一ツ火のおほむらさきのいろの闇

FacebookAyuka Mizoguchiさん投稿記事

先日あるキャンプに参加してきました。そこで起きた出来事からちょっと書いてみました。

私たちは過去の投影を常に全力で生きていて、ほんとうの意味で現実を生きていないですね。

過去にできたビリーフを通して世界を見て、自分軸を作って、今を生きていると思い込んでいます。

カレンダーは2023年だけど、心は過去のまま。ぜひ読んでみてください♪

https://ayukablog.wordpress.com/2023/08/27/%e7%a7%81%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%af%e9%81%8e%e5%8e%bb%e3%81%ae%e6%8a%95%e5%bd%b1%e3%82%92%e3%81%84%e3%81%be%e5%85%a8%e5%8a%9b%e3%81%a7%e7%94%9f%e3%81%8d%e3%81%a6/?fbclid=IwAR0-QAlXUagV-Rn9acE7u3l9XT79nUcObkUzJ9ITdCHWB8iKiP4nWcASVm8 【私たちは“過去”の投影を“いま”全力で生きている〜愛への帰還を始めよう〜】より

投稿日: 2023年8月27日

先日あるキャンプに参加してきました。この過去3年間を振り返って、今後どう個人の自由を確保していくのか? 個人の主権とはなにか?、健康について、トラウマの癒やしについて、新しいお金の制度についてなど広範囲に渡ってのセミナーや討論が盛りだくさん。

また、なつかしいキャンプファイアーをしたり、踊ったり、歌ったり、心から楽しんできました。ですが、今回はその内容ではなく、キャンプで起きた出来事から書いてみたいと思います。

2日目のランチタイムでたまたま近くに座っていた女性が、“今回のイベントのスピーカーはほとんど男性ばかりで、すごく男性主導のイベントだと思う。もっと女性を出してほしい。”と怒りを顕にして話しかけてきました。

私自身は男女比はまったく気にしていなかったし、そう言われて振り返っても、多くの女性スピーカーやファシリテーターがいるなと思ったので、一瞬頭が???となってしまいました。

その時はセラピストの癖で、“この人めっちゃ怒っているなぁ。あの怒りを解放しないと、そのうち体に来るぞ”と思ったあと忘れていました。

しかし最終日に、今回のイベントを企画した男性が最後のトークをしていたところ、例の女性が急に立ち上がり、“なんであなたばかり話をしているのよ!あなたの話はたくさん聞いたから、もう聞き飽きたわ!もっと女性のスピーカーを出しなさいよ!”と叫んだのです。

このときは、ランチタイムで話したときよりも怒りの形相が激しく、まくし立てているという感じでした。

私のブログの読者さんはお分かりだと思いますが、これは見事な「投影攻撃」ですね。100万歩譲って、この男性がイベント中に一番多く話をしていたとします。(確かに代表として司会役も努めていたので、年中顔を出しているようには見えました。)

で、それが良くないと思っても、怒って怒鳴りつける必要はないでしょう。フィードバックとして伝えれば良いだけです。

また、企画者と参加者という立場でほとんど交流もないので、彼女がこの男性に対してここまで怒りを持つ理由もないはずです。

ということで、自分が誰かに嫌悪感や怒りを持ったら、相手がどんなに悪く見えても、とりあえず自分を見てみる・・・というルールに戻りたいのです。

この女性とはもう話ができないので、推測しかできませんが、私が真っ先に思ったのは、“どの男性がこの女性を傷つけたのだろうか?”でした。またこの怒りの度合いの強さから、おそらく長期に渡って傷つけられたはずです。

それによってできたビリーフ(例:男性は私を支配する、私は無力だ、などなど)とそこにある感情を癒やしていないと、それを私たちは外に投影します。つまり、たとえば男性を「私を支配する」人と見るわけです。で、それを真実だと思い込む。

本人が心からこの企画者が悪いと信じている様子から、男性に対する何らかのビリーフはこの女性の一部になっているでしょう。(潜在意識にしっかり組み込まれている)

さて、ここが人間関係の面白い?ところですが、この企画者の男性は、ずっと子供の頃から引っ込み思案で、クラスでもほとんど発言してこない大人しいタイプだったそうです。それが、自分に対してたくさんの癒やしやワークをしたことで、人前で発言できるようになったとのこと。

それが、4年ぐらい前のことだそうです。で、いくら癒やしてきたとはいえ、このように正面から“あなたの話なんか聞きたくない”と叫ばれてしまえば、かなり痛いはずです。

しかし、素晴らしいと思ったのは、体が固まって緊張している様子ではありましたが、人前で話ができるようになるまで自分がどれだけワークしてきたか、そして、“誰かが僕の言葉を聞きたくないという理由だけで、僕は決して黙らない”と返したことです。

面白いと書いたのは、このように私たちの人間関係は、自分の傷を相手にぶつけ、またそれは相手の傷を刺激するということです。

ところがよくあるのは、自分が傷ついていることも相手の傷を刺激していることも私たちは気がつかず、彼は支配的な人だ、彼女は面倒くさい人間だなどとそれぞれに思い、自分の投影だということも気づかず、それが実際に起きている現実だと思って生きていることです。

でも現実(事実)は、“代表の男性がマイクを持ってみんなの前で話をしている”だけです。このシンプルな出来事からこれだけのドラマが生まれるわけです。もちろん私たちもまったく同じことをしているのですが、ある意味この叫んだ彼女は分かりやすくそれを見せてくれたと思うのです。

というわけで、家族内も会社内もこのような「投影合戦」(と私は呼んでいます)だらけで、心の傷が深いほどドラマが激しくなります(笑、経験たっぷり)。

さて、分かりやすいので彼女の例をそのまま使ってしまうと、男性に対するネガティブなビリーフよりも、最終的に自分に対するビリーフが最もドラマを作ります。

つまり、男性との関係に対して“自分がどうか”ということです。例えば、(男性に対して)自分は、“支配される”、“攻撃される”という思いがあって、支配される私は“弱い私”、“無力な私”などといったビリーフができます。

こういったビリーフができる理由が当然あり、実際に誰か(男性)が過去に彼女を何らかの形で傷つけたのでしょう。しかし、じゃぁ、“私は弱い”が真実か?と問えば、どうでしょう?

それは絶対的な真実?それとも経験から生まれた思い込み?

過去の経験は今どこにも存在していなくて、“弱い私”は今どこに実際に存在しているでしょうか?記憶も思い込みも実際に今存在しているでしょうか?

すべて頭の中だけですね。頭の中にイメージとして残っているだけです。それ以外にはどこにも一切存在していません。でも、私は弱いという感覚はものすごくリアルで、現実味が私たちにはあるんです。だから、頭の中のイメージだとは思いにくい。

そして、こうやって私たちは自分に対する思い込みを全力で生きて、それが自分だ、それが自分の環境だ、これが私が生きていかなければいけない現実だと思い込むんです。

勘違いして欲しくないのは、頭だけで理解して、そうだよね、そんな自分は存在していないよね、苦しんではいけないんだと思ってしまわないことです。

エゴはなんでも、すべきとかこっちが良いことだと解釈しがちです。頭の中のイメージでしかないという事実と自分がでも苦しんでいる事実は共存していて良いんです。事実を理解した上で、じゃぁ、どうして頭の中のイメージがこれほどリアルなんだろう?と見ていくことが大切ですね。

頭では理解したのにまだ苦しくて、だから探求して、その中で自分を理解し、本質を理解し、そして結局愛がすべてを癒やし、恐れは夢で、自分は過去の投影を生きていたこと、そして愛だけが実体であると経験的に学んでいく・・・。

それが私たちみんなが歩む愛への帰還。

自己を深く見つめて、そして自己のない本質へ目覚める。

だからまずは自分がどんなドラマを作っているのか?なぜそのドラマが生まれるのか?そこから始めてみよう♪


Facebook清水 友邦さん投稿記事

人は愛を必要としています。

最初の愛の経験は、両親からもたらされますが、そのもっとも愛して欲しい両親が、子供を傷つけてしまいます。

子供の頃に、ひどい暴力を受けて育つと、苦しみを感じたくないので、感じる通路を塞いでしまいます。そして育った環境に適応した仮面をつけて、生きるようになります。そのために、感受性が希薄になり、他人の苦しみや悲しみを感じることができなくなり、相手に苦痛や被害を与えても平気になってしまうのです。

独裁者たちは、子供の頃に暴力を受け取っていました。

サダム・フセインは生まれる前に、実父を亡くしていて、母親の再婚相手から、ひどい暴力の体罰を受けて、育てられていました。サダム・フセインは、子供の頃に虐待を受けていたのです。

子供の頃に、虐待を受けた独裁者で思い出すのがスターリンです。スターリンの父親はアルコール依存症で、気に入らない事があると妻とスターリンをムチで虐待していました。父親だけでなく母親のエカテリーナも、スターリンが言うことを聞かなければ容赦なく殴っていました。父親と母親の両方から、虐待をうけて成人したスターリンは、気に入らない相手をすぐに殴りつける、性格を持っていました。

ドイツの独裁者であったヒトラーもまた、スターリンと同様に父親から、暴力をふるわれて、育てられた人間でした。

ヒットラーの母クララは 、24 歳のときにアロイス48 歳と結婚しました。

父は支配的で怒りっぽく、妹パウラの証言によるとヒトラーは毎日4 歳以下の頃か父から殴られていました。11 歳のころ絶望のあまり家を逃げ出そうとしましたが知られて死にかけるまで鞭で打たれていました。

権力の絶頂期にあっても、夢の中に恐ろしい父親が現れ,「あいつ ! あいつ ! あいつがそこにいるんだ」と恐怖で全身を震わせて 「はあ はあ 喘いでいた」というヒトラー側近の証言があります。

シリアルキラー(連続殺人犯)は、愛情のない機能不全の家庭に育っていることが明らかになっています。

シリアルキラーは、幼児期に見捨てられたり、支配的な母親に育てられた人が多く、ほとんどの人が子供の頃に虐待を受けていました。

シリアルキラーはたいてい、人との関係がうまく築けない者が多いので長く仕事が続かなかったりします。

もちろん、虐待を受けて育った人々が、必ずしも全員が暴力的になるわけではありません。内側に蓄積された膨大なエネルギーを、暴力ではなく芸術活動に使う人もいます。

そのエネルギーを、創造的ではなく外側に向かって破壊的に使われると暴力的になり、内側に向くと、他人ではなく自分自身を傷つけるようになります。

何れにしても、溜め込まれたエネルギーは、何かをきっかけに解消しようと表出します。

子供の頃に、十分な愛を受けとることができなければ、愛を与えることは難しくなります。

暴力を使うことしか知らないで育てば、暴力をふるってしまうでしょう。

マインドは機械なので、暴力のプログラミングが入れば、問題解決に暴力をふるってしまうのです。

もし、子供に愛という食べ物が与えられなければ、愛を与えることも受け取ることも困難になってしまいます。

子供は愛を必要としています。

愛を受け取れずに、自分の感情を切り離したとき、世界は愛すべきものではなく、自分を脅かす敵となってしまいます。

自分の内側に潜む恐れ、心の奥底にある感情の痛みに気がついて、あるがままの自分を受けれることができなければ、世界に敵対して戦い続けてしまいます。

マインドから自由になるには、私たちはマインドではなく、マインドを超えた存在だと気づくしかないです。

本当の自分の存在に気がつけば、否定的なプログラミングを変えることができるようになるので、暴力的なマインドに支配されることはなくなります。

以下、連続射殺事件を犯した人物の、母親と祖母の3代に渡る長い記事ですので、お時間のある時にどうぞ

「愛という食べ物」

1968年に、連続射殺事件を起こした永山則夫死刑囚のTV特集を見る機会がありました。何百本ものカセットテープに記録された永山則夫の肉声が残されていました。

堀川 惠子「永山則夫 封印された鑑定記録」 (講談社文庫)

死刑囚で、彼くらい詳しく生い立ちが鑑定されたことは、ありませんでした。

子供時代に、必要なだけ抱きしめられ愛されなければ、人を傷つけて刑務所に入ってしまうか、精神を病んでしまいます。

それは、誰にでも起きる可能性があります。

永山則夫は、永山家の7番目の四男として、北海道網走に生まれました。

永山の生まれた家は、8人の子供がいて、さらに高校生の長男が作った子供まで引き取り育てていたので、11人の大所帯でした。

佐木隆三 「死刑囚 永山則夫」 (講談社文庫)

父親の武男は腕の良い、りんごの枝の剪定師でしたが、稼ぎの大半を博打につぎ込む無類の博打好きでした。たまに帰れば有り金を全部持ち出すので、夫婦の仲は破綻していました。母親のヨシは、一日中行商をして、日銭を稼いでいました。母親が則夫に、愛情をかけることはありませんでした。

永山則夫に、父母からの愛の記憶は、なかったのです。

19歳年上の長女セツが進学を諦めて家事と育児のすべて引き受けて、幼い則夫の母親代わりをしていました。

則夫の年上の兄姉は 皆そろって成績優秀で学校で3番以内の成績を残しています。

長女セツは、網走女学校入学から卒業まで首席でした。

長女セツは、恋人の実家の助けを得て大学へ進学する夢を抱いていました。ところが永山が4歳の時、長女セツは婚約を破棄され 泣く泣く子供を堕ろしたあと、精神を病んで精神病院に入院してしまいました。

1954年(昭和29年)10月、お金を入れないどころか明日食べる米まで持ち出して、金に換えてしまう博打三昧の父親との離婚を決意した母ヨシは、実家のある青森県板柳に帰ってしまいました。

しかし、一緒に連れて行ったのは女の子3人だけで、14歳の三女、12歳の次男、5歳の四男則夫は網走に残されたのです。

子供達は、母親に捨てられたのです。

則夫は、常に腹をすかして漁港で魚を拾ったり、ゴミ箱を漁ったり乞食同然の生活をして、真冬の網走なんとかしのぎました。

どうして、則夫の母親ヨシは子供を捨てたのでしょうか?

そこには、ヨシの母親である則夫の祖母マツの生い立ちも関係してました。

則夫の母親ヨシは、1910年(明治43年)、北海道利尻島で生まれました。

ヨシの母親で則夫の祖母になるマツは、島根県から利尻に移住してきた漁師の娘でした。則夫の母親ヨシは、2才の時に海難事故で父を失い母マツとともに樺太へ渡りました。

日露戦争で南半分が日本領になっていた樺太には、大勢の日本人が移住していました。則夫の祖母マツは、カニの缶詰工場で働き、幼い則夫の母ヨシは学校に行かず女工の子供達の子守をさせられていました。

祖母と同棲していた男は、酒癖が悪く焼酎を飲むと、幼いヨシを天井に吊るしたり叩いして、毎晩ひどい暴行を加えました。

祖母マツも子供を虐待していました。

「こうして苦しんで生きていても何もならない。おまえ死んでしまえ」と則夫の母ヨシは、則夫の祖母マツからたたかれていました。

生活の苦しさに耐えかねた則夫の祖母マツは、娘のヨシと川へ飛び込んで、心中を図ったこともありました。

その後、同棲していた男と別れて、大工と再婚した祖母マツは、10歳のヨシを樺太に置いたまま、旦那の実家がある板柳へ帰ってしまいました。

則夫の母ヨシも、母親からネグレクト・育児放棄(いくじほうき)を受けていたのです。

2年後の12歳のとき、シベリア地方の極東の町を放浪していたヨシは、シベリア出兵から引き揚げ途中の日本軍の憲兵に助けられて、青森県板柳町の祖母マツのもとに送られました。連子だった幼いヨシは家から出て、町の酒屋で住み込みで子守りを続けました。

永山則夫は、母親ヨシから捨てられ放浪しましたが、その母親ヨシも母マツに捨てられ放浪していたのです。

因果は巡るです。

春になって、やっと動いた福祉事務所が、母親ヨシの居場所を探し出し、則夫たち4人は青森の板柳に送られました。

板柳では、長男が音信不通、長女セツ(23歳)は網走の精神病院に入院したまま、次女と三女は学校を出ると逃げる様に家から出て、それ以降、母が住む板柳に寄り付きませんでした。

板柳の家にいたのは、次男(11歳)、三男(9歳)、四男則夫(4歳)、四女と孫(ともに1歳)の5人でした。

次男は、成績が優秀でしたが、家が貧しく修学旅行もいけないし、高校に行ける見込みがなく、鬱憤した感情が一番幼い弟の則夫に向い、則夫はサンドバック状態で毎日殴られました。

鼻血を流せば止めましたが、それがなければ気絶するまで続く暴力を日常的に受けていたのです。

仕事から疲れて帰ってきた母は、泣いている則夫を「また、泣いて」と理由も聞かず殴っていました。

博打好きの父親に則夫は似ていたので、母親のヨシはしゃくにさわったと証言しています。

母ヨシは則夫を殴るときに、決して自分の手で殴らず、かならず物で殴りました。

則夫と母親との間に、スキンシップはなかったのです。

則夫は夜になると家の外を徘徊したり、汽車に乗って函館や福島まで家出をしました。度重なる家出で、迎えに行く母親は仕事ができなくなり、困り果て、次男に暴力を止めるように注意して以降、次男のリンチはピタリと止まりました。

家出は俺の勝利だと則夫は思ったのです。

則夫は孤独な生活を送り、友だちと遊ぶという自然な環境が皆無でした。

小学校の5年生の時に、長女セツが精神病院から退院して、則夫の学校の宿題を教え、面倒を見ました。則夫は小学校の6年間、不登校が続きましたが、長女セツが家にいた5年生のときだけは登校しています。

ところがある日、長女セツに男が出来て、則夫は自宅で姉がセックスしている場面を見てしました。長女は妊娠しましたが男が逃げたので、堕胎したその子を則夫が墓に埋めました。則夫にとって、唯一愛を与えてくれた姉でしたが、男と寝ていた姉に嫌悪感をもってしまいました。兄貴に殴られるのとは違う、何か嫌なものを食べた感じがしたと則夫は証言しています。

セツの心は再び不安定になり、精神病院に入院しました。

則夫は再び不登校を続けました。

その頃、網走以来行方不明になっていた父が、ひょっこり永山家に顔を見せましたが、兄たちは父を木刀で殴り、家から叩き出してしまいました。

翌日永山は、町の映画館の前で父に出会い、父から「100円やろうか」と声をかけられましたが、怖くなって思わず逃げてしまいました。

父親は、そのまま駅に向かい列車に乗って、二度と板柳に現れることはありませんでした。

則夫の目には、母が言うほど父が悪い男には見えませんでした。

永山則夫が中学1年のときに、父が死んだという報せが届きました。

岐阜で行き倒れ父のポケットには10円しか入っていませんでした。

警察の現場検証の父親のひどい死に顔の写真を見てから、永山に自殺願望が生まれました。

「その頃だよね。何で俺生まれてきたんだろうって思ってね。何度も死のうと思ったよ。天井から縄をぶら下げてね。いつ死のうかそればかり考えてた」(永山則夫)

兄2人が集団就職で家を出てゆくと、逃避の形で一時的に蓋をしてきた則夫の内部のエネルギーが、妹に向かって放出しはじめました。

今度は則夫が、妹や姪を木刀で繰り返し打ちのめしたのです。

妹を繰り返しなぐることで、劣等感を解消しようとしたのです。

暴力を振るわれて育った則夫は、妹への接し方が判らず、暴力でしか自分の気持ちを表現できませんでした。

母親のヨシは則夫を疎ましく思い、早く出て行け、出て行けと、そのことばかり考えていました。

永山則夫は、後にこの頃の様子を小説「木橋」にしています。

そして最後にこう書いています。

悲しみが降る

シンシンと音もなく降る降る

悲しみの根雪が積もりくる

津軽の十三歳は悲しい

昭和40年3月、集団就職で青森を発つ則夫を見送る家族は誰もいませんでした。

則夫は東京で職に就くが、被害妄想が強く、誰とも打ち解けることはありませんでした。

「みんな俺が来ると、黙っちゃうんだよね。あ、俺のこと噂してたのかな、とか思うよね。嫌でたまんなかったね」(永山則夫)

永山は3年半の間に、20回近く転職を繰り返しました。

しかし、何処へ行っても同じで、他人への猜疑心に苛まれ、家出の時のように、嫌になれば荷物を残したまま、職場から逃げ出したのです。

永山は、人に優しくされたりほめられた経験が、ほとんどありませんでした。

唯一優しくしてくれたのがセツ姉さんでしたが、堕胎をきっかけに精神を病み、永山は必要な愛を、受け取ることができませんでした。

「とにかく独り。どんどん独りになっちゃったんだな。夜になるとさびしくてね。親父みたいに死にたくなくて、怖くて、俺もいつかは野垂れ死にだって」(永山則夫)

永山は18回自殺未遂をしています。

日本から逃げ出そうと、外国船に忍び込んで自殺を図り発見されて少年鑑別所に入れられました。そこで全員から耳から血が出るほどのリンチを受けました。

「全員にやられたんだ。あと一時間やられてたら死んでたかも知れないな」(永山則夫)

出所したけれど、もう何処へも行くあてのない彼は、二度と戻らぬつもりでいた母親のいる板柳に戻りました。しかし、疲れきって帰った則夫に母は罵声で迎えました。

「俺はもう何もかも嫌になってたんだ。もう少しお袋が静かにしてくれてたらよかったのに」(永山則夫)

そのあと、19歳の永山は寝るところもなく放浪し、横須賀基地に侵入して拳銃を盗んだあと、東京,京都,函館,名古屋と次々と4人を殺害し逮捕されました。

永山の鑑定書は次のように述べています。

「劣悪な成育環境と母、姉らの生き別れ等による深刻な「外傷的情動体験」と放浪時の睡眠障害、孤立状態、無知が複雑に交錯し、増強しあった結果である。」

読み書きがほとんどできなかった永山は、獄中に入ってノートの使用が許可されると、独学で孟勉強して最初の手記「無知の涙」を執筆しました。

1869年から48歳で死刑執行になるまで間に、気が遠くなるような努力をして、16の著作を出版して、1983年には小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞して、世界に知られる作家となりました。最初の獄中手記「無知の涙」は、ベストセラーになりその印税は、1,158万円にもなりました。

「無知の涙」を読んで、則夫と文通をはじめて獄中結婚をした女性がいました。嵯峨仁朗「死刑囚 永山則夫の花嫁」(柏艪舎)

結婚したのは、母が日本人で父がフィリピン人の沖縄で生まれた24歳のミミという女性でした。

父はフィリピンに帰ってしまい母はミミを認知しないまま祖母に預けてアメリカ人と結婚して渡米したので無国籍でした。

ミミは、混血児を援助する国際福祉事務所で給付金の金額(白人との混血児は10ドル、黒人との混血児は5ドルフィリピン人との混血児は3ドル)を聞いて「私は3ドルの女なのか」と産んでくれた母に対する激しい怒りが込み上げたことがありました。

ミミは、自分の怒りの感情は則夫と同じだと思いました。私には、育ててくれたばあちゃんがいたから事件を起こさないで済んだが、則夫にはいなかったので歯止めがかからず事件を起こしたのだと考えたのです。

文通をはじたミミは、拘置所の面会室で結婚式を挙げました。

ミミと結婚した則夫は、悔悛の態度を見せるようになり被害者の家族にも、そして社会にも詫びたいといいはじめました。

結婚後、ミミは遺族回りをはじめ、則夫の書いた本の印税を受け取ることを遺族に承知してもらいました。

ミミの女性性が、頑なな則夫の心を溶かしていったのです。

則夫の肉親で面会に来てくれたのは母親だけでしたが、母親の顔を見るなり激しい怒りをぶつけました。母親が泣き出すと、則夫も泣き出し20分の面接は涙で終わってしまいました。

母親に対する怒りは凄まじく「おふくろは俺より汚い」と母が差し入れた衣類を便槽に投げ込んでいました。

東京拘置所で、母も自分と同じようなひどい目に遭いながら生きてきたことを聞かされた則夫は、「お袋の手記を知ってたら、事件なんか起こさなかったよ」と呟きました。

則夫は、漢字が読めない母に読めるようにカタカナで手紙を書き、母親ヨシと姉のセツに本の印税を送り続けました。

東京地裁で開かれた第一回の裁判の永山則夫は、ひどく横柄で挑発的な態度で接し裁判官の心証も悪く「改悛の情なし」ということで死刑が宣告されました。

獄中結婚したミミが二審で証言に立ち、則夫は罪を悔い、贖罪の日々を送っていると語ると、裁判長が涙を押さえるために顔を天井に向けるほど法廷に感動の嵐が起きて、無期懲役が出たのです。

無期懲役の減刑により、生きる希望が湧いた則夫でしたが、最高裁の判決は死刑でした。

その理由を裁判官はこう述べています。

「永山が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確かに同情・考慮に値するが、同じ条件下で育った他の兄たちは概ね普通の市民生活を送っており、また上京から3年以上社会生活を送った後に保護観察措置を自ら拒否して逃避した末に連続殺人の犯行を犯していることから、生育環境の劣悪性は4人連続殺人を犯した決定的な原因とは認定できない」

普通の市民生活を送っていると裁判官に言われた永山家の兄弟姉妹の人生はどうなったかというと

長男は、則夫が逮捕される前年、詐欺罪で逮捕され、宇都宮刑務所に服役後、出所してから実家には帰っていません。

次男は、卒業後、東京の機械制作会社に就職しました。その後。長男に誘われ、住宅販売会社のセールスマンをして、結婚もして1児をもうけましたが、離婚しました。その後稼ぎのある女性を乗り換えながら、パチンコ三昧の日々を送りました。

 しかし、その日暮しの生活も限界に達し、42歳の時、末期の胃ガンで川崎市内の路上で倒れているのを病院に運ばれ、誰にも看取られることなく亡くなりました。

次女は美容師を通信教育で取り、長男を頼って上京しました。そこで、新宿の美容院で働いているうちに木型職人と結婚し、1児をもうけました。その後、離婚し子どもは相手が引き取りました。

三女は、離婚して水商売をし、北関東にある雀荘のおかみとなりましたが、その後は連絡がとれなくなりました。

三男は、大手出版社の名古屋営業所に勤務し、課長補佐となり、二十名の部下を使う身になりました。

40歳の時、則夫の裁判で兄姉の中でただ一人裁判に証人として証言をしましたが、後に退職し、永山姓を捨てて妻の姓となり、周囲との連絡を断ちました。

四女は、名古屋で針子をしていましたが、則夫の事件から5年後、母が倒れたので青森に戻りました。その後、弘前市で看護婦見習いとして働き始めましたが、23歳の時、望まない妊娠をして未婚のまま男児を出産しました。バーのホステスとして働きながら、借金を重ね転職を繰り返しました。結局、青森に帰ったものの、母の世話は一切していません。四女は心を病み、子どもは乳児院に預けられました。

長男の子供で則夫の姪は、埼玉県にある工場に集団就職して結婚しましたが、その後離婚し、相談しに行った次男の手によって置屋に売られ、行方不明となっています。

結局、年老いた母のいる板柳へ立ち寄る兄弟姉妹は誰一人いませんでした。

姉のセツが亡くなった平成4年の翌年に老人ホームに入居していた則夫の母親は83歳で亡くなりました。

裁判官は4人を殺した永山を死刑にしなければ、これが判決の前例となって、今後、凶悪犯罪を裁くにときに、死刑が出せなくなることを恐れました。

永山則夫を死刑にする9つの項目が後に死刑を選択する判断の基準となり永山基準と呼ばれるようになりました。

則夫は最高裁の死刑判決が出てから、弁護団を解任して、妻のミミと離婚しました。

ミミは手記で次のように述べています。「私と永山君は一つ屋根の下で暮らしたいと思っても、そうすることが出来なかった。やがて私のことをCIAのスパイと言うようになり、彼のことを理解できなくなった。なぜ永山君はもっと素直になれないのか。」

ドイツの作家同盟が彼の恩赦を望む書簡を日本政府に送っていましたが1997年8月1日、東京拘置所において永山の死刑が執行されました。

享年48歳でした。

心血をそそいで書かれた鑑定書が無視された石川医師はその後、鑑定から身を退きました。

絞首刑の際、永山が「殺されてなるものか!」と力を振り絞って巨漢の刑務官数人に激しく抵抗したとする複数の証言があります。

このため、永山の遺体は全身に無数の打撲痕と擦過傷などを負い、無惨な姿だったので拘置所内で即座に火葬されたと言われています。

生前、永山は知人に「刑が執行される時には全力で抵抗する」と述べていました。

永山の遺灰は遺言で離婚したミミによって網走の海に撒かれました。

ミミは「こんな冷たい海なのに」と呟きました。

自分は生きる価値がない駄目な人間だという思い込みが、すべて外側から植え付けられたものだということに永山は気がつきませんでした。

永山則夫は刑務所に入所してミミと出会い初めて自分を取り戻しました。

それまでは無意識に埋め込まれた否定的な感情のエネルギーに支配されて、それを解消しょうと機械的な行動をとり続けたのです。

そこには沢山の心の痛みがありました。

本当の自分に気がつくまで苦しみが終わることはありません。

子供は愛を必要としています。

愛という土壌が、美しい花を咲かせるのです。



コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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