https://japanknowledge.com/articles/meyasucho/09.html 【モダニスト草城~日野草城~】より
日野草城は、山口誓子と同じ明治34年生まれだが、俳句では先輩格。誓子を俳句に導いたのは草城である。水原秋桜子や誓子のホトトギス離脱が、より根本的な俳句革新をめざす新興俳句運動の伏流となっていくのだが、それに先んじて、ホトトギス内部において、モダニズムの清新な風を吹かせ、新興俳句運動の一つの中心になっていく「旗艦」を率いたのも草城であった。ところが、彼に対する俳壇の評価は、秋桜子や誓子にくらべ格段に低い。時代が下るほど、その傾向が強くなる。なぜだろう。
春暁や人こそ知らね樹々の雨 春の夜のわれをよろこび歩きけり
春の灯や女は持たぬのどぼとけ 物種を握れば生命いのちひしめける
ところてん煙の如く沈み居り 春の夜やレモンに触るる鼻の先
ひと拗ねてものいはず白き薔薇となる まのあたり静かに暮るる冬木かな
高熱の鶴青空に漂へり 見えぬ眼の方の眼鏡の玉も拭く
よく採り上げられる彼の作品を10句選んでみたが、どれもソツのないつくりで、つまり技術的な難は見あたらず、うまいと思う。特に比喩や取合せはさえていて、旧弊な俳句がもつ重くれがない。ということは軽いのかというと、そうなのである、軽いのである。この小器用さからくる軽さを山本健吉などが非難したあたりから、今日にいたる草城観がかたちづくられることになる。
草城が全俳壇的に注目される存在になったのは、昭和9年、創刊されてまだ2号目の「俳句研究」(改造社)に、「ミヤコ ホテル」と題する連作を発表し、これが毀誉褒貶の的になったからだった。
けふよりの妻めと来て泊はつる宵の春 夜半の春なほ処女をとめなる妻と居りぬ
枕辺の春の灯ともしは妻が消しぬ をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ 妻の額ぬかに春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麺麭トーストはづかしく 湯あがりの素顔したしく春の昼
永き日や相触れし手は触れしまま 失ひしものを憶へり花ぐもり
吉井勇の「君とゆく河原づたひぞおもしろき都ほてるの灯ともし頃を」などから想を得て、新婚初夜をモチーフに連作10句にまとめたもの。草城自身は新婚旅行はしていないので、あくまでフィクションである。これを久保田万太郎や中村草田男が激しく非難。対して室生犀星が擁護するといった論争が起きる。それは表面的にはモチーフをめぐるものであったが、根には作品自体のもつ軽さへの不満があった。いくらセンセーショナルにセックスを扱ったといっても、掘り下げはきわめて浅く、内容は常識の域を出ていないではないかというもの。
モダニズムとリベラリズムを彼は標榜するが、結局それは常識の範囲内に納まる程度のものだった。だから流行はつくれても、流行を超えるような作品を残すことはできなかった。これは新興俳句運動における彼の役割の限界も示している。多くの新興俳句系の俳誌が弾圧される中で、「旗艦」が弾圧を免れるのは、当時の国家権力にとって、それが弾圧するに値しなかったからである。「草城の仕事の性質は、何も合法非合法すれすれの線などといふ無理をしてまでやらなければならない仕事ではなかったのである」(神田秀夫)。
晩年、病床にある草城は、妻のすすめもあり、谷口雅春の「生長の家」に入信する。ここにも常識人・草城の横顔をうかがうことができる。
https://japanknowledge.com/articles/meyasucho/06.html 【たゆたう不器男~芝不器男しばふきお~】より
芝不器男を論じるとき、「珠玉のような抒情俳句」「夭折の天才俳人」といった言葉がきまって持ち出される。確かにその言葉に偽りはないのだが、この俳人はあまりにパターン化して語られ過ぎているような気がする。26歳で亡くなった地方俳人に、ダイナミックな社会との交渉や後世への大きな影響を求むべくもないのは当然としても、このようなレッテルを貼り、その評価を終えた気になってしまうには、あまりにも惜しい俳人である。遺された作品は二百句余り。その十分の一ほどを選んでみた。
下萌したもえのいたく踏まれて御開帳 摺り溜る籾掻くことや子供の手
永き日のにはとり柵を越えにけり 椿落ちて色うしなひぬたちどころ
麥車馬におくれて動き出づ 人入つて門のこりたる暮春かな
向日葵の蕋しべを見るとき海消えし 虚國むなぐにの尻無川や夏霞
風鈴の空は荒星あらぼしばかりかな あなたなる夜雨の葛のあなたかな
町空のくらき氷雨や白魚売しらすうり 水流れきて流れゆく田打かな
泳ぎ女の葛隠るまで羞ぢらひぬ 寒鴉己しが影の上えにおりたちぬ
白藤の揺りやみしかばうすみどり 栗山の空谷ふかきところかな
落鮎や空山崩くえてよどみたり 銀杏にちりちりの空暮れにけり
一片のパセリ掃かるる暖爐かな ストーブや黒奴給仕の銭ボタン
俳句をつくることのできた期間はわずか5年余りなのに、「永き日の」「あなたなる」「寒鴉」「白藤の」といったよく知られた名作をものにしているのは、やはり驚異的なことではある。不器男は愛媛県宇和島生まれ。家は比較的裕福で、読書はもちろんのこと、旅行や山歩き、テニスやハーモニカに興ずる明朗で屈託のない青春を送る。造園家を志して東京帝国大学農学部に入るが、夏休みの帰郷中に関東大震災が起こる。不器男はあっさり学業を放棄。そのまま郷里に残る。2年後に東北帝国大学に入るが、ここも2年で中退。つまり社会的な上昇志向もなければ、都市労働者として故郷をあとにせざるを得ない事情もなかった。言ってみれば彼はモラトリアムの季節にあったのである。そして結局、そのまま生を終えてしまう。
この二十句を見ても、作品における彼の興味は、他人としての人間よりも、自分の心性を託した自然、他者との対話よりも自己との対話にあることは明らかである。その脆弱なモラトリアム的世界を批判するのはたやすいだろう。それは不器男の敬愛した芥川竜之介、あるいは堀辰雄や立原道造に通じるものがある。しかしたとえそれが、同時代の他者には開かれたものでなかったとしても、現在のわれわれには充分に開かれてあることは確かである。それは作品の完成度によって、有無を言わさぬ普遍性を得ているからである。
「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」。この繊細さ、優美さ、柔軟さ、そして揺るぎない風格。この句は前書によって、遊学先の仙台に着いたばかりの時、故郷を思ってつくられたことがわかるが、「陸奥の国と伊予の間の真葛かな」が最初のかたち。それがさらに四度も姿を変えて、完成に至る。「の」を軸にして、「あなた」のリフレーンがイメージの波動を広げ、読むものの心の波動に共振していく。石田波郷の「朝顔の紺の彼方の月日かな」を連想する人は多いだろうが、波郷の句にはこの波動の共振は感じない。
また「永き日の」「麥車」「水流れ」「寒鴉」「白藤の」などに見てとれるたゆたうような時間性の定着。これも見事である。麥車がごとりと動き出す一瞬に強くピントを絞ったことで、日常的な時間は解体され、読者を一挙に詩的時間に投げ入れる。万葉集などに学んだ古典的な語法が消化され、作者の呼吸を嫌味なく伝える。
不器男は確かにモラトリアムにあったまま、その人生を終える。たゆたうような儚い一生だった。しかしその作品においては完全にモラトリアムを脱し、凡百の俳人には遥かに及ばない高みに達していたのである。
https://japanknowledge.com/articles/meyasucho/12.html 【波郷は切字響きけり~石田波郷いしだはきょう~】より
石田波郷の第一句集『鶴の眼』は、水原秋桜子を頼って上京した昭和7年から14年にかけての作品をまとめたものである。
草負うて男もどりぬ星まつり ひるがほのほとりによべの渚あり
はたはたや体操のクラス遠くあり 秋の暮業火となりて秬きびは燃ゆ
プラタナス夜もみどりなる夏は来ぬ 檻の鷲さびしくなれば羽搏うつかも
バスを待ち大路の春をうたがはず あえかなる薔薇撰りをれば春の雷らい
日出前五月のポスト町に町に 萩青き四谷見附に何故か佇たつ
吹きおこる秋風鶴をあゆましむ
甘美な馬酔木調そのもので、表現や調べに少しの渋滞もなく、のびのびと叙情性がうたいあげられている。大雑把に分けて、俳句には「取合せ物」と「黄金を打ちのべたるが如き物」の二種類があるとすると、これらの波郷の句は、だいたいが黄金を打ちのべたるが如き物に属する。波郷の句に目を曝したとたんに感じるスピード感、上昇感、一陣の風に巻き込まれてしまうような感じは、そのことに因るのだろう。
また、これら作品を一読して気がつくのは、切れ字がすっかり鳴りをひそめていることだ。その後の波郷俳句を知るものにとっては、首を傾げたくなるほど、切れ字が少ない。というのは第二句集『風切』(昭和18年刊)では、いやというほど切れ字が多用されているからである。この時期、新興俳句の勃興に対抗するように、波郷はさかんに韻文精神の必要性を唱え、そのための切れ字の使用を訴える。そのゆきつくところ、一句中での二つの切れ字の使用まで容認してしまう。「機織や田は植ゑられて了ひけり」「胸の手や暁方は夏過ぎにけり」「鮎打つや天城に近くなりにけり」「南天や八日は明日となりにけり」といったぐわいに、上五を「や」で切り、下五を「けり」でさらに切る。やはり句としてあまり成功しているとはいえない。読者としては上昇感というより失速感を覚える。
さらにこの『風切』で奇異に感じるのは、彼の代表句とされるような佳句と、戦時体制下の反映である皇国俳句との混在である。
女来と帯纏まき出づる百日紅 初蝶や吾三十の袖袂
朝顔の紺の彼方の月日かな 顔出せば鵙もず迸ほとばしる野分かな
琅玕ろうかんや一月沼の横たはり 万緑を顧みるべし山毛欅ぶな峠
このような佳句に混じって、次のような皇国俳句もしっかりと位置を占めているのが『風切』なのである。
土用波攘うちてしやまむ門出かな 白露やはや畏みて三宅坂
文芸や国力なす菊の前 唇舐めて英霊に礼す冬旱ふゆひでり
『風切』の出た年に、波郷は「風切宣言」というマニフェストを書いている。
「自分たちは現代俳句の左の三つの方向を矯正したい。(中略) 一、俳句表現の散文的傾向 一、平板疎懶甘美なる句境 一、俳句の絶対的価値軽視 然し先づ何よりも、自分達は自らの俳句鍛錬の為に黙々砕身しなければならぬ。(中略) 一、俳句の韻文精神徹底 一、 豊穣なる自然と剛直なる生活表現 一、時局社会が俳句に要求するものを高々と表出すること」。
つまり「韻文精神徹底」と「時局社会が俳句に要求するものを高々と表出すること」は同一平面上でしっかりつながっていたのである。波郷のいう切れ字や韻文精神は、戦時体制下の国家や社会の要請に沿うものでもあったことは、俳句という文芸のもつある種の脆弱さをものがたっている。
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