人物であった。
この暁烏敏と宮澤家の交流は、明治39年7月に暁烏が花巻を訪れてからはじまる。政次郎に出迎えられた暁烏は、まず浄土真宗本願寺派の光徳寺で『歎異抄』の講義などを数日間にわたって実施し、連日、100人をこえる聴衆を集めた。その後は大沢温泉に場所を移して夏期講習会の講師を務めたが、その間に宮澤家とひとときを過ごし、子供たちとも遊ぶなどし、その際に賢治は暁烏のそばを離れなかったという。
賢治はこうした暁烏との関係によって、明治45年に政次郎へ宛てた手紙の中で「小生すでに道を得候。歎異抄の第一頁を以て小生の全信仰と致し候」と記し、阿弥陀如来を信じて念仏を専らにすることを宣言している。
さらに、賢治は夏期講習会の講師として招かれた浄土真宗本願寺派島地大等から、その後、「法華経」という賢治の生涯を決定づける、大きなものを手に入れた。夏期講習会の後に島地の寺へ幾度も足を運び、天台宗の法華教学に関する話を聞き、大正4年9月頃に島地編著の『漢和対照妙法蓮華経』を読み、法華経に直接触れることとなった。
以後、賢治は法華経の内容を徐々に理解するにしたがって、その本質を知ることとなり、生涯を捧げる決意をするに至った。大正7年2月、父親の政次郎に宛てた手紙の中で、「私一人は妙法蓮華経の前に御供養願上候」とし、法華経信仰に転じる決意を述べている。さらに翌月になると両親に対して「既に母上は然く御決心され、父上も昨日は就れかと御考へなされ候程に御座候へば、何卒何卒御聞き届け下され度候」と、法華経信仰へ導く内容で手紙を書いている。
こうして、宮澤家の宗旨である浄土真宗から、法華経信仰へと邁進した賢治だが、法華経を読んだり島地を介して得た知識だけで宗旨を変更したわけではなく、国柱会の田中智学と出会い、さらに田中をとおして日蓮の行動と思想に触れた結果のことであった。
田中智学は、明治中期から昭和初期にかけて、日蓮を信奉して在家の立場で活動し、仏教界にとどまらず広く日本社会に影響を与えた。はじめは日蓮宗の僧侶として活動していたが、明治政府の宗教政策に対する日蓮宗の方針を批判して還俗を果たし、日蓮門下の近代化を主張しながら多岐にわたる活動を展開した。
さらに、日蓮主義を掲げて日蓮の法華経に基づいた思想を、宗教・信仰の枠をこえて政治・経済・文化・芸術などと連関させながら、国体思想が盛んになった社会に反映させる主張を展開した。田中の日蓮主義に反応した人物は実に多岐にわたる。政治家・軍人・思想家・芸術家・僧侶などが直接的にも間接的にも、田中の影響をうけてそれぞれの活動を展開したが、その中のひとりに宮澤賢治がいる。
宮澤賢治が田中智学の存在を認識しはじめた正確な時期は不明であるが、先に記した賢治の信仰にかかわる経緯を見直すと、大正4年9月に『漢和対照妙法蓮華経』と出会ってから、大正7年3月に父親の政次郎へ法華経信仰に転じることを求める内容の手紙を出しているので、この間であることは間違いないであろう。その詳細な時期を特定することは難しいが、賢治が友人に宛てた手紙や作品の内容から、信仰の変化、つまりは田中の影響をうけている様子を捉えることができる。
大正5年4月、賢治が友人の高橋秀松に宛てた手紙に、浄土真宗の教えと法華経の教えの違いについて言及し、その問題に悩んでいることが書かれている。さらに大正6年7月に発行された同人誌『アザリア』の中で発表した短歌の内容から、法華経に対する理解が進んでいることがうかがい知れる。憶測の域をこえないが、遅くとも大正6年中には国柱会の田中智学に出会い、さらに田中を介して日蓮の行動と思想に接したことにより、一気に自身の転宗に関する告白と、両親にも転宗を求める動きへ突き進んだのではないか。
実際に賢治が直接に田中智学と会ったのは、大正8年初旬になってからで、それは東京に住む妹トシの入院に伴い母と二人で上京した際に、国柱会本部で田中の講演を聞いたときのことで、さらに大正9年11月頃、賢治は国柱会に入信した。
先にも述べたように、日蓮主義を標榜して日蓮門下のみならず、社会に影響を与えていた田中智学は、この時期に日蓮門下統合に関して活発な活動を展開していた。大正10年の日蓮降誕七百年をひかえ、日蓮宗をはじめとした出家教団の間にあって、その中心に存在していた。
田中智学は著作で当時の日蓮門下の各宗派について「今こゝに謂ふ所の日蓮主義から見ると、總じて同一轍のもので、その異議別意の各主張は、畢竟発展途上の波瀾に過ぎないわけだから、分裂分裂などいふことは、過去の道程で、今日となッては、無條件に解消されて、一大日蓮の下に還元して一つとなッて動くべき筈である。」と述べ、日蓮主義に基づく門下統合活動をおこなっていることが理解できる。
宮澤賢治は、田中智学が門下統合にむけて奔走している時期に出会ったことは確かであるが、果たしてその行動をどれほどに知っていたのかは不明である。厳密にいえば、賢治の生きた時代も現在も「日蓮宗」といえば一つの宗教団体の名称で、行政的にも文部科学省(文部省)の管轄下に置かれている組織を指すが、法華経をよりどころとして生きた日蓮の行動と思想に基づいて組織された宗派を、ひとつの「日蓮宗」という概念で捉えることが一般的といえよう。そうであるならば、門下統合はそれぞれの門下に深くかかわらない人々にとって、どれだけ重きを置くこととして位置づけていたのか。
こうしてみると、田中智学の掲げた日蓮主義は、日蓮門下が設けていたそれぞれの枠を取り払ってしまう考えであり、そこをとおして日蓮と出会った宮澤賢治は、日蓮門下がどれほどに分かれて組織化していることは、さほどに大きな問題ではなかったのであろう。賢治の関心としては、やはり法華経と日蓮が中心であった、自分との橋渡しをしてくれるのが、田中智学であったのではないか。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20230913-001.html 【《宮沢賢治没後90年㊥》土偶坊(デクノボー)という理想像(1/2ページ)】より
身延山大講師 岡田文弘氏
論2023年9月28日 09時12分
おかだ・ぶんこう氏=1987年、岡山県生まれ。東京大文学部卒業、同大大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。身延山大講師、早稲田大非常勤講師、武蔵野大非常勤講師。国際日蓮学研究所主任。現代宗教研究所特別研究員。2019年度にはハーバード大ライシャワー日本研究所に客員研究員として在籍。教意山妙興寺修徒。著書(分担執筆)に『事典 日本の仏教』(蓑輪顕量編、吉川弘文館)、『仏教の歴史2 東アジア:宗教の世界史4』(末木文美士編、山川出版社)、『日蓮学の現代』(浜島典彦編、春秋社)など。
宮沢賢治(1896~1933)が『法華経』の篤信者であった事実は広く知られている。その篤信ぶりの中でも特に有名なエピソードは、かの名詩「雨ニモマケズ」を『法華経』、その中でも第20章にあたる常不軽菩薩品を下敷きにして書いた……という逸話だろう。
常不軽菩薩品の粗筋をまず見ておこう。昔々、仏法が形骸化してしまった「像法」の時代に、ひとりの小僧が現れた。この小僧は読経もせずに、ただ辻に立っては「私はあなたを深く尊敬し、けっして軽んじません。なぜなら、あなたは菩薩の道をあゆみ、いずれ仏と成られる方だからです(我れ深く汝等を敬う、敢て軽慢せず。所以は何ん。汝等皆菩薩の道を行じて、当に作仏することを得べし)」と誰彼なしに呼びかけて礼拝するのだった(但行礼拝)。この口癖から「常不軽菩薩」(常に軽んじない菩薩)とあだ名されるようになった彼は、評判がすこぶる悪かった。なんとなればその当時、仏法は形骸化していたわけで、誰も本気で成仏など目指していなかったのである。そんなところに「あなたもいずれ仏に成る」と唐突に言い迫ってくるものだから、「余計なお世話だ、不審者め!」と衆人は反発したのだ。
こうして疎んじられ、時には石まで投げつけられて追い払われた常不軽菩薩だったが、逃げのびながらも一向めげることなく礼拝行を続けた(「瓦石を以て之を打擲すれば、避け走り遠く住して、猶お高声に唱えて言わく《我敢て汝等を軽しめず、汝等皆当に作仏すべし》と」)。その甲斐あってか彼は、後に『法華経』を体得し、更に神通力も得て、寿命も延ばしたのだという。この常不軽菩薩こそ、釈尊の前世(の一つ)であったそうな……。まさに、全ての者の成仏を説く『法華経』の精神を体現したような菩薩、それが常不軽菩薩なのだ。
この常不軽菩薩こそ「雨ニモマケズ」のモデルらしい、と言われているのだ。たとえば『法華経』の解説書の類には、好んでそう書かれている場合が散見される。とはいえ「雨ニモマケズ」の文中に、常不軽菩薩の名前がハッキリ出てくるわけではない。しかも礼拝《だけ》が任務の常不軽菩薩とは違って、「雨ニモマケズ」が描く人物は子どもを看病したり、老母の農作業を手伝ったり、瀕死の人を慰めたり、喧嘩の仲裁をしたりと(「東ニ病気ノコドモアレバ/行ッテ看病シテヤリ/西ニツカレタ母アレバ/行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ/南ニ死ニサウナ人アレバ/行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ/北ニケンクヮヤソショウガアレバ/ツマラナイカラヤメロトイヒ」)、実に多様で具体的な人助けを行なっている。その有り様は「不軽菩薩よりむしろ、観音菩薩の救済活動に近いのではないか?」という意見すらある(田口昭典『宮沢賢治入門 宮沢賢治と法華経について』星雲社 参照)。
とはいえやっぱり、「雨ニモマケズ」のモデルは不軽菩薩なのである。つとに知られているように「雨ニモマケズ」は遺品の手帳の中に走り書かれていた作品だが、その手帳の数十ページ後を見てみると「土偶坊(デクノボー)/ワレワレカウイフモノニナリタイ」と題された戯曲の腹案が、これまた走り書かれている。言うまでもなく、この題は「雨ニモマケズ」の末尾「ミンナニデクノボートヨバレ……サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」からきている。つまり賢治は「雨ニモマケズ」の詩を更に戯曲に仕立て直して舞台にかけようと目論んでいたのであり、今風に言えばメディア・ミックスを企画していたわけだ。
その戯曲「土偶坊」の第3幕には、主人公が石を投げつけられる場面が出てくる(「土偶ノ坊 石ヲ投ゲラレテ遁ゲル」)。これはまさしく先にも見た、衆人に石を投げつけられる常不軽菩薩の姿に他ならない。したがってここから遡って、原作である「雨ニモマケズ」の構想にも常不軽菩薩の影を見出せる……という次第だ。
ところでこの「土偶坊」という表記、けっして「木偶坊」の誤植ではない。「デクノボー」をわざわざ「土偶坊」と書いて《土》を冠したところに、賢治が重視しつづけた「土の生活」つまり農民の生活を見ることができるからだ(渡邊寶陽『宮澤賢治と法華経宇宙』大法輪閣 参照)。
そして《土》の字には更に、『法華経』に登場する菩薩の中でも常不軽菩薩と同等に重要な「地涌菩薩」を重ねることもできる。地涌菩薩とは『法華経』の後半部に登場する菩薩の集団で、釈尊の久遠の昔からの愛弟子たちであり、未来の世界に同経を広める任務を負うとされる。そんな高貴な大菩薩たちなのだが、神々しく天から降臨したりもせず、普段は「縁の下の力持ち」として地底におり、いざという時には大地を裂け割って出現するため「地涌」(地より涌き出る)の名がある。まさに、「此の土は安穏にして」(如来寿量品第十六)と説いて現実世界をこそ仏国土と見なそうとした『法華経』ならではの、地に足のついた、そして土に根ざした菩薩たちである。
この地涌菩薩を自身の拠りどころとした仏教者が、賢治も尊敬していた日蓮(1222~1282)だった。日蓮は、釈尊の遺志をつぐ地涌菩薩の一員として、そして時にはその加護を受ける者として『法華経』を広めるとの自覚を持っており(「地涌千界の一分にして、加備を蒙る行者なり」『以一察万抄』)、更には自身の活動である《南無妙法蓮華経の題目を大衆に広める》という布教方針を地涌菩薩の任務として標榜していた(「地涌菩薩、始めて世に出現し、但、妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ」『観心本尊抄』)。
ともかく地涌菩薩を標榜していた日蓮だが、彼も賢治と同様、常不軽菩薩にも心を大いに寄せていた。日蓮は、常不軽菩薩と自身の境遇は「全く同じ」と言い切った上で、常不軽菩薩を「初随喜の人」、自身を「名字の凡夫」と呼んだ(『顕仏未来記』参照)。「初随喜の人」とは『法華経』を初めて聞き、喜びの心を起こしたばかりの人、という意(確かに常不軽菩薩は、読経もやれない素人同然の行者だった)。「名字の凡夫」とは仏法の名を耳にしたばかりの者、という意。つまり「初随喜の人」も「名字の凡夫」も、どちらも初心者中の初心者のことであり、まだ何も身についておらず何もできない……賢治の言葉を借りれば、まさに「デクノボー」そのものの人物像である。いわば日蓮は、常不軽菩薩も自分も「デクノボー」同士である、と高らかに宣言したのだ。
無論、この日蓮の宣言は卑下ではあり得ない。なんとなれば日蓮は高弟への手紙の中で、「初随喜」の心とは仏道における「宝篋」すなわち「宝箱」であると賛嘆し、そんな宝箱のような心を《名字の凡夫》こそが抱いているのだ、それが『法華経』の真意なのだ……と断じている(『四信五品抄』)。つまり『法華経』が求める菩薩の理想像とは、難解で高尚なる行学を修めたエリートなどではなくして、ただただ礼拝を行じて雨ニモマケズ風ニモマケズに歩いた常不軽菩薩の姿……つまり初心のままで愚直に生きる「デクノボー」の在り方であったのだ。その「デクノボー」たるありさまに、日蓮はただただ題目を広めた自身の姿を重ね、賢治は「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」と嘆じたのであろう。
土の下から現れた地涌菩薩を標榜しつつ、常不軽菩薩と自身をともに「デクノボー」(初随喜の人/名字の凡夫)と見立て、重ね合わせた日蓮……かくして日蓮が描き出した『法華経』菩薩の理想像(地涌菩薩と常不軽菩薩のハイブリッド)が、「土」の字を冠した「土偶坊(デクノボー)」という、賢治独特の表記に受け継がれていると見える。そんな土偶坊(デクノボー)にワタシもナリタイと、筆者も僭越ながら思うばかりである。
https://www.chugainippoh.co.jp/article/ron-kikou/ron/20230915-001.html 【《宮沢賢治没後90年㊦》音と声に導かれて(1/2ページ)】
詩人 佐々木幹郎氏
論2023年10月10日 09時40分
ささき・みきろう氏=詩人。1947年、奈良県で生まれ大阪府で育つ。米国ミシガン州立オークランド大客員研究員、東京藝術大大学院音楽研究科音楽文芸非常勤講師を歴任。詩集に『蜂蜜採り』(書肆山田、高見順賞)、『明日』(思潮社、萩原朔太郎賞)、『鏡の上を走りながら』(思潮社、大岡信賞)など。評論集に『中原中也』(筑摩書房、サントリー学芸賞)、『アジア海道紀行』(みすず書房、読売文学賞)など。『新編中原中也全集』全6巻(角川書店)責任編集委員。
宮沢賢治の詩に「原体剣舞連」がある。賢治の詩に親しんでいる人なら、代表作の一つとして、現在の奥州市江刺の原体集落(当時の「原体村」)で行われていた「剣舞」(念仏踊り)のことで、「連」というのは「社中」の意味を持つということが分かるだろう。だが、わたしは10代の頃、最初にこの詩に出会ったとき、詩句が奏でる音と掛け声の圧倒的な響きに魅せられながら、題名を何と読めばいいのか、とまどった記憶がある。「原」を「げん」と読んでしまったりしていた。
「剣舞」という岩手県の民俗芸能そのものを知らなかったからだ。頭に黒い羽根を飾り、腰に刀を差し、手に扇を持ち、8人から10人の踊り子がチームを作って、激しく舞いながら回向供養をする。笛と太鼓と鉦が鳴り響く。
各地域によって舞い方や衣装は異なり、その村落の名が「剣舞」の上に付いて、今も踊り続けられている。
賢治の詩には、どの作品にも天と地を結ぶ祈りの声が基層にある。日本の近代詩に多い、自分の内面を緻密に描こうとする方法とは無縁だ。いや、そもそも彼は自分の書くものが「詩」であるとは思っていなかった。自分以外の自然の樹木や草にも「魂」が宿っていて、それぞれ異なった領域にありながら呼応して宇宙を構成している、というのが賢治の重要な考え方であり思想であった。その思想を歩くように描いたものを、わたしたちは賢治の詩と呼んでいるのである。
詩「原体剣舞連」には、「mental sketch modified」(修飾された心象スケッチ)という副題が付されている。この詩が収められた『春と修羅』(1924〈大正13〉年、関根書店)の「序」に、「これらは二十二箇月の/過去とかんずる方角から/紙と鉱質インクをつらね/(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)/ここまでたもちつゞけられた/かげとひかりのひとくさりづつ/そのとほりの心象スケツチです」とあるのだが、詩ではなく彼が「心象スケッチ」と呼んだ作品群の一つ、「原体剣舞連」の場合、他と違ってなおも、「修飾された」という言葉を添えたということ。このことがとても興味深い。
ともあれ、「原体剣舞連」の冒頭は次のように始まっている。
dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah
こんや異装のげん月のした
鶏の黒尾を頭巾にかざり
片刃の太刀をひらめかす
原体村の舞手たちよ
鴾いろのはるの樹液を
アルペン農の辛酸に投げ
生しののめの草いろの火を
高原の風とひかりにさゝげ
菩提樹皮と縄とをまとふ
気圏の戦士わが朋たちよ
青らみわたる顥気をふかみ
楢と椈とのうれひをあつめ
蛇紋山地に篝をかかげ
ひのきの髪をうちゆすり
まるめろの匂のそらに
あたらしい星雲を燃せ
dah-dah-sko-dah-dah
冒頭の「dah-dah-dah-dah-dah-sko-dah-dah」という勇壮な音のリズムを持ったオノマトペ。実際の剣舞の踊りにこのような掛け声はないのだが、賢治自身がこの沸騰するような呪文の声を、剣舞から聴いたのだ。おそらくこのオノマトペの発見が「原体剣舞連」を、作者自身に「修飾された心象スケッチ」と言わしめた正体だろう。
しかもこのオノマトペは、他の詩行に対して3字下げで表記されており、すべての詩行の背後に鳴り響き続けている音であることを示している。
賢治はどこからこの表記法を学んだのだろう。チェロ演奏家としての賢治が、楽譜の表記法からアレンジしたものか。ともあれ、それまでの日本の近代詩でこのようなタイポグラフィ(文字の配列やレイアウト)を示した作品はないのだ。
さて、この音と声のリズムに導かれて、作品はいきなり踊り子たちの踊りそのもののドラマチックな描写に入っている。「げん月」というのは「半月」の文学的用語で、下弦の月や上限の月のこと。「アルペン農」は、アルプスの農夫のこと。
賢治の年譜によると、大正6(1917)年8月28日から9月8日にかけて、江刺地区への地質調査を行っている。このとき「五輪峠」を通った。同行していた友人の一人は、賢治が「五輪峠では、蛇紋岩脈にハンマーを打ち入れ転び散る岩片を拾いながら、ホー、ホー! 二十万年もの間隔の目を見ずに居たので、みな驚いていると叫んでいた」と回想している。先に引用した詩句に「蛇紋山地」とあるが、これは「五輪峠」の岩脈のことなのだ。また、賢治はその岩を割りながら「ホー、ホー!」と叫んでいたようだが、「原体剣舞連」には、
こんや銀河と森とのまつり
准平原の天末線に
さらにも強く鼓を鳴らし
うす月の雲をどよませ
Ho! Ho! Ho!
というふうに、自らが現地で発した声も紛れ込ませている。「Ho! Ho! Ho!」は、彼が感動したときの声なのだ。
「准平原」とは、老年期の山地が浸食されて平原状になった地表面のことで、賢治においては、北上山地を指すか。北上山地は隆起型准平原である。
大正6年9月3日、賢治たちは江刺の人首町にある「菊慶旅館」に宿泊した。夕刻、この旅館からしばらく歩くと、遠くに原体村の神社が見えた。神社の境内から賑やかな音が聞こえるのを耳にした。その音に惹かれるまま、彼は神社の方向へ歩いて行った。ドラマはここから始まる。
神社は「大山祇神社」(奥州市江刺田原字虚空蔵74)と言い、祭神は「大山積神」と推定される。山の神であると同時に海の神でもある。ちなみに、原体村の「大山祇神社」境内のお堂には、虚空蔵菩薩が祀られている。
賢治が初めて「剣舞」を見たのは、この神社の小さな境内だった。その後、彼は各地でいくつもの「剣舞」を見たのだが、それらの経験を、一番最初に出会った場所の名前に代表させて、詩「原体剣舞連」は書かれたものと思われる。この作品のメモには、大正11(1922)年8月31日に作られたと記されているから、原体村での出会いから5年後のことである。
わたしはあるとき、人首町を出て、夕暮れに賢治が大山祇神社に歩いて向かう道を探したことがあった。もちろんそのとき、神社の境内で剣舞は行われていなかったのだが、神社まではまっすぐに続いた農道で、かなりの距離があった。遠くにかがり火が見え、そこから「ダーダー、スコ、ダーダー」の音が聴こえてきたとしたら! それは幻聴のようにわたしを奮い立たせた。歩いていく時間のなかで、未知の原始的な宗教空間が沸騰し出した。音や声は、剣舞の踊りを通して、賢治に一つの命題を獲得させたに違いない。この詩の最後の部分に、「打つも果てるも火花のいのち」、「打つも果てるもひとつのいのち」とあって、人間の生命は宇宙のなかで「火花」のように一瞬であることを讃えようとしたのである。
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