Facebook相田 公弘さん投稿記事
2004年8月22日、銃を携えて覆面を被った男たちによって、ムンクの『叫び』と『マドンナ』がムンク美術館から盗難されるという事件が起きました。
犯人達は美術館の警備員に対して床に伏せるよう脅し、壁に張られた防護用の綱を引きちぎり、黒い車に乗って逃走、逃走に使用されたアウディ・A6ステーションワゴンは、後に乗り捨てられているところを警察によって発見されましたが、二点の絵は31日に市内で発見されました。
「ムンクの『叫び』」は、幼少期に母親を亡くし、思春期に姉の死を迎えるなど病気や死と直面せざるを得なかった1890年代のムンクが、「愛」と「死」とそれらがもたらす「不安」をテーマとして制作し、「フリーズ・オブ・ライフ(生命のフリーズ)」と称した作品群のうちの一作であり、『叫び』はその中でも最も有名な作品です。
ムンクはノルウェーでは国民的な画家で、現行の1000ノルウェー・クローネの紙幣にも彼の肖像が描かれています。
生と死の問題、そして、人間存在の根幹に存在する、孤独、嫉妬、不安などを見つめ、人物画に表現し、表現主義的な作風の画家として知られてます。
また、数多くの浮名を流したことでも知られ、恋を「昔の人が愛を炎に例えたのは正しい。愛は炎と同じように山ほどの灰を残すだけだからね」と語っている。
因みに、クローネとは王冠を意味する言葉だそうです。
https://note.com/seorii/n/ne673c9acdec6 【物質世界への誕生 精神世界への誕生 叫び - 生命のフリーズ - エドヴァルド・ムンク The Scream - The Frieze of Life - Edvard Munch】より
1) ムンク Vol.6「叫び - 生命のフリーズ -」
1863年12月12日、ノルウェーのロイテンで誕生したムンクは、表現主義の代表的な画家です。
19世紀後半、パリでは印象派の動きが起こります。その画家たちは、自分の外側にある風景などの ようすを強調して描きました。
それとは対照的に、20世紀前半、ドイツでは表現主義の動きが起こります。ムンクを含めその画家 たちは、自分の内側にある感情などのようすを強調して描きました。
ムンクの5歳の時に母が、14歳の時に姉が亡くなっています。25歳では父が、32歳では弟が亡くな り、妹、またムンク自身も、精神的な病での入院をしています。
生命に起こる困難な体験によって、心の奥深くから湧いてくる “不安” “恐怖” “苦悩” “葛藤” 。表現主 義の画家の中でもムンクは、そういった感情を数多く描きました。
ムンクが生きた時代は、産業革命以降の機械化が加速した時代です。次々と生まれる無機質なも の。その反動で、生命の本質、有機的なものに対する探求が活発に起こりました。
アトリエ
神殿の上部などにある帯状の連続した装飾部分を、建築用語で “フリーズ” と言いますが、ムンクも 自分の描いた絵を、アトリエや展覧会場に帯状に連続させて飾りました。
そしてそれらを「生命のフリーズ」と命名し、 ”生命とは何か?” という問いを、絵を通して投げかけま した。
占星術で使うホロスコープも、「生命のフリーズ」のように、生命、人間の成長が連続して描かれてい るものとして眺めることができます。
例えば、1ハウスから3ハウスは個人の成長、4ハウスから6ハウスは人間性や情操の成長、7ハウ スから9ハウスは社会的な人格の成長、10ハウスから12ハウスは総合的な成長、といったようにで す。
3-月光
その中で2ハウスから10ハウスは、物質的な ”見える世界” と関係を深めながら成長してゆくハウス です。また12ハウスは、精神的な ”見えない世界” と関係を深めながら成長してゆくハウスです。
見えない世界との関係を築くことができなかった ”生命” は、見える世界の過程で、お金や権威など 本質とはかけ離れた世界の言いなりとなった成長をしてしまう可能性があります。
9-カール・ヨハン通りの夕べ
反対に、見えない世界との関係を築くことができた ”生命” は、見える世界の過程で、本質的な成長 が可能になってくるでしょう。
本質的な成長ができた"生命"が再び12ハウスに入ると、それまでよりずっと深い意識の層に触れる ことができます。
”生命”は、そんな上昇を伴ったループを螺旋状に、繰り返し繰り返し経験してゆく中で、より本質的な 生命へと成長してゆくのです。
四分割-ムンク
2) 物質世界への誕生 1ハウス 精神世界への誕生 11ハウス
1ハウスでは、”見える世界への誕生”、11ハウスという水瓶座のハウスでは、”見えない世界への誕生”。2つのハウスでは、そんな共通の動きが起こります。
産まれてきたばかりの赤ちゃんは、なぜ泣き叫ぶのでしょう?
それは母胎という慣れ親しんだ環境から離れ、未知の世界へ誕生する際に起こるストレスによる叫 びであるとも言われています。
1ハウスと11ハウスでは、赤ちゃんが誕生する時のように、 “不安” や “恐怖”、 “苦悩” や “葛藤” と いった、ムンクの描いたような感情が引き起こされます。
けれどもそれは、新しい世界へ移行する1つの過程、本質的な成長への大切な通過点であると言え るのではないでしょうか?
誕生感の強い今回の新月。困難が起こったら、”似たものが似たものを癒す”、、、そんな代替治療の ように、ムンクの絵を眺めてみるのもいいかもしれませんね。
10-生命のダンス
3) 感情の克服体験を教える
『自分の感情の克服に成功した男が、自分の体験という観点から深い知恵を教え
る』”困難な過去の体験が、まだ自己の欲望を克服することと戦っている人々に対しての模範となる” そんな意味があります。
「私は自分の芸術のなかで、自分自身に向けて、生やその意味を説明しようとしてきた。また、他の人が自分自身の生を理解する助けになろうともしてきた。」と、ムンクは書き残しています。
知識ではなく実際に苦しんだ体験こそが、人々のお手本となる、、、ムンクの絵は今もなお、同じよう な問いを持つ人へエールを送っています。
12-太陽
あなたはプレアデスの鎖を結ぶことができるか。オリオンの綱を解くことができるか。 あなたは十二宮をその時にしたがって引き出すことができるか。 北斗とその子星を導くことができるか。 あなたは天の法則を知っているか、そのおきてを地に施すことができるか。
『ヨブ記』の第38章 31 − 33 の一説
美術家 田谷美代子
印刷会社勤務の傍ら、子どもとの自然体験の場や絵本教室に通う。 絵を描くための哲学の必要性 を感じ、渡独にて人智学、その後占星術に出会う。 国内、フランスのギャラリーにて作品の出展や、 本の装丁、プロダクトパッケージなどを手がける。 また、現在子どものアートワークショップの開講に 向け準備しております。
https://artscape.jp/study/art-achive/10150250_1982.html 【エドヴァルド・ムンク《叫び》──震える魂「田中正之」】より
影山幸一
2018年10月15日号
※《叫び》の画像は2018年10月から1年間掲載しておりましたが、掲載期間終了のため削除しました。
白熱電球のような顔
耳をふさぎ、何かにおののいているような男か女か、大人か子どもか、あるいは幽霊なのか。両手にはさまれた白熱電球のような顔。丸坊主で身体をくねらせて正面を向いたポーズが強烈な印象を残す。赤・青・黄の三原色の曲線画が目を引く。不気味でありながら、どこかユーモラス。心の底から「ワァー!」と声が聞こえてきそうだ。エドヴァルド・ムンクの《叫び》(オスロ・国立美術館蔵)である。
ムンクがノルウェー王国の画家と知り、北欧の地図を調べて見た。イギリスの北東、雄大な自然景観のスカンディナヴィア半島の西岸にノルウェーはあった。東岸にはスウェーデン。ノルウェーは一部が北緯66度以北の北極圏にあり、南東のフィヨルドの良港に首都のオスロがある。日本とほぼ同じ面積38.6万平方キロメートル、人口は約525万人。国技はスキーで、劇作家のヘンリック・イプセン(1828-1906)や3人組バンドa-ha、DJで音楽プロデューサーのKygo(カイゴ)などが知られ、ノーベル平和賞はノルウェーで決定されるという。
《叫び》も、ムンクも日本で知る人は多く、両手で頬を包むポーズを真似する人もいる。しかし、強いイメージに比べて絵について語られることは少ない。絵に秘められた人気の秘密はなんなのだろう。2007年、国立西洋美術館で開催された「ムンク展」を企画担当した田中正之氏(以下、田中氏)に《叫び》の見方を伺いたいと思った。西洋近現代美術史を専門とする田中氏は現在、武蔵野美術大学教授として教鞭を執る。今秋2018年9月には『ムンクの世界 魂を叫ぶひと』(平凡社)を出版された。東京・国分寺駅からバスに乗り武蔵野美術大学へ向かった。
田中正之氏
絵を言葉で理解する
駅から20分、バス停を降りるとすぐ前に大学があった。田中氏は1963年東京に生まれ、絵が好きな子どもで中学、高校も美術部だったという。中学3年生のときに、クラス担任の先生が美術部の顧問で美術の先生でもあった。その先生が中学校最後の授業といって画集を持って来て、ピカソの《泣く女》(テート・モダン蔵)と尾形光琳の《紅白梅図屏風》(MOA美術館蔵)について話をした。「こういうふうに描かれているだろ」と絵を見ながら解説をし、「なぜそう描いたのか」と生徒たちに尋ね、「こう描けばこういう効果が出るね」と、田中氏は当時を振り返る。絵を言葉で聞く初めての体験をした。なんとなく思っていたものが、こんなにも理解として入っていける。衝撃的な瞬間だった。田中氏はこれほど面白い体験はないと思ったという。
高校に入ると、国語の先生が副教材として、いつも西洋美術史家の高階秀爾(1932-)の本を使っていた。その影響で高階の本を読むようになった。大学の入試が迫り、大学案内を見ていると高階秀爾の名を発見、ここへ行くしかないと決心した。そして、高階が教える東京大学文学部美術史学科へ入学。卒論はドイツ表現主義の画家エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー(1880-1938)について書いた。
ムンクに関心を持ったのは、大学院生のときだったという。卒論でのドイツ表現主義を理解するため、ドイツ表現主義に影響を与えたムンクらの先行美術について学ぶ必要があった。1990年に博士課程へ進学したが、その頃読んでいた本の執筆者がニューヨーク大学関係者が多かったことがあり、5年間ニューヨーク大学美術史研究所へ留学した。辛かったけど面白かったという。
その後、1996年より国立西洋美術館の研究員となり、「ピカソ」展(2000)、「マティス」展(2004)、「ムンク」展(2007)などを担当。田中氏はつくり手の現場に関心をもち、2007年から武蔵野美術大学に勤務している。
クリスチャニア・ボヘミアン
エドヴァルド・ムンクは、1863年ノルウェーの南部ローテンに生まれた。5人兄弟の2番目で、父クリスチャンは軍医、母ラウラは結核のためムンクが5歳のときに亡くなった。貧民街での医療活動に打ち込んでいた父は、家庭では荒れて子どもに暴力をふるった。病弱なムンクを支えたのは亡母の妹カーレンだった。カーレンは子どもたちを深い愛情で包んだ。しかしムンクが14歳のときに、姉ソフィーエも結核で世を去る。ムンクは絵を描くことで落ち着き、描くことによって、人間の内面を見つめ、自分の悩みや苦しみを乗り越えることを覚えた。
建築家になるために父の意向で通っていた工業学校をやめ、18歳でクリスチャニア画学校に入学。当時アヴァンギャルドな自然主義(社会の現実を深く見つめる)の画家クリスチャン・クローグ(1852-1925)に指導を受け、前衛的芸術集団「クリスチャニア・ボヘミアン」に加わり、そのリーダーで思想家のハンス・イェーゲル(1854-1910)に感化された。ムンクはこの2人の影響を受け、イェーゲルの「自らの生について書かねばならない」という教えを守り、その後の芸術活動の指針とした。
1889年パリの万国博覧会の年にムンクはパリに出て、カミーユ・ピサロ(1830-1903)、ポール・ゴーガン(1848-1903)、フィンセント・ファン・ゴッホ(1853-1890)、ジョルジュ・スーラ(1859-1891)、トゥールーズ=ロートレック(1864-1901)など、当時の最新の絵画活動に触れて、世紀末的様式を育んでいった。
「生のフリーズ」の誕生
1890年代から1900年代にかけてのムンクは、実り豊かな活動が続き、1892年にはドイツのベルリン芸術家協会に招待され、油彩55点を展示した。しかし、その個展は開催初日から新聞や雑誌で「グロテスク」と酷評され論争を巻き起こし、わずか1週間で閉鎖した。「ベルリン・スキャンダル(ムンク事件とも)」と呼ばれ、画家を一躍有名にした。また1893年には本作の《叫び》を制作し、1894年からは版画に取り組んだ。この頃、妹ラウラが精神病院に入院し、弟アンドレアスが肺炎で亡くなっている。
1902年、ベルリンにアトリエを借りベルリン分離派展に《叫び》を含む22点を「フリーズ★1:生のイメージの連作の展示」★2というタイトルで出展した。人間の「愛と性」「不安」「生と死」といった主題を「生命の連鎖」ととらえ、人間の運命を自らの芸術に取り込もうと4つのセクション(愛の芽生え・愛の開花と移ろい・生の不安・死)に分けて空間を装飾するように展示した。
ムンクは生涯結婚しなかったが、19歳のとき人妻との初恋に嫉妬や罪悪感に悩まされ翻弄された経験から、婚約をしながらも結婚を拒んでいた。拳銃で自殺をほのめかす婚約者トゥッラ・ラーセンと揉み合ううちに銃が暴発。ムンクは左手中指の第一関節から先を失い、愛することに終わりを告げた。1908年ムンク45歳、身近に死を感じ精神症にかかり、8カ月間入院する。
第一次世界大戦(1914〜18)が始まったさなか、1916年国家を象徴するオスロ大学の講堂の壁画《太陽》や《歴史》など11の画面が完成した。1930年67歳になったムンクは眼病を患う。1933年フランスとノルウェーから勲章を授与される。1937年ナチスがドイツ国内のムンク作品82点を退廃芸術として押収する。第二次世界大戦(1939〜45)が開始され、ノルウェーはナチス・ドイツ軍に占領された。1944年自宅にて永眠。享年80歳。遺言により絵画1,100点、版画1万8,000点、水彩と素描4,500点、彫刻13点、手紙や手稿などすべてがオスロ市に寄贈された。
★1──帯状の建築装飾を指す言葉。
★2──展示の仕方が重要。ムンクは1918年に「生のフリーズ」と命名し、公表した。
【叫びの見方】
(1)タイトル
叫び(さけび)。英題:The Scream。
(2)モチーフ
人、歩道、欄干、海、舟、空。
(3)制作年
1893年。ムンク30歳の作品。同年ベルリンでの個展に「『愛の連作』のための習作」として6点(《夏の夜:声》《キス》《吸血鬼》《マドンナ》《メランコリー》《叫び》)が出品された。
(4)画材
厚紙・テンペラ★3・クレヨン。
★3──顔料を膠質、または卵黄やカゼイン(リンタンパク質の一種。牛乳のタンパク質に多く含まれ、チーズの原料や接着剤などに広く用いられる)で練った絵具を用いた西洋画の一種。効果としては油絵と水彩画との中間的なもの。
(5)サイズ
縦91.0×横73.5cm。
(6)構図
背景の要素が前景の人物に、すべて集約されていく逆三角形をつくり、不安定さを感じさせる構図である。
(7)色彩
オレンジ、黄、青、緑、紫、茶、ベージュ、黒、白など多色。ムンクが感じた主観的な色彩。
(8)技法
アール・ヌーヴォーに見られる有機的曲線が特徴。絵具は薄くかすれ、太い直線と波状の曲線が、大胆な遠近法と調和して劇的な効果を高めている。
(9)サイン
「E. Munch 1893」と茶とオレンジの2色で左下に署名。
(10)鑑賞のポイント
氷河によって形成された入江のフィヨルドと、オスロで見られるという縞模様の空を、ゴッホ(1853-1890)の《星月夜》(1889、ニューヨーク近代美術館蔵)と類似した曲線で表わしている。耳をふさぎ口を開け、両手ではさんだ単純化された顔には頭髪や眉毛はなく、目はくぼみ、左目には×印、青い唇からは言葉にならない不安が漂ってくる。左上には「Kan kun være malet af en gal mand !(狂人にしか描けなかっただろう)」という鉛筆による書き込みがかすかに見える。ムンクの日記には「友達二人と道を歩いていた──太陽が沈もうとしていた──物憂い気分のようなものに襲われた。突然、空が血のように赤くなった──僕は立ち止まり、フェンスにもたれた。ひどく疲れていた──血のように、剣のように、燃えさかる雲──青く沈んだ港湾と街を見た──友達は歩き続けた──僕はそこに立ったまま、不安で身をすくませていた──ぞっとするような、果てしない叫びが自然を貫くのを感じていた」(図録『ムンク展』1997、p.58)と記されている。ムンクの心像とも見える人物のおののく様子を、遠ざかる2人は気づきもしない。自然の移ろいは、言いようのない神秘と不安に満ち、生命に対する恐れをムンクは過敏に感じとっていた。心の内的映像を表現している。《叫び》は全5点(1893・テンペラ、1893・パステル、1895・パステル、1895・リトグラフ、1910?・テンペラ)が存在する。この作品は、ムンクが連作とした「生のフリーズ」を構成する一作品であり、裏面には同じモチーフのラフ画が描かれている。ムンクの代表作。
光景と心理が共振する
ムンクは、ひとつの作品を独立したものではなく、複数の作品をひとつの作品として見ることが重要であると考えていた。そのため作品が販売されて手元に作品がなくなると、その代りを描いた。《叫び》にバリエーションがあるのは、そのイメージが手元に必要だからであった。
《叫び》について田中氏は、「この《叫び》には『狂人にしか描けなかっただろう』と書き込みがある。ムンクの筆跡か、他人が書いたのかは不明だが、ムンクの生前に書かれており、ムンクはその言葉を消すことはなかった。絵を見ている人たちはこの言葉に誘導される。実はムンクはこの絵を2年間かけて描いている。試行錯誤を繰り返した理知的な絵であり、狂った人間が勢いで描いたものではない。自然の光景と人物の心理とが共振しながら、どこからともなく叫び声が響き、そして人物も叫んでいる。その人物の身体は、不安によって自己の存在が脅かされ、血のような赤い空の下で揺らいでいる。また、空や海と対照をなすのが、極端な遠近法によって描かれた道。画面に鋭い緊迫感を与え、2人の人物が一気に遠ざかり、離れ去って行ったかのような効果をつくり出している。そのため前景で叫ぶ人物の孤独感が、いっそう強調されることになる。絵の右端にある茶色の奇妙な柱部分については解明されていないが、ムンクは本当は切りたかったところを色を塗って終わらせてしまったと思う。額縁で隠す方がムンクは嬉しいかもしれないが、そのままにしている。テンペラなどの画材についてもその真意はわからない。狂人にしか描けなかったとは、いままでの絵画の歴史にはない、誰もなしえなかった新しい独特な表現をつくり出したことに対する、ムンク自身の自負の表われととらえた方がいいだろう。《叫び》の舞台となった場所は『エーケベルグの丘』と言われるが定かではない」と語った。
高階秀爾は「われわれは『叫び』の画面の前に立つ時、ムンクのその不安とおののきを、はっきりと感じ取ることができる。いったいムンクの感じた不安の正体とは、何だったのだろうか。それは、強いて言うなら、ムンク自身の心のなかにあった不安としか言いようがない」(高階秀爾『続 名画を見る眼』p.126)と記している。
実存的な葛藤
日本ではこれまで「ムンク展」は、神奈川県立近代美術館(1970)、東京国立近代美術館(1981)、出光美術館(1993)、世田谷美術館(1997)、そして、2007年の田中氏が国立西洋美術館で担当した「ムンク展」と続いてきた。田中氏は、「愛と死と苦悩と狂気という、いままでムンクに用いられてきた言葉を使わない、新しいムンクの世界を企画しようと思った」と言う。
ムンク作品を「デコラティブ(装飾)」という概念でとらえようとする、新しい視点による研究があることをアメリカ留学のときに知った田中氏。装飾という問題は、西洋近現代美術史で長く見過ごされてきたテーマだった。個人の内面の表現という作品理解の仕方とはまったく違う、社会・政治とも結びつく観点が出てくる。ムンクが考えていた「生のフリーズ」の装飾展示を、日本で再現しようと田中氏はチャレンジした。そして2007年の「ムンク展」は「デコラティブ」の問題を示す内容となった。
田中氏は「ムンクは絵を描き、文章も発表し、展示にも凝る。自己の名声をどうやってつくるかをしたたかに考えた人。ムンクという画家はまだまだとらえ直すことができる」と述べた。ムンクを「狂気の画家」と見なすようにしたのは、ムンク自身の巧妙な自己演出によるものだった。
戦争が続いた世紀末、ムンクは鋭敏な感受性によって人間の内部に存在する神秘をとらえた。ドイツの哲学者フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)やデンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの主張と響きあい、ノルウェーの劇作家ヘンリック・イプセンと重なり合う世界を絵に描いた。「彼らはみな、現代社会のなかで生きる人々の実存的な心理的葛藤への思索を深め、とらえようとしていた」と田中氏。《叫び》はその象徴的な作品だ。現代人の得体の知れない不安を、ムンクの不安が鏡となって希望の光につなげてくれるかもしれない。
東京都美術館にて「ムンク展──共鳴する魂の叫び」(2018.10.27〜2019.1.20)が開催される。本作は展示されないが、オスロ市立ムンク美術館が所蔵する1910年作と伝わる《叫び》が初来日する。
田中正之(たなか・まさゆき)
武蔵野美術大学造形文化・美学美術史教授。1963年東京生まれ。1987年東京大学文学部美術史学科卒業、1990年東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了、1995年東京大学大学院人文科学研究科博士課程中退。ニューヨーク大学美術史研究所(1990〜1995)に学ぶ。1996年国立西洋美術館研究員、「ピカソ:子供の世界」展(2000)、「マティス」展(2004)、「ムンク」展(2007)などを企画。パリ国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)訪問研究員(2002-2003)。2007年より武蔵野美術大学准教授、2009年教授、2011年同大学美術館・図書館長兼任(〜2015)。専門:西洋近現代美術史。所属学会:美学会、美術史学会。主な編著書:『夢見るモダニティ、生きられる近代:アート・社会・モダニズム』(ありな書房、2017)、『ニューヨーク:錯乱する都市の夢と現実』(竹林舎、2017)、『現代アート10講』(武蔵野美術大学出版局、2017)、『20世紀 越境する現代美術(西洋美術の歴史8)』(中央公論社、2017)、『ムンクの世界』(平凡社、2018)など。
エドヴァルド・ムンク(Edvard Munch)
ノルウェーの画家。1863-1944年。ノルウェー南東のヘドマルク県ローテンに、軍医の父クリスチャン・ムンクと母ラウラ・カタリーネ・ビョールスタの長男として1863年12月に生まれる。一家は、翌年クリスチャニア(1925年にオスロに改称)に転居。姉と弟、2人の妹がいた。1879年16歳、父の意向で建築家になるため工業専門学校に入学。翌年学校を退学し、画家の道を選ぶ。1881年18歳クリスチャニア画学校に入学。1884年前衛的な文学者や芸術家の集団「クリスチャニア・ボヘミアン」と交流。翌年パリに滞在し、ルーヴル美術館で模写をする。《病める子》などの制作に着手。1889年パリ近郊に移り、その町名で「サン・クルー宣言」と呼ばれる自然主義から離脱を表明。1891年《叫び》の最初のスケッチを描く。1893年ベルリンの個展で《叫び》を発表。1894年エッチングとリトグラフを、1896年には木版画に取り組む。1899年ローマを訪れ、特にラファエロのフレスコ画を研究。1902年ベルリン分離派展に「生のフリーズ」22点を四つに分類し展示。婚約者とのいさかいによる銃の暴発で左手中指を損傷。1908年神経症になるが、入院中に連作版画集《アルファとオメガ》を制作。1909年オスロ大学講堂の壁画コンペに応募し、1914年に依頼を受け、1916年壁画完成。1937年ドイツ国内の所蔵作品をナチスが「退廃芸術」として押収。1944年オスロ郊外のエーケリーの自宅で心臓麻痺により死去80歳。主な作品:《叫び》《病める子》《思春期》《マドンナ》《太陽》など。
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