Facebook能村 聡·さん投稿記事
【縄文時代は平和に一万年も”持続”したその訳は?ー縄文文明の高い精神性とレムリアとのつながり】
今、縄文に世界が注目しています。それはなぜなのかをひもといていきましょう。
[1]縄文人はその日暮らしの狩猟採集サバイバル生活してた「原始人」?ー農耕をしないで定住していた??
縄文時代と聞けば、多くの人が未開の不安定な原始的な生活、日々の食べ物を狩猟採集に依存して移動生活をし、日々の生存だけに追われていて、農業技術や鉄器技術もなかった「原始時代」だったと、私たちは学校教育で洗脳されてきました。
しかし、近年の考古学的な調査では、そんなイメージや先入観を覆す発見が相次いでいます。縄文人は従来の文明論を覆したのです。
例えば、小さな集団で、食べ物を探して、動き回っていたわけではなく、「三内円山遺跡」のように、巨大な定住集落をつくっていたこと。
これまでの常識は、農耕や牧畜を始めてようやく定住が可能となったとうことでした。すなわち定住=農耕=文明ですが、縄文はそうではなかったのです。
[2]生物多様性が豊かな森との共生が縄文文明の叡智
縄文時代、農耕に依存せずとも、定住して安定的に生きていける術を縄文の民たちは知っていたのです。80種類にも及ぶ植物を食用としてきた食生活の実態も明らかになっています。これは森がそれだけ生物多様性に富んだ豊かな存在、食べものの宝庫だったことが社会の安定基盤にあったのでしょう
特に、栗は彼らの主食であったと思われるほど、たくさん出土しています。落葉広葉樹の森の豊かさを象徴しています。
集落の周縁が栗の森に覆われていたことがわかっていますが、もしかしたら栗の木園のように、現代的に言えば森林を持続可能に管理(マネジメント)していたのかもしれません。つまり「森をつくる」=「定住を可能とする」という社会になっていたと推測されます。森と「共生」する持続可能な暮らしを築いていたのです。
縄文人は、森を大規模に破壊せざるをえない「農耕牧畜」を受け入れなかったようです。定住型狩猟採集民、農耕に依存しない狩猟採集民と言えるでしょう。縄文時代が1万年も持続した理由はこの辺にもありそうです。
[3]森林と共生した「縄文文明」こそが持続可能な社会のお手本
現代文明が世界中、特に、熱帯林などの森林を大規模に破壊して、生態系の持続可能性を喪失しつつあるのとはまさに対称的です。どちらが文明として進歩していると言えるでしょうか?
近年、世界中で持続可能性が問われている今、世界最古で、しかも1万年以上も持続したわけですから、”真のSDGs(Sustainable Development Goals:持続可能な開発目標)”のお手本は、古代日本にあった「縄文文明」だったといえるのではなかろうか?
一方で、同時期に大陸で栄えたいわゆる四大河文明(黄河、インダス、メソポタミア、エジプト)は、強烈な階級支配の文明で、自然から略奪する農耕牧畜を基本として、母なる森を食いつぶして、滅亡しました。現在、そのエリアはいずれも砂漠ですね。
縄文文明は、森や海との共生と循環を基盤として、富を独占する特別な権力を持つ支配者もいなかったようです。
ここで縄文文化ではなく「縄文文明」と呼ぶことにしているのは、彼らが森や川、海の資源を持続的に利用する知恵と技術を持っていたと思われるからです。
例えば、300人も入れる巨大な建物の遺構も発見されています。(写真)これは高度な建築技術も持っていた証拠です。建物や道なども計画的に作っていたようです。
[4]戦争がない平和な社会を1万年も持続した縄文文明とそれが可能だったわけ
そして驚くべきは、1万年以上にわたって持続し、”戦争のない平和な社会を維持”していたことです。貧富の格差もほとんどなかったのです。これはこれまでの文明論を揺るがす奇跡と言えます。
なぜなら現代に至るまで「文明」とは、支配階級を生み出して被支配者からの搾取による貧困格差を生み出すことが歴史の必然だったからです。
一方で、近代科学技術を導入して、この150年以上に渡り環境を破壊略奪し、特に、明治維新後の77年間は、戦争ばかり繰り返してきて、貧富の大きな格差を生み出した「近代日本」と全く真逆なのが縄文文明です。
縄文文明が長い期間にわたり、持続できたのは、温暖で湿潤な気候が続いた時期だったことにも関係しています。当時は、現代より海面が高く(縄文海進)、気候も温暖な時代だったようです。
日本列島では、海の水蒸気を含んだ風が高い山にぶつかって、多量の雨や雪を降らせます。その豊富な水量に恵まれて、深く豊かな森林が列島を覆い、木の実や山菜、きのこが豊富にとれたこと、周囲の海は寒流と暖流がぶつかり合う世界有数の豊かな漁場で、沿岸で魚介類が豊富に採取できたため、森を切り開いて農業をする必要がないほど、森と海の自然の恵みが豊かだったからでしょう。
実際に、古代から存在してる湖の古い地層をボーリングして、年代ごとに樹木の花粉分析をすると、食べられる木(クリやくるみ、シイ、トチなど)の「花粉」の化石が縄文時代の地層から豊かに見出せることを環境考古学者が発見しています。
また、縄文遺跡の貝塚からは魚類70種類以上、貝30種類以上の残滓が見つかっています。
食生活では、イギリス人の研究チームが縄文土器は、森の恵み(木の実)などを煮炊きして渋(アク)を抜いていたことが、破片に黒いもの(炭化物)の付着物の化学分析から証明されています。しかも、縄文土器は、世界中の遺跡の中でも飛び抜けて古いのです。
縄文土器は「お鍋」だったんですね。日本の鍋料理のルーツは縄文時代に遡るのかもしれませんね。
皆で住居の真ん中にあった囲炉裏を囲んで、食事を家族や隣人と共にしていたのかもしれませんね。
大陸の古代文明が、森林を破壊して農耕牧畜を限りなく拡大していくことで、雨が降らなくなり旱魃などの気候変動によって滅んでいった(現代文明もこのままでは同じ轍を踏むでしょう)のとは違い、豊かな森林と共生する智恵を持っていたからこそ1万年以上も持続したのです。
[4]高度な精神性を備えていた縄文文明
土器や、土偶、翡翠の祭祀道具(アクセサリー)など高度な文化性、広い意味で”アート”と呼べるものを持っていたことから、高い精神性も持ち合わせていた文化だとわかります。
縄文土器の文様は自然の精霊を形取ったもの、特に火焔型の縄文土器の素晴らしさは見事です。
あの文様からは縄文土器は単なる煮炊きの道具を超えて、煮炊きを通じて自然の精霊に感謝の想念を伝える意味もあったのでしょう。ここからも彼らの深い精神性を感じずにはいられません。
そして、土偶は強烈な存在感があります。「縄文のビーナス」と呼ばれている女神をかたどった土偶、祈りを捧げている姿の合掌土偶などなど、縄文文明の精神性の高さを体現しています。きっと土偶は人々の心の拠り所だったのでしょう。
自然を敬い、感謝し、自然との和を基調とした生命観を持っていた私たちのルーツである縄文人の心を、現代の日本人は思い出す必要があります。
日本画家で日本神話に関する著書も多い、出雲井晶さんは、次の世に指摘されています。
「縄文人は、ものをただの物体とは見なかった。そして、すべてを神のいのちの現われ、神の恵みとみた。すべての存在に神の命を視たからこそ、ありとあらゆるものに神の名をつけた。例えば、小さな砂つぶにさえ石巣比売神(いわすひめのかみ)、木は久久能智神(くくのちのかみ)、山の神は大山津見神(おおおおやまつみのかみ)とうふうに、それぞれにふさわしい名がつけられている」(『今なぜ日本の神話なのか』)
唯物主義(物質至上主義)が精神性を凌駕して、持続不可能な破滅の危機に瀕している現代文明は、縄文文明から学ぶことはたくさんありそうです。
[5]縄文文明はなぜ衰退したのか?
しかし、2300年前に縄文文化は衰退していきます。大陸から稲作農耕を行う民が入ってきて支配階級になったことが原因と言われています。古事記に”国譲り”の神話にわずかな痕跡があります。
縄文時代の歴史は、古史古伝と言われ、偽書のレッテルを貼られている秀真伝などに継承されています。そこで記載されている神代文字は、縄文文字だったのではないかと思います。
しかし、古事記や日本書記などの正史からからは縄文の文化史は消去され、藤原氏によってそれ以前の歴史は全面的に改竄されました。
これから歴史の「真実」がきっと浮かびあがってくると思います。(詳細は[6]補稿をお読みください)
[6]縄文文明とレムリア文明のつながり(補稿)
そもそも、縄文は極東の果ての特殊な文明ではなく、すべての文明の根源は、この日本の縄文文明だったという説があります。アカデミズムが偽書のレッテルを貼っている竹内古文書などにそのような記述があります。
シュメール・エジプト・インダス・黄河文明の淵源は日本の縄文時代だったという突拍子もない話です。
竹内文書や秀真伝などの、古史古伝が伝える時代は縄文時代にあたります。
その日本の縄文時代の 巨石や遺跡群から ペトログラフ(古代岩文字)が 全国各地で 見つかっていつのです。
これは『ホツマツタエ』(秀真伝)などの古史古伝に「神代文字」として継承されているものと酷似しています。ヲシテ - 『ホツマツタエ』(秀真伝)に使われた文字。
同じ時代と思われる数十万年前から、1万数千年前までは、地球規模の文明が存在し、世界共通の文明の痕跡として、日本を含めて世界各地に巨石遺稿がたくさん残されています。
クリスタルが埋められている場所もあります。
しかし、未だアカデミズム考古学はこの世界規模に広がっていた巨石超古代文明が誰がいつ何のために作ったのか、全く無知なままです。
当時の超古代文明の人々は、大地には我々の体の血流のように、神経網のようなエネルギーの流線=「レイ・ライン」(地(気))があって全地球を走っていると考えていました。これは現代科学文明が未だ知りえていない「科学」です。このレイラインのつぼ(経絡)に当たる渦巻く地点(ヴォルテックス)が「パワースポット」と呼ばれる気が強い場所です。
そのレイ・ライン網の要所要所を人類は霊地とか聖地と呼んで祭祀し、メンヒル(立石・立岩)という磐座(いわくら)を置き、このより重要なものに岩刻してペトログラフとし、そこで祈ることによって地流を司る大いなる存在に波動を伝え、その波動が地流を人類にとって望ましい状態に変えることを祈念したのです。
この縄文時代をさらに遡ると、いったい何に行きつくのでしょうか?それが、「レムリア文明」です。
レムリア大陸(ムー大陸とも呼ばれます)は蓮の花が咲き乱れ、美しい蝶々や蜂雀が乱舞し、陽光燦々 と照り輝くエデンの園そのものでした。
女性性のエネルギーが強い、いのちとのつながり、大地(地球)との調和、愛などを根底とした精神性も高度に進化した文明でした。
その当時はほとんどテレパシーによる意思疎通が図られていた時代で、動物や妖精、自然霊たちが、共に自然と共存して生きていたいた時代でした。
さらに遡るとレムリア大陸はもともとは、プレアデス人の入植地(コロニー)でした。日本人はプレアデスとはファミリーです。
竹内文書(たけのうちもんじょ)が伝えるように、レムリア時代の日本に、宇宙から降臨したスメラミコト(天皇)が宇宙船(天浮舟)で世界を駆けまわって各国を統治した時代でもありました。当時、紀伊半島はレムリアと陸続きでした。広島県の宮島も一大宇宙交流センターでした。
しかし、アトランティスによる侵略攻撃で1万数千年前に一夜にして太平洋の海の藻屑と消えました、その生き残りは、日本列島など環太平洋の各地に逃れました。日本人のDNAの中には、レムリアの記憶が残っているのです。
そして、レムリアの魂を持った方たちは、世界各国に散らばっています
縄文人はもとより、ネイティブアメリカンや、ハワイや、ケルト、マヤ、アボリジニ、イヌイット、琉球民族、アイヌなどなどです。
今、長い分離と争いの時代が終焉に向かいつつあり、女性原理優位の調和の時代に入りつつ今、縄文やレムリアのスピリットも蘇ってくるでしょう。
日本はその魁となる使命があるのです。
愛と調和に包まれたレムリアスピリットが復活した世界になるように祈りを込めて。
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