Facebook近藤裕子さん投稿記事
10月14日 「観」 カン みる みせる みる。くわしくみる。ながめる。
〈観〉は二羽のコウノトリの姿と 見る を組合せた文字です。
コウノトリは神聖な鳥とされ、古代中国では鳥占いなどに使われていたといわれます。
右側は「見」。
横から見た人の形の上に大きな「目」を書き、人の目を強調して「みる」という行為を意味しています。
直観 景観 美観 壮観 大観 観察 観賞 観戦、、、、。など 沢山の観の熟語があります。
仏教では
人間の外面的なものの見方を「見るの目」。人の心の本質を見透すのが「観の目」であり、〈智慧のはたらき〉と説かれています。
[遠観山里色 (とおくさんりのしきをみる)]という禅語があります。
遠くから見ないと見えないもの。ものごとは一歩引いて観察することで本質が見えて来る という意味です。
日常の目に写る物や出来事を ただ何となく捉えるのではなく「よく観る」
ことで 漫然とした日常が違って見えて来るものです。
そこから 〈退屈しない人生〉が始まる気がします。
FacebookOSHO Japanese投稿記事
人類の歴史全体のなかで、マハヴィーラただひとりが、心に留められるべき区別というものを設けている。真理に至るにはふたつの道がある、と彼は言う。
ひとつはシュラヴァカの道だ。
シュラヴァカというのは、聞くことができる人、ハートで聞くことができる人という意味だ。
そうであれば彼はなにもする必要がない。ただ聞くだけで充分だ、それで彼は変容させられるだろう。
もうひとつは修道僧の道だ、その人は懸命に真理に至ろうとしなければならないだろう。
私の努力は、修道僧を生みだすためのものではなかった。だからこそ私は話すことを選んだのだーーただ私の言っていることを聞くだけで、あなたは生まれ変わることができるからだ。
ハートのドアを進んで開こうとする気持ちのほかには、あなたのほうではなにも必要とされない。ただ私をなかに入れさせてくれるだけでいい、そうすればあなたは二度と同じではありえないだろう。 Osho
Facebook小森 圭太さん投稿記事【本当の望みは『体感』にある】
先日「リュウ博士」こと八木龍平さんとオンラインで対談させて頂きました。
八木さんは、「成功している人は、なぜ神社に行くのか?(サンマーク出版)」など多くの書籍を出されているベストセラー作家であり、知識科学の博士でもあります。
現在は大学講師を務めながら講演会や神社参拝ガイドなどもされているそう。
対談内容は多岐に渡りましたが、「重要ポイント」と感じているところはお互いかなり共通しており、興味深かったし面白かったです。
なお、実際の対談動画はオンラインサロン「量子論的生き方研究会」のみでのシェアとなりますのでご了承下さい。(*^.^*)
八木さんは博士でもあることから色んな研究事例もご存知で、中でも興味深かったのがカウンセリングの研究事例。
どんな研究かというと、カウンセリングが上手くいった場合と、上手くいかなかった場合の、カウンセラーとクライアントの対話を比較した研究。
そしてその研究で明らかになったことが興味深いんです。(*゚ー゚*)
上手くいかなかったカウンセリングは、クライアントが滑らかに、ロジカルに話している。
その一方、上手くいったカウンセリングは、クライアントがたどたどしく、ゆっくり話しているそう。
上手くいかなかったカウンセリングは、クライアントが、常識や社会通念的なものが元になった知識で話をしているので、滑らかでロジカル。
反対に上手くいったカウンセリングは、元々言語になっていない感覚をなんとか言語にしようとしているので、たどたどしくゆっくりになる。
つまり、クライアントが体の感覚にアクセスし、それを何とか言語にしながら対話しているカウンセリングは上手くいっているそうなのです。(((o(*゚▽゚*)o)))
私たちは子供の頃からこんな体験を多く積んでいます。
子供「こんな事やってみたいんだけど〜」
親「危ないからダメ、こっちにしときないさい」
もちろん「子供のため」の忠告です。
ただ、こういう経験が積み重なっていくと、「本当の望みは叶わないんだ」、「本当にやりたいことは辛くて大変なんだ」という刷り込みが潜在意識に入っていきます。
そうすると「あー、あれいいな〜」、「やってみたいなー」などと感じてもすぐに蓋をしてしまう。
本当に欲しい状態や、本当にやってみたいことなどを「なかったこと」にしてしまっている可能性があるんです。(>_<)
本当のあなたがどんなことを求めているのか、というヒントは、あなたが無条件に「楽しい」、「嬉しい」、「やってみたい」と感じることの中に隠れています。
つまり、あなたの『体感』に隠れているのです。
本当のあなたは『体感』であり、知識ではないからです。
あなたの周りでも、自然と上手くいっている人だったり、想定外の成功を収めたりしている人は、自分の感覚に忠実だったりしませんか?
実際、八木さんもそうですし、私もそういう部類だったりします。(・∀・)
そして、これも量子力学の観点から説明可能なんです。
常に、本当の「喜びと楽しさ」の意識でいれば、エネルギー状態の素粒子すべてが「喜びと楽しさ」で物質化、つまり量子状態が確定します。
波動関数的に言えば、通常では特定することができない素粒子の位置と時間が、「喜びと楽しさ」を意識することで、「喜びと楽しさ」の位置と時間に偏る、となるんです。
つまり、それが現実化する、ということです。
何しろ、この世は全て「素粒子」で出来ているわけですから。(^∇^)
上手くいったカウンセリングも体感にアクセスしたからであって、それはつまり『本当の自分』にアクセスしたから。
つまり本当の自分が感じていることに素直になれば、誰でも上手く行くのです。
脅すつもりはないんですが、「もうちょっと危機感持った方が良いよなー」、と思うことがあります。
それは、「本当に望んでいる事をせずに、この世を去る事になるかもしれない」という事にです。
誰でもいずれ死ぬのは確実です。
私も、あなたも、いずれ必ずこの世を去ることになります。(^_^)
その時に「あー、あれをやっておけば良かった〜」(TωT)と後悔するのか。
それとも、「あー、やりたいことは全てやりきったー」(´∀`)と満足するのか。
少しのお金も失いたくない、人から馬鹿にされたくない、変な目で見られたくない、との恐れから、本当の望みを封印しちゃっていませんか?
さほど重要でないことはどんどん手放して、本当に必要としている体験、つまり本当のあなたが望んでいることに集中していく。
そこで感じる「充実」、「幸せ」、「喜び」などの感情、意識が、ますますその様な状況を引き寄せることになりますよ。
早いとこ、本当の自分を解放しちゃった方がいいですよ〜。(^O^)/
Facebook人の心に灯をともすさん投稿記事 【待つことの大切さ】
渡辺和子氏の心に響く言葉より…
幼い時、父は私をある神社に連れて行ってくれて、「ここに祭ってある神さまは待つことが大嫌いだったから、ごらん、今でも境内には 松の木が一本も植わっていないだろう」 と言った。
父の思い出はごく少ないのに、なぜかこの会話が今日にいたるまで記憶に残っている。
「だから人を待たせてはいけないよ」と言おうとしたのか、それとも「神さまにしては忍耐力がなくておかしいね」と言いたかったのか、平常から口数の少ない人だったから、教訓めいたことをつけ足さなかった。
「果報は寝て待て」などという諺が日本にあったのかと疑うほどに私たちは今日、早く結果を見たいと焦り、待つことを罪悪視するまでになっている。
それはめまぐるしい変動の世に当然のことであり、寝て待っている間に事態は変わってしまうのではないかという不安と、結果を今すぐこの眼で見なければ安心できないという不信感のあらわれでもあろう。
コンピューターはたちどころに運勢、結婚の相手、成功疑いない事業をはじき出してくれ、乗り物はおろか銀行の窓口にいたるまで、とにかく待たないですむように、 待たせないですむようにという配慮がされている。
四季を問わず店頭にある野菜、果物類は、自然の破壊と相まって日本特有の季節感、それは待ちこがれたあかつきに、はじめてしみじみと味わうことのできる春夏秋冬のあの美しい味わいをとりあげてしまった。
結果を焦る人々に応えて登場したインスタント文明の落とし子として、そこには自分の欲望と、その欲望の対象との間に時間も距離も置くことができないジェネレーシ ョンが生まれた。
新聞を賑わす非行、犯罪の数多くは、知能犯というよりもむしろ一時の衝動を抑えることのできない人たち、つまり自分に「待った」をかけることがないままに突っ走った人々の姿でしかない。
待つということは、この不完全な世の中に神仏ならぬ身で生きている者にとっては 逃れられない宿命だと思う。
短い一生だから待ってなどいられないと言うかも知れないが、そんな短い、死でピリオッドが打たれるような人生だからこそ、ままならぬことも多いのだ。
待っている間はたしかに辛い。
しかし待った後の喜びは待たずして得られた喜びと、その質において異なるのである。
そうだとすれば、待たないですむ世の中であるかのように子どもたちに教えてはいけない。
ほんとうに子どもの幸せを願う親、教師であるならば待つことの意味と、待っている間のすごし方を自分の生き方で見せるはずではないだろうか。
教育そのものが待つことを必要としている。
それは種まく者にいつも求められる忍耐と謙虚さであり、蕾(つぼみ)が内からの力で自然にほころびるのを待つ信頼にも似ている。
死んだ後に墓の傍に小さな松が植えられるような、そんな生き方をしたいと思う。
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渡辺和子氏は陸軍教育総監だった渡辺錠太郎氏の次女として生まれた。
1936年2月26日に起こった陸軍の青年将校のクーデター未遂事件「2.26事件」で、渡辺総監は殺害されたが、その場面を渡辺和子氏は目撃することになる。
まだ、9歳のときだった。
待つことが苦手な人は多い。
たとえば、エレベーターに乗ったとき、「閉」ボタンをすぐに押してしまう人。
一般的エレベーターのドアが開いている時間は、約4~5秒だという。
その何秒かを待つことができない。
あるいは、メッセージを送ったのに、すぐに返事が返ってこないとイライラしてしまう人。
また、レストランやカフェ、あるいは役所や銀行などの窓口で少し待たされると激高してしまう人。
そして、人との待ち合わせで、1分でも待たされると怒りだしてしまう人。
「人生の「ねじ」を巻く77の教え」(ポプラ社)の中にこんな文章があった。
『動物には「待つことのできる動物」と「待つことのできない動物」がいます。
ネコやネズミは「おあずけ」することができない。イヌの場合は、簡単な訓練で20秒は待てる。サルは1分、チンパンジーは5分と聞いています。人間はさまざまです。
赤ん坊をはじめ、これに近い人は、しばし待てずにダダをこねます。
いずれにしても、「待つ」というのは高等な精神活動ですので、これができるような人間性を磨かねばなりません。
とくに最近は、待てない社会になりつつあります。
みんな日々の生活や仕事に忙殺され、せっかちになる度合いが高まっているのです。』
昨今は、教育も、会社における研究投資も、すぐに結果を求める傾向にある。
「機が熟すまで待つ」、というのは成功するための大事な視点であり、余裕のある大人の対応だ。待てない人は自己中心的な人。
自分のペースでないと納得できず、イライラしてしまうからだ。
そして、一代で会社を大きくしたような経営者にありがちなタイプの人は、待てない。
仕事に限らず、すべてに対してスピード感が優先され、同時に「待つこと」は時間の無駄という意識があるからだ。
スピードが優先される時代だからこそ…今一度、待つことの大切さを心に刻みたい。
Facebook竹元 久了さん投稿記事
🔵共に幸に生る「ともさち」を願う日本。
私たちの祖先(日本人)はこの列島風土のなかで、どのように自然と向き合い、地域・自然とのコミュニケーションを保っていたのでしょう。
祖先たちは、回帰循環する自然のなかで自分たち人間を遥かに超えた大いなる存在、光り輝くものを感じ、自然に対して深い畏敬の念を抱き、祈りつつ暮らしていました。同時に自然風土の恵みを実感し、感謝を忘れませんでした。
私たちの祖先は、「生かされて生きている」ことを自覚していたのです。
ここに、日本人の本質(精神基盤)を見ることができます。
つまり、私たちの祖先は、自然という大いなる存在とのつながりの感覚をもっており、そこから「自然と共にある」という感覚(安堵、喜び、幸せ感)が生まれ、自然への畏敬と感謝が日常の生活態度となっていました。
この精神基盤は、祖先・神仏・世間・家族に対しても、共に生きる「ともいき」の喜びと感謝の念(おかげさまの心)を持って暮らすことを「幸せ」と感じるようになりました。共に、無事に生きていることの有難さ、幸せです。大いなる自然のなかで、皆と共に幸せに生きる「ともさち」を目標に暮らしていたのです。
私たち日本人は、こうした精神基盤をバックボーンとし、3つの特質を備えています。自然と共に人と共に地域と共に生きる「ともいき」、外国からの文化文明と共に新たな価値を生み出す「ともうみ」。そして共に幸に生る「ともさち」を願う民族となったのだと思います。
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