https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000002005.000013640.html 【「この1句に救われる」又吉直樹×故・金子兜太〝奇跡の共著〟誕生!『孤独の俳句』】より
種田山頭火と尾崎放哉の厖大な作品群から厳選・解説
今だからこそ心に沁みる〝放浪の俳人〟の名句、再発見!
新型コロナウイルス禍の影響で広がる潜在的な「孤独」や「孤立」。人との交流が制限される社会において、〝放浪の俳人〟種田山頭火(たねだ・さんとうか)と尾崎放哉(おざき・ほうさい)の自由律俳句が、再び脚光を浴びているという。
家と妻子を捨て、生涯の大半を放浪の旅につぎ込んだ山頭火と、酒に溺れてエリートコースをはずれ、小豆島でひとり生涯を閉じた放哉。漂泊・独居しながら句作を続けたふたりの厖大な作品の中から110句を厳選・解説!
戦後の俳句界を牽引し続けてきた現代俳句の泰斗・金子兜太が生前選んだ山頭火55句。自由律俳句の句集(共著)をもつお笑い芸人で芥川賞作家の又吉直樹が選んだ放哉55句。山頭火と放哉の自由律俳句を介して、〝奇跡の共著〟がここに誕生した。
«「『火花』や『劇場』で貧しい若者を描いたとき、「昭和っぽい」「懐かしい」と言われることがありました。でも、これらの物語の舞台は現代です。令和にも、苦しい生活を余儀なくされている若者や経済的な事情に限らず人間関係などで社会から孤立している人は沢山います。誰かによって勝手に過去へ追いやられ存在すらないことにされている人たちは、その孤独を敏感に捉えていることでしょう。そんな人たちだからこそ、一人で過ごす時間に光を当ててくれる放哉や山頭火の俳句に救われるのだと思います」――又吉直樹
(本書「はじめに」より)»
本書では、1句ごとに選句の背景や解説、解釈などが付されている。
«うしろ姿のしぐれてゆくか 山頭火
……感傷も牧歌も消え、生々しい自省と自己嫌悪も遠のいて、宿命をただ噛みしめているだけの男のように、くたびれた心身をゆっくりと運んでいる姿が見えてくる。(金子)»
«咳をしても一人 放哉
……誰もいない孤独が満ちた部屋で咳をする。その咳は誰にも届かず、部屋の壁に淋しく響く。一つの咳によって部屋に充満していた孤独や寂寥が浮き彫りになる。(又吉)»
世捨て人となった山頭火と放哉は、自らと向き合い何を見たのか。2人の吐き出した言葉が孤独な心を癒してくれる一冊。
▲選句された110句は大きめの活字を使い、コンパクトな新書判ながら1句1句をじっくり鑑賞しやすくなっている。
〈目次〉
はじめに――今なぜ山頭火・放哉なのか 左古文男
第1部●人生即遍路 種田山頭火
「うしろ姿のしぐれてゆくか」――金子兜太・選
放浪の軌跡――略年譜と行脚地図
金子兜太選「山頭火」名句55選
選句にあたって 「感覚で射止めた山頭火の句には、従来の俳句にはない新鮮な感銘がある」
キーワード解説――母への思い/流転・変転/酒癖と自戒/山林独居の日々/放浪行乞/「其中庵」と「風来居」/終焉の地・松山/ころり往生
第2部● 独居無言 尾崎放哉
「咳をしても一人」――又吉直樹・選
放浪の軌跡――略年譜と流浪地図
又吉直樹選「放哉」名句55選
選句にあたって 「放哉の句を読んで最初に感じたのは、言葉の強さですね」
キーワード解説――名門士族の跡取り/一高俳句会/東大入学と恋の挫折/就職浪人/「腰弁」への失望/無一物の身/奉仕と托鉢/「死に場所」を求めて/終焉の地「南郷庵」
ゆかりの地を訪ねる
ブックガイド
あとがき 又吉直樹
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小学館新書
『孤独の俳句
「山頭火と放哉」名句110選』
著・選/金子兜太、又吉直樹
定価:1045円(税込)
判型/頁:新書判/256頁
ISBN978-4-09-825431-6
小学館より発売中(11/24発売)
本書の紹介ページはこちらです↓↓↓
https://www.shogakukan.co.jp/books/09825431
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【著者プロフィール】
金子兜太(かねこ・とうた)
1919年埼玉県生まれ。戦後、俳句活動に入り、前衛俳句の旗手として頭角を現わす。現代俳句協会会長などを歴任、30年間にわたって朝日俳壇の選者を務める。主な句集に『少年』など。著書多数。2018年没(享年98)。
又吉直樹(またよし・なおき)
1980年大阪府生まれ。お笑いコンビ「ピース」として活動するかたわら、2015年に小説デビュー作『火花』で芥川賞を受賞。せきしろ氏との共著で自由律俳句の句集『カキフライが無いなら来なかった』などを発表。
https://mag.nhk-book.co.jp/article/31093 【天然のシェード ~俳句とエコロジー【NHK俳句】】より
2023年度『NHK俳句』では、山田佳乃(やまだ・よしの)さんを講師に迎え、「俳句とエコロジー」をテーマに1年間さまざまな名句を紹介しています。6月号の兼題は、暑くなるこれからの季節に大活躍の「簾すだれ」です。
「簾」は夏季、風通しをよくし涼しさを取り入れるために用います。障子しょうじや襖ふすまを外して簾を掛けることで部屋も広々と涼感が増します。最近は以前ほど、使われなくなりましたが、西日など夏の強い日差しを和やわらげるために軒先に簾が掛けられている家を見かけます。
簾は葭よしや刈萱かるかや、割竹などを糸で編みます。この頃はプラスチック製のものなど多くの種類のものがありますが、自然の風合いを生かした簾は見た目も美しく、涼し気に感じられます。青簾は青竹を細く割って編んだ簾で青い色に清涼感が強く感じられます。伊予いよ簾は愛媛えひめ県で作られ上質なことで特に知られていました。
内から外を見たり、外から灯しが漏れていたりと人の気配を感じさせ、視界が少し遮さえぎられることで景色が美しく感じられます。古家に簾が掛かっている風情などは懐かしく日本家屋らしい景色です。
夕簾砂丘かそけき日をとどむ
大野林火おおのりんか
夕暮れの日差しが簾から漏れ来る窓辺。簾越しに砂丘がみえているのです。何もない砂丘の広がりには、夕日のほの明りがいつまでもそこに留まっているように感じられるのでしょう。砂丘という大きな景色が「夕簾」で屋内から見えることが分かります。作者の立ち位置と眼前の景との関係性を一語で表現することができるのです。掲句より砂丘あたりで暮らす家屋より見た景色が見えて来るようです。
木屋町きやまちの簾隠りに寝る灯ともしかな
石橋秀野いしばしひでの
京都・木屋町は京らしい町家が並ぶ、料亭や飲み屋などが多く店を構えるところです。「簾隠り」には簾の奥から出ずに籠こもっている様子が想像されます。表に出てこない人物の生活の寝る灯が簾越しに見えているのです。秀野は花街に住む女たちを描写した句をいくつか残しています。
簾すを垂れて野の夕月の淡きいろ
柴田白葉女しばたはくようじょ
野原の上に夕月がほんのりと光を見せ始める頃、茜色から徐々に藍を増していくグラデーションの空が簾越しに見えてくるようです。月は秋の季題ですけれども掲句の季題は「簾」です。月は年中あるものなのでこのような季重なりは昔からよく見られます。
「淡きいろ」という体言止めにより、彩りの美しさに対する作者の感動が伝わってきて、とても美しい句です。
絵簾の険けわしき山のすがたかな
軽部烏頭子かるべうとうし
山の描かれている絵簾が掛かっていたのですが、険しい山の姿だというのです。これは山水画、禅寺などに掛けられている水墨画のように思えてきます。
作者は蝶ちょうや花というものではないところに珍しさを感じたのかもしれません。隙間すきまのある簾の絵は中から見える景色のようにも見えてくるような気がします。存在感のある絵簾が周りの景色を引き締めているようです。
絵すだれを潜くぐり童女の消えゆけり
中村苑子なかむらそのこ
絵簾はどのような絵簾なのでしょうか。「童女」という措辞そじで可愛らしい花がイメージされます。
また絵簾を潜り姿が見えなくなるのですから、家屋の暗さの中へと消えていったのだろうと想像されます。
童女は家に入っていったのですが、「消えゆけり」と表現したことで儚はかなさや異界へと消えて行ったような不思議さまで感じさせているのです。
篁たかむらのにほひや風の青すだれ
巨洲
座敷に座っていると、竹藪たけやぶにいるような青々とした香りが風に乗ってくるというのです。青竹で編まれた青すだれを抜けてくる風は清々すがすがしい香りまで感じさせるのでしょう。
「風の青すだれ」という措辞がとても印象的ですっきりと表現されています。視覚だけではなく、嗅覚きゅうかくで感じた青簾の句です。
日は遠く衰へゐるや軒簾
松本まつもとたかし
軒に掛けられた簾は普段よく目にするものです。簾衝立のように嵩張らないですし、巻き上げることができ使いやすいので、今ではこのような簾が一般的だろうと思います。
掲句より、暑い一日が漸ようやく暮れていく、という作者のほっとした心持ちが「遠く衰へゐるや」という措辞で伝わってきます。夏の暑さ、日差しの強さ、そんなものも体感として「簾」という季題の前提にあります。
玻璃はりすだれ美容師花に水させる
西島麦南にしじまばくなん
玻璃簾とは硝子ガラス製の簾です。クーラーなどが普及するまでは、様々な種類の簾が作られていたようです。
今はほとんど見かけなくなりましたが、光を反射してキラキラと輝くようなモダンな美しさがあったのではないかと思います。簾には色々なものがありますが、それぞれのイメージが響き合い景が広がっていく面白さがあるのです。
窓に一枚簾をおろすだけで生活の中にそこはかと詩情が生まれます。視線を遮り風を通すということがちょっとした変化を感じさせるのでしょう。日差しを和らげる「簾」は気軽にとり入れることのできるエコロジーな知恵だと思います。
選者の一句
巻き上げて雨の重さの古簾
佳乃
講師 山田佳乃(やまだ・よしの)
1965年大阪府生まれ。「円虹えんこう」主宰・「ホトトギス」同人。稲畑汀子いなはたていこ・廣太郎こうたろう・山田弘子やまだひろこに師事。第21 回日本伝統俳句協会賞。句集に『春の虹』『波音』『残像』(第4回加藤郁乎かとういくや記念賞)、著書に『京極杞陽きょうごくきようの百句』。日本伝統俳句協会監事、日本文藝家協会会員。
https://mag.nhk-book.co.jp/article/34260 【人生を詠う ~仕事【NHK俳句】】より
2023年度『NHK俳句』では、村上鞆彦(むらかみ・ともひこ)さんを講師に迎え、「人生を詠う」をテーマに1年間さまざまな名句を紹介しています。今回のテーマは「仕事」。
また、8月号の兼題は「新豆腐」です。
前回は「恋愛」をテーマに、誰かを大事に思う心を持ち続けることが、生き生きとした俳句を生むことにもつながるということを確認しました。
今回のテーマは「仕事」です。先日、句集を読んでいたら、こんな句が目に止まりました。〈夏の雲ファラオの壁画みな働き 西山ゆりこ(にしやま・ゆりこ)〉。ファラオとは、古代エジプトの王のこと。その墳墓の壁画に描かれている人物たちが、みな何かしら仕事をしているという句意です。ファラオの時代から、さらにもっとずっと昔から、私たち人間はみな生きるためにせっせと仕事をしてきました。仕事は私たちの人生において大きなウエイトを占めます。それだけに、仕事をする上で生まれる喜怒哀楽の様々な場面は、私たちの人生に彩りやアクセントを与えてくれます。今回はそんな「仕事」にまつわる俳句を鑑賞してゆきましょう。
降る雪やこゝに酒売る灯をかゝげ 鈴木真砂女(すずき・まさじょ)
ドラマチックな人生と数々の恋の句で知られる鈴木真砂女が、銀座(ぎんざ)の路地に小料理店を開いたのは五十歳のとき。「卯波(うなみ)」というその店は、多くの俳人や文人に愛されました。この句の「灯をかゝげ」とは、実際に提灯(ちょうちん)を吊るしているというよりは、店を営業しているということの比喩的な表現でしょう。銀座の路地に降る雪を仰ぎながら、ここでこうして暮らしていくのだという静かな決意が伝わってきます。「降る雪や」に万感の思いが籠(こ)もります。〈水打つてそれより女将(おかみ)の貌(かお)となる〉、これも真砂女らしい句です。
畦(あぜ)塗るやちちははの顔映るまで
若井新一(わかい・しんいち)
作者は新潟(にいがた)県で農業に従事しています。「畦塗る」は春の季語で、水を入れる前の田んぼの畦を泥でしっかりと固める作業のことです。てらてらとしたその表面に映った自分の顔に、いつしか「ちちははの顔」が重なって見えたのでしょう。かつて「ちちはは」もまた、毎年この畦を塗ってきました。そのまた「ちちはは」も同じように……。営々と土に拠って生きてきた自らのルーツへと静かに思いを深めてゆくような味わいがあります。
仔牛(こうし)待つ二百十日の外陰部
鈴木牛後(すずき・ぎゅうご)
作者は北海道の酪農家です。この句は、牛の出産を固唾(かたず)をのんで見守っている場面です。「二百十日」は秋の季語で、立春から数えて二百十日目のこと。台風が来ることが多く、厄日とされます。折しもその日に出産のタイミングが重なったとなれば、緊張感もひとしおでしょう。「外陰部」の一語には、ある種の凄味(すごみ)があります。軽薄な興味から使うとたちまち句の底が割れてしまうような語ですが、ここではゆるぎなく収まっています。漢字の多用も、張りつめた空気の感触を伝えます。この作者には〈にれかめる牛に春日のとどまれり〉という句もあります。こちらは明るく、伸びやかな句です。両句から、牛と苦楽を共にしている作者の暮らしが垣間見えます。
時代をだいぶ遡(さかのぼ)って昭和十一年、五十歳目前の竹下しづの女(たけした・しづのじょ)は、夫を失った後の母子家庭を支えるべく、図書館の出納手(すいとうしゅ)として働いていました。その折の句、
汗臭き鈍(のろ)の男の群に伍(ご)す
竹下しづの女
同僚の男たちに立ち混じって懸命に働いていても、女というだけで何かと低く見られることが多かった時代です。「汗臭き鈍」という断定には、その鬱憤(うっぷん)がこもっているようです。もちろんこれは理由のない非難ではありません。しづの女には才覚があり、いわゆるできた人でしたから、できない周囲の男たちがまだるっこしくて仕方がなかったのです。今から九十年ほど前に、このようなしたたかな句が働く女性によって詠まれていたということに感銘を覚えます。
雇用機会や賃金・待遇などの男女間の格差は、時代と共に次第に是正されてきました。代わって現代では、正規―非正規雇用という二つの働き方における格差が問題となっています。
非正規は非正規父となる冬も
西川火尖(にしかわ・かせん)
子どもが生まれ、父親となることは、この上もなく嬉しいことです。しかし作者は、一抹の不安も抱えています。それは、自分が非正規であるということ。今のままで家族をしっかりと養ってゆけるのかどうか……。しかし「非正規は非正規」であり、望めば簡単に正規になれるというものでもありません。現代の非正規として働く多くの方の不安を代弁している句です。
思い通りの会社で、思い通りの仕事ができて、という順境にある人はごくわずかでしょう。誰しもしばしば、次の句のような感慨を抱いたことがあるのではないでしょうか。
会社やめたしやめたしやめたし落花飛花
松本てふこ(まつもと・てふこ)
破調の句で、「やめたし」が三回出てきます。それほどにやめたいのです。休日の花見の席でふと会社のことを思い出してしまい、暗い気分になっているのかもしれません。しかし「落花飛花」には、どこか救いがあります。目線を上へと誘うものがあります。この後、作者は望み通りに会社をやめたのかどうか、そこは読者の想像に委ねられています。
今回は「仕事」にまつわる句を鑑賞しました。特殊な仕事をしている方は、題材の面はもちろん、その仕事によって培われたものの見方や感じ方など、その特殊性をうまく俳句に生かすことができれば、他の人には詠み得ない独自の領域を開拓できる可能性があります。また、仕事一般に関する題材も多く、アプローチの仕方によっては新鮮な句が生まれることも期待できます。仕事は仕事、俳句は俳句と切り分けているという意見も聞きますが、仕事もまた自分の人生を形成する大切なものとして、積極的に詠っていきたいものです。
選者の一句
さざなみの下より掬(すく)ふ新豆腐
鞆彦
講師 村上鞆彦(むらかみ・ともひこ)
1979年、大分県宇佐(うさ)市生まれ。鷲谷七菜子(わしたに・ななこ)、山上樹実雄(やまがみ・きみお)に師事。「南風」主宰、編集長。俳人協会幹事。句集に『遅日の岸』(第39回俳人協会新人賞)、著書に『芝不器男(しば・ふきお)の百句』。
http://mokuenn.jugem.jp/?eid=457 【俳句の目的 ①】より
先日ふとした事から、「詩人が人々に供給すべきものは、感動である。それは必ずしも深い思想や、明確な世界観や鋭い社会分析を必要としない。(中略) 詩人は感動によってのみ詩を生み、感動によって人々と結ばれて詩人となるのである。」という、詩人・谷川俊太郎の言葉に出会った。この言葉の中の、「詩人」を「俳人」に、「詩」を「俳句」に置換えれば、正に、俳句世界に浸っている私達にとっても珠玉の言葉となるのではなかろうか。この言葉の中のキーワードは「感動」である。この「感動」を「小さな発見」と置換えても良いと思う。
一握りの菜の花を手に祖師の碑に 昌文
御朝事の鈴(りん)の一韻花菜風 〃
春風やしづく無尽の御井水 〃
親鸞聖人の旧蹟巡りを時折しているが、私の心が打ち震うほどの「感動」はまだない。従って、出来上がった句も今一つである。俳人にとって、感動の薄いときにどう詠むかが課題である。ここの隘路を潜り抜ける人が手練れの俳人であろう。私の如き常凡は、背伸びせずに身の丈に合った俳句を詠むことで、良しとしよう。
http://mokuenn.jugem.jp/?eid=459 【俳句の目的 ②(何の為に俳句を詠むのか)】より
俳句の目的を語る時、その一句の目的と、俳句を詠むという行為の目的、即ち、「何の為に俳句を詠むのか」との二つを別けて考える方が解り易い。『俳誌要覧2016年版』より、各俳句結社の「理念・信条」、「目標」などを調べると、一句の目的としては、「即物具象」(伊吹嶺)、「「いのち」と「たましい」を詠う現代抒情詩」(河)、「俳と詩の相剋と融合及び個性の森の形成をめざす」(銀花)などがある。一方、俳句を詠むという行為の目的としては、 「文芸性の確立」(伊吹嶺)、「この世に生きた証」(雲云)、「自然と人間の関わりを見つめる」(春野)、等があるが、「わが俳句は俳句のためにあらず、更に高く深きものへの階段に過ぎず。こは俳句をいやしみたる意味にあらで、俳句を尊貴なる手段となしたるに過ぎず(前田普羅の言葉)」(辛夷)が、印象的である。
「何の為に俳句を詠むのか」という問いに、時には、立ち止まって考えるべきだと思う。「そんなに眉に皺寄せて深刻になることない」「俳句は楽しみでやれば良い」「人生なんて、俳句では表現できない」と云う声も大きい。しかし、〈Aランチアイスコーヒー付けますか〉〈ラーメンの替え玉無料日脚伸ぶ〉〈駅前にパン屋うどん屋種物屋〉〈春うららマイナンバーは12桁〉などの「只事俳句」或いは「ライトヴァース俳句」を見ると、只、「楽しければ良い」「面白ければ良い」と言う考え方に、素直に同意することは出来ない。ここに、「わが俳句は俳句のためにあらず・・・」とする前田普羅のことばが重い。俳句は、作者の感動(小さな発見)を原動力とする一片の「詩」であると思う。俳句は単なる写生でなく、作者の生き様、想い、息遣いが滲んでいる17音であって欲しいと思う。そして、目の前の17音のメッセージ力と、自分の想いとのギャップを埋める作業が推敲であり、句会で高得点を得るためではないと、言いたい。「何の為に俳句を詠むのか」という問いに対する私なりの答えは、「俳句は人間形成の一つの道である」という事で、「自己実現」と呼んでも良い。「俳句を通じて、自然・人・出来事・多様な句に出会い、自らが感動することにより人間性を高めてゆく」とも云える。あくまでも、自らを高める為であり、他人と比較して悲喜を味わう為ではないと思う。
https://note.com/da4_men2/n/nfe39f729f853 【俳句を何故詠むのか〜或る無名俳人の場合】より
俳句で表現する理由は人それぞれあると思います。でも、みんながみんな同じ理由で俳句を続けているわけではありません。人が俳句を続ける理由はわかりませんが、自分の経験であれば例として出せるかなと思ったので、まず例示して、動機を体系づけられればと思います。
まず、俳句の経歴を振り返って、僕が何故俳句を続けているのか、言葉にしてみようと試みます。
客観的な句歴としては、中学生から俳句を始め、高校卒業まで家族が所属している会員誌に俳句を載せてもらっていました。大学受験で投句をやめましたが、大学卒業まで句会には行っていました。大学を卒業したら、会員誌とは疎遠になりながら、結社に入ってすぐやめて、コンクールや投稿などを中心にたまに投句して、3年前に元の会員誌に正式に入会して、現在に至ります。会員誌の名義はブログとは別名義なので、所属先は今は内緒です。
では、今も俳句を何故続けているのか。今までの句歴を振り返って、その動機を整理します。
俳句で良かったことを考えると、まず、句会で句座を囲むことの楽しさを覚えたことが挙げられます。僕が最初に遊びに行った句会は、初心者から上級者(有名な先生級の人)までさまざまな人がいて、俳句の勉強よりも、お酒を交わして親睦を深めることが目的の句会でした。未成年なのでお酒は飲みませんでした(勧められることもありませんでした)が、緊張しすぎず弛緩しすぎず、時に笑いあり、時に確かな鑑賞もあり、ちょうど良い距離感を維持できたいい句会だと今でも思います。俳句が下手でも貶されもせず、放っておかれた環境が僕にとってはとても心地よいものでした。勉強は自分でやらないといけないので人を選ぶのですが、僕には合ったやり方でした。
次に、賞やメディア主催の俳壇に投稿することで、いくつか自分の俳句が選ばれた経験があります。句会でもそうですが、選ばれることで、自分の俳句の特徴や、どう読まれるかということを学べました。選者の傾向や流行を知るのに役立ちました。
でも、他人に選ばれる行為だけでは持続には不十分で、自分が詠みたい俳句を詠まなきゃしょうがないというところがなければ、途中でやめていたと思います。人生で辛いことがあったりとかあったときに、書かないと精神が保たなかったりして、別に佳句でなくてもいいのでとにかく書くことで、心を落ち着けることが一つの動機になっていました。
ただ、短歌や現代川柳と違って、俳句で自分の想いをそのまま表現することは難しいです。出来たとしても、思ったことを天衣無縫に詠まなければ俳句としては成り立たないです。凡人の僕は、思いのままに詠んだ句は捨てるしかないのですが、天衣無縫の名人というのはいるもので、思ったことをそのまま詠んで、それが人に良い感情を与えられることはそれだけで才能だと思います。そういった才能は一部にしか認められておらず、世間がその天才に気づかないところはなんとなく勿体無く思っています。
さて、それらの動機にある程度区切りが付いたとき、俳句の技術だけが残り、俳句を続ける動機が空っぽになりかけました。そのときになって入門書や創作論を読み漁り、理論を身に付けることを始めました。それでも、俳句のセオリーというよりも、自分の関心に紐づいたものばかり参照していて、俳句の先生らしい勉強をしているわけではないので、なるべく「エヘン」な先生っぽいことは避けています。教えるのってとても難しい。
それで、俳句は何かというところを原理主義的に考えて、詞章のやりとり(俳諧連歌)が俳句のルーツであると考えたとき、俳句は問題提起であって、人への問いかけであると今は合点しています。人には人のやり方があるので、あくまで「自分の指標として」と但し書きが付きますが、今は亡き句友が教えてくれた「句会に出す句は問題提起しないと駄目」ということと結びついて、ちょっと驚いています。
大体、自分の中にある動機となりうる事柄をまとめてみますと、自分のため、他者のためという目的の軸と、能動的、受動的という手段の軸に分けられるかなと思います。分け方は(特に手段の所は)もっといいまとめ方がありそうで、本稿ではあくまで目安ですが、さまざまな刺激がなければ、俳句を持続することは出来ないでしょう。
句会で意見を交わす(利他、受動的)
褒められて嬉しい(利己、受動的)
詠まなきゃ収まらない(利己、能動的)
問題提起のため(利他、能動的)
大体、このようにまとめてみましたが、俳句は友情の文学とはよく言ったもので、自分の例を見ているだけでも他人が媒介していることが多くて、「独り言」が動機として起こりにくい形式のような気がします。
このように、過去を振り返って、俳句について考えてみたものの、いい整理にはなりましたが、自分の句が問題提起になっているかどうかはわかりませんねー。
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