生誕100年記念特集 魂の俳人 村越化石

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本市出身の俳人・村越化石は大正11年(1922)12月に生まれ、今年生誕100年を迎えます。生命の力強さを詠み続け、数々の賞を受賞した村越化石を紹介します。

※掲載の句は本紙をご覧ください。

ハンセン病は「癩(らい)」と呼ばれ、過去さまざまな偏見を伴い、患者やその家族の尊厳を傷つけてきました。本紙では、固有名詞や資料を引用する場合など、必要最小限の範囲で使用しています。

文学館では、村越化石の生い立ちや句集などを常設展示しています。また、化石の句集は、市立図書館などで閲覧できます。

※館によって所蔵資料が異なります。

・この句(本紙参照)は村越化石が生家にも自生していたジャノヒゲの実(龍の玉)を手に取って遊んだ記憶をもとに詠んだ句です。

村越化石(本名:英彦)は大正11年12月17日、志太郡朝比奈村(現・藤枝市岡部町)に生まれました。

昭和13年、旧制志太中学校4年(現・藤枝東高校1年)の時、ハンセン病が見つかり中学校を中退します。当時、ハンセン病は不治の病であり、その特徴から差別と偏見を伴って恐れられていました。ハンセン病と宣告された場合、治療の名のもと、人知れず故郷を離れ、隠れ住むことが、当時の人たちがたどる道でした。

まだ16歳だった化石はハンセン病について知らされることなく、両親から家を出て東京で治療に専念するよう言われます。嫌がる化石に、母・起里(きり)は、「行かぬなら私と一緒に死んでくれますか」と諭したといいます。子にそう告げなければならなかった母の言葉は重く、そして深いものでした。

・故郷を離れた化石は、東京のいわゆる「病人宿」で治療を受けます。この頃、療友の勧めで俳句に出会いました。

その後、群馬県の草津温泉にあった湯ノ沢地区の病人宿に移り、地元の俳句仲間との交流が始まります。また、妻となる奈美とも出会いました。

同じ頃、新聞の地方版に投句を始めます。故郷に帰ることも世の中に出て暮らすこともできず、生きながら土の中に埋もれた石と同じという思いで「化石」という俳号をつけました。

・湯ノ沢地区の病人宿が解散になると、化石は昭和16年12月、栗生楽泉園(くりうらくせんえん)に入園。終戦前後は物資や食料が不足し、療養する人たちも病気の体を押して山を開墾し作物を作りました。医薬品も不足し、多くの人が苦しんで亡くなっていくのを見て、死を覚悟しながら句作を続けていました。

・昭和18年、アメリカでハンセン病の特効薬「プロミン」が開発され、長らく不治の病とされていたハンセン病が治る病気となりました。日本でプロミンでの治療が始まったのは戦後のことです。昭和24年頃、化石もプロミンによる治療を受け始めました。

その後もプロミンの副作用や病気の重い後遺症がありましたが、化石は病気が治ることを喜び、治る以上は俳句を自分の生きがいにすることを決意します。

・化石が初めて大野林火(りんか)の俳句に触れたのは昭和24年。林火の(本紙参照)という句に感銘を受けた化石は、林火の主宰する俳誌『濱(はま)』に入会します。当初は病気を隠し、匿名での投句でした。

翌年、化石は自らの病気を明かし、園の俳句会「高原俳句会」の指導を依頼することを決意します。もし断られたら濱を辞めることも考えていましたが、林火はこの申し出を快く受け入れます。

・林火が初めて楽泉園を訪れたのは昭和26年4月。林火は「皆さんは不幸な病気で肉体を病んでいるが、心まで病んでいるわけではない。その心を澄ませて俳句を詠みなさい」と語りかけました。林火との出会いは、化石の句作の大きな転機となりました。

・昭和30年、化石はプロミンの副作用で片目の視力を失います。深い悲しみの中で、心のよりどころとなったのが俳句でした。そして、自分たちの代でこの病気を終わりにしたいという強い思いをもって句作に打ち込みます。

・昭和37年、化石は初めての句集『獨眼(どくがん)』を刊行します。その際、実家に迷惑をかけてはいけないと、母に手紙を出しました。母からは「今度句集を出してもらえる様になった由、結構です。大いに張り切ってやってください。(中略)色々家に迷惑とかいう点は心置きなくやってください。別に尊い人生を世間に秘している訳でなし、よい事をやってくれるのでしたら却って誇りにもなるくらいです。どうぞご心配なく」と返信が来ました。

しかし、その母は句集の完成を待たず、昭和37年6月に亡くなってしまいます。

・化石は母の訃報を聞くと、どうしていいか分からず、林の中に入って泣きました。母の存在は化石にとって、世の中との唯一のつながりであり、心の支えでした。そんな中でも、化石は帰郷することができませんでした。その後も母を思う気持ちは深まっていきました。

・昭和45年、化石は完全に失明しました。このときも、化石はかつて指導を受けた本田一杉(いっさん)の「肉眼は物を見る、心眼は仏を見る、俳句は心眼あるところに生ず」という言葉を支えに句作に励み続けました。このような状況で詠まれた「天が下…」の句を、林火は無欲の境地と評し、「化石にはかなわない」ともらしたと言います。

昭和49年に第2句集『山國抄(やまぐにしょう)』を刊行し、俳人協会賞を受賞、昭和57年に第3句集『端坐(たんざ)』を刊行し、翌年、俳句界で最も権威ある賞と言われる蛇笏(だこつ)賞を受賞しました。平成3年には紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章しています。

・昭和57年、生涯の師と仰いだ大野林火が亡くなります。林火は高原俳句会で指導する際に「心に曇りガラスを張らずに、澄んだ心で俳句を作りなさい」と語ってきました。化石はその言葉を生涯大切にしました。

大野林火(明治37年~昭和57年)

第3代俳人協会会長。

俳誌『濱』主宰。

■関森勝夫さん

大野林火に師事。俳誌『蜻蛉(せいれい)』主宰。

静岡県立大学名誉教授。

化石は俳人格を持った数少ない俳人でした。俳人格というのは、俳句でできた人格ということで、生活そのものが俳句になっている人を指す言葉です。化石は世の中から隔離され、死と隣り合わせの生活の中で、死から生を眺め、自らが生きた証として俳句を詠みました。そんな俳句だったからこそ、人々に勇気を与えているのだと思います。

化石は自らの境遇を恨むようなことはなく、辛い、苦しい、といった俳句は作りませんでした。その人間性の根本は故郷の母により育まれたのだと思います。

作者の背景や思いを知ることで、その俳句の深さを味わうことができます。ぜひ、化石の人生に思いを寄せてみてください。


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・化石は「望郷の句は私には多い。故郷を離れてすでに久しく、見えない眼の奥にいつも故郷がある」と語ってきました。

多くの賞を受賞し、俳句界では非常に有名な俳人でしたが、出身地を明かしていなかったことから、当時、出身地である岡部町で化石を知る人はほとんどいませんでした。

平成12年、化石が岡部町出身であることを知った当時の町長と教育長は、化石の俳句に感銘を受け、功績を後世に伝えるため、句碑の建立と俳句大会の開催に向け実行委員会を立ち上げました。そして、平成14年、多くの人の協力により、玉露の里に句碑が建立されました。

化石は、句碑の建立と、その除幕式に合わせて帰郷することを岡部町から依頼されたとき「皆さんに迷惑を掛けるわけにはいかない」と固辞しました。しかし、姉や妻などに説得され、除幕式に合わせた帰郷がかないました。

60年ぶりの帰郷。化石は故郷で友人など多くの人から温かい歓迎を受けました。朝比奈川を渡る橋から化石の生家までの道に、地区の住民100人以上が並び、手を振って迎えました。

化石は生家の間取りをしっかり覚えており、目が見えなくとも誰の手も借りず仏壇の前まで進み、手を合わせました。

・翌日、句碑の除幕式が行われ、化石が本名の村越英彦を名乗って挨拶をすると、会場は温かい拍手に包まれました。

句碑の作者は、市内在住の石彫家・杉村孝さん。形は子どもを抱く母をイメージして作られました。

杉村さんは化石の句に合う石を探すため、神奈川県真鶴町まで足を運びました。また、句碑には目の見えない人でも読むことができるよう、点字が添えてあります。目が見えず手足の感覚もなかった化石が、唯一感覚が残っていた舌で点字をなぞると、感涙する人が多かったといいます。

・平成14年に帰郷した折に、化石は13句の俳句を詠みました。決して忘れることがなかった故郷の地に立ち、温かな歓迎を受け、心の底からの安堵感と感謝の気持ちを表した句でした。これまでの化石一人の心の故郷が、人々とともに分かちあえる、愛する故郷となりました。

・化石は楽泉園に帰った後も、精力的に句作を続けました。

平成15年に第7句集『蛍袋(ほたるぶくろ)』、平成19年に第8句集『八十路(やそじ)』(山本健吉文学賞)、平成22年に第9句集『団扇(うちわ)』を刊行。平成25年には卒寿を記念して、自選句集『籠枕(かごまくら)』を刊行しました。

化石は、その後も句作を続け、平成26年3月に楽泉園の病棟で亡くなりました。91歳でした。

・この度、化石の直筆ノートなどが見つかりました。新たに見つかったのは、『濱』などに掲載された自らの俳句を抜き出して書き留めた抜句集や、化石が生活の糧としていた菊の栽培方法をメモしたノートなどです。抜句集は自選句集『籠枕』を編む際にも使ったといいます。化石と家族ぐるみのつきあいがあった、三浦晴子さんが、化石の死後、妻の奈美から預かって欲しいと頼まれたものでした。

今回見つかった資料は、令和5年1月に開催する企画展で展示します。

・「故郷の自然の良さを子どもたちに感じてもらえば、きっといい世の中になる」、化石は、故郷の子どもたちにこの言葉を残しました。

平成15年に始まった村越化石俳句大会は、化石と旧岡部町教育委員会の思いが一致して始まり、今年で18回目を迎えました。毎年3千句もの応募が寄せられ、化石の思いが継承されています。

今年度、生誕100年の記念事業として、記念講演会や吟行句会などを開催し多くの人たちが参加しました。また、1月には文学館で企画展を開催します。

市では今後も化石の顕彰を通して、子どもたちに俳句など文化・芸術の魅力を広め、化石の愛した郷土の自然や文化を後世に伝えていきます。

参考文献

栗林浩「生くるべし―魂の俳人・村越化石」(『俳句界』2006年4月号 98-109頁)

栗林浩「スペシャルインタビュー村越化石」(『俳句界』2005年11月号 16-23頁)

『大龍勢 魂の俳人 村越化石句碑建立記念集』(2003年3月30日)

村越化石『自選句集 籠枕』(2013年4月24日)

■榊原陸一さん

村越化石俳句顕彰会元会長

元岡部町教育長

化石は人格的にも優れた人で、謙虚な人でした。自慢や愚痴を言わず、師の大野林火への感謝をよく口にしていました。「大野林火なくしては私の命はない。私は俳句があったから生きることができた」と語っていました。辛い境遇にあっても化石は俳句を心の柱にしていました。その根底にあったのは、朝比奈の自然であり、ご両親であったと思います。人間を育むには、子どもの頃から地域の自然や文化・芸術に触れ合うことが大切です。藤枝の子どもたちが、化石が人生をかけた俳句に親しみ、地域の中で俳句を作ることで心豊かに育って欲しいと思います。

■三浦晴子さん

湧(ゆう)同人・俳人協会静岡県支部常任理事

化石先生は無心、無欲で、優しく、人の心を大切にされる方でした。ご自身の病気については話そうとせず、「こんな苦しい病気は自分一人で沢山だ。他の誰一人として、こんな思いをして欲しくないんだよ。」「私は、読んでくれた人の心が安らぎ、少しでも力づけられるような俳句が作れたらいいと思っているんだよ。」と言われました。今回展示する化石先生の自筆ノートを故郷の皆さんにご覧いただきたいと思います。

◆第18回村越化石俳句大会受賞者決定

3434句の応募があり、左の通り各賞を決定しました。(敬称略)

※詳しくは本紙7ページをご覧ください。

〇山下蒼馬さん

賞をもらって飛び上がるくらい嬉しかったです。

グラウンドに遊びに行ったとき、近くの川でトンボがぐるぐる回っているのがパトロールみたいだと思って作りました。これからも俳句を作っていきたいです。

〇石田あいなさん

俳句好きの祖母に、村越化石が病気の中で俳句を詠んでいたと聞き、強い人だな、と思っていました。

普段から外の風景を見たり写真を撮ったりするのが好きで、俳句を作ることで、それを言葉にできることが分かりました。これからも色々なことを言葉にしていきたいと思います。 

コズミックホリステック医療・現代靈氣

吾であり宇宙である☆和して同せず  競争でなく共生を☆

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