https://www.amorc.jp/existence-nonexistence/?fbclid=IwAR0oM2-DO0LLm2L_zcQ45hKkK7diigCEflwrCQLu0PKAXiWYFmUzXXleZ5s 【無いは在る-在るは無い】より
こんにちは。バラ十字会の本庄です。
昨日、東海の梅雨明けが発表されたとのことで、東京も本格的な夏の直前です。
いかがお過ごしでしょうか。
私の友人で作編曲家をしている渡辺さんから、ものごとの両面についての興味深い文章が届いていますので、ご紹介します。
『無いは在る-在るは無い』 渡辺篤紀
最近、知人から古神道の原理を表した「無いは在(あ)る、在るは無い」という言葉を教えてもらいました。
その時は、詳しい内容までは聞けませんでしたが、禅問答のようなこの言葉を、私なりに考察してみました。
■ 古神道
「無いは在る、在るは無い」をもう少し、言葉を補って書くならば、無いということは、在るということである在るということは、無いということである
となり、これは存在・非存在の二元論を言い表しており、また、陰陽道の陰陽思想とも似ているように思われます。
■ 陰陽道
陰陽思想の陰と陽は、どちらが正しくて、どちらが間違いであるかというような意味ではなく、陰と陽という異なる2つの要素の絡み合いによってこの世界は構成されているという考え方です。
陰陽魚太極図
これを先ほどの「無い」、「在る」と入れ替えてみると、
「陰は陽である、陽は陰である」となります。
すると、陰と陽は結局のところ、同じものを異なる面から見たものであると解釈することができます。
陰陽思想には「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」という言葉があります。このことを考え合わせるならば、陰と陽は、互いに変化する、同じものの異なる側面だということになります。
そして、冒頭の「無いは在る、在るは無い」という言葉は、存在と非存在が、同じものを異なる面から見たものであり、互いに変化、移行するものだと考えることができます。
■ 仏教
仏教にも同様の考え方があります。
般若心経に書かれている「色不異空、空不異色、色即是空、空即是色」という言葉です。
これを読み下すと、色は空と異ならず、空も色と異ならず、色すなわち空なり、空すなわち色なり。となります。
この言葉も、「色」(形があるもの)と「空」(形のないもの)という、異なる2つのものが同じであることを説いています。
では、西洋の錬金術や神秘学には、このような思想は存在するのでしょうか?
馬蹄形磁石と砂鉄と磁力線(二元性のイメージ)
■ 錬金術・神秘学
錬金術・神秘学にも同じような言葉があります。
それは、「As Above, So Below」という言葉です。
これは、日本語に訳すと、「上のように、下も然り」となります。
この言葉には、もう少し長いバージョン「As above, so below; as below, so above.」があり、その日本語訳の一例に、上にあるすべてのものは、下にあるものに似ており 下にあるすべてのものは、上にあるものに似ている があります。
この場合の「上」は「マクロコズム」(宇宙)、「下」は「ミクロコズム」(人間)だと解釈されることがあります。また、「実体のないもの」(構想された世界)と「実体のあるもの」(創造された世界)と解釈されることもあります。第2の解釈を採ると、「無いは在る、在るは無い」という言葉とほぼ同じことを表しています。
仮に、「上」と「下」を「無い」と「在る」に置き換えてみると
すべての無いものは、在るものに似ており、すべての在るものは、無いものに似ている
となります。
古神道、陰陽道、仏教、神秘学に伝わる二元的な考え方を簡単にご紹介しましたが、いかがでしたでしょうか?
まったく違うものと思われがちなこれらの思想が、根本のところで、とても似たことを主張しているのは、少し驚きではないでしょうか?
どこを出発点としても、究極的にたどり着く答えというものは、私はある一点に収束するのではないかと思っていますが、収束した先がまた出発点となり、「陰極まれば陽に転じ、陽極まれば陰に転ず」というように、事物の展開の本質は、ウロボロスのような形をしているのかもしれませんね。
ウロボロス
ウロボロス、Ihcoyc at English Wikipedia, Public domain, via Wikimedia Common
https://www.amorc.jp/material_008/ 【ウロボロス】より
ポール・グッドール
幾世紀も前から、錬金術の図柄に使われている多くの要素がありますが、そのうちでも、蛇の絵は、最も頻繁に使われてきたもののひとつです。その典型的な例は、医療機関や医者を表すためによく使われるシンボルに、今日でも見ることができます。それは「ヘルメスの杖」と呼ばれる象徴です。ヘルメスの杖は、二元的な極性、つまり男性と女性が調和して一体となったものであり、ギリシャ神話に登場するヘルメス神(ローマ神話ではマーキュリー神)の翼と、杖にからみ合う二匹の蛇によって表されています。エソテリックな(esoteric:秘伝思想的な)文学や哲学の中には、蛇の象徴や図形がさまざまな形で登場しますが、この記事では、そのうちのひとつ、「ウロボロス」として広く知られている象徴について見ていきましょう。この象徴は、蛇または翼を持つ竜として描かれ、自分自身の尾を掴むか噛み付くことで、円形になっています。「ウロボロス」とは、ギリシャ語で「尾を噛むもの」を意味しています。
ウロボロスの起源
Origins
この象徴が存在していた証拠は大昔にまでさかのぼることができます。エジプトの様々な古代文化の多くで重要な役割を果たし(図1)、最も古い記録は、紀元前1600年頃のもののようです。(脚注1)ニコラス・フラメル(Nicolas Flamel, 1330 – 1417)は、自身の解説書でこの絵についてこう書いています。
「これらは、古代エジプト人が円形に描いた蛇と竜である。頭が尾を噛み、〈一なるもの〉から、そして同じ所から始まることを意味している。それ自体にすべてを備えていることを示し、戻り循環することで、それ自体が完全となることを表している。」(脚注2)
その後ウロボロスは、フェニキアに出現し、その後に古代ギリシャ文化の勢力圏にも表れました。別の例として、紀元前1200年頃の古代中国の周王朝からも、青銅の容器に刻まれているウロボロスが見つかっています。(図2)(脚注3)
アレクサンドリアにおけるギリシャ風の後期ヘレニズム文化では、おそらくエジプトの図案を盗用して、この図が作られたのだと思われます。この図は、中世と近代初期のヨーロッパの錬金術の写本や文書で、ごく一般的に見ることができます。(図3)アレクサンドリアの詩人で作家のクラウディウス(Claudian、:西暦390年頃)は、次のように書いています。
「遠くはるか、誰にも知られることなく、思い浮かべられることもなく、神々からも、めったに手を差し伸べられず、長年の過酷な暮らしにやつれた母は、その大きな胸のうちにある原始の洞窟に立ち、その母は、時の揺りかごであり子宮である。蛇は洞窟を囲み、ゆっくりとした力で万物を消化し、緑色の鱗がいつもきらめいている。口は、後ろに曲がった尾を飲み込み、音もなく動き、始まりをたどる。」(脚注4)
ウロボロスはまた、古代スカンジナビア文化では、ヨルムンガンド(Jormungandr)という名前で、ユグドラシル(Yggdrasil:全世界を支える巨大な木)の神話に登場します。インドのヒンズー教の伝説では、竜が亀を取り囲み、その亀の上には4頭の象が乗り、その象が世界を運んでいます。
ウロボロスが象徴するもの
Symbolism
このように、あらゆる時代に世界中で、ウロボロスという象徴は使われていました。そして、精神の深奥の洗練という意味合いだけでなく、哲学的な観念も表していました。そしてその観念には、存在の根本原理にかかわる力強い意味合いが伴っていました。現代の用語に置き換えれば、まさにウロボロスは、生命がたどる、永遠に続く周期的過程を象徴する明確な象徴であり、元型(注)です。そして、バラ十字会員にとっては、ソウル人格が、再生を含む周期的な経過をたどりながら進化することの象徴です。
(注:ユング派の心理学の用語である元型とは、夢などで生じてくるイメージや象徴の源となる、すべての個人の精神に共通する、祖先から受け継いだ無意識の働きのこと。)
ウロボロス
ウロボロス(図4)
そして主に、時間の観念が、その形に反映されています。しかしながら、そこには「永遠」という性質も伴っています。グノーシス派の実例(図4)として、アレクサンドリア期の「クレオパトラのクリソペア」(紀元2世紀の錬金術に関する書物)にある図を採りあげます。象徴の中央には「エン・ト・パン(en to pan)」(ひとつはすべてである)というギリシャ語が書かれています。この語によって、創造の全体にわたる根本原理が表わされています。このことは、半分を黒く塗り、残りの半分を白く塗ることによって、さらに強調されています。あらゆるところに正反対の2つのものが存在する、つまり能動的な状態と受動的な状態があり、両性具有という性質を持つ全体が構成されていることを表しています。さらにこの図は、環状の蒸留器に形が似ており、物質の錬金術における蒸留の過程と、それが象徴する精神面での変容の過程を、実にうまく表現しています。
ウロボロスに密接に関連している他の象徴にも、時間の観念の基本的な表現を見いだすことができます。そのひとつの例は、円周が12の部分に区切られている十二宮(十二星座)からなる車輪の図(zodiacal wheel)です。「十二宮」(zodiac)という語の元になっているギリシャ語を調べると、「Zoe」は「生命」を意味し、「diakos」は「輪」を意味しています。また別の例としては、ギリシャ神話の時間の神「クロノス」があります。尾をかむ蛇の形で、円を描いて大地を取り囲み、宇宙全体を取り巻くように表されています。
ウロボロスは、人間の想像力により作り出された素晴らしい象徴であり、その象徴としての役割を十分に果たしているということができるでしょう。人知は、ウロボロスを超えることはできません。というのも、私たちは誰もが普遍的な宇宙意識の一部であり、この普遍的な意識の究極の産物がウロボロスだからです。
https://uroboros2018.hatenablog.com/entry/2018/08/22/145934 【色即是空、空即是色の論理モデル】より
大乗仏教の経典である『般若心経』は仏教の根本が短い文章でまとめられているとされる。般若心経を中国語に訳したのは大唐西域記で有名な唐代の僧、玄奘であるが、この経典の中で最も有名なのが「色即是空、空即是色」の言葉だ。これはたった8文字ではあるものの仏教の説く一元論が表現されたものである。様々な解釈がなされているが基本的には「色」は「人や物質などの実体」で、「空」は「実体がないこと」を意味するとされる。また「即是」は「すなわちこれは」の意味である。そして直訳すれば「色即是空」が「実体には実体がなく」、「空即是色」は「実体がないものは実体である」となる。英語では「form is emptiness, emptiness is form」などに表現されている。まさに三位一体説と同じく矛盾した表現である。そのため理解に困難を伴い、実際のところ様々な飛躍した解釈がなされてきたのだが、こうした論理もアルケー「ゼロ」論と万有意識論の論理モデルでは簡単に説明できる。
ここで重要なのは「即是」の解釈である。これはおそらく最も初期の経典が書かれた時点で解釈に誤りがあったのだろう。「即是」は日本語で言う助詞の「は」や英語で言うbe動詞にあたる。数学で言えばイコール(=)である。だが、これが決定的な誤りであったのだろう。おそらく釈迦が「色」と「空」の関係性を表現するために意図したのは日本語の「は」やbe動詞、イコール(=)ではなく、接続や結合(connect, combine)を意味するものであったと考えられる。
従って従来は、X=色, Y=空とするとして、
X≠Yのとき、X=Y また Y=X である。
と矛盾していた記述だったのだが、このイコール(=)ではなく何らかの接続関係を示す記号を用いればよいのである。ここでは一例として「(接続) 」や「(connect) 」という表記を用いるとすれば、
正しくは、
X≠Yのとき、X (接続) Y または Y (接続) X である。
(英語で表記すれば、X≠Y, X (connect) Y Or Y (connect) X であるし、
数学的には、X + Y = Y + X とも表記できるだろう。)
と表記されるだけなのである。
ちなみに表記についてはイコール(=)の代わりに接続(connect)を意味するものであれば何でもよいのである。例えば悟り(satori)によって実体世界と世界の根源がつながるのでそうした表現に敬意を表して、
X≠Y, X satori Y Or Y satori X
と表記しても良いのである。
また全く同じことであるが、ここで使われた X とY を世界の根源である「無を司る何か」を0、実体世界を1として、
X=1,Y=0 とすれば
X≠Y である(つまり 1≠0)
そして実体世界と世界の根源は悟りの境地によって連結されるため、その関係を
1 satori 0 または 0 satori 1
ともシンプルな式で表現できるだろう(繰り返すが決して、0=1 や 1=0 ではないことに注目してほしい)。
つまり、現代的な日本語で言えば、般若心経の「色即是空、空即是色」は「実体世界は世界の根源とつながっており、また世界の根源は実体世界とつながっている」というだけなのである。そしてそうした表現を己の心身で体感できるのが悟りの境地なのである。また、なぜ世界の根源が「空(ゼロ)」とされたかと言えば、認知のウロボロス的限界の考察で述べたように、「無」つまり「認識できないもの」が主体や世界の根源であるという見地に立つからである。そして仏教ではその万物の根源である「無(厳密には「ゼロを司る何か」)を「空」と呼んだのであろう。
何らかの存在が存在として成立するためには、その前提として無が必要となる。なぜなら無、厳密には「ゼロを司る何か」が基準となるからこそ有が成立するからだ。有だけの世界は原理的には存在しないのだが、通常、我々の常識的な認識で言えば逆である。物体であれ精神であれその存在が有ることを自覚する有のみの世界に身を置いている。そこではむしろ無を認識できない。有だけの世界に見えるのはまさしくその認知をする主体が有の世界の住人であるからであり、そう見えるのは無を認識できないゆえに起こる知覚、認識であろう。だからこそ認識できない無こそ世界の根源とする考えに至ったと考えられる。
もちろんそれは悟りの境地がもたらしたと思われる理論モデルであり、まだ仮説にすぎない。このことは繰り返しになるが述べておく必要はあるだろう。
追補:禅問答 狗子仏性(くしぶっしょう)
またこうした観点に立てば代表的な禅問答「狗子仏性(くしぶっしょう)」を読み解くこともできるので傍証としたい。
「狗子仏性(くしぶっしょう)」は前述した「隻手音声」と同じく代表的な禅問答である。これはある修行僧の弟子が師である趙州和尚に以下のように質問したものである。そこでは弟子が「犬にも仏性があるのでしょうか?」と尋ねたが、師(趙州和尚)はただ一言「無」と答えたものである。
この禅問答は「無」が二重の意味で用いられていることに気づきさえすれば容易に読み解くことができる。表面的にはここで用いられた「無」は「ない」という意味であった。そのため前提として、全てのものには仏性が宿るという仏教の教義と矛盾するために理解に困難が伴うものとなっている。
だが趙州和尚の真意はそうではない。ここで用いられた「無」は万物の根源である「無を司る何か」を意味していると考えられるのである。そうであれば趙州和尚の言う「無」は妥当なものになりうる。なぜなら犬も存在である以上は当然ながら万物の根源である「無を司る何か」とつながっており、また仏性とは個の限界を超えて万物の根源である「無を司る何か」と連結したときに生まれる性質を示すものであると考えられるからだ。そこで「無」つまり万物の根源と答えることで従来の教義の通り犬であっても仏性を持っていることを示したのであろう。要はこの「無」は日常言語の「ない」と万物の根源を示す「無を司る何か」をかけたものであり、悟りの境地に達していれば、この問答の真の意味が理解できるようになっている検算のようなものなのである。
ではなぜこのような不親切で回りくどい表現をしたのか? それはこうした知識を表面的に覚えるだけでは意味はなくなってしまうためであろう。悟りを知識ではなく意識や感覚として体感することが目指すべき目標であったからこそ、こうした禅問答の直接的な解答や解説は師からは伝えられることはなかったのだろう。
こうした禅問答を残したことからも趙州和尚はじめとする数少ない高僧は悟りの境地に達していたことは確かであろう。ただその方法論は同時に欠点も伴っていた。特に彼らの死後はそれが顕著となる。彼らは不立文字、以心伝心という言葉で代表される言語や記号で考え伝えようとすることを半ば放棄したために弟子たちが誤った解釈をし、教えの本質を歪めてしまったことを防ぐことができなかった。それは後に頓智や揚げ足取りのような表面的な言語パズルと化して本質を失った中国禅が滅んでしまったことが何よりの証左であろう。
表 狗子仏性の「無」が持つ意味の二重性と仏性の意味と解釈
表現
意味
解釈
「無」の答え1
無い(ない)
犬は仏性を持っていない。
全てのものは仏性を持つという教義(一切衆生悉有仏性)と矛盾してしまう。
「無」の答え2
万物の根源である「無を司る何か」
犬もまた存在である以上、万物の根源である「無を司る何か」とつながっている。
したがって犬も仏性を持つ。
仏性
仏としての本質、仏になるための原因
実体世界と世界の根源である「無を司る何か」と連結している体感(意識や認識)。
なお通常は人であっても、動植物、事物であっても認知のウロボロス的限界により連結はしていない。
ゆえに通常、犬はポンテシャルとして仏性は持つが悟りはまだ開いてはいない。
------------------------------------------------------------------------------------------
追補2:無限(infinity,∞)とゼロ(zero,空)と存在(1)について
『色即是空 空即是色』の論理モデルとしては本文で述べたが、悟りや啓示の説明でゼロ(無、厳密には『無を司る何か』)のほかに無限(infinity,∞)が説明に用いられることもある。無限については経典では触れられてはいないが通常、一般的な認識としては、
1≠0≠∞ (存在も無も無限もそれぞれ異なるものである、の意)
であるが、従来の悟りの説明としてはこれが『色即是空 空即是色』的な説明として、
1=0=∞ (存在と無と無限はそれぞれ同じものである、の意)
などとされ矛盾した表記になる。
こうした説明は悟りの領域に達した者でも非常によく見られることなのだが、これは学術的には誤りであろう。正しくは
1 satori 0 satori ∞
と言った表記になると思われる。
なお、ここで用いられた「satori」は本文で述べたように結合や接続を示す記号であれば何をあてても良いのは同様である。別の例としては、
1 connect 0 connect ∞
や
1 (接続) 0 (接続) ∞
でも良いのである。
従って『色即是空 空即是色』のように存在と無を規定するモデルとしては、
0 satori 1 (または 1 satori 0)
が用いられ、個体と宇宙を統合するモデルとしては
1 satori 0 satori ∞
(物質は万物の根源である「ゼロを司る何か」と連結し、「ゼロを司る何か」は万物(つまり無限の宇宙)と連結している。)
が用いられると思われる。
ただゼロ(厳密には「無を司る何か」)と無限(厳密には「無限を司る何か」)との関係が相が異なるだけの同一の概念なのか、それとも別概念なのか今の段階では判然とせず保留事項である。ゼロ除算の考察(例えば 1/0 = ∞、1/∞ = 0、など)に見られるとおりこのあたりの問題は後代への宿題であろう。
0コメント