Facebook原 靖之さん投稿記事 【「伝えたい」から、「共鳴したい」へ】
若いころは、なぜ、私は古武道をしているのだろう??でも、なぜか、やらないといけない気がする。そんな感覚で過ごしてきました。
40を過ぎて、古武道から古神道へ、それは日本人の身体感覚の世界(魂魄二重構造)を再発見する為の旅だったのです。
それに気づいてからは、これは、天が私を道具として使っているだから、自分はこれを
伝えないといけない!!という勝手な使命感をもってやっていました。
本も書いて、多くの人に伝えないと、早くやらないと!
でも、なぜか、ハートが苦しいそう、いつのまにか、義務感を抱えていたんですね。
日本のいいものを伝えないといけない!伝えるべきだ、=だから、日本人なら受け取るべきだ!
勝手に義務感を覚え、勝手に相手にも義務感を期待していた自分を見つけました。
それ、いらない!!気付いたら、選択です。私は、義務感で伝えることはやめました。
そして、伝えるから 共鳴の世界へ自分が楽しい波動で身体の再生の情報を発信する
それに共鳴する人とコミュニケーションが始まる。
その方たちも、なぜか、それに興味を持っている人達が多いです。
今までは、スピ好きの人たちが多かったけど、最近は、サラリーマン、着付けの先生、日本舞踊の先生経営者、治療家などなど、実社会で気など、考えないで暮らしていた方たちから
興味があるというお話をいただくようになりました。
一方的に伝える という感覚ではなく、共に共鳴して、日本を再生していこう!!という感覚ですね。
ちなみに、今の私の古武道の研究テーマは「正座」です。
古武道の稽古で、正座の状態から抜刀して、収める稽古をずっと、ずっと、ずーっと、やっていたのですが、よく考えると、正座した状態で帯刀するという設定は、ありえないですよね。
それなのに、なぜ、正座から抜刀する稽古が稽古システムに組み込まれているのか?
そこを探求していると、いろんな答えが見えてきます。
みなさんも、正座を一緒に見直してみませんか?奥深い身体と気の世界が見えてきますよ!!
Facebook出口光さん投稿記事 【人は信頼できるか?】
唐突ですが、「人は信頼できると思いますか?」この命題にアプローチする方法は、三つあると思います。
一つ目は「そう信じること」です。でも信じたら、必ず裏切られるでしょう。
揺れ動く心と不動の魂、人間はその両方で行動するからです。
そして裏切られた時、相手に対する怒りや悲しみが残ります。
二つ目は、人間は素晴らしい存在だと「仮説」を立て、その証拠を集めて検証、反証をすることです。しかし人間には、必ず醜い一面も存在します。それを補強する新たな材料が、次から次へと出てきます。信頼できない証拠が尽きることはないでしょう。
そして三つ目は、私のアプローチです。
それは、「人は信頼できるという『仮定』に立つ」ことです。
例えば「宇宙は法則的にできている」とは、仮説(hypothsis)ではなく 仮定(assumption)です。「仮定」することには証拠は要りません。
そう宣言する、いや断言することから始まります。科学者はこの「仮定」を受け入れなければ、科学に人生を捧げることはできません。
「宇宙は法則的にできていないかもしれない」と考えている人は、絶対に科学者となることはできないのです。
私は「人は信頼できる」と仮定をしています。
これは仮説でも、信仰でも、信念でも、確信でもありません。
ただ、「そうだ」というところに立っているのです。その仮定に立てば、どのようにすれば信頼できるのかを極める意欲が出てきます。
そこから生まれてきたのが、心と魂の区別です。心と魂を区別することで、心は環境しだいで揺れ動くが、魂は不動であることが見えてきます。
さらにその魂の奥に、世界の平和や万物の命を活かすといった普遍的な想い(スピリット)が見えてきます。人間の素晴らしさが見えてきます。
あなたは、人を「信頼できる」と思っていますか?
Facebook相田 公弘さん投稿記事 「だろう」相田みつを
昨日も無事に過ぎた 今日も平穏に終わった だから あしたも平穏無事だろう-と、
<だろう>を当てにして なんとなく生きているのが わたし達、凡人の 毎日ではなかろうか?
明日の いのち を保証された者はこの世に一人もいないのだ 明日どころか、しゅんかん先の いのちの保証がないのだ それが人間 そこがこの自分なのだ
ついこの間 海外旅行のおみやげを持ってきてくれた知人が 今日は亡くなったという
通知を受けて わたしはガクゼンとした明朗快濶、健康そのものの人であった
それなのに いつも当てにならない<だろう>を 当てに生きているわたし
この自分自分のいのちは いつでもどこでも いまここにしかない
いまここが充実しないかぎり 充実したいのちはない いまここが充実しないかぎり
充実した人生はない たいせつなことは いまここを 具体的にどう動きどう充実させてゆくか- ただそれだけである
<だろう>は 当てにならないから・・・・・<だろう>は 当てにならないのだ
アノバチ コノバチ 思い当たる バチがいっぱい それでもまだ 天がわたしを
生かしてくれる
Facebook相田 公弘さん投稿記事
「手と足①」 坂村真民
手は何のためにあるか、それは落ちてゆく自己を支えるためにある。 とリルケは言っている。 そういう言葉からわたしはリルケに接近していったが、リルケはキリスト教国の生まれだから手といったのだろう。
わたしは仏教国の生まれだから、足はなんのためにあるか、それは落下してゆく自分を、
どこで踏み止めるか、そのためにあると言おう。
「手と足②」
わたしは一白水星の生まれだから、 低い処低い処へと流れてゆく水の 性を身につけている。 そしてこれが宇宙の運行だとも思っている。
だからわたしは足を大事にし、 落下してゆく自分を支えてくれと 頼むのである。
地球を絶滅させる核兵器を作り出す 頭よりも、間違った自分を、 どこで踏み溜まらせるかの足の 重要性を、わたしは強調したい。
Facebook西田 拓司·さん投稿記事【ポジティブシンキングより ナチュラルシンキング】
ポジティブシンキングが叫ばれて久しいの ですが、実はポジティブシンキングはちょっと
しんどいのです。たとえば失敗したとします。一般的なポジティブシンキングはいやいや私、これから絶対に成功する!!これは無理してますよね、、、😅
脳は"うそ、うそ、うそ〜、 今失敗したばかりなのにこれから成功する 保証なんてないんじゃない。よくいうよね〜っ😞となります。
するといくらポジティブに考えると言っても本心と考えが乖離するのでどこか頑張って無理してる感が否めません。
ところがナチュラルシンキング(というものが あるかどうか勝手に名前つけただけですが、、)これはちょっと違います。
〇〇だからよかったこと 〇〇だから学べたこと 〇〇だから成長できたことに
〇〇だから気付けたこと 〇〇だったけど、もらえたもの などなどを探して、その事実に主眼を置きます。
(最悪何も思い浮かばなければ、 このことにどういう良い意味があるのだろうと
問いかけるだけでもOKです。)
そして最後にそんな自分よくやった、いい感じとできたところを認めてあげるのです。
失敗した→ってことは、チャレンジ、行動したからだね。
そこからたくさん学べたことはあったはず。よくチャレンジ行動したよ、自分☺️
才能がない→だから、たくさん勉強した。だから、幅広く勉強した。だから、絶え間ない努力をした。 よく頑張ったね自分☺️
頑固だ→これを世のため人のために使ったら 何より信念を貫くすごい人じゃない。
(ガンジーやマザーテレサもある意味頑固でしょ)すごいぜ自分☺️
病気になった→だから、健康の大切さを知って勉強した。だから、体を大切にしようと思った。だから、誰かと出会った。誰かの優しさ、あたたかさを知った。 死ぬ前に気づいて運が良かったね自分☺️
マイナスとプラスは表裏一体。
このマイナス面に潜むプラス面に目をむければ、それはマイナス、プラスが相殺された
プラスマイナス0のナチュラルシンキングに着地できるのです。
一見辛く思えたこともかなりダメージが 少なくなります。
"これはこれでよかった"と言えればそれは、もうゴールです。
これが一番無理のない楽な考え方だと僕は思ってます。
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