Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)投稿記事
今日の空
日本人にとって、古来「色」とは光の濃淡のことでした。その名残が、たとえば「赤」というのは明=明かし(あかし)から来ていて、黒は暗=暗し(くらし)と呼んでいたことから、白は顕し(しろし)がもともとです。
さらに、光は影によって作られると考えたところに、「おかげさま」という言葉が出てきます。日の射さないところで助けてもらったという意味です。ご先祖さまは土の中からでも尚、私たちを見守り助けてくれています。その「感性」ですね。
日本独特の風土が生んでくれたものだと思います。四季というのは深く私たちのあいかたを形成してくれています。
雨や風、雲。こうした自然現象の呼び名が圧倒的に多いのも、日本的ですね。降る雨に心を投影すれば、人の数だけ雨が降るというものです。見上げた空もまた。
翠雨(すいう)という雨があります。雨に打たれた青葉のみずみずしさばかりか、そこに趣を感じる心の働きが見えてきます。同じ雨を、慈雨と感じる人もいれば、青時雨、小糠雨と表わす人もいるでしょう。それぞれ、文字も美しければ、耳に残る響きもなんとも心地よいものですね。
「幸せ」という概念がなかった頃、人は平穏に暮らしていたのではないかと思います。同様に「貧しい」という概念がなかった頃、焦りや渇望や不安はなかったかもしれません。
近代は「アイデンティティ」を確立し、概念や意味を求めることに躍起になってきました。私が、ただの私ではなく、「なにもの」かになることが求められたと言えます。そして、「私」がなにかが、分からなくなってしまったように思えます。
そんなことを思うと、明かし、暗しのシンプルさが、なんとも深みを感じさせます。
今日の空、みなさまにはどう映りますか? 今日の雲、今日の雨・・・今日の風は?
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幸せな気持ち
友人たちが亡くなって10年・・・15年とすぎていく。父や叔父が亡くなって、20年・・・25年・・・と過ぎていきます。
忘れない限りは亡くならない、と思いながら、いつも彼らのことを思い出すわけではありません。むしろ、忘れているときの方が圧倒的に長い。もちろん、最初の「忘れる」と、あとの「忘れる」には違いはありますが。忘れていることがときに申し訳ないなと言う気持ちになることもあります。
ただ、かれらが生きていたときにも、ごく自然に、ごく当たり前に「忘れて」いました。たまに会って飲む、おおいに話す。その楽しさはいまもかけがえのない思い出です。
記憶から閉め出したわけではない、というのが「忘れない限りは亡くならない」でしょう。おりにふれて思い出すのもそうでしょう。こうして、いままさに、彼らともにいるわけです。記憶は案外あてにならないと言われます。それぞれに思い出せば食い違いがでてくるでしょう。感情を通したつきあいですから、それも自然なことです。いつか、向こうで会ったときにまた語り合えばいいことかも。
今の私より、先に向こうに行った友人たちのほうが随分と若い勘定ですから、勝ち目はないかも知れませんが。その分私には、むこうで出会ったときに彼らに手渡す「幸せな気持ち」や「ありがとうの気持ち」をたくさん集めることができます。遅くなったけど、これを集めていたから・・・とか、かっこいいことが言えます。
なんでしょう。こんなことを思うのは。お彼岸が過ぎたばかりで、まだ向こうに近いのでしょうね。
幸せな気持ちやありがとうの気持ちは、配るほどに増えていくという、ふしぎな法則があります。間もなく個展がはじまります。幸せな気持ちを感じていただければ幸いです。
TAO 自分さがしの旅@ilchi_tao
老化は誰も避けられない。年をとると体の活力と機能が落ち、あちこちがきしむものだし、結局はみな死を迎えるという事実を堂々と受け入れるべきだ。大切なのは健康な心であり、その心で体を導いていくことだ。体の現実を堂々と受け入れながらも体を管理しようとする健康で柔軟な心、これが健康のカギだ
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)投稿記事
内面へと
年齢を重ねて、柔和に寛容になろうというところで、無愛想になり怒りっぽくなる人もいます。いまだに聞く、キレる高齢者だとか、暴走老人・・・イヤな言葉です。
エゴが守りに入るのでしょうか。
怒りの底には恨みや嫉妬や不平や不満などがありますが、それだけでなく、素直に受け入れることができないという意味合いもあります。
相手のことも、あるいは自分のことも素直に受け入れる、認めることができなくなった末の葛藤とでも言うのでしょうか。「認めてもらえない」は、また、自分が認めていない裏返しでもありますが。
怒りのエネルギーはすさまじいので、周囲に及ぼす影響もしかりですが、「怒りは自分に盛る毒」とも表現されます。
意味に満ちた人生を送る。というとき、常識?とか世間体とかを「客観的な基準」と勘違いして理解すると、怒りの素となりかねないジレンマが生じますね。でも人生は主役である「私」という特定の魂が味わうものです。
なにを成し遂げたとか、なにを残すかなど関係なく、したいこと、楽しいことをやっていけばいい。心を平和にするものは満足することです。子どもたちにそう教えきれないのは、自分がそのように生きていないからではないでしょうか。
年齢を重ねるごとに、内面へとシフトしていくのが理想のように思います。精一杯生きてきたという自負を怒りに育てるのではなく、愛に変換させることができれば、どれほど素敵で気持ちのいいものか。
以前ハワイのヒューレン博士にお会いした時、潜在意識を解放(クリーニング)するには4つのコトバを繰り返すとよいとお聞きしたことを思い出しました。それは、「ありがとう」「ごめんなさい」「許して下さい」「愛しています」。
怒りを鎮め、自分を取り戻す言葉ですね。シンプルですがとっても大事で、意識して心を込め口にすべき言葉だと思います。
機嫌がいい、気持ちがいい。
秋晴れのような、そんな生き方をお手本として示したいものです。
Facebook西元 満晴さん投稿記事
安保徹さんの本「やめてみるだけで」病気は自分で治せるより学んでいます。
♦高熱は治療に欠かせない環境
カゼに感染すると、前述の抗原抗体反応が起きて白血球のリンパ球がウイルスと闘います。
熱が出る前のカゼの潜伏期間とは、闘う前にリンパ球がウイルスを選別している期間で、選別を終えたらリンパ球はウイルスを抗原と認識し、ウイルスの活動を邪魔する抗体を作って捕まえます。その時発熱が始まり、鼻水、のどの炎症、倦怠感、頭痛、腹痛などのカゼの症状が出るのです。
その中でも、発熱はカゼの治癒に必要不可欠な反応です、というのも、リンパ球が最も力を発揮できるのは体温が38〜39度くらいのときで、平熱ではウイルスとベストな状態で闘えません。すなわち、感染したウイルスと果敢に闘えば戦うほど高熱が出るわけです。
しかし、多くの人はこうした理解を持たずに、高熱が出ると解熱剤を飲んで熱を下げようとします。解熱剤は体内の分泌物質であるプロスタグランジンの働きを抑える薬です。
このプロスタグランジンという物質は痛みや発熱を起こす一方で、 血管を拡張し、血流を良くします。ですから、解熱剤でプロスタグランジンの働きが抑えられると熱は下がりますが、血液循環も低下して交感神経が優位になり、抗原抗体反応が低下します。
熱が出たら解熱剤で下げずに、休養をとり、体を温めて、リンパ球がウイルスと闘う環境を作るのが本来の治し方です。
ただ、小児や高齢者の高熱は体力の消耗やけいれんなどの心配があるので、解熱剤で体温を1度下げたら、あとは解熱剤を用いずに安静にしておくべきです。 安保徹
如何でしょうか?
今回の安保先生の、カゼをひいた時に安易に解熱剤を使って熱を下げてはいけないという解説で、高熱は治癒に欠かせない環境だということが理解できたかと。
ただし、小児や高齢者の場合のみ、解熱剤を使って体温を1度下げたら、あとは解熱剤を用いずに安静にしておくことをよく覚えておいてくださいね。
いいですか。大事なことなのでもう一度言わせてください。カゼをひくとリンパ球がウイルスと闘うのですが、その時、発熱が始まり、色んな症状が出ますが、なかでも、高熱はカゼの治癒に必要不可欠な反応なのです。
リンパ球が最も力を発揮出来るのは体温が38〜39度くらいの時で、平熱ではリンパ球はウイルスとベストな状態で闘えないのです。感染したウイルスとベストな状態で闘えば闘うほど高熱が出るわけです。
だから、熱が出たら解熱剤で下げずに、休養をとり、体を温めて、リンパ球がウイルスと闘う環境を作るのが本来の治し方だと認識してくださいね。
それだけ、身体の中では、自然治癒力でリンパ球が果敢にウイルスと闘っていることを忘れないでくださいね。では、ピンク仙人の1句を。
熱が出たらリンパ球の力を信じよう ピンク仙人 ありが太陽。幸せます☀☀☀
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