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春になるとイーハトーブ(岩手県)ではマグノリア(木蓮)の花が咲きます。
宮沢賢治は作品「マグノリアの木」でマグノリアの木を寂静印(じゃくじょういん)といっています。
仏教の言葉で煩悩の炎が吹き消された悟りの世界のことですが賢治の言葉で言えば「まことの幸福(ほんたうのしあわせ)」です。「まことの幸福」の象徴がマグノリアの花です。
主人公はマグノリアの白い花(まことの幸福)を求めて厳しい山や谷をいくつもいくつも登ったり下ったり、沓(くつ)の底を踏み抜きながらも捜し求めます。
ところがマグノリアの白い花はいくら捜せど見つかりません。ついに疲れ果てて座り込んでしまいました。ふと、今自分がいままで歩いてきた方向に目をやると、山谷の刻みいちめんにまっ白なマグノリアの木の花が咲いているのでした。
マグノリアの花はどこか遠い峰々に咲いているのではありません。歩いてきた道程すべてにマグノリアの花が咲いていたのです。煩悩に覆われて見えなかったのです。
主人公は永遠の幸福(あること・being)を求めて、旅(すること・doing)をします。
しかし、幸せを得ようと努力(すること・doing)を続ける限り、今ここ(あること・being)にいられないのです。これが探求の道で起きるパラドックスです。
水の中に住んでいる魚が水に気づかないようにいつもあたりまえに「まことの幸福」が目の前にあるために気がつかないのです。
思考というフィルターがかかっているために目の前のマグノリアの花が見えませんでした。
疲れ果てて座り込んだときに、思考が落ちてはじめて思考を通さずに見ることができたのです。どこか遠くに「まことの幸福」があるわけではありません。
歩いているいまここに「まことの幸福」があります。探して歩いている時 苦しんでいる時 悲しんでいる時も「まことの幸福」の只中にいたのです。
賢治は作品「マグノリアの木」で覚者の善と言っています。
「そうです、そしてまた私どもの善です。覚者の善は絶対です。それはマグノリアの木にもあらわれ、けわしい峯のつめたい巌にもあらわれ、谷の暗い密林もこの河がずうっと流れて行って氾濫をするあたりの度々の革命や饑饉(ききん)や疫病やみんな覚者の善です。けれどもここではマグノリアの木が覚者の善でまた私どもの善です」
賢治は天災や疫病や戦争のあらゆる災難を覚者の善と語ります。
すべ ての物事はお互いに無関係ではなくて相互に依存しています。
物事の現象は因縁によって起き、お互いが 溶け合ってひとつに繋がっています。
華厳経ではそれを「事事無礙(じじむげ)」といっています。
「ええ、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまた あなたが感じているのですから そうです。 ありがとう。 私です。 またあなたです。 なぜなら私というものもまた あなたの中にあるのですから」 賢治・マグノリアの木
私たちの知覚はマインドによって制限されています。 本来の姿から遠く離れた状態で過ごしています。あるがままの世界を分離して見ています。
私たちの本質は永遠の至福(ほんたうのしあわせ)です。
どんな困難な状況でも宇宙を信頼して絶えず変化していく存在の流れに身を任せることができれば、その出来事全体のプロセスは心と体と本当の自分の統合をもたらすでしょう。
宮澤賢治 マグノリアの木 - 青空文庫
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今年も、大変お世話になりました。2021年の間に撮影した写真を約5分のムービーにしました。農学校の教師をしていた賢治は、『新しい時代のコペルニクスよ余りに重苦しい重力の法則からこの銀河系統を解き放て』と生徒たちへ書いています。
学校で軍国主義の教育が強まってきた1926年30歳の時宮沢賢治は教師を辞めました。
「神様の子孫である天皇陛下は神様と同じで、兵隊さんは天皇陛下のために働く人です。これからは先生の言うことをよく聞き、立派な兵隊さんになれるよう勉強しましょう」と子供達に賢治は言えなかったと思います。
教師を辞めて始めた羅須地人協会の案内状で賢治は次のように書いています。
『今年は作も悪く、お互ひ思ふやうに仕事も進みませんでしたが、いづれ、明暗は交替し、新らしいいゝ歳も来ませうから、農業全体に巨きな希望を載せて、次の仕度にかかりませう』
人生は思い通りにならないことばかりですが、賢治はいずれ明暗は交替しますよと希望を述べてます。
「陽極まれば陰となし、陰極まれば陽となす」という言葉が示すとおり、わたしたちが生きている世界は相対的な世界なので、いつも二つの極の間を揺れ動いています。
押し寄せる波は必ず引きかえし、満ちた月は欠けていき、欠けた月は満ちていきます。
喜びは悲しみに変わり、悲しみは喜びに変わります。
人の心も世の中の流れも変化してとどまることがありません。
賢治は弟清六さんへの手紙で
「我々は、楽しく、正しく進もうではありませんか。苦痛を享楽できる人は、本当の詩人です。もし風や光の中に自分を忘れ、世界が自分の庭になり、或いは惚として銀河系全体を一人の自分だと感じるときは、楽しいことではありませんか。」と言っています。
過去に起きたことに囚われてばかりいたり未来に不安を感じて考えてばかりいては前に進めません。
私たちも銀河系全体を感じて、目の前にある自分がやるべきことに目を向け次の仕度にかかりたいと思います。
2021年 お世話になりました。 ありがとうございました。
2022年も どうぞよろしくお願いします。 よいお年をお迎えください。
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8月27日は宮沢賢治の誕生日です。
朝日を見ながら「雨ニモマケズ」を唱えて末期の腎臓ガンから生還された方がいます。
私が敬愛する寺山心一翁先生です。
アリゾナ大学医学部教授アンドルー・ワイル博士が著書「癒す心、治る力」で寺山先生のガンが自然に治癒して消えていく様子を紹介しています。
寺山先生は1936年(昭和11年)東京生まれで、コンピュータ・システムの導入を企業に指導するという超多忙な仕事をしていた48歳の時に右腎臓ガンになりました。
右腎臓を手術で取り除いてもガンが広がり、死を覚悟した夜に寺山先生は臨死体験の夢を見ました。それから 嗅覚が異常に高まって 病室の臭いに耐えられず、消灯後の病室のベッドから抜け出し病院の屋上に寝ていた所、病院の関係者に見つかりました。
そして、自殺の恐れがあるとの理由で、病院を退院させられてしまいました。
生きていることを確認する為に自宅のマンションの屋上に昇り、日の出を眺めていたところ、まばゆい光が全身を貫きました。滞っていた生命エネルギーが流れたのです。
寺山先生は当時の日本のトップクラスの半導体の研究者で科学的な考え方の訓練をして来た科学者でした。
ところが生命エネルギー(クンダリニー)が上昇してエネルギーの中枢センター(チャクラ)が開くと、寺山先生はオーラ(非物質的な微細な身体)が見えるようになってしまいました。
そうなると寺山先生はオーラやチャクラが胡散臭いとか、科学で証明しなくちゃいけないということがアホらしく思うようになってしまいました。
その当時の様子を次のように語っています。
「生きていることだけで幸せでした。太陽が神にみえましたよ。部屋にもどったら、家族全員のまわりにオーラがみえるようになっていました。だれもが神なんだって思いましたね」
そして先生が毎朝太陽に向かって感謝の挨拶をしているときに 突然、宮澤賢治の詩「雨ニモマケズ」が口から出てきたのです。
その中で「欲ハナク、決シテ瞋ラズ、イツモシズカニワラッテヰル」のところで涙がとめどなく出てきて、私がガンを創ったのだということをはっきりと認識したそうです。
そしてガンに対して自分で作った子供だという気持ちが湧き起こり、ゴメンネと謝りました。
そして「愛しているよ」と愛を送り始めましたら、痛みが減少して鎮痛剤を使用しないでも眠ることが出来るようになりました。
肺に転移したガンが完全に消えるまで、3年以上かかりました。
消えてもしばらく5年ぐらいは体調がすぐれませんでした。
宇宙の根源である日の出を、自宅マンションの8階の屋上で見るようになって『雨ニモマケズ』を唱える生活が毎日続きました。
毎日「今日も生きています」と日の出に語りかけているうちに、だんだん自分が皆に愛されていることに気付いて、感謝の念が高まり、生きているという感情が、生かされているという気持ちに変わっていきました。
呼吸をしている自分に気づき、水の大切さを知り、地に足を付けて、運動をして排泄と吸収に注意をはらい心の状態を心地良くしていると、やがてガンは完全に消えてしまったのです。
「おかげで、自分のなかにも、まわりにも、自然治癒力があるということに気がつくようになったんです。そしてだんだん、がんをつくったのは自分自身だったんだということに気づきはじめました。
わたしが、自分のふるまいによって、がんをつくったんです。そのことに気づくと、自分のがんを愛さなければならない、敵として攻撃してはならない、ということがわかってきました。がんはわたしの一部であり、わたしは自分のすべてを愛さなければならなかったんです」寺山心一翁(アンドルー・ワイル 「癒す心、治る力」角川文庫)
寺山先生の人生は私たち人類の行く末とシンクロしています。
寺山先生が右腎臓ガンになった状態が今の私たちの人類の状態です。
当時の寺山先生はガンだと知らされなかったそうです。
まだ地球環境が崩壊しているということを知らされていない人が大勢います。
これから寺山先生が臨死体験の夢を見たように地球に住む様々な人々が地球環境が崩壊するビジョンを見て「私がこの状態を創ったのだ」ということをはっきりと認識する人が増えてきます。自我は一つの世界に境界線を引いて世界を分離してみています。
そして体と心、他者と自分を切り離し、対立と争いを続けてきました。
寺山先生はガンをきっかけに「欲ハナク、決シテイカラズラズ、イツモシズカニワラッテヰル」境地にたどり着きました。
世界との一体感を内面で体験した人は、自然に敬意を持つようになり、攻撃性が低下し、性別、人種、考えの違いに寛容になります。
すべての存在は相互に関係して、あらゆるものが因果で結びついています。
世界が一つだと気がつくと自我が作り上げた偽りの境界線は消えます。
愛に境界線はありません。寺山先生はがんを愛するようになりました。
そして、寺山先生のガンは自然に消えたのです。
『ガンを自分で治すためには、自分の並々ならぬ努力が必要です。まずは血液をきれいにすることです。そして体を温めることです。
最後に、意識を空・無の意識に高めて、不安をなくすことです。意識が高まっていくと、だんだん賢くなっていきます。賢くなると、色々な体の内側の状態が聞こえてきて、からだはいつも治そうとして、一生懸命に努力しているのを、感じ取ることができます。
これが自然治癒力という力です。この力を生かす方法があります。
それは瞑想をして静かな状態で、無になり、「体の発する声を聴く」ことです。
もしもガンになられた人がこのページを読まれましたら、貴方が賢くなる機会を与えられたと思ってください。私も、あなたも、いつか必ず死にます。死亡率100%です。
死を見つめないで、今生きていることを見つめ、どうか毎瞬を、生かされていることを感じて、楽しんでください。
恐怖は死期を早めます。どうか怖れを開放して、忘れてください。』寺山心一翁
寺山先生の人生に転機が訪れたように人類も大転換の時代を迎えています。
「ガンはありがたい贈り物です。ガンは新しいあなたに、新しい命につうじている道なんです」寺山心一翁
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9月21日は宮沢賢治の命日です。賢治は死にゆく時もきれいな青空と透き通った風を感じていました。
昭和三(1928)年の夏、稲作の指導に尽くしていた賢治は急性肺炎になって豊沢町の実家にもどりました。咽喉から出血がとまらず「また なまぬるく あたらしい血がわくたび なお ほのじろく わたしはおびえる」と不安に怯えていました。
昭和五年(1930)になって快方に向かい東北砕石工場の技師となりました。
しかし、昭和六(1931)年九月二十一日に再び倒れたのです。それから二年間は、ずっと病床でした。昭和八(1933)年九月二十一日午後一時三十分、賢治は三十七歳で亡くなりました。
賢治が亡くなった年は何十年に一度の大豊作で街は人で賑わっていました。
賢治の絶筆は、そのことを喜んでいる詩でした。
方十里 稗貫のみかも 稲熟れて み祭三日 そらはれわたる 病(いたつき)の
ゆゑにも くちん いのちなり みのりに棄てば うれしからまし
賢治が息絶え絶えになっている時の詩です。
『だめでしょう 止まりませんな がぶがぶ湧いているですからな 夕べから眠らず
血も出続けなもんですから あたりは青くしんしんとして どうも間もなく死にそうです
けれどもなんといい風でしょう もう清明が近いので あんなに青ぞらがもりあがって湧くやうに きれいな風が来るですな』
(中略)
『あなたの方から見たら ずいぶん惨憺たる景色でしょうが わたくしから見えるのは
やっぱりきれいな青空と 透き通った風ばかりです』(眼にて云ふ)
賢治の身体からは 生ぬるい血があふれる惨憺たる光景ですが、賢治は「透きとおった風」を感じていました。
暴風雨で荒れ狂う台風でも中心は穏やかでいつも青空がでています。
海面が暴風雨で荒れ狂っていても海の底はいつも穏やかで静かです。
心の表層が怒りと恐れと不安に波打つ状態になっても自己の中心はいつも静寂です。
あらゆる出来事に実体はなく気づきという無限の広がりの中で 瞬間から瞬間へ体験が生じては去っています。すべてはかならず過ぎ去ります。
気づくと いつも 生と死を超えて 透明な風が虚空を吹き抜けています。
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来年は運行終了する宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をイメージする蒸気機関車「SL銀河」に
先日カミさんと一緒に乗ってきました。
どこまでも行ける切符 「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想 第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)
みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。
そして勝負がつかないだろう。けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じようになる。(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)
「ほんとうにどんなつらいことでもそれが正しい道を進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)
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宮沢賢治の童話『銀河鉄道の夜』をモチーフとした蒸気機関車がSL銀河と命名されて2011年から花巻ー釜石で運行されていましたが、今年の6月で運行終了となりました。
銀河鉄道の夜は、川で溺れそうになった友人を助けようとして亡くなった主人公が、銀河鉄道に乗って、幻想四次元の宇宙を旅するストーリーです。
宮沢賢治は、死の間際まで7年かけて推敲を続けたので、最後の推敲で消されてしまったブルカロニ博士が登場する三次推敲は、最終推敲と異なる物語となっています。
賢治は「永久の未完成 これ完成である」と言っていたので、物語は永遠に変化し続けていくのです。
銀河鉄道の夜は、マインドの数だけ様々な解釈がされていて、解説本だけでも膨大な数になります。
2023年6月11日の最終運行のナイトランが最後でしたので、カミさんと一緒にSL銀河にお別れをしにめがね橋まで出かけてきました。
カミさんにカメラを預けてめがね橋の下で撮ってもらい、友邦はめがね橋の上で撮ることにして別れました。
到着の時間が近づいて来たので、携帯でカミさんに連絡をしてみたが応答がないので、撮影場所まで戻ってみましたが、カミさんの姿がありませんでした。
近くの直売所に休憩コーナーがあるので、探してみるとカミさんが浅い呼吸で顔色は青く冷や汗をかいて床に倒れていました。
カミさんは22年前から脳腫瘍があり、毎年、何回か胸が苦しくなることがありましたが、呼吸瞑想することで元に戻る事を体験していたので、パニックになることはありませんでした。ですが、外出中は初めてのことでした。
立っていても座っても胸が苦しく、床に寝そべったほうが楽だから横になっていたのでした。
周りで人が「大丈夫ですか?」と心配そうに眺めていました。
救急車を呼びましょうかという問いかけに「貧血ですから」と話すと安心したようでした。
私の到着が遅ければ苦しそうで血色が悪く、起き上がれないので救急車で運ばれていたかもしれません。
とにかく、顔色が青いのでお腹と胸に15分ほど無心に手を当てていた所、呼吸が深くなって顔色が良くなりました。最後に額と頭後部に手を当てるとすっかり元のように元気になったのです。
撮影は諦めたのですが到着する時間までにはカミさんが元気になったのでSL銀河を無事に見送ることができたのでした。
カミさんが銀河鉄道に乗って、四次元に旅立つことはありませんでしたが、いずれ誰もが、この世を去らなくてはなりません。
肉体があるうちに「まことのさいわい」を見つけて、旅立つ準備をしておきたいものです。
「おや、こいつは大したもんですぜ。こいつはもう、ほんとうの天上へさえ行ける切符だ。
天上どこじゃない、どこでも勝手にあるける通行券です。こいつをお持ちになれぁ、なるほど、こんな不完全な幻想 第四次の銀河鉄道なんか、どこまででも行けるはずでさあ、あなた方大したもんですね。」
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)
みんながめいめいじぶんの神さまがほんとうの神さまだというだろう。
けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだろう。
それからぼくたちの心がいいとかわるいとか議論するだろう。そして勝負がつかないだろう。
けれどももし、おまえがほんとうに勉強して、実験でちゃんとほんとうの考えと、うその考えを分けてしまえば、その実験の方法さえきまれば、もう信仰も科学と同じようになる。
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」三次推敲)
「ほんとうにどんなつらいことでもそれが正しい道を進む中でのできごとなら峠の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから」
(宮沢賢治「銀河鉄道の夜」)
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